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アマーリア

その日、私は大切にしてきた優しい記憶にさようならを告げた。



玄関のドアが閉まり、馬車が走り去る音が遠のくと、部屋の中はさっきまでの喧騒がまるで嘘のように一気に静寂に包まれた。


「お慕いする方とお幸せにだなんて、嫌味だったかしら」


だから私のそんな呟きも、存外部屋の中に響いてしまった。



「アマーリア様のお言葉に嫌味に当たるものは何もなかったと存じます」

と、普段と変わらぬ穏やかさで答えてくれたのは侍従のマーカス。


「発言をお許しくださっていたら、私がその100倍は言ってやりましたよ」

と、ピンと伸びた姿勢はそのままに、表情だけをツンとしたものに変えて言ったのは侍女のクララ。


二人とも父が亡くなってからずっと私を支えてくれている大切な人たちだ。

今日という日にも、彼らは私のすぐ傍にいてくれた。


そう、今日私は四年に渡り婚約者であったウィリアム様に別れを告げたのだ。



「アマーリア様、よろしければご自室で新しいお茶を召し上がりませんか?料理長の焼き菓子もそろそろ焼き上がる頃合いです」


思わず物思いにふけりそうになった私に、マーカスがそう声をかけてくれた。いつもなら午後のお茶は明るいテラス席で摂る。しかしあそこはウィリアム様との思い出も多くある場所だ。だからそう気を遣ってくれたのだろう。マーカスの優しさに少し心が温かくなったのを感じながら、私は「そうするわ」と彼に答えた。


レースのカーテンも全てを開ければ、自分の部屋からも庭の景色は一望できる。そろそろ春めいてきた庭の花を見ながら、私はまだ冬の始まりの頃のことを思い出していた。




その日はとある知人の誕生パーティーだった。知人といってもそこまで親しい訳ではなかったので、簡単なお祝いの言葉とプレゼントを贈り、後は適当に時間を潰してお暇しようと思っていた。挨拶も終えて、目立たぬ場所で休んでいた私の元に、見知らぬ年上のご令嬢がやって来た。彼女は警戒を露にしたクララを全く気にすることなく、にこりと私に話しかけてきた。


「ご機嫌よう。私伯爵令嬢のリリアンと申します。お隣失礼してもよろしいでしょうか?」


名乗ると言うことはやはり初対面なのだろう。同世代のご令嬢なら侯爵家と繋がりを持ちたいという目的で友人になりましょうと声をかけてくる方もいる。しかし目の前の綺麗な女性は、少なくとも4つ程は私より年上に見えた。

彼女の目的は見えないままであったが、その視線に悪意も打算も見られなかったため、私は視線で軽くクララを制してから、リリアン様に「どうぞ」と返事をした。


そこからはしばらくは他愛のない話をした。今日の主役のご令嬢のこと、ここ最近の天候のこと、話題のニュースのこと。リリアン様の目的は見えなかったが、彼女の話題選びはとても上手く、彼女が聡明な方であることは短い会話であったが、ひしひしと感じられた。


しばらく会話をしたあと、会話の谷間、言葉が途切れた一瞬に彼女は表情を真剣なものに変え、私だけに聞こえる音量でこう言ってきた。


「ウィリアム様のことで少しお話がしたいです」


親しくない人がウィリアム様の話を私にしてくるときは、大概は彼を悪しく言うものであった。如何に彼が侯爵家の跡取りたる私の伴侶に相応しくないか、私のためと親切を装いながら、自分の私欲を突き刺すように私に押し付けるものばかりであった。

しかしリリアン様の目からは、そんなギラつくような悪意は感じられなかった。むしろ真っ直ぐな目で、彼女は私を見つめていた。貴族らしい腹の探り合いをするには私は経験が浅すぎたが、それでも彼女は他の人とは目的が違うように感じた。だから私は彼女の話を聞くことにした。



リリアン様がプライベートな話になるので場所を変えたいとおっしゃったので、彼女を我が家にお招きすることになった。私もリリアン様も場所はどこでもよかったのだけど、私に過保護気味なクララが我が家でと声高に主張したため、そうなったのだ。私の味方ばかりの我が家でないと話をさせないと言うクララに、リリアン様が気を悪くされないか少し心配だったけど、彼女はそんな素振りは微塵も見せなかった。


我が家に着き、最初は応接室にご案内しようかと思ったけれど、プライベートな話とのことだったので私の部屋へと案内することにした。もちろんクララの反対にあったが、「マーカスが扉の向こうにいて、そしてこの部屋に貴女がいてくれるのに何が問題なの?」と聞くと口をへの字に歪めながらだったけど何とか許してくれた。


