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リリアン

パンが焼ける香ばしい匂いが好きだった。


私が伯爵令嬢のリリアンになる前、ただの庶民のリリアンだった頃、私は母と二人パン屋で住み込みで働きながら生活をしていた。

朝になると早朝の仕込みを終えた母が前日の売れ残りのパンを持って帰って来て、私を優しく起こしてくれた。


パン屋の二階の一室、焼きたてのパンのいい匂いが満ちた部屋で残り物の固いパンをミルクに浸して食べた。決して裕福な生活ではなかったが、私を愛してくれる母がいて、パン屋のご主人一家やご近所の人にも可愛がられ、とても幸せな生活を私は送っていた。


母との二人の生活に不満はなかったけど、物心ついた頃に自分の父親のことが気になったことがあった。幼い頃一度だけ父親のことを母に聞いたことがあったが、そのとき母がとても辛そうな、悲しそうな顔をしたので、それ以降は一度もその質問をしないようにしていた。今から思えば、あんな男の話は聞かなくて正解だった。



小さい頃から家のこと、パン屋の仕事を手伝っていた。店の掃除、パンの整列、子供でも手伝えることは何でも行った。そのうち私が成長し、14歳になる頃には母に似た整った容姿を活かして看板娘として店頭に立つようになった。母に少しでもいい生活をさせてあげたいと思い、懸命に愛想を振り撒いた。ニタニタと下心を隠そうともしない下衆な男も、権力や金をちらつかせ迫ってくる男も、近所のお姉さんたちに助けられながら何とかあしらった。頑張ることが私たちの未来に繋がるのだと、そのときの私は健気に信じていた。


そんな生活の中で淡い恋も知った。彼はパン屋に小麦粉を卸しにくる商店で働く二つ年上の青年だった。最初は簡単な挨拶から始まり、顔を合わせる度に立ち話をしてお互いのことを徐々に知っていった。彼にデートに誘われたのは出会って三ヶ月後のことだった。手を繋いで町を歩き、大衆向けのカフェに入るだけのおままごとみたいなデートだったけど、私はすごく楽しかった。仕事の隙間にデートを重ねた。初めてのキスは店の勝手口の裏で隠れるようにした。いつかパン職人になり自分の店を持つために今はお金を貯めているという彼と将来の話をした。

私の人生はこの小さな街で、ささやかながらも幸せに過ごすのだと、あの頃の私は信じていた。


しかし現実は残酷で、看板娘として名が知れつつあった私の前にある日、父親を名乗る肥えた中年の男が現れた。


男は自分はこの辺りを治める伯爵だと名乗った。母が私を身籠ったときに身を引くように逃げてしまってそこからずっと探していたのだと言った。しかし感動の再会をうたいながらもニヤけているようなその表情と、昔母が見せた怯えるような、悲しそうな表情から私はそれは嘘だと直感的に理解した。

何とかこの場から逃げ出そうと思ったが、私たちがここに住み込みで働いていることは知られているようだった。男は勝手にパン屋に押し入り、母を呼び出し、金貨を数枚押し付けると私の腕をつかみ、連れていこうとした。母は全力で抵抗をしてくれたが、伯爵と名乗る男にここら一帯に新たな道路を通してもいいのだぞと脅され、身動きが取れなくなってしまった。工事をするとなればこの辺り一帯の店は全て畳まなければならなくなる。多少の補償はあるかもしれないが、目の前でニヤニヤと笑う男が十分な手当てをくれるとは思い難かった。


母は泣きそうな顔をしながらも私の手をしっかり握ってくれていた。母の細い腕からは考えられないほど強い力で、痛いぐらい私の手を掴んでいた。


男と母に腕を取られたまま、私は男を振り返りこう尋ねた。


「私が行けばこの辺りには手を出さないのね?」


リリアンと母が悲鳴のような声で私を呼んだ。心がギシギシと軋んでいたけど、敢えて母の方は振り向かず目の前の男を睨み付けるように見つめた。


「さすが私の娘だ。聡明で話が早くて助かる。その通りだ。お前がこの父の元にくれば皆幸せになれる」


「もちろんお前もだよ」と男は気持ち悪い猫なで声でそう言った。気持ち悪くて堪らなかった。母にこのまますがりたかった。けれど、自分に残されている選択肢が一つしかないことを理解できないほど愚かにもなれなかった。


