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「おい、聞いたか?」
「ん?」
寒い晩。
王城を守護する衛兵は静まり返った庭を歩く。
「カイトス将軍が軍を辞められるらしい」
「……」
相方の男は返す言葉にやや困る。
笑い飛ばす話ではない違う。
アイリン軍を最強と言わしめた三将。
そのうち二人はすでに軍に居ない。
最後の一将たるはそのカイトス将軍であり、欠けばアイリン軍は烏合の衆と言われる程である。
無論、軍の錬度が他国に劣る事はない。
精鋭部隊はさておくも総合力では誇ってなんら遜色ない。
しかし、その一方で声高々に謳われる名将に数劣る事は誰もが知るところである。
「……こんな時期にか?」
最後の一角と言っても過言ではない。
そのカイトス将軍が軍を辞めると聞いて笑える兵はアイリンに居まい。
「こんな時期だから、だ」
自らも困惑しているのだろう。
もしかするとこの話題をふと持ち出したのは不安からか。
「もともとカイトス将軍はアイリンの人間じゃない。
木蘭閣下が居られたからこそアイリンに下った人だ」
「……」
「その木蘭閣下が退役し、先の戦争で妹君を亡くしていらっしゃる」
僅かな苦渋。
バールの智将『鬼姫』が戦死したのは北を守るデスバレーでだ。
「その上、バールの前皇帝が崩御したとすれば、バールもカイトス将軍を迎え入れるのに躊躇いはないだろう」
一連の話は納得できないことはない。
先の戦争でバールも静まり、野心高いガズリストが崩御すればアイリンが戦術的な意味合いで彼を必要とすることは少なくなるだろう。
「しかしカイトス将軍は義に厚いお方だ。
今のアイリン軍を見捨てては措くまい」
「そうか……?
言いたくはないが、あの方は元バール軍人。
前例がある」
「……」
一つ冷たい風が吹き、二人の会話を遮断する。
「事実、西の守りを担っていらっしゃるミルヴィアネス少将をアザリアかデスバレーに任官する案が出ているらしい」
アスカ要塞を任されているミルヴィアネス少将は先の戦いに措いてその智謀を発揮し、ドイルを押さえ込んだことからアイリンのみならず一角の存在として認知されはじめていた。
「だが、あの方はセムリナとの関係に一役買っている。
デスバレーに赴任されれば位置的にその関係を維持できなくなるかも知れないし、そんな方を対セムリナの旗印にするわけには行かないだろう」
「表向きセムリナとは友好関係を継続している。
公が動くということは警戒していると宣言するようなものだ」
そんな状態でカイトスが抜ければ、この大穴を埋めるような人材はアイリンに居ない。
赤のジェニファーを始めとする残る重鎮は容易に動かせない要職についている。
「……アイリンはどうなるんだろうな」
「……いざとなれば木蘭閣下が復職していただけるさ」
「それもそうだな」
実のところこれがアイリン軍の認識だった。
花木蘭将軍は別に死んだわけでもなければ大怪我を負ったわけでもない。
年もまだ軍内では若い方であり、武術に措いても勝る者は数えるほども居ない。
その上領地に引っ込んだわけでもなく、今もこのアイリンで暮らしているのである。
軍だけではない。
アイリンという国がそう思っている。
花木蘭という人間の考えを全く理解せずに。
もはやこれは一つの宗教である。
常勝将軍の名前はそれほどまでにアイリンを毒している。
その会話を、苦々しく聞きながら、イニゴは月を見上げる。
「報告です」
「ああ」
闇からの声に表情を消す。
「噂の出所は文官筋のようです」
「……武官の勢力が激減した今、文官が力を欲するか」
不思議なことではない。
基本的に武官と文官は考え方の全く違う別の生き物のようなもので、しかも犬猿の仲である。
ことアイリンでは木蘭の思いつきのような軍事に文官達が振り回された歴史がある。
