序章・ウィリアム
貴族の会話とは見え透いたお世辞に始まり、善人ぶった笑顔から吐き出される嫌味に終わる。
俺、ウィリアム・カーグスに対して大人たちがにこやかに話しかけてくる内容も大概はこれに沿うものだった。
「これはこれは、どこの美丈夫かと思えばかのお姫様に見初められたカーグス君ではないかね」
肥えた腹を揺らしながら、脂っぽい顔にさも人の良さそうな笑みを浮かべ話しかけてきたこの伯爵もその一人だ。
「その美貌から社交界の白百合と呼ばれたお母様によく似たその端正な顔立ち、いやはや羨ましい限りだよ」
「いえ、私などまだ伯爵のような大人の貫禄がないただの若輩者に過ぎません」
「いやいや、若さこそ財産だよ。しかし同時に儚いものでもある。大切にしたまえよ若者」
暗に顔の良さで持て囃されるのは若い今のうちだけだとでも言いたいのだろうか。中身のない会話に応じながら俺は相手に悟られないよう、心の中で静かに毒を吐いた。
先程の伯爵が嫌味の種に使ったように、俺の外見は正直かなり整っている。母によく似たこの顔は目元を緩やかに細め、そっと口角を上げるだけで、大概のご令嬢たちは頬を染め、嬉しそうに笑みを返してくれる。しかし、俺の外見はそれだけではここまで嫌味を言われるようなものではなかったはずだった。
俺がこれだけの嫌味に晒されているの最大の原因はさっき名前の出てきた『かのお姫様』こと、アマーリア・フランドルにある。
アマーリアは前フランドル侯爵が50歳も過ぎた頃に子爵家出身の若い侍女に手を付け、産ませた庶子だった。アマーリアの母が彼女を身籠ったとき周囲は眉をひそめたが、前侯爵の妻は既に他界しており、また家督も既に彼の一人息子に譲っていたため、最終的にアマーリアは隠居した男の火遊びの結果としてその存在を容認されることとなった。
前侯爵はアマーリアを引き取って共に暮らしはしなかったが、彼女に遺産を残せるように貴族院にアマーリアを彼の庶子として登録をした。それを見逃されたのも、彼の息子であるフランドル侯爵にもすでに嫡男がおり、アマーリアは家督争いには関わらないせいぜい前侯爵の遺産をいくばくか継ぐだけの存在にしかならないだろうと思われていたためだ。
そのときの彼女は決して『お姫様』などと呼ばれる存在ではなかった。母親の生家の子爵家でひっそりと貴族としての最低限の暮らしをしているだけのただの庶子の娘だった。
しかし彼女の運命はアマーリアが8歳のとき、彼女の義兄、フランドル侯爵とその嫡男の乗る馬車が橋から落ち、二人が帰らぬ人となったときから大きく動き始めた。前侯爵の子供は侯爵とアマーリアの二人だけだった。そのためアマーリアはその瞬間から、前フランドル侯爵の血を引く唯一の直系となったのだった。
この国の相続では血の濃さが何より優先される。例え母親が子爵家の娘であっても、彼女が庶子であってもそれは覆らないものであった。そのため子爵家で細々と暮らしていたただの娘が、一気に侯爵家の次代に成り上がったのだった。
そのとき前フランドル侯爵は既に60歳近くであった。彼に残されている時間は限られている。前侯爵の目が黒いうちにと、次代となるアマーリアの婚約者の選定が急ぎ行われることとなった。
今まで貴族らしい生活に縁のなかったアマーリアには付け焼き刃のマナー教育が施された。彼女が何とか人前に立てるようになった頃、侯爵家に彼女と年齢の釣り合う令息が集められ、アマーリアの婚約者を見定めるパーティーが開催された。
そのときアマーリアより5歳年上であった俺も、3歳下の弟と共にそのパーティーに参加させられていた。伯爵家から侯爵家に婿入りできれば十分な玉の輿だ。母親に念入りに着飾られた俺たちは人々の欲望渦巻くそのパーティーへ、履き慣れぬ新品の靴で足を踏み入れた。
『社交界に不馴れな娘にまずは友人を作ってやりたい』、建前はそういう触れ込みのパーティーであったため、上は侯爵家、下は子爵家まで幅広い爵位の子供たちがそこには集められていた。侯爵家の広い庭の一角で前侯爵の足元で何とか立っていたアマーリアの元には、息子を連れた貴族たちが次々と挨拶に訪れていた。
うちは伯爵家の中でも中位ぐらいであるため、挨拶はもう少し後だろうと思いながら俺が適当に軽食を摘まんでいると、ふいに周囲がざわついていることに気が付いた。人の声がする方を振り返ると、中座でもしていたのか、侍女に連れられ邸から庭に戻ってくるアマーリアの姿が見えた。
そのとき初めてしっかりと姿を捕えた彼女の第一印象は、はっきり言って『平凡』に尽きるものだった。ドレスこそ高価なものを着ていたが、中身がそれに全く伴っていなかった。顔立ちも雰囲気も何もかも、彼女は何処にでもいるような少し気弱な低位貴族のご令嬢といった印象だった。