初対面の年上のご令嬢が私の部屋で綺麗な所作で紅茶を飲んでいる。何とも不思議な光景ではあったが、私は何故か不安のような気持ちは感じていなかった。


紅茶に少し口を付けたあと、リリアン様は静かに話し始めた。



「私は学園でウィリアム様と同じクラスに所属しております。既にご存知だとは思いますが、学園でウィリアム様は貴女のことを良くはおっしゃっておりません。そんなウィリアム様のことを、アマーリア様がどう考えているのかお聞かせ願いたく、お邪魔をさせていただきました」


扉の方でクララが少し動いた気配がした。私が一言でも命じたらリリアン様をこの屋敷から力ずくでも追い出す気なのだろう。確かに彼女の質問は不躾ともいえるものであった。しかしリリアン様の視線は、先程と同じく真摯なものであった。


「その、答える前になぜそれを聞かれるかをお聞きしてもよろしいですか?」


悪意も見えないがリリアン様の意図も見えないままであったため、思わず質問に質問を返してしまった。少し言葉を選ぶような素振りを見せた後、リリアン様は私の疑問に答えてくれた。


「申し訳ございません、まだ理由を答えることはできません。ただ、私はウィリアム様との関係がアマーリア様に幸せをもたらしているかをどうしてもお聞きしたいのです。


私にもお慕いしている方がいます。恐らく彼とはもう二度と会えませんが、それでも心はその方のことを今でも思っています。そこに将来があるとか、そういうことは関係ありません。心は理屈ではないからです。

でも理屈でないからこそ、私にアマーリア様の心を推し量ることはできません。だからアマーリア様に確認をさせてもらいたいのです」


たしかにリリアン様の回答は回答にはなっていなかった。しかし彼女が私の気持ちを心配してくれている、そんな気配は感じられるようになった。


私の心。私の気持ち。

これまでウィリアム様との婚約のことを数多くの人に聞かれ、色々なことを聞かされてきたけど、私のことをこんなに真っ直ぐ聞かれたのは初めてだった。皆私の気持ちなどまるで存在しないかのように、自分の思惑をぶつけてくるばかりだった。


だからだろうか。私は少しだけ彼女に胸の内を吐き出してしまいたくなった。


「私も答えになるか分かりませんが、少し昔の話を聞いていただけますか?」




それは私がまだ五歳ぐらいのことでした。

その頃の私は母の実家で暮らしておりました。父親は侯爵家の人間ですが、母と私は未婚の母とその娘。今ならよく分かりますが、私たちは侯爵家へのパイプというメリットであり、庶子という醜聞でもありました。そのため明らかに害されもしませんでしたが、屋敷の奥で人目から隠されるように生活をしておりました。まるで外の世界には私たち母娘は存在しないように、ここにいないかの如く扱われる日々。そんな生活でしたが、私を愛してくれる母がいたので特に不幸に感じることもなく、日々静かに、穏やかに過ごしておりました。


それが起こったのはそんな生活の中のある日、年に一度の春のお祭りの日のことでした。普段は田舎の静かな家である母の実家にもその日は近隣の貴族が集まり、華やかなパーティーが開催されておりました。


もちろん母と私はそんな催しに呼ばれることはありませんでした。しかし華やかな雰囲気に誘い出されるように、幼かった私はこっそり裏庭に遊びに出てしまいました。表の庭園とは違い、素朴な草花が咲き、小さな菜園もある裏庭はいつも通りの静かさでした。


菜園の横に咲いているアネモネを見ていたときでした。「少しいいか?」と私は急に見知らぬ人から声をかけられたのです。驚きながら振り替えると、そこには身なりのきちんとした、それは綺麗な少年がいました。その日は裏庭にも出ないよう母から言いつけられていたので、咄嗟に逃げようとした私にその少年はこう声をかけてきました。


「君は使用人の子か?この辺りで君より少し年上の男の子を見かけなかったか?私の弟なのだけど、どうやら庭で迷っているようなんだ」


その頃の私は貴族のご令嬢のようなドレスは身に付けず、動きやすい綿のワンピースを着ていることが多かったので、その子はそう思ったのかもしれません。名乗ると言いつけを破ったことがバレると思った私は思わず彼に合わせてこう嘘を付いてしまったのです。


「か、かしこまりました。おてつだいします」


裏庭は自分の遊び場で隅々まで知り尽くしていたので、彼の弟を見つけるのにそれほど時間はかかりませんでした。頼まれごとを無事終えて、これでやっと家に戻れるとホッとしていた私に少年は「ここで少し待っていなさい」と声をかけて、弟の手を引きどこかに行ってしまいました。