鬼の居ぬ間に手綱を獲りたいと願うのは自然だ。
「だが、気になるな」
「……」
確かに時期としては申し分ない。
ドイルの猛獣は駆逐され、セムリナは平静を保っている。
ルーンとの関係も良好。
そしてバールは後継者騒ぎで身動きが出来ない。
千載一遇とはまさにこの事とばかりのタイミングである。
「カーン家の様子は?」
「……」
沈黙が重い。
「殺られたか」
「はっ。
目立った動きはありませんが、動向を探る事もできません」
一番不気味な状態である。
先日ガズリズトの崩御が伝えられた。
現段階で次の最有力候補はネヴィーラだが、死の知らせの後に音沙汰はない。
黒の中でも精鋭を放ち探らせていたが、結果は散々だった。
「闇の牙、か。
二流の諜報部隊だったはずだが」
「それについて、ご報告が……」
「ん?」
「一年以上前になりますが、フウザー殿が世界塔の長に就任した一連の事件の際に、前長、サン・ジェルマンの秘伝書が盗み出されていたとの情報があります」
「……それを?」
返答の代わりに影が言葉を続ける。
「先日女神亭で闇の牙らしき者が暴れた際、『神滅ぼし』の詠唱を行なっていたとの証言があります」
「……あれか」
無論その報告は聞いている。確か─────
「あのお嬢ちゃんはどこに?」
「……バールです」
「……」
長年こういう世界に居たせいか、妙に疼いた。
悪寒と言うには生易しい。
とりあえず、と考えて動きが止まる。
自分は一体誰に何を報告すべきなのか。
これはあくまでも勘である。
今、彼が知りうる限りそれだけの事で動くような人物はいない。
「……」
己が真っ先に思い浮かべた人物に、笑いが込み上げる。
とても苦い笑いが。
確かに見限りたくもなる。
願わくば、もう少しだけカイトス将軍にはアイリンの御守をしていただきたい物だと、声に出さず呟く。
今の彼にはそれくらいしかできなかった。
暗い夜だった。
夕方からの強風は夜になっても続き、見張りの兵は厳しい冷え込みに身を竦めていた。
アイリン最大の要害デスバレー。
ここ数カ月、この地は穏やかな日が続いていた。
だが、まかり間違っても気を抜くことはない。
ここは『緑』の中でも最精鋭が集う場所であるのだ。
しかし、いつもに比べるとすればやはり気は抜けているのだろう。
それは世界情勢を鑑みれば無理もない事だ。
「交替の時間だぞ」
尖塔にやってきた同僚を仰ぎ見て衛兵は一つ頷く。
そろそろ夜明けの時間。
よくよく見れば地平の果てが僅かに色を変えていた。
「異常は?」
「特にない。
まぁ、この強風だから身を乗り出せば落ちかねんくらいか」
腹筋も鍛えに鍛えている彼らの力強い声すら掻き消されそうな風の唸りを二人は聞く。
「春の嵐というところか。
今年は比較的暖かかったからな、いつもより時期が早い」
「そうだな。
さて、俺は寝るぜ。いい加減つらい」
「ああ」
応じると同時に朝日が昇り始めた。
澄み切った冬の空気に眩いばかりの光景は、この時間ここに居る者の特権である。
「……おい」
「ああ?」
だが、感動を伝えるような穏やかな声音ではない。
驚愕を多分に含み、呼び止める声は引き攣っていた。
「残念ながら、睡眠はお預けだ……」
「ああ?
何のじょうだ……」
この砦はそんな冗談を言うために存在しているわけではない。
一気に目が覚めて振り返る。
「……うそだろ」
一万や二万ではない。
「……てっ」
備え付けられた鐘が己の役割を存分に果たす。
「敵襲っ!!」
平原に布陣するバール軍。
その姿は朝日を浴びて壮観ですらあった。
デスバレーの驚愕を知ってか知らずか。
日の出と共に動き始めたバール軍は雪崩のように平原を渡りデスバレーへ迫る。
「急げ!
弓隊はどうした!?」
先陣を切るのは二個大隊からなる騎兵。
その迫力たるや青を髣髴させる物があり、目の当たりにした指揮官は喉を引き攣らせる。
「ええい!