覚悟を決めた私の顔を見て、男は私の腕を離した。すかさず私を抱き締めた母を抱き返しながら、私はこう伝えた。


「お母さん、必ず手紙を書くわ。一人で無理はしないでね。愛してる」


母は泣きじゃくり、より強い力で私を抱き締めた。そんな母の背を撫でた後、私は誰よりも大好きな人の手を自分から剥がしていった。


「リリアン……リリアンッ!!」


母の声が胸に突き刺さった。けれども私は精一杯の笑顔で母に別れを告げた。


「ごめんね。さようならお母さん」


その言葉を待っていたかのように、すぐに男が私の腕を掴んで馬車まで連れていった。

私はそこから生まれ育った街を離れ、首都にある男の屋敷に連れていかれた。



ピカピカの大きなお屋敷で、気持ち悪い笑みを浮かべた男は改めて自分が私の父親だと名乗った。生き別れていたお前と再会できて嬉しいよと白々しいセリフを吐いていた。


あんな風に強引に私を引き取ったのだ。この男には何か目的があると思っていた。なので私は無表情に男にこう告げた。


「建前はいらないわ。何が望みなの?私をどうしたいの?」


すると男は気持ちの悪い笑みを消し、別の気持ちの悪い表情を浮かべながら私にこう言った。


「本当に話が早くて助かるな。お前をあの女から取り上げたのは、お前の見た目に価値があるからだ。まさか戯れに手をつけた女がこんな上玉を産んでいるとは思っていなかったよ。

これからお前には立派な淑女になってもらう。そして高位貴族に嫁入りし、我が家の役に立ってもらう」


政略結婚の駒になれと男は言った。一瞬彼の笑顔が頭を過ったが、私は気付かなかった振りをして自分を誤魔化した。


「分かったわ。ならすぐにでも教師を付けることね。私はお貴族様の生活なんて知らないわよ」


啖呵を切るようにそう言うと相手は腹を揺らしながら笑った。ここで私が抵抗してもまた工事をネタに脅されるだけだろう。なら今は大人しく従うしかないと腹をくくった。



男の屋敷での生活は最悪の一言に尽きた。無理やり連れてきたくせに、家の人間は私を伯爵家の財産目当てで乗り込んできた庶子扱いをした。


当然あの男の妻は私を毛嫌いして何かと文句を付けては扇で叩いてきた。卑しい女の血がこの屋敷にどうしているのとヒステリーを起こし、罵声を浴びせ、物も投げつけてきた。そんなのあの男に言ってくれと思いながら、ただただされるがまま耐えた。


他にあの家にはあの男と本妻の間の子供もいた。義兄と義妹が出来たのだけどそいつらも最悪だった。

義兄の男は私をいやらしい目で見てきて、わざと胸や腰に触れてきたり、ひどい時は着替え中の部屋に偶然を装いながら乗り込んできた。自分の父親が商品価値があると思い連れてきた女であることは理解しているのか、直接手は出してこなかったが、まとわりつく視線が不快で不快で仕方がなかった。


義妹は性格の悪さが顔に出たような、パッとしない見た目の小娘だった。ネチネチと私に嫌みを言い、メイドに命じて私のご飯を質素なスープだけにしたり、風呂に入らせず冷たい水だけを渡したり、様々な嫌がらせをしてきた。正直貴族のお嬢様の嫌がらせなど本物の貧しい暮らしをしてきた私からすると何ら堪えるものではなかったが、それを知られると面倒だと思い、逐一悲しんでいるような演技をしなければならなかった。これはこれで苦痛であった。


そんな最低な生活だったが、あの男が私を高位貴族に嫁がせるというのは本気のようで、与えられた家庭教師、マナー講師はまともな人たちばかりであった。最初はちんぷんかんぷんだったけど、自分に力を付けるためにも寝る間も惜しみ、死にもの狂いで勉強に明け暮れた。