大人を連れて来られたらどうしようと不安に思いながらも待っていると、彼は私がさっき見ていたアネモネで出来た小さな花束を持って帰ってきました。


「これはお礼だ。助かったよ」


自分の髪をまとめていたリボンをその花束に巻き付け、彼はそれを私に渡してくれました。


私は思わず言葉を失いました。だって生まれてからずっと、母以外で私にそんなことをしてくれる人はいなかったのです。


震える手で花束を受け取りました。お礼をちゃんと言えたかは覚えていません。けれども彼の見せてくれた笑顔はずっと心に残っておりました。




「だからあの日のパーティーでウィリアム様を見つけたときに私は舞い上がってしまったんです。母の実家にいた頃の私に優しさを向けてくれた彼がそこにいたのですから。あのときの私は、私があの場で彼に名前を問うことがどういうことを引き起こすか分かっていませんでした。

ただ、その後にあの日綺麗だと思った彼が自分の婚約者になるかもと知ったとき、確かに胸がドキドキしたんです。もしかしたらあれは淡い恋心だったのかもしれません」


そこまで話して、私は少し心を落ち着かせるために紅茶に少し口を付けた。子爵家で過ごした頃のことは口にするなと周囲に言われていたため、この話を人にするのはこれが初めてだった。



「最初の頃は幸せでした。幼かった私はウィリアム様のことを優しくて、素敵な方だと思っておりました。

けれど日々侯爵家に相応しい人間になるべく勉強を重ね、色んな人と会い社交の経験を積む中で、少しずつ彼の見せる優しさは本心から来るものではないことに気づき始めました。


そして父が亡くなり、侯爵家の人間として更に教養、経験を積まざるを得なくなったことにより、その気づきは確信へと変わるようになりました。それにここ最近は彼もそれを隠さないようになってきました。

勿論悩みました。けれどウィリアム様とのことは、父に本当にいいのだなと念を押されながらも私が決めたことだったのです。今さら自分から違ったとは言い出せず、最近は……そうですね、意地のようになっていたのかもしれません」


そこまで言って、言葉にしてみると自分の気持ちは案外決まっていたのだなとどこか他人事のように思った。


今までどうにかウィリアム様に歩み寄れないかと努力をしてきた。抜かりなくおもてなしをして、彼に子供っぽい弱さを見せないよう、父が亡くなったときもどんな辛いときも綺麗に笑うようにしてきた。隣に並び立てる淑女であると見せるため、懸命に背伸びをしていた。


ウィリアム様が外見で選ばれたのだという噂も、本当の最初の出会いを語ることはできなかったけど、何とか打ち消そうとした。彼が噂をよく思っていないことは知っていたからだ。でも私がいくら噂に対処しても、ウィリアム様は噂に不機嫌そうに返すばかりで、形だけでもこの婚約が想い合う心によるものだという振りもしてくれなかった。私ばかりが彼の良さを語るのだから、噂はついぞ消えることはなかった。


今こうして落ち着いて考えると、私はそうやって今まで何とか掴み続けようとしたものを自分から離すことができなくなっているだけであるような気がした。


私の心、私の気持ち。

それにきちんと向き合っていなかったのは、私も同じだったのかもしれなかった。


「私、あの方といて幸せではなかったのね」


気付くとポツリと、そんな言葉が溢れていた。



「申し訳ございませんでした、アマーリア様。お辛い話をお願いしてしまいました」


リリアン様のそんな言葉で私は我に返った。今の私がどんな表情をしているかは自分では分からなかったが、リリアン様は痛ましいような表情で私を見つめてくれていた。


「構いませんわ、リリアン様。私もやっと自分の心を客観的に見ることができました」


そう言って意識してにっこりと笑って見せた。リリアン様はそれに合わせるように、痛ましい表情を止め、微笑みを返してくれた。



そこから少し落ち着くために紅茶を味わった。慣れ親しんだ味が、少し私の心に余裕をもたらしてくれた。

一息ついてからカップを戻すと、そのタイミングを待っていたかのようにリリアン様が話し始めた。


「アマーリア様、お気持ちを聞かせてくださってありがとうございました。順番は逆になりましたが、これから私がどうしてアマーリア様にお気持ちを聞いたのか、その理由をお話ししたいと思います」



そこからリリアン様が語ったことは、私が予想すらしていなかった内容であった。ご自分の身の上から始まり、最近ご学友の方と立てた計画のことまで全てをリリアン様は語ってくれた。あまりの内容に正直驚きながらも、どうしても気になったことを彼女に聞いてしまった。


