凹みました
護衛のひとりが盾になっている間に、そそくさと立ち去った。くるんくるん令嬢は侍女たちにがっちりとホールドされてしまっている。今のうち。逃げるが勝ち。
「逃げるの!? 人の婚約者に手を出しておいて! なにが聖女よ! ただのあばずれじゃない!」
よっぽど引き返して、ひっぱたいてやろうかと思った。なんとか堪えたことは、誰か褒めてください。奥歯を噛みしめるギリギリという音が、頭の中に反響した。
「だから申しましたでしょう」
部屋に戻ったら戻ったで、エラが「それ見たことか」と居丈高に言う。
いやいや、こんなのただの言いがかりじゃんか。避けようがないよね。
わたしのせいじゃありません。
「必要以上に馴れ馴れしくするからですよ」
ぶちっ。堪忍袋の緒が切れた。
「は? どこが? トリさんに乗って話をしただけでしょう。しかも封印の旅の話ですよ? プライベートじゃないし。もしこれが、好きな女子のタイプはどんなですかー。とか、今度飲みに行きましょうよー。とか言ったのだったら、わたしが悪いと思いますけど、そんなこと一言も言ってないし! どこが馴れ馴れしかったんですか!」
エラはプルプルしている。怒ったか。怒ったのか。わたしは聖女で、大事にされてんじゃないのか!
「現に誤解を招いているじゃありませんか。まわりからはそう見えたということですよ」
「まるでわたしが、色目でも使ったみたいな言いかたね」
「そんなことは言っていません!」
エラは大声を上げた。おい、侍女らしくしろや。淑女淑女と、人には押し付けるくせに。
「礼儀をわきまえてください、と言っているのです!」
「あの小娘も、ぜんぜんわきまえてなかったけどね! 少しひとりにしてください」
エラは不服そうな顔を隠しもせずに、出て行った。
侍女として、どうなんですか? その態度。
だいたい、わたしたちの行動は公表されているわけじゃない。トリさんの訓練だって、誰かが見ていたわけじゃない。
うん、誰もいなかった。馬場にはわたしとコンラートさん、護衛の2人、やつら侍女、あとは馬場の係員。
たまたま誰かが通りかかった、まではわからないが。
しかも話の中身は色っぽいことなんかひとつもなかった。
……なんであの小娘は知っていたんだ?
誰かが悪意を持って、話を盛ってチクった。
誰が? 思いつくのはやつら侍女たちしかいない。
なんで、わたしそんなに敵意を向けられてる?
こわ。
婚約したんだか、するんだか知らないけれど、見ず知らずの小娘に勝手に敵認定され、マウントをとられ。
それだけでもかなりムカついているのに、侍女たちはまるでわたしの方が悪いみたいに言う。
なんなん? こいつら。ムカつくわ。吐き気がするくらいムカつくわ。ただでも、キリキリしてるのに。
拉致されて、聖女だと勝手に祭り上げられ、世界の果てに行ってこいと圧をかけられ、あげくの果ては帰る方法は探しておくからと、あやふやな約束。
こっちは不信感でいっぱいなのに。まるでスキッドロウに迷い込んでしまったような、最上級の心細さだよ。
いつ殺されるかわからない。まわりは敵だらけ。そんな危機感。
はあ。
お守りのようにスマホを握りしめている。これを手放したら最後だ。糸の切れた凧だ。宇宙を漂うデブリだ。
ここはどこ。わたしは誰。
前も後ろも、右も左も、上も下も、なんの感覚もない、不安定な空間をただ彷徨うだけの存在。
寄る辺ないわたしにとって、スマホだけがアイデンティティだ。
へこんで不貞腐れていたら、ボヘミアンズと王子が面会に来た。
さっきの騒ぎの報告を受けたらしい。会いたくもなかったが、会わないわけにはいくまい。わたしは駄々をこねた子どもじゃない。大人だからね。
「ほんとうに、申し訳ございませんでした」
謝罪会見がはじまったのか。3人がそろって頭を下げた。
「あのご令嬢が反省してくれたらそれでいいですよ」
出発前だ。ごたつきたくない。
「ご温情、感謝いたします」
「いいえー。ただねー、わたしたち、命がけで封印の旅に行くわけでしょう? そんなときにね、愛だの恋だの、くだらないことで気を散らしたくないんですよ。わかりますよねぇ?」
「は! もちろんです! ね? 殿下」
「うん、もちろんもちろん」
「だったらー、あの手合い、近づけないでほしいな」
「は! もちろんです!」
「有言実行」
「は?」
「って言うよねー?」
「は、はい」
「ちゃんとしてね」
「もちろんです」
「ああ、それからウィンチェスター侯爵家のバイオレット嬢ですが、コンラートの婚約者でもなんでもありませんので」
「へ?」
「彼女が勝手に言っているだけでして。しつこくつきまとわれている状況ですね」
なんじゃ、そりゃ。
「正直なところ、コンラートも迷惑しているんですよ。ただ、公爵家のご令嬢ですからね。無下にするわけにもいかず、やんわり断ってもアレでして」
バカじゃないの?
「ストーカーじゃないの。王さま命令出したらいいのに」
「命令とは」
「接近禁止命令ですよ!」
3人は「おお!」と声をあげた。もっと早く気付きなさいよ。コンラートさん、いい迷惑じゃない。
でも、ちょっと安心した。あんなバカ女が奥さんじゃたまったもんじゃないもの。
出発まであと2日。いっそ早く出発したい。
なのにあしたの晩は、聖女さまお披露目と壮行会があるんだと。
出発前夜なのに。
スキッドロウはロサンゼルスにあるスラム街です。
犯罪なんでもありのクレイジーなところです。