用意できた者から撃て!
とりあえず撃て!
取り付かせるな!!」
散発的に始まった射撃だがまだ射程の外。
牽制となったそれに怯む事なく騎兵団が土ぼこりをもうもうと上げながら見る間に迫ってくる。
「ん?」
それに気付いた兵が訝しげな顔をする。
一般的に騎兵の突撃陣形は錐行陣など先が尖った突破型である。
当然のことながら騎兵の役割は速度と馬を含めた体重で敵の陣形を一気に崩壊させる杭であるからだ。
しかし今バール騎兵隊が採っているのは横列陣。
これでは突破力など見込めない。
防壁の上から激を飛ばしながら俯瞰していた指揮官は、そんな事を思い、そして思い留まる。
「突破?
砦攻めに何故騎兵を持ち出す!?」
直後、普段はランスなどが備え付けられているはずの場所から持ち出された物に絶句する。
「魔銃だと!?」
驚きは一瞬。幾条もの光が一斉に城壁の上へ殺到した。
たちまち挙がる悲鳴は混乱に拍車を掛けるには充分すぎる。
疾走する騎兵の上から弓を正面に射るのは非常に難しい。
前後と上下に体が揺れる状態で両手に力を込め、矢先を固定をするなどどんな筋肉達磨なら可能な行為か。
だが魔銃なら話は違う。
撃った時の衝撃と馬が上下するタイミングの二点さえ維持できればある程度の狙いをつけることは可能である。
射撃は一度のみ。
騎兵隊は射撃後即座に隊を二つに分け、その傍らに魔銃を投げ捨てる。
だが、思いも寄らぬ一撃にそれを観測している者はほとんどいない状況である。
砦からの攻撃が強制的に遮断された間隙を縫っていつの間にか軽歩兵隊が走りこんで来ていた。
彼らは息つく暇もなしに騎兵隊が投げ捨てた魔銃を拾い上げると再び結集し始めた弓兵に向かって射撃を開始する。
そのため弓兵はまともに整列すらできない。
普通に考えれば下方からの直線射撃は城塞に阻まれて弓兵になかなか当たらない物だが、そこまでの冷静な判断をここで求めるのは酷と言うものだろう。
弓よりも遥かに高威力のそれが矢継ぎ早に頭上を行くのだから確かに生きた心地がしない。
「な、何なんだ、あの戦法は!?」
攻城戦と言えば、魔法による支援射撃を受けて攻城兵器を移動、城門を破ったり、梯子を掛けて乗り込んだりするものである。
対して防御側は近付けまいと矢を放ち、城壁に迫った敵に煮え湯や石を落とす。
防御側は高い位置を確保できるため、弓を思う存分に使用できるが、攻撃側が思いおもいに弓を放てば城壁近くの味方を無駄に傷付ける可能性が高いため、積極的な応射が難しく否応にも消耗を強いられる。
誘導性能を持った魔術が重宝される理由でもあるが、いかんせん魔法使いは絶対数が少なく貴重戦力でもあるため決定打にはなりづらい。
軽歩兵が散発的な射撃を繰り返す中、続いてやってきたのは大盾を持った兵団である。
彼らは魔銃を手にする軽歩兵を庇い、矢を弾くに徹する。
「う、撃ち方やめっ!
遮蔽に隠れよ!
石と煮え湯を用意するんだ!」
流石は歴戦の猛者揃いである。
弓の攻撃が無意味と悟った指揮官は、更に敵の攻城兵器が未だ取り付いていないことに気付く。
無駄な損耗を回避し、その時のための準備を指示する。
「中隊長!」
「なんだ!」
そこに横合いからの声。
「騎兵団が突破していきます!!」
慌てて視線を横に。
先ほど魔銃を捨て二手に分かれた騎兵団が留まることを知らない勢いで砦を迂回し、アイリン領内へ踏み込んでいく。
「な、何のつもりだ!?」
騎兵だけで単独行進するなど愚策もいいところである。
馬と人。
戦争に措いて最も兵站を喰らい、消耗の激しい部隊が単独で敵領内に進撃すれば結果は見えている。
「か、構うな!