「リリアン様はどうしてこの話を直接私にしてくださったのですか?私に反対されたり、彼との婚約をそれまでに白紙にされたりするとは思わなかったのですか?」


「それはもちろん考えております。しかしアマーリア様は現在ウィリアム様の婚約者です。アマーリア様にはその権利があります。だからそうなったらまた別の手段を考えようと思っております。


今回お話を伺ったのは、アマーリア様がこの婚約の継続を望んでいらっしゃるならそれを邪魔しないようにしたいと思ったからです。真っ当に生きる人を犠牲にして、助かるのは違うと思ったためです」


リリアン様ははっきりと私にそうおっしゃった。

足の引っ張り合いが常で、他人を蹴落として己の優位を取ることも多いこの貴族社会で、彼女は何て無防備で、強い人なのだろうと思わされた。きっと彼女の行動は正解ではない。デメリットの方が多いだろう。けれども、どこか心が惹き付けられる、そんな行動だった。


「リリアン様、貴女のお話は理解しました」

私は彼女の目をしっかり見つめながらそう答えた。


「その上で、私は今日何も聞いていないことにしたいと思います。貴女がこれから何をするかは知らない。私はただ、これからの自分の婚約者の振る舞いをよく見て、自分の将来を決めたいと思います」


「アマーリア様、よろしいのですか?」


「ええ、私はまだまだ未熟で自分のことを考えるので精一杯ですわ。リリアン様の動向までも気にしておけないだけです」


私は緩やかに微笑みながら彼女にそう返した。


「ありがとうございます」

リリアン様は最後に大きく頭を下げてそうおっしゃった。




そこから今日の日を迎えるまでの数ヶ月、ウィリアム様の行動を把握し、自分の心としっかり向き合った。昔のような気持ちはなくとも、人に冷たくあしらわれるのは心が痛むものであった。しかしこれは自分の決断の結果だった。最後まできちんと向き合うのが自分の責任だと思い、今日までの日々を過ごしてきた。


そして今日、婚約は白紙となった。最後に顔を合わせるともっと色んな気持ちが湧いてくるかと思っていたが、今自分の胸にあるのは大きなことを一つやり遂げたことによる、どこかぽっかりと穴が空いたような気持ちだった。


久々にぼんやりと、力を抜いてお茶を味わっていた。今日ぐらいはこうして過ごしていたい。けれど、そういう訳にもいかないことは分かっていた。


「次の婚約者を探さないといけないわね」


思わず口に出した私を心配そうに見つめながら、クララがこう言ってくれた。


「アマーリア様、しばらくはお心を休められてもよいのではないでしょうか?」


「ありがとう、クララ。でもうかうかしてたら他人の思惑で外堀を埋められるわ。解消が広まる前になるべく手は打っておきたいわ」


「それは……そうですが」


「でもどうしようかしら。サリー叔母様にでもご相談すべきかしら」


「それにつきましては、先代よりお預かりしているものがございます」


そう言って会話に入ってきたのはマーカスだった。


「先代はアマーリア様の婚約に万が一もしものことがあればと、アマーリア様の新たな婚約者の候補を選んでおいででした」


そう言ってマーカスは書類を手渡してくれた。そこには5名ほどの令息の名前や家柄、性格などが事細かに書かれていた。黙ってその書類を見つめていた私に、マーカスは更に言葉を重ねた。


「これは事故等も含め何かあったとき用にと渡されていたものです。先代が最初からカーグス伯爵令息を不適格だと思っていた訳では決してありません」


「大丈夫、分かっているわ。お父様はそんな無駄なことをなさる方ではなかったですもの。何かが違っていたら、別の未来も私たちにはあったのでしょう」


そう言って少し力なくなってしまったが笑って見せた。そして話題を変えるためにも、書類について気になったことをマーカスに聞くことにした。


「ねぇマーカス、この方々のお名前の記載順には意味があるのかしら?」


「はい、先代が良いと思われた順に記載していると伺っております」


「そう。ならこの一番上の方にまず婚約の打診をしましょうか。まだ婚約者がいらっしゃらないか調べてくれる?」


「いけませんアマーリア様!これはあくまでも先代のご意見です」


「そうだけれど、私は四年を無駄にしてしまった訳だし……」


「そう思われるなら尚更きちんと会ってから考えてみるべきです。それに先代がお亡くなりになられてからも数年経っております。現状を改めて確認する必要もあるかと思われます」


「……そうね。ダメね私。平気だと思っていたけど少しへこんでしまっていたのね。ありがとう、マーカス。貴方の言うとおり、まずはこの方たちに会ってみるわ」



マーカスの言葉に従い、まずはお父様の残してくださった婚約者候補の方々の現状を改めて調べることにした。各所に指示を出してもらい、後今日できることはお父様の書類を読むぐらいかと思っていた私の元に予想外の一報が届いたのは、夕方に差し掛かる頃だった。


