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* 六月の花嫁を題材にした作品です。初回投稿時点で全11話を予定してますが、話数は前後する可能性もあります。
「六月の花嫁は幸せになるって謳われていたんだから、やっぱりイリスも六月に挙式を執り行うべきだったわね。でなければ、こんなことには……!」
イリスの夢に出てきた人物は、鏡の中でそんな風に嘆いていた。おそらく深層心理が自分の過去を悔やんでいるのだろうと、イリスは一人きりの大きなベッドで目を覚ました。
(やだわ。私、うたた寝なんかして)
男爵令嬢イリス・メサイアの人生は、穏やかな道のりが一転、坂から突然転がり落ちるように急変した。
(異母妹と夫が通じていることに気づいたのは、一体何時だっただろうか? 確か、十二年目の結婚記念日が近づいてきた梅雨の時期だ)
イリスは巡礼のため、聖地へと出掛けていた。しかしながら巡礼仲間との行き違いで、その日はとんぼ返りで自宅へと戻ったのである。
――思い起こせば、それが『イリス・メサイア』の運命の分かれ道だった。
* * *
「ただいま! 実は思ったより早く巡礼が済んでね。予定よりも一日早い汽車で帰って来ちゃったから、今日はジョナサンとゆっくり過ごせるわ」
「おっお帰りなさいませ、奥様。えぇと……ジョナサン様は今、来客の方と大事なお話があるようで。しばらく時間をあけてから、ご帰宅を知らせた方が……」
「あら、来客? 誰かしら……お仕事関係で人が来るなんて聞いていないけど」
邸宅にいるはずの夫ジョナサンを驚かせようと、チャイムを鳴らさずに部屋のドアをそっと開ける。
「いっいけません、奥様! あのっ……とても取り込んだ用事でして。ジョナサン様から、奥様はここを通さないようにと止められております」
「……マホ。あなた、いつからジョナサンのお付きになったの? あなたをこの屋敷に雇っているのは誰?」
言うことを聞かないメイドを嗜める時、イリスは冷酷な声になる。若い頃に嫁いできてメサイア夫人となったため、もう十二年ほどこの調子だ。
そのくせ、表向きは信仰深い淑女なのだから、神への信仰とは随分と都合の良いものだとメイドは兼ねてより思っていた。
いっそのこと、この井の中の蛙の独裁者が追放されれば良いと、半ば焼け気味に雇い主の名を答える。
「……イリス・メサイア夫人でございます」
「分かればいいのよ、分かれば。あなたの雇用主は私なのだから、さあ案内してちょうだい。今日こそ、夫の私生活を暴くチャンスだわ」
先程までは動揺してイリスを止めていたメイドのマホは諦めの様子で、コツコツと靴を鳴らして夫を探すイリスを見送った。
「ふん! さては浮気……まぁ図星、かしら。相手は誰っ。夜会で良くおしゃべりしているお友達のご夫人とか」
以前より夫の不審な動向を疑っていたイリスだったが、生憎相手が誰なのかまでは見当が付かなかった。だがジョナサンはどうやら庭で客人と会話をしているようで、イリスの目がないことをいいことにやりたい放題のようだ。堂々と使用人達のいる中で、この季節では一番の景観であろう咲き誇る紫陽花のエリアで散歩していた。
いや、それは散歩ではなく、俗に言う男女の逢瀬だったのだ。
「けれど、いいの? もうすぐお姉様との結婚記念パーティーでしょう。こんな風に私と密会して……パーティーの日までは、気づかれない方が……」
鈴を転がしたような可愛らしい声は、イリスの十二歳年下の異母妹ハンナの声だった。社交界デビューしたばかりの十六歳で、そろそろ結婚相手を探そうとお父様が話していたのが記憶に新しい。
赤毛の魔女と囁かれても過言ではないほど魔法が堪能な妹と結婚したい者は多く、相手には困らないと予想された。だが何故その婚活中のハンナが、義理の兄と親しげに? その疑問は、程なくすぐに氷解した。
「神の思し召しなのか、イリスとはなかなか子供を授からなかった。それなのに不思議と異母妹であるキミが先に身篭って……。ご両親も血縁者では無い女に妻の座を奪われるよりも、異母妹のハンナが妻となった方が都合がいいだろう」
妻には妹のハンナを……。
配偶者のジョナサンはイリスに見切りをつけて、よりによって異母妹であるハンナを。
「……世継ぎが出来たのならめでたいと、父も乗り気でね。あとは妻のイリスが、この話に納得してくれると良いのだが」
「うふふ……お姉様は物分かりがいい方ですから、きっと自分から身を引いてくれますわ。それよりも、私……早く赤ちゃんに会いたいです」
「おやおや、随分と甘えん坊なんだな。巡礼で数日はイリスも戻らないだろうし、今日はゆっくり……」
異母妹ハンナが赤い髪を揺らして、ジョナサンの腕に豊満な胸を押し当てた。やり取りから察するに、二人はかなり昔から、身体の関係を結んでいる様子だった。
(夫が異母妹と浮気……それに妊娠まで……!)
紫陽花の裏からイリスが見ているのに気づいているのか、いないのか。異母姉と妻を裏切っている二人は、仲良く腕を組んで離れの館へと浮き足立って消えていく。
『ごめんあそばせ、イリスお姉様』
一瞬だけ、異母妹ハンナがこちらを振り返り、嘲笑うように口元を動かす。気がつけば、ポツポツと雨粒が中庭に降り注いでいた。イリスの髪を濡れ烏のように、雨が滴っていく……。
それは心の涙なのか、答えは自分でも分からないのだ。