目の前に集中しろ!」
彼の指示は正しい。
ようやく纏まった数の兵が城壁に集まりつつもある。
「よし、反撃に出るぞ!」
と、彼が声を張り上げた瞬間、敵本陣で狼煙が上がった。
その瞬間。
大盾の向こうから魔銃の物とは違う光が一気に飛び出し、見張り塔の一つに殺到する。
頑丈さには自信があるそれも十数人からなる魔法の一斉攻撃には耐え難かったらしい。
「退避っ!」
見張り塔の下に居た者達が慌てて逃げ始める。
だが、砦のごく一部が損壊したところで一体何の意味があるというのか。
「火だっ!?」
今度は何事か。
振り返り敵軍を見れば大盾の後ろからもくもくと煙が上がっている。
水気の残る木や葉を燃やした時に出る白い煙があっという間に彼らの姿を覆い隠していた。
「撤収するつもりか!?
矢だ!
矢を!」
ここまで一方的にやられてみすみす逃がしてやるわけにはいかない。
命令に従い矢を構えた弓兵達が反撃の一矢を放たんとした時
どんっ!
煙の向こうから一斉射撃。
完全に不意を疲れた兵は体を貫かれて崩れ落ちていく。
「ま、まだ構えている!?」
魔銃の性質上、そして砦というフィールド上、たとえ相手が見えていなくとも、撃つべき場所に向けて引き金を絞れば目標へ真っ直ぐ飛ぶ。
銃を構えた軽歩兵はひたすら狙いを定めたまま動いていなかったのである。
次から次に心理の裏を突かれ、指揮系統は瓦解寸前までに至る。
その一方で煙はどんどんと勢いを増し、敵を白い闇の中に消し去っていく。
これが退くための物でないとすれば、この向こうから来る物は城門を打ち砕く破城槌と乗り込むべく、梯子を抱えた歩兵だろう。
そういった兵器は動きが遅く至るまでに時間が掛かるのが欠点だが、余りにも目の前の光景が異端すぎてその向こう側の光景に誰も自信をもてない。
「油を!
煮え湯を用意しろ!
来るぞ!!」
ヒステリックな叫びが砦のいたるところで響き渡る。
彼らは未だ有利にある。
それは間違いなく、それ故に優位を打ち砕く攻城兵器の存在に恐れを抱く。
一際強い風が吹いた。
その日見張りをした兵はふと気付く。
夜明け前にあれだけ吹き荒れていた風がぴたりと止んでいたことに。
打ち払われた白煙。
「……なんなんだ……?」
その向こうには再び煙を上げようとする焚き火の跡。
そしてさらにその向こうには一目散に撤退するバール軍の背中があった。
時間にして30分。
余りにも衝撃的で、そして最後まで理解に苦しむ初戦はこうして幕を閉じた。
開戦から僅か3時間。
デスバレーの守り手達は余りにも恐ろしい一瞬と、余りにも不可解な撤収に混乱を隠し切れずにいた。
誰もがあの不可解な撤退の裏にある『何か』を感じ、落ち着きなく周囲を見渡し、考えをめぐらしている。
うろうろと周囲を探す者も居れば、じっと戦闘の名残を見詰める者も居る。
昼頃になり、それも収束してくると、ようやく誰もが自分が凄まじく疲労していることに気付き、それが相手の作戦だと勘ぐり始める。
その悪循環は遅効性の毒のようにじわじわとデスバレーを蝕んでいた。
「様子はどうだ?」
彼らとて素人の集まりではない。
心理的な毒を拭いきれぬとも、今やデスバレーは完全に防衛体制を立て直していた。
「煮炊きの煙が見えます。
昼食を取っているようですが……」
あの猛攻は何だったのだろうか。
バール軍は魔道砲の射程外で陣を敷き、暢気に食事中である。
「誘っているのでしょうか?」
「馬鹿な。
我々が打って出る理由などない」
全く持ってその通りである。
彼らはこの砦を守ることこそ至上命題であり、本国からの指示もなしに敵国に侵入する理由も権限もない。
過去罵倒して砦から引っ張り出そうとした敵将が居たらしいが、そんな物に乗るほど愚かな者はこのデスバレーに居ない。
「だいたい今、バールは軍の指揮系統が乱れているはずではないのか?」
バール軍は皇帝に全権が委託され、皇帝の名で軍が動く。
しかし未だに新たな皇帝が決まった等という一報を受けては居ない。