「候補の一人の方からお茶のお誘いが来ている?」


「はい、三番目に名前の記載がありましたフィン・ルクトハルツ様から届いております」


「……余程耳が早いのかしら」


「確かルクトハルツ家の次男はウィリアム様と同い年です。学園でのことは把握しているのでしょう。些かタイミングが良すぎますが、婚約解消を見込んで手紙を送ってきた可能性はあると思います」


「だとしたら行動力のあるお家ね。どちらにしろ候補者全員に一度はお会いしようと思っていたところよ。このお誘い、お受けするわ」


「承知いたしました」


ご招待にあずかる旨を返答すると、先方から早速日時の連絡があった。ウィリアム様との婚約が解消してわずか三日後、私は新しい婚約者候補の方とお会いすることとなった。



春の花が咲き誇るルクトハルツ家の庭園で私を出迎えてくれたのは、私と同じぐらいの背丈の少年だった。少しつり目気味のくりっとした目が溌剌とした印象を与える方だった。


「初にお目にかかりますアマーリア様、私はルクトハルツ家三男のフィンと申します」


少し緊張を見せながらも、はっきりとした声でフィン様は名乗ってくださった。溌剌とした印象はあながち間違いではないかもしれないと思いながら、私はフィン様に挨拶を返した。


「フィン様、本日はお招きいただきありがとうございます。このような素敵な庭園にご招待いただけて光栄です」



私が口にした通り、ルクトハルツ家自慢の庭園はちょうど春のバラが満開であった。「今がバラの見頃なのです。これをお見せしたくて急でしたがお誘いをしてしまいました」と、フィン様が今回のお誘いの理由を説明してくれた。理屈としては一応筋が通っている。今回の招待のタイミングといい、意外に抜け目のない方かもしれない。そう思いながら、私はしばらく会話を続けた。


「向こうにもまた別の種類のバラが咲いています。よければそちらも見に行きませんか?」


ティーカップの底が見え始めた頃、フィン様からそう声をかけられた。ここまでの会話で、庭のバラのこと、今日の茶葉やお菓子のこと、私のドレスのことなど、恐らく本来彼が興味を持っていないこともフィン様はしっかり調べて、覚えてきてくれたことが感じられた。会話を楽しいものにしようという気持ちが随所に感じられ、私は久々に気負いすぎず会話を楽しむことができた。断る理由は何もなかったため、私は「ぜひお願いします」とフィン様に返事をした。


フィン様に連れられ庭園を歩いていくと、咲いているバラの色が鮮やかな赤から柔らかなピンクへと変わっていった。お茶をいただいた席から見えた庭園は豪華さのある美しさだったが、こちらは春らしい温かさを湛えた美しさだった。


「本当に綺麗ですね。赤いバラも素敵でしたが、こちらピンクのバラも優しい雰囲気でとても素敵です」


「アマーリア様は普段はよくこのバラのような色合いのドレスをお召しですから、気に入っていただけるのではないかと思っておりました」


ごく自然にそう言われ、私は思わず返答に詰まってしまった。フィン様がさらりとおっしゃったので思わず聞き流しそうになったけれど、私は普段のドレスの色を覚えてもらえるほど彼と個人のお茶会などでお会いした記憶はなかった。ウィリアム様と婚約してからは、公の場を除いては同年代の令息と会う機会はそうなかったので、単に忘れている訳でもないはずだ。

『どこかでお会いしてましたか?』と聞く訳にもいかないので、どうしようかと考えていると、横を歩いていたフィン様が少し声を潜めながらこう私に話しかけてきた。


「……実は私も中央公園の奥の噴水近くの白い貴婦人のパトロンなのです」


「貴婦人……?」


「彼女、干し魚ならよく食べるでしょう?」


フィン様がいたずらっぽく笑いながらそう言うのを聞いて、私は初めて彼の言いたいことに気が付いた。


「まぁ。フィン様もあの白猫のことをご存知なのですね」


「はい、私は彼女をミルクと呼んでいます。中央公園の近くに寄る度に食べ物を与えていたのですが、そのときに先に彼女の元を訪れていた貴女を見かけることが度々ありました」


「私は彼女をリリィと呼んでいます。そうでしたか、だからフィン様は私のことを知っていらっしゃったのですね。でも私全く気付いておりませんでした」


「猫と戯れるアマーリア様はとてもリラックスしているように見えましたので。知らない人間が割り込んでその時間を邪魔をしたくなかったのです。しかし一方的にのぞき見をしていたようなものでした。申し訳ありません」