そんな生活を二年ほど続けた結果、学園への入学を控える頃には、私は生まれつきの貴族令嬢とも遜色のない立派な淑女へと転身を遂げていた。



学園への入学前、私は男に呼び出され、姿絵を見せながら狙うべき令息の説明をされていた。


「お前は体が弱くずっと領地で療養していたことにしている。体を強く動かすことはするな。か弱い令嬢を演じきるのだ」


そんな男の話を聞きつつ、私は姿絵に目を通していた。貴族の名前は一通り叩き込まれていたが、社交に出たことのない私は顔が分からなかったため真剣にその姿を記憶しようとしていた。そのとき侯爵家の嫡男の姿が並ぶ中、一人中位の伯爵家の令息の姿がその中に混じっていることに私は気がついた。


不思議に思い目を留めていると、男が私に説明をしてきた。


「ウィリアム・カーグスか。こいつはフランドル侯爵家の跡取りの婚約者なのだが、その座から引きずり降ろしたいと思っている人間が沢山いるんだ。その男を誘惑でもして、婚約を解消させることができたら多くの人に恩を売れるのだ」


悪趣味。そう思いながら私は気になったことを男に聞いた。


「でも婚約者のいる男性に声をかけるなんて、その後の私の利用価値がなくなるんじゃないの?この家の評判も落ちるわよ」


「そこは情けをかけ引き取った庶子に手を噛まれたとでも言えばいいだけの話だ。それに心配するな。若い娘と言うだけである程度の利用価値は残るものだ」


ニヤニヤと笑う男から視線を外し、私は再び顔を覚える作業を再開した。そのときはウィリアムのことは大変な立場にいる人なのね、程度にしか思っていなかった。



学園に入学した私は、変わらず勉学に励みながらもあの男に指示された令息たちを観察した。一生を添い遂げる相手になるならば、せめてマシな男を選びたいと思ったためだ。観察をしていると、高位の令息はさすがに人格者が多いように見えた。しかしその分ガードも固く、近づくのは容易ではないように思えた。


入学してからそんな日々を過ごしていると、ある日寮の部屋に戻る途中にとあるご令嬢から声を掛けられた。彼女は伯爵令嬢のミリーと名乗った。


「勉強で分からないことがあるの。リリアン様はとてもお勉強が得意ですよね?よければ教えていただけないかしら?」


正直面倒ではあったが、情報を集めるためには同性の友人も必要かと思った。そのため私はマナー講師に仕込まれたご令嬢らしい微笑みで「私でよければ」と答えた。


「では私の部屋でお願いします」と言ったミリー様について行き、彼女の部屋にお邪魔した。勧められるままにソファに腰掛け、鞄から教本を取り出しながら私はミリー様に問いかけた。


「分からない箇所はどこでしょうか?」


そう聞くと、正面に座った彼女はにこやかに笑いながらこう聞いてきた。


「あんたいつからご令嬢やってんの?」


はすっぱな言葉遣いに驚きすぎて、私は思わず教本を落としてしまった。そんな私を見ながらミリー様は続けた。


「見たところ二、三年ってところ?よく仕上げて来てるけどあんた視線が鋭すぎるのよ。本物のお嬢様はあんな目で令息を品定めしないわよ」


ケラケラと笑う彼女に、何とか立て直した私は言葉を返した。


「それが分かるってことはあんたも同類ってこと?」


「ご名答。私はご令嬢歴六年よ。あんたの先輩ね」


そこから詳しく話を聞くと、彼女も市井で育った庶子だった。ただ彼女は母親と共に引き取られ、嫁入りは求められているが一般的なご令嬢と変わらない程度の要求だと言っていた。


そのため私の話をしたところ彼女は真剣な顔をして私にこう言った。


「ごめん。私、同じ市井育ちがいると思って気軽に声を掛けてしまったわ」


「いいのよ、気にしないで。お嬢様ばかりの空間で息苦しかったの。ミリーと知り合えて嬉しいわ」


そこからこの環境で苦労したこと、未だ馴染めない貴族の習慣など色んな話をした。お互いこんな話をする相手がいなかったのもあるが、話は盛り上がり、結局その夜はミリーの部屋で過ごすこととなってしまった。私はそうして貴重な心を許せる友人を得たのだった。