「……それに、先ほどの騎兵。
一体何をしたかったんでしょうね」
「……」
応え様もない。
明らかな愚策をあれほど見事な手並みでデスバレーを一時にでも混乱に貶めた指揮官が行なう意味を。
数カ月前に全く同じ事をした者を思い浮かべる。
今は亡きドイルの皇太子アラート。
彼はアイリンに援助を求め、はるばるアスカ要塞までやってきた植民地の王子を使い、アスカ要塞を落とそうとした。
だが、これに関しては実のところ木蘭が計画した周到な罠だった。
今回に関して、これが同じ物であるかといえば、そのような要素はどこにも見当たらない。
そもそもアイリン唯一の奇策の担い手はすでに退役している。
また、共犯者であったミルヴィアネスがデスバレーの戦術に口出しするとも考え難い。
「ともかく、警戒を怠るな。
三交替で厳重警戒だ。
本国への魔道通信は?」
「すでに。
すぐに援軍を向かわせると」
援軍と聞いて青を思い浮かべない緑は居ない。
だが、その青にもはや木蘭の姿はない。
「……」
不安。
そう、不安だ。
もう青はかつての青ではない。
花木蘭が居なくなったとして急に弱くなるわけではないが、それでもあの軍神が居ないというだけで押し潰されそうな不安が込み上げてくる。
「間に合うでしょうか?」
応じるべき言葉は口を割って出てこない。
日が落ちる。
結局バール軍の侵攻は早朝の一度のみ。
しかし撤収することなく陣を敷いており、今ものんびりと夕食の煙を揚げている。
「なぁ、聞いたか」
「なんだ?」
「カイトス将軍のことさ」
デスバレーでもこの噂は静かに広がっていた。
目の前のバール軍を目にして誰かが思い出したのだろう。
厳戒態勢の続く砦の中で声が漏れる。
「やめんか!」
上官の叱責に誰もが口を閉ざすが、その沈黙が何よりもつらい。
否定の言葉が欲しいのだ。
なのにそれすらも受けられない。
「おい、交代で食事を取れ!」
遠くで声が響く。
そして日が暮れた頃。
バール軍は再び動き出す。
「て、敵襲っ!」
悲鳴じみた声に跳ね起きた兵達は即座に自分の持ち場に着く。
「夜襲だと!
くそっ!」
周囲を見渡せば松明の火が踊っている。
すぐさまその火は鏃に付けられ火矢となって降り注ぐ。
「応射せよ!」
暗闇に見えざる死神が踊る。
悪霊を祓わんとばかりに矢が闇の中に消えていく。
それはわずか5分足らずのことだ。
「て、敵、退いていきます!」
「何だと!?」
確かに松明の明かりが遠くに離れていく。
途中松明を捨てたのか、やがてどこに居るのか判断もできない。
「……」
何がしたかったのか。
考えられるのは眠らせない事で消耗を強いる策だろうが……
けれどもその予想をあっさりと裏切り、その夜の夜襲はその1度きりであった。
二日目。
朝食を用意しているのだろうか。
煮炊きの煙を眺めながら兵はあくびを噛み殺す。
「畜生、あいつら何を考えてやがる」
「木蘭閣下がいらっしゃれば、もう来て下さる頃なのに……」
さしもの木蘭も一報を受けて次の日にここまでやってくることは不可能だろう。
しかし余りにも長く感じた一日にそんな愚痴が漏れる。
「そういえば昨日の敵の騎兵団、どうなったんだ……?」
「わからない。
上の連中は何か通信をうけてるのかねぇ」
「くそ……あいつら、のんびり飯食ってるぜ?」
「……」
時間はゆっくりと流れる。
やがて日は天頂に達し、それでもまだ動かない。
大軍がそこにあるだけでプレッシャーだと言うのに、何を考えているのか分からない。
いや、何も考えていないわけがない。
それだけで軍を動かし、帰るなど簡単にできることではない。
軍を動かすには巨額の金と準備が必要なのだ。
だが、動かない。
そうして夕暮れに近づいた頃、
「あれはなんだ!?」
誰かの声。
何事かと見ればアイリン側で狼煙が一本立ち上っていた。
少なくともデスバレーの人間が知っている合図ではない。
おぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!