「いえ。少し気恥ずかしい気もしますが、確かにあの時間は気を張らないものでしたので、お気遣いを嬉しく思います」


私が笑顔でそう返すと、フィン様は少しホッとしたような表情をした。そしてそのまま歩みを止め、私の方に向き直った。フィン様は小さく息を吸い込んだ後、真剣な顔で私にこう話し出した。


「今日お誘いをした本当の理由は、誰よりも先に縛られるものがなくなった貴女と話をしたかったからです。

ミルクと、リリィといるときにはあんな少女らしい笑顔を見せる貴女が、社交界では侯爵家の重圧を背負い、一人で凛と立っていた。どんな辛いときもそれを押し込めて微笑んでいた。本来ならば支えるべく手を差しのべるはずの婚約者をむしろ庇い、そのことで向けられる悪意を含んだ意見にも、丁寧に笑顔で対応していた。

ずっと、そんな貴女の背を遠くから見ながら、私が支えられたらと思っていました。願ってはいけないことだと思っていたのに、今こうして願うことが許されるようになりました。


社交界に素顔で立つことはできません。けれども、常に仮面を被り続けることも難しいものです。アマーリア様、貴女がリリィに見せるような笑顔を少しぐらい見せられるようになるように、私に貴女を守らせてほしい。笑うことが辛いときには、手を差しのべさせてほしい。

どうか私を貴女を隣で支えることができる立場に立てる男の候補として見てもらえないでしょうか?」


真っ直ぐに見つめられる瞳から、私は目をそらすことができずにいた。まるでフィン様の視線に、言葉に捕らわれてしまったかのようだった。

ウィリアム様からも婚約者として優しい言葉をもらったことはあった。けれどもこんな目を、熱を向けられるのは初めてだった。

そのことを自覚すると、遅れて心臓がその鼓動を早め始めた。巡った血液が頬を、耳を赤く染めた。心音が思考を掻き乱して、まるで初めて社交の場に出た子供のように言葉が上手く出てこなかった。


結局そのとき私がフィン様に返せたのは、小さく首を縦に振ることだけだった。



その約束のせいだけではないけれども、その日は帰ってからもずっとフィン様の言葉のことを考えていた。そのため折角マーカスたちが婚約者候補の方たちの現状をまとめてくれたのに、情報が全く頭に入って来なかった。

書類を見つめながらぼんやりとしていたら、「……アマーリア様?」とマーカスに声をかけられた。


慌てて顔を上げると、マーカスは少し困ったように笑いながら私の方を見ていた。


「この話はまた明日にいたしましょうか」


「ごめんなさい、考え事をしていて聞き逃していたわ。もう一度教えてくれる?」


「分かりました。婚約者の候補者5名のうち、2名は既に婚約者が決まっておりました。3名のうち、ルクトハルツ様以外の方からもお茶のお誘いをいただいております。差し支えなければこちらで日程を調整しますが、いかが致しましょうか?」


「……ルクトハルツ様以外」


「そうです。お心が決まっておいででしたら断ることもできますが」


「いえ、会うわ。今度は見れるものはできるだけ見ておきたいの。調整をお願いね」


「承知致しました」


胸の中は落ち着かないままであったが、私はマーカスにそう返事をした。



そこから程なくしてその2人の令息ともお茶の時間を共にした。向けられる柔らかな視線、気遣い、優しさ、どれも申し分ないものであったけど、あの日のように心が揺さぶられることはなかった。


そうしている内にウィリアム様との婚約を解消したことは周囲に広まりきり、色々な人から婚約者のことを言われることが増えてきた。それまでにフィン様を含め婚約者の候補の方々と何度か会ってはいたが、私は未だ婚約者を決められずにいた。

心は多分フィン様に惹かれている。けれどもかつてウィリアム様を私の気持ちで選んだことが脳裏をかすめ、本当に自分の気持ちを元に決断を下していいのかそれを決めることができずにいた。


結論を出さなければならないと思いつつも、家のことや勉強など目の前のことに逃げてしまっていた。時間だけが過ぎていく中で、私はある日亡くなった侯爵の妻、義姉にあたるセレーユ様から呼び出しを受けた。


「お邪魔いたします、セレーユ様。お呼びとのことでしたが、ご用件は何でしょうか?」


「来てくれてありがとう、アマーリア様。今日時間を取ってもらったのは他でもありません、貴女の婚約者のことで話をしたいと思ったためです」


「婚約者……ですか」


「ええ、貴女まだ婚約者を決めていないでしょう。先代の選んだ人の中にいい方がいないならうちの甥を紹介したいの。年齢は貴女の一つ上、伯爵家の次男よ。穏やかな性格の子だから貴女とも合うと思うのよ。