そうしてミリーの協力も得ながら対象の令息たちの観察を続けていたが、そんな中で一人異質だったのがウィリアム・カーグスだった。彼は侯爵家の婚約者という誰もが羨む、つまり色んな人間に狙われる立場であったのに、驚くほど無防備な男であった。あからさまに下心を持って近づいている人間に気を許し、あまつさえ婚約者の愚痴までこぼしていた。甘えたお姫様だなんて婚約者のことを悪しく言っていたが、5歳も年下の少女に何を言っているんだと思いながら聞き流していた。


婚約者のいる男を狙うなんて論外だと思っていたが、婚約者の幼い少女の欠点をあげ愚痴を言う割には自分は何もしない態度を見ていると、このまま彼と結婚することがフランドル侯爵令嬢の幸せに繋がるのか疑問に思えてきた。それにウィリアムは本人は隠しているつもりであっただろうが、ときどき私を下心のある視線で見てくることがあった。


他の令息を狙うのが難しいのもあったが、私はウィリアムをターゲットとすることに決めた。


彼は常々甘えた、自立していない子供だと彼の婚約者のことを言っていた。そのため、私は凛とした淑女の仮面を被ることにした。自分で働いたこともないお嬢様の中で自分をそのように見せるのはそう難しいことではなかった。


そうすると、彼は徐々に私への興味を増していった。さりげなく近づこうとしてくる彼に、私はにこやかに対応しつつも、クラスメート以上の扱いをわざとしなかった。手が届きそうで、届かないほど男はのめり込むものだ。看板娘として下町の癖のある男たちを相手にしていた私にとって、温室育ちの彼を手玉に取るのは容易いことだった。



そうして機が熟しつつあったある日、大きなチャンスが訪れた。ミリーがさりげなく私とウィリアムが資料を片付ける当番になるよう仕向けてくれたのだ。


資料を片付け終わった後、私は部屋から出るときにわざと怯えたような振りをして、部屋の中へ二、三歩足を戻した。当然ウィリアムは食いついてきた。そんな彼に架空の男の話をして、腕を借りたいと言ってみた。婚約者でもない相手をエスコートするなんて本来ならば褒められることではない。さて、どう出るかとウィリアムを窺っていると、彼は問題ないと言って私の手を半ば強引に取ってきた。遠慮をする振りをしつつ、私は内心この男はこういう考えなのねと思いながら、彼の腕にそっと手を添えた。


資料室から寮まではそれなりの距離がある。放課後のため人気は少なかったが、それでも人目はちらほらあった。彼らの視線を感じながら、私はウィリアムに話しかけた。


親しげに話す私たちを何人もの人間が見ていた。私は最後の止めを刺すように、彼の顔のすぐ近くでにこりと微笑み、貴方がいてくれてよかったと言ってやった。


その怯えるご令嬢の演技が効いたのか、その後ウィリアムはことあるごとに私に近づくようになった。遠慮する振りをしつつ、でも困った顔を作りながらも「嬉しい」と言えば、ウィリアムは益々私にのめり込んできた。



そうして彼の熱を煽りきったある日に、私とミリーは最後の仕上げをすることとした。

その日私はウィリアムと図書室に一緒に行く約束を取りつけた上で、放課後彼に見つからないようこっそりと教室を後にした。人目を避けながら中庭の奥まで進み、隠し持ったペーパーナイフで自分のスカートを大きく切り裂いた。そしてミリーの合図があるまで、ベンチの裏で隠れていた。


30分ほどした頃、校舎の二階にいたミリーが私に向かって手を上げた。それはウィリアムが中庭にやってきたときの合図だった。私は急いで虫除けの透明の塗り薬を目の真下に塗った。

慌てていたため塗りすぎてしまったのか一気に目に痛みが来て、ぼろぼろと涙が出てきた。私は目の痛みに耐えながら、ペーパーナイフと軟膏を茂みの中に急いで隠した。


そうしているとウィリアムの走る足音が聞こえてきたので、私はわざと鼻をならして私がここにいることを伝えた。そうすると彼は転がるように、慌てながら私の元に駆け寄ってきた。