「っ!?
何だ!?」
怒号のような歓声はバールの陣から響き渡る。
「何事だ!?」
ヒステリックな声に返事をできる者など居ない。
が、バール軍の動きは明確だった。
あわただしい動きが見える。
つまり攻撃の準備を開始したということだろう。
あの狼煙が何を意味するのか。
それは理解できないが、明日にはあの軍勢はここに攻め込んでくるだろう。
その実感だけは誰の胸にもあった。
そして夜。
「青の連中は一体何をしているんだ!」
「まだ来ないのかよ」
流石に遅すぎる。
誰もがそう思う中で、見張りの声が上がる。
「て、敵に増援!?」
目を剥いた兵たちが城壁に登りバール陣を見れば、多くの松明が左右からバール陣へと集う様が見えた。
「確か3~4万は居たよな!?」
「ソレがさらに増えるのかよ!?」
彼らはすでに見誤っていることに気付いていない。
デスバレーがたかだか3万程度の敵に呑まれる施設なら、とうの昔に地図から消え去っている。
だが、バール陣に集う松明の数は贔屓目に見ても数万単位だろう。
単純計算すれば敵の戦力は倍以上に膨れ上がったのだ。
焦り。
ただひたすらに焦りだけ。
「クソ!! 青はまだか!」
焦りが広がり、感染していく。
「た、大変だ!!」
闇を引き裂くように、どこかで声が上がった。
「青があのバールの騎兵団と交戦して壊走!!」
空気が凍った。
息をすることすら忘れて、阿呆のように周りと顔を見合わせる。
「ば、馬鹿言うな!」
誰かが叫んだ。
「か、閣下がおらずとも大陸最強の青の騎馬団が、名も知れぬバールの騎兵に負ける道理がない!」
「そ、そうだ!
誰だ!
今の発言は!」
至極真っ当な反論。
余りにも愚かしい発言は溜まりに溜まったストレスの発散場所には余りにも格好だった。
すぐに凄まじいまでの罵声が上がり、犯人のあぶり出しを始める声に代わる。
「だ、だが……」
その中で、哀れにも比較的冷静だった者が数箇所で戸惑いの声を漏らす。
「何故、未だ青は来ない?」
喉がからからに渇ききり、誰もが声を紡げない。
思い出す。
あの狼煙を見た直後のバール陣の歓声を。
自らの背後、アイリンの方で上がったそれはどんな意味を持つ?
あれは何故だ?
何故いきなり攻撃の準備を始めた?
そして何故未だ青は来ない?
「あ、あっちを見ろ!」
今度は何だとばかりに城壁から見返せば、アイリン側から何かがやってくる土煙が月明かりにかろうじて見えた。
「あ、青だ! 青が来た!!!」
歓声。
今までの不安を一気に吹き飛ばすような歓声がデスバレーを埋め尽くす。
「クソッタレ!