うちの実家との結び付きが強くなることはフランドルの家にとっても悪いことではないでしょう?いつまでも貴女を婚約者がいない状態にはしておけないし、この話を進めてみてはどうかと思うの。会ってみて問題がなさそうなら彼と婚約してはどうかしら?」


セレーユ様は侯爵が亡くなられてからも女主人としての役割を担う存在としてフランドル家に残ってくれていた。セレーユ様のご実家も上位の伯爵家であり、彼女はフランドル家の中でも未だ強い発言力を持っていた。

そのセレーユ様からの縁談。これは余程の理由がなければ断れない話であった。


「まずは顔合わせをしないとね。マーカス、早速だけど明後日の午後の予定を調整してちょうだい」


にっこりと微笑みながらセレーユ様にそう言われ、私は何とか表情を維持するだけで精一杯になってしまった。


フィン様の手を取れなくなる。


今までいくらでも手を取る機会はあったのに、それを決めることから逃げていたのに、そうなって初めて私は自分の気持ちに気が付いた。

あのとき自分の心ときちんと向き合わなければいけないと学んだはずなのに、リリアン様に気づかせてもらったのに、ウィリアム様のことを離さず掴み続けていたときと同じことを私はしてしまっていた。


「アマーリア様?」


セレーユ様に声をかけられたが私は返事ができずにいた。黙り込んだ私に、セレーユ様は少し困ったように笑いながらこう言ってくれた。


「自分のこと、やっと分かりましたか?」


最初言われたことが分からず、思わずぽかんとセレーユ様を見つめてしまった。彼女は変わらず困った子供を見るような顔で私を見ながらこう続けた。


「心は、気持ちは自分のものであっても不確かで難しいものです。けれどもそれをなくして、これから将来に渡り共に過ごす伴侶を選ぶことはできないと私は思います。アマーリア様、今貴女の心にある気持ちを大切にするべきです」


「セレーユ様……でも、よろしいのですか?セレーユ様のお話は……」


「ああ、お気になさらないで。私の甥は一人だけで、次男はおりませんから」


セレーユ様が笑顔でさらりとおっしゃったことが理解できず、先程と同じようにセレーユ様をぽかんと見つめてしまった。


「え、あの……?」


「アマーリア様、貴女が決断に臆病になっていたから嘘の縁談話でちょっと発破をかけてみたんですよ。効果はあったでしょう?


間違いを恐れ、選択に臆病になるのは皆同じです。けれど貴女はもう4年前の何も知らなかった子供ではありません。それだけの努力と経験を積み重ねてきています。貴女はもっと自信を持つべきです。


それに多少は間違えたっていいんですよ。100%の正解なんて滅多にありません。おかしいと思ったらその時点で訂正すればいいんですよ」


ね、と笑いかけながらセレーユ様はそうおっしゃった。

自分を信じること、間違えたって構わないこと。どちらも私の中にはなかったものだった。


「それで、いいんでしょうか?」


思わず呟いた私の言葉に、セレーユ様は温かな微笑みで答えてくださった。


「ありがとうございます、セレーユ様。私やっと自分の気持ちに気付けました。私、これから先ずっと一緒に過ごす相手はフィン様がいいです。フィン様と過ごしていきたいです」


遠回りをしてしまったけど、やっと私は自分の心としっかり向き合い、結論を出すことができた。不安は心の底にまだ残っていた。けれども間違えても、きっとフィン様や周囲の人たちとそれを直していけばいい。セレーユ様の言葉のお陰で、私はそう思えるようになっていた。



気持ちを自覚した翌日、早速ルクトハルツ家に手紙を出し、フィン様と会う約束を取り付けた。あの初めて会った日の言葉に返事をする。当日、少し緊張をしながら私はフィン様を出迎えた。


ルクトハルツ家に負けず劣らず、庭師たちにより丁寧に手入れされた我が家の庭もバラが美しく咲いていた。その庭を歩きながら、私はいつフィン様にお伝えをしようかとずっとタイミングを窺っていた。


この話が終わったら、あの角を曲がったら、そう思っているうちにもうすぐ庭を一通り案内し終わりそうになっていた。勇気を出さなくてはいけない、けれどもつい尻込みしてしまう自分が情けなくて視線を下げたそのとき、柔らかなピンクのバラが咲いているのが目に入った。それは種類は違うものだけど、あの日フィン様が見せてくれたバラによく似たものだった。


そうだ、思い返せばあの日のフィン様は少し緊張に強張った顔をしながらもしっかりと私に言葉を届けてくれた。あのときのフィン様は、自分のことをどう考えているかも分からない私に勇気をもって伝えてくれたのだ。彼の好意に返事をする私よりずっと勇気が必要だったはずだ。