名を呼ばれ顔を上げると、私が泣いていることに気付いたウィリアムは驚いた様子を見せた。痛ましいような顔をした後、遅れて彼はスカートの状態に気が付いた。

破れたスカートを隠しながら、憐れっぽく、怯えるように彼に答えた後、私はぽろぽろと涙を流した。震える私にウィリアムが声を掛けてきたので、涙目で見上げながら最後の仕上げとばかりに私は彼の名前を呼んだ。


そうすると彼はしゃがみこんでいた私を急に抱き締めてきた。予想外の行動に突き飛ばしたい衝動に一瞬駆られたが、ぐっと我慢をして彼の上着をぎゅっと握りしめた。あの人ではない他人の吐息をすぐ近くで感じて、軟膏以外の理由でも涙が出そうになった。

けれど帰宅の鐘が鳴るまで、私はじっと耐え続けた。


ウィリアムからやっと解放されたのも束の間、上着を貸した彼は再び私を抱き締めてきた。一度ならまだしも、二度も抱き締めたとなればこれは立派な不貞になるだろう。それを確かめるために、これが貴方が引き返せる最後のチャンスよとも思いながら、私は彼に声をかけた。


「……ウィリアム様、いけません、こんなこと」


彼が自分の婚約者を思い出し、正気に戻るならば手を引こうと思っていた。エスコートや親切心なら友人の範囲内だ。けれど異性を抱き締めるのでは間違いなく黒になる。それでもいいのかと問うた。


「さっきは受け入れてくれたじゃないか」


ウィリアムから返ってきたのは、そんな返事だった。


彼が婚約者の侯爵令嬢とのお茶会を変わりなく続けていることは知っていた。彼は浮気するとそのとき宣言をしたも同然だった。


「私だって受け入れたい」


ならばもう遠慮することもないだろう。私はそう言って彼を奈落へと誘い込むように、一人で恋に酔う男の背にそっと手を添えた。



そこからは早かった。あの日中庭にいた私たちを見た人や、教室や寮に一緒に向かう私たちを見た人が喜んでフランドル侯爵家に連絡したのだろう。あの件があった三日後には、私は父親を名乗る男に屋敷に呼び戻されていた。


「よくやったリリアンよ。カーグスの子息をきちんと落としたようだな」


「ちゃんと私がやったと噂になっているのね」


「もちろんだ。今や社交界はいつあいつが婚約破棄されるか、その話題で持ちきりだ。はっきりとは言ってこないが、皆私によくやってくれたとばかりに声を掛けてくれるぞ」


「そう。で、これから私をどうするの?」


「お前にはすぐ学園を辞めて一旦領地へと戻ってもらう。なに、すぐにお前の旦那になる男を見つけて、そこに送り込んでやる」


「……なら私は学園に戻って荷物を片付けてくるわ」


「ああ、明日には荷物をまとめて戻ってこい」


それだけの会話をすると、私はさっさと寮に戻った。



平日の昼間の人気のない寮の部屋で片付けをしていると突然私の部屋のドアがノックされた。こんな時間に私を訪ねてくるなんて誰だろうと思っていると、「ねぇ開けてよ」と聞きなれた声が私の耳に入ってきた。


訪問者はミリーだった。


「いいの?お嬢様がサボりだなんて」


「いいのよ。友人が心配で食事も喉を通らないご令嬢は午後は部屋で休んでいることになってるから」


ご令嬢らしくない歯を見せる笑い方をしながらミリーは私にそう言った。


少ない私物をまとめながら、彼女と色んな話をした。これから私の身に起こることも含めて、全て吐き出した。最後は泣き出してしまった私をミリーはそっと抱き締めてくれた。


学園を退学すれば彼女と会うことは難しくなるだろう。私はこのクソみたいな貴族生活で得た数少ない宝物を力一杯抱き返した。



翌日、少ない荷物と共にあの男の屋敷に戻った。男の妻もその娘も、私をなじる理由を見つけたためか、嬉々として私をあばずれ、下賤の血は争えないのねと罵った。けれど私はもうすぐこの家を出ていくのだ。もうどうでもいいとばかりに私は全て無視をした。