さっきくだらないことを言ったヤツをひっ捕まえろ!」
「やっぱり青は大陸最強だ!!」
心労で死ぬかと思えるほどの極地から脱した喜びはひとしきりである。
今までにない士気。
それを最後の一撃が打ち砕く。
「違う!?」
人間とは、これほどころころと心を切り替えることができるものなのだろうか。
まるで静止画のように。
皆が動きを止める中で、物見は震える声を振り絞った。
「あの旗印は、バール軍のものです!!」
時が止まった。
デスバレーを挟んでアイリン側。
バールの騎兵団は魔道砲からの距離を正確に測り、布陣した。
日が変わる頃。
一人の使者が城門の前で朗々と謳う。
「降伏せよ。
我々は夜明けと共にデスバレーを攻める準備がある」
これ以上ない静けさを保つ砦、その全てに染み渡らせるように、男は言う。
「無駄な死を我々は望まない。
貴君らに『明日』があると信じるなら、致し方ない」
弓兵が己の握る物が弓だと思い出し、それから空白な心のままに矢を握る。
聞きたくないと心から思った。
だから矢を番える。
「だが、貴君らに未だ『望み』があるならばな!」
矢が落ちた。
夜明け。
開かれた城門を見てディクワンは空虚な笑みを浮かべていた。
「……末恐ろしい」
それ以上の感想はもはや浮かばない。
即座にバール兵はデスバレーに乗り込み、兵を捕縛、捕虜とした。
その速度は重要だ。
制圧前に内部から蜂起されてはたまらない。
『青が来る前に制圧を終えるの必要があるのだ』
バール騎馬隊は青と交戦などしていない。
ただ行って、帰ってきただけである。
かつての青であればおそらく騎兵隊は青と会敵し、そして全滅していただろう。
予想が正しければ青の到着は正午。
それまでに制圧は完了するだろう。
彼は周囲をゆっくりと見回した。
兵の動因数約4万。
その半分は工兵である。工兵とは名ばかりの者すら混じりこんでいたのである。
つまり、もしアイリンが打って出れば為す術なくバールは壊滅していた。
また。
もしも青がかつての速度でデスバレーに到っていれば、バール軍は記録的な大敗を喫していたに違いない。
聞けばからくりなど単純である。
最初の電撃戦で心に楔を打ち込んだバール軍。
工兵は軍を動かさない間にせっせと大量の松明を用意していたのである。
あとは狼煙を見て歓声を挙げて、夜に大量の松明を持ってバールの陣に集まってくるように見せかけた。
それだけである。
「被害は100程度……」
夢のような損耗率である。
そうして得たこの砦はさらに夢に変わる。
「制圧完了しました!」
「ご苦労様」
ディクワンは遠く、アイリンを見る。
あの魔女は再びやってくるだろう。
もう一つの目的を果たすために。
「恐ろしい……」
あれを放っておくことは本当に正しいのか?
「青の到着を確認しました!」
砦の空気が変わる。
主に捕虜達の。
空気を感じ取り、ディクワンは己がどうしようもない道化である事を悟り、そして完全に道化の面を纏うことにする。
「では、茶番をはじめよう」
まもなく使者がやってくる。
この『間違った命令』を正す使者が。
『此度の侵攻作戦は前皇帝ガズリストの最後の命令であった。
かの王は己の延命のみならず、最後まで負け続けることを良しとしなかった。
最後の皇帝命令で軍を動かし、デスバレーを侵したのである。
これを止められなかったことは大変遺憾であり、これからのバールにとって望まざる結果である。
故にバールは速やかにデスバレー、ならびに捕虜を無条件に返還する。
バールはこれより貴国と平和な関係を築いていくことを強く望む。
もしも貴国がこれに応じていただけるのであれば、ぜひ貴国の農業技術を学ばせていただきたい。
ご存知の通り、バールは寒冷地帯にあり、作物の実りが薄く、飢餓が発生することもしばしばである。
これまでの侵略行為もこれに背を押された行為であり、この問題の打開こそが、貴国との長い平和の第一歩であると確信している。
どうか御一考いただけるよう願う。
アシュル・トリューニ』
こうして、バールはアイリンの指導の元、国境付近に農地開発を開始することになる。
それは、見る者が見れば互いの喉元に刃を当てて微笑みあうような、そんな関係。
だが、その初手を圧倒的有利で突きつけたバールがその主導権を握ったのは言うまでもない。