彼の気持ちに、勇気に応えたい。そう思ったら、胸の中から温かな勇気が湧いてくるような気がした。それをかき集めて、私はついにフィン様にこう切り出した。


「フィン様、あの、最初にお会いした日に伝えていただいたことですが、こんなにお返事が遅くなってすみませんでした。

私できなかったことばかりを思い出してしまって中々一歩を踏み出すことができませんでした。今だって、話を切り出すだけでこんなに時間がかかってしまって、本当にまだまだ至らないところが多いです。

けど、もしそれでもいいと思ってくださるなら、私とこれから共に立っていただけませんか?」


しどろもどろとなった部分もあったけど、何とか言葉にすることができた。バクバクする心臓を押さえるように胸に手を当てながら、私はフィン様の反応を待った。


そんな緊張しきった私の目の前で、フィン様は急にしゃがみこんでしまった。この反応の意味が分からず、思わずフィン様のつむじを見つめていると、下から「よかったぁ」と小さな声が聞こえてきた。


「今日のアマーリア様ずっと難しい顔をしてたから、俺てっきりお断りをされるかと思ってました」


しゃがみこんだまま、フィン様はそうおっしゃった。


「ごめんなさい、その緊張してしまって。情けないですよね」


そう言うとフィン様はがばりと起き上がり、私の手を取ってくれた。


「まさか!それだけ真剣に考えてくださったのでしょう?情けなくなんてないです。

ありがとうございますアマーリア様。俺、いや私だってまだまだ外国語も下手だし出来ないことは沢山あります。けど、貴女とこうして手を取りながら一緒に成長していきたいです。貴女を少しでも笑顔にできるようがんばります。どうかこれからよろしくお願いします」


背は私と変わらないと思っていたのに、私の手を包む彼の手は私より大きいものだった。フィン様の言葉と大きな手から伝わる彼の体温が私の中にじわじわと染み渡ってきた。


それに押し出されるように浮かんできた涙を目にためながら、私は「こちらこそよろしくお願いします」と彼に返事をした。



元より両家の意向は確認されていたため、私とフィン様の婚約はほどなくして整った。二人で出掛けたり、お茶をしたり、私たちは沢山の時間を共有した。


そんな中で共にお茶会に出ることもあり、そこでは婚約したばかりの私たちに心ない言葉をかけてくる人もいた。


「これはフィン様とアマーリア様、この度は婚約おめでとうございます。お二人は前の婚約が解消されてすぐに出会われたとか。いやぁ前からの知り合いでもなければ中々そんなに早くには新しい人とは巡り会えないものです。お二人の出会いは運命的であったということでしょうか」


顔見知りの伯爵からこんな言葉を投げつけられた。回りくどい表現だけど、新しい出会いが早すぎて、ウィリアム様と婚約している間から二人には関係があったのではとでも彼は言いたいのだろう。さて、何と返すのがいいかと考えたそのとき、フィン様が私を庇うかのように半歩ほど前に出て、伯爵にこう言葉を返した。


「運命であればそれほど嬉しいことはないですが、これは長らくアマーリアに片想いをしていた私の気持ちによるものです。彼女にこの気持ちを伝えることができるようになったと分かってすぐに私が動いたのです。伯爵の耳にも入るような話になっているとは恥ずかしい限りです」


フィン様はにこやかに笑いながら、でもしっかりと私たちの出会いは正当なものであると返してくれた。今まではずっとこんな悪意に一人で立ち向かってきた。けれども今は彼が隣に立ってくれる。そのことが実感としてじわじわと感じられた。


「伯爵がそう思われるのは無理もありませんわ。当の私も本当にすぐ連絡をくださったからとても驚きましたもの。でも、これが運命であれば私も嬉しく思います」


フィン様を援護するためでもあり、そして半分以上は本心からそう思いながら私はそう続けた。



貴族の会話とは見え透いたお世辞に始まり、善人ぶった笑顔から吐き出される嫌味に終わる。

けれどこうして彼が私の隣に立ち、同じ方向を向いてくれるなら、これからもきっとこうして立ち向かっていくことができる。私はそう感じていた。


今は同じ高さにある目線に少し照れながらも微笑みを向けると、彼も同じくはにかみながら笑顔を返してくれた。


この幸せを守るために、リリアン様に、セレーユ様に気付かせてもらったように今度こそ自分の心を偽らず、目の前の彼ときちんと向き合っていく。


彼の優しい目を見つめ返しながら、私は心の中でそう私は自分に誓っていた。

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