そうして過ごすうちに、男に呼び出され私の輿入れ先が決まったと伝えられた。相手はどこかのおっさんだと言っていたが興味がなかったのでほとんど話を聞き流した。


残された時間で私は母やミリーに手紙を書いた。普段は私が外部と連絡を取ることをあの男は渋ったが、このときばかりは見逃してもらえた。ミリーには四日後には領地に戻ること、近々嫁ぐことになることを手紙で伝えた。



男の領地へ戻る当日、私は少ない身の回りの荷物と共に馬車に押し込まれた。悪趣味な母娘がわざわざ旅立つ私を笑いにやって来た。


「あの子、若い娘をいたぶるのが趣味のあの貴族の元へ嫁がされるのですよね?」


「そうよ。あの方はお金だけは持っていますからね。下賤の血にも多少の利用価値はあったみたいね」


「きゃー怖い。私なら怖くて泣いてしまうわ」


「愛されている貴女にそんなことは起こりはしないわ。そんな扱いを受けるのは望まれていない娘だけですもの。ああ、もうあの顔を見なくて済むと思うと本当に嬉しいわ」


最後まで二人は嫌みにもならないようなことをぐちぐちと言ってきた。無視をしようかとも思ったけど、この二人には会うのもどうせ最後なのだと思い、馬車の窓を開けて私はこう言ってやった。


「私もあんたらの顔はもう二度と見たくないと思ってたところよ。お互いの願いが叶って本当に良かったわね」


私はあの二人の顔では決して出来ないような美しい微笑みで、にっこりと捨て台詞を吐いてやった。絶句する二人を尻目に、私は優雅な所作でカーテンを閉めた。



首都からあの男の領地までは馬車で半日と少し走らなければならない。しかし馬車を二時間ほど走らせたところで、私は胸を押さえながらあの男が雇った見張り役も兼ねた御者にこう頼んだ。


「ごめんなさい。馬車酔いしたみたいなの。この先で休憩させてもらえないかしら?少し横になったらマシになると思うの」


仕事を早く終わらせたいからか男は初めは渋った。しかし私が銀貨を出しながら「貴方も疲れたでしょう?そこで冷たいものでも飲んで休憩してちょうだい」と、もう一度頼むと今度はあっさりと承諾してくれた。


そこから少し進んだところにある様々な領地へ向かう分岐点となる大きな街で馬車は停車した。一階がカフェ、二階が宿屋になった店に、私は御者と共に入った。一時間だけだぞと、男に念を押されながら私は二階の借りた部屋に向かった。



部屋に入り、ドアを施錠した。部屋の中を見回した後、私は着ていたドレスを勢いよく脱ぎ捨てた。


その部屋に置いてもらっていた庶民の娘が着るようなワンピースに着替えた。高いヒールを蹴飛ばし、ペタンコの靴に履き替えた。そして姿見の前で腰まで伸ばしていた髪を一掴みにしてハサミを入れ、肩の辺りの長さにバッサリ切った。毛先は少しギザギザになっていたが気に留める暇などなかった。私は持ってきたバッグの中身を質素なボストンバッグに詰め替えて、音を立てないように部屋を出た。


さっき登ってきた階段とは反対側にある従業員用の階段を掛け下りて、勝手口へと向かった。そこにいた従業員の手を借りて、私は勝手口の前に停まっていた馬車に飛び込んだ。

私が乗り込んだのを確認すると、その馬車は静かに動き出した。




私は揺れる馬車の中で張り詰めていた息を吐き出した。

できる限り詰めてはいたが、運任せの部分もあった。最後の最後、この馬車のドアが閉まるまで本当に気が抜けなかった。今更になって震えだした手をぎゅっと自分の胸に押し当てた。


そう、これは私とミリーと仕組んだあの男から逃れるための計画だったのだ。



あの日、ミリーの部屋で一晩を過ごした日、母やあの人の元へ返りたいと呟いた私に、ミリーが提案してくれたのがこの計画だった。


ウィリアムを落とせば、私の評判は落ちる。そうなると私の身は首都から男の領地に移されるのは確実だった。その途中に事件に巻きこまれ死んだことにすればいいのだとミリーは言った。

あんたが自分で逃走したらお母さんたちがひどい目に遭うかもしれない。でも誰かに拐われ、殺されたとしたら?お母さんたちに疑惑の目が向くこともないだろうし、それなら報復を恐れる心配はないと言ってくれた。


「でもそんなこと、本当に可能なの?」


「あんた一人じゃ無理よ。でもここから北の街道の要所を治めている伯爵の娘が味方に付けば不可能ではないわ」


「要所を……?」


「あんた頭いい癖に鈍いわね。私よ、わ、た、し!ここからあんたの故郷に向かうには必ずうちの領地を通るわ。そこなら手を貸してくれる人はいくらでも手配できる。ご令嬢一人ぐらい拐ってあげるわよ」


「でも、そんなのミリーにメリットがないわ」


「あるわよ。お綺麗な言葉でなくても、カップをどんな持ち方をしても気にしない友人を生涯持てるわ。


歓迎されない環境の中でそこまで自分を磨き上げるのがどんなに大変か、私には想像できないような努力をきっとあんたはしてきたんでしょう?報われたっておかしくはないと私は思うわ。だから私があんたを助けてあげる。

ただし、この話はウィリアムを落とせないと始まらないし、他にも賭けの部分も多いわ。バレたら今より環境は悪化する可能性もある。それでもやる?」


ミリーは真剣な顔で私に聞いてきた。彼女のまっすぐな目が色んなことを諦めて受け入れていた私の心に小さな灯火を付けてくれた。


「ウィリアムがちゃんと婚約者を思っているなら、私はそれを邪魔してまで逃げたいとは思えない。けど、彼が婚約者を蔑ろにする男なら、この計画に乗ってみたいわ」


「決まりね!じゃあまずあいつの観察から始めないとね」


「そうね。彼の人となりを知らなきゃいけないわ」


そうして私たちは逃亡のための計画を始めたのだった。



そして計画を実行し、ウィリアムを落とした後、寮の片付けをした日に最後の計画の確認をした。領地に帰る途中、彼女の家が経営する宿屋の一つに立ち寄り、そこで私は逃げる手筈となっていた。領地へと向かうルートが違えば、宿に寄れなければと、色々不確定な要素があった。不安になってしまった私をミリーはそっと抱き締めてくれたのだった。


それらの不確定要素も乗り越え、私はこうしてミリーが手配してくれた馬車に乗ることができた。行き先は彼女の領地の小さな街だと聞いている。慣れた仕事がいいだろうと住み込みのパン屋の仕事を見つけてあると言ってくれていた。


やがて馬車が止まり、ドアが開いた。懐かしいパンの焼ける匂いが、一気に馬車の中に入ってきた。私は自分で馬車を降り、その先にあったパン屋に入っていった。


「すみません、こちらの仕事を紹介してもらったリリアンと言います」


店の中にいた人に声をかけると、女将さんと名乗ったその人は温かく私を迎え入れてくれた。紹介人から聞いてるわ、住み込みで働いてくれてた子が故郷に帰っちゃって困ってたのよと笑いながら話しかけてくれた。


先に職場の案内だけするわね、と女将さんは私を厨房へと案内してくれた。オーブンの熱がこもるその部屋には女将さんのご主人がいた。


「君がリリアンだね。パン屋で働いたことがあると聞いてるよ。よろしく頼むよ」


「はい。よろしくお願いします」


「紹介してくれたメアリーおばさんの言ってた通りしっかりした子だな。いい子が来てくれてよかったよ」


「本当ね。改めてよろしくねリリアン。この店は私たちとあと一人見習いの子もいるのよ。もうそろそろ買い出しから戻る頃だと思うわ」


そんな話をしていると、ちょうどタイミング良く厨房の奥の勝手口のドアが開いた。「あ、噂をすればね」と言う女将さんにつられ、視線を勝手口に向けた私はそこで見えた光景に体が動かなくなってしまった。


毎日のように会いたいと願った。

彼を想って何度泣いたか分からない。でも、もう声もうまく思い出せなくなっていた。

そんな二度と会えないと思っていた彼が、あの幸せだった日に将来を約束した彼が、間違いなくそこに立っていた。

夢でも見てるのかもしれないと思っていると、勝手口から入ってきた彼は荷物を投げ出して私の方に走ってきた。ご主人と女将さんが驚いた表情をしていたが、彼はそんなことは微塵も気にせずに、立ち尽くす私を抱き締めてきた。


「リリアン、リリアン……!」


ああ、この声だ。

すぐ近くで聞こえてきた声に、私の全身が震えた。

この体温だ。この匂いだ。忘れかけていると思っていた彼の記憶が、心の奥底から水面を目指す泡のようにキラキラと湧き上がってきた。


心が一杯になって言葉が上手く出てこなかった。私は本物の涙を流しながら、言葉の代わりにしがみつくように彼に抱きついた。



私をひとしきり抱き締めたあと、彼はご主人たちに私は故郷で引き裂かれてしまった恋人で、今偶然再会したのだと説明してくれた。

最初は呆気に取られていた二人だったが、泣き続ける私に最後には女将さんも貰い泣きをしながら、こんなことってあるのねと言ってくれた。


積もる話もあるでしょうから今日はもう上がりなさいと女将さんに背を押され、私たちは二人で私が借りる部屋に向かった。部屋には既に荷物が置かれていた。自分の荷物は持ってきたものだけだと思っていた私が不思議そうにそれを見つめていると、「その荷物も含めて全てミリー様の計らいだよ」と彼が教えてくれた。


彼はそこから、彼がここに来た経緯を教えてくれた。ミリーから私に会いたくはないかと書かれた手紙を貰い、私がここに来れない可能性があることを知りつつも、先にこの街に来て働いてくれていたそうだ。


いつだったかミリーにやたら詳しく彼のことを聞かれたことはあった。そのときに確か名前や働いているところの話をしたと思う。

本当とんでもない女だ。あの頃から彼のことまで考えていてくれたのだろうか。私は再び涙が溢れだし、彼の胸を借りてしばらく泣き続けた。



そこからの日々は大変ではあったが、本当に幸せなものだった。豪華なドレスも食事も、きらびやかなものは何もなかったけど、隣に彼がいて、周囲に恵まれ、怖くなるぐらい幸せな生活だった。


生活が落ち着くころには、お忍びで帰ってきたミリーとも会うことができた。「すっかり女の顔になってるわね」と会うなり私をからかってきたミリーを、私はぎゅうぎゅうに抱き締めることで黙らせた。私の恩人かつ親友は、あんたの本来の笑顔が見れてよかったと、また歯を見せながら豪快に笑ってくれた。



「で、あんたら結婚はいつなの?子供は?」


近くのカフェに移動してお茶をしていた最中、本当に現役のご令嬢とは思えない口調で、ニヤニヤしながらミリーが私に聞いてきた。


「結婚はこの一年以内に考えてるわ。そしたら近くの部屋を借りて住む予定よ。子供は……授かり物だし、分からないわ」


「ふーん、そうなの。結婚式には呼んでよね。学園サボってでも来るから」


「もちろん、あんた目掛けてブーケ投げるつもりよ」


「それは楽しみね。あとさ、本当子供の予定も分かったら教えてよね」


「ずいぶん急かすわね。何、ベビーシッターでも雇ってくれる訳?」


「うーん、似たようなものかな。多分パン屋さんで代わりに働いてもくれるし、赤ちゃんの世話も手伝ってくれる人が一人いるんだよ」


「何よそれ。そんな人いるの?」



「いるよ。あんたのお母さんよ」

ミリーは私の目を見つめながらそう言った。


「その頃ならあんたが失踪してから二年は経つし、娘との思い出の残る街から母親が移動したところで不審には思われないでしょう」


ミリーは優しく微笑みながら、私にそう言った。


こういうときだけ綺麗な笑い方するんだから本当にズルいわと思いながら、私は溢れ出てくるままに涙を流した。


「あんたとんでもない女ね」

あの日も思ったことを私は今度は口に出して本人に言ってやった。


「そうでしょ?さすがあんたの親友だと思わない?」


そう返してきたミリーに、私は涙を流しながらも飛びっきりの笑顔を返した。テラス席で泣きながら、でも幸せそうに笑う私たちに周囲は不思議そうな目を向けていた。


でも最高の親友と過ごしていた私は、そんなことはちっとも気にならなかった。


「そうね、さすがは私の大好きな親友ね」

感謝と、愛と、言葉にしきれない沢山の想いを込めて、私はミリーにそう返した。

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