そんなことをつらつらと考えながら彼女に視線をやっていると、不意にバチリと彼女と目が合ってしまった。少し不躾に見すぎたかと思い、視線を外そうとしたその瞬間、アマーリアはそれまで少し強張らせていた表情を綻ばさせ、顔を紅潮させながら俺の方をじっと見つめてきた。
周囲の人間もそのアマーリアの熱っぽい視線に気付き、俺の方に顔を向け出したそのとき、彼女は侍女を振り切り少し足早に俺の方にやってきた。頬を染めた表情は変えぬまま、その日の主役たるお姫様は俺を見上げながらこう言った。
「あの、すみません。お名前を聞いてもいいでしょうか?」
その瞬間、会場の空気が一変した。
今まで前侯爵の横で身を固くするばかりだったアマーリアが自分から、しかもあんな表情で俺に名を問うたのだ。皆が一気に俺の方を見た。好奇心、嫉妬、色々な視線が投げつけられる中、俺は何とか貴族の仮面を着けたまま彼女にこう答えた。
「ウィリアム・カーグスと申します、フランドル侯爵令嬢様。今日はこのような素晴らしいパーティーに参加させていただきありがとうございます」
「ウィリアム……ウィリアム様というのですね」
未だどこか夢心地のような表情でアマーリアは俺の名を繰り返した。そんな彼女の元にやっと侍女が追い付き、前侯爵の元へ彼女を再び案内しようとしたそのとき、人垣が割れてその当人が俺の前に姿を現した。
「どうしたのだねアマーリア。戻りが遅いから心配したよ」
「すいませんお父様。あの……私……」
アマーリアは手を口元に持っていきながら、もじもじとしながら前侯爵に答えていた。その中でアマーリアがちらちらと俺に視線を向けるものだから、前侯爵も必然的に俺に視線を向けてきた。
「アマーリア、こちらの彼は?」
「ウィリアム様です。ウィリアム・カー……えっと」
「ウィリアム・カーグスと申します。初めてお目にかかります、フランドル侯爵」
彼女の言葉を継ぐように、俺は自分の名を名乗った。
隠居していたとはいえかつては侯爵として貴族社会に立っていた人だけあって、前侯爵は威厳のある風格の人物だった。まだ13歳だった俺はそんな彼の前で何とか表情を崩さず立つだけで精一杯だった。
そんな緊張をする俺とアマーリアに交互に目をやった後、前侯爵は表情を少し和らげながら俺にこう言った。
「うちの娘はまだ社交に不慣れでね。良ければ友人になってやってはもらえないかい?彼女も君を気に入っているようだしね」
その瞬間に俺の将来は決定されてしまった。
俺が侯爵家に返せる答えなどイエスのみだし、両親も諸手を挙げて俺のその立場を受け入れた。そのときは『友人』と表現されていたが、何度かアマーリアと顔を合わせると、その名称はすぐ『婚約者』へと変更された。
こうして俺は大勢の前でアマーリアに顔で選ばれた婚約者となったのだった。
そこからずっと社交に出る度、俺はこの容姿についてあからさまな嫌味を投げつけられることになった。一言も喋らぬまま、侯爵家を継ぐアマーリアに見た目だけで見初められたのだ。まるでウィンドウショッピングで買われたお気に入りのお人形さんだなとまで言われた。周囲の嫉妬も含む反応は半ば当然のことだったが、それを向けられる立場に立たされる側としては面白くないことばかりだった。
それに俺がこうして『アマーリア様のお人形』と揶揄されているのに、アマーリア本人はそんなことも露知らず、いつもニコニコと俺を迎え、俺の前で幸せそうに微笑んでいた。
彼女はいつも高価なドレスに身を包み、うちでは買わないような高級な紅茶を惜し気もなく振る舞い、一流のパティスリーから取り寄せたお菓子をテーブルに並べていた。
シロップ漬けに砂糖をまぶしたような甘やかされ、大事にされるお姫様。俺の立場などには気付かず、豪華なお屋敷でぬくぬくと守られているお姫様。
いつしか彼女と会うたびに苛立ち、嫉妬といった黒い感情が俺の腹の中で渦巻くようになっていった。
しかし俺は侯爵家に婿入りする身だ。そんな己の心に何重にも蓋をして、定期的なお茶会には必ず花束を持って行き、常ににこやかに彼女に笑いかけるよう努力していた。
そんな生活を二年も送った頃、高齢だった前侯爵が病気に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。アマーリアは10歳にしてフランドル家直系の最後の人間となった。そこからは常に侍従と侍女が一人は彼女の側に付き、彼女への過保護さはさらに増すこととなった。
前侯爵が亡くなってからも、フランドル家の実務は元から業務に携わっていた親戚や使用人たちが回しているようだった。アマーリアはそれらに関わることなどなく、俺から見る彼女はそれまでと何も変わらず、優雅な立場で幸せそうにニコニコと笑って過ごしているように見えていた。
俺は変わらずお人形と笑われ、教養で少しでも足りぬところがあれば『そんなので侯爵家を支えられるのか?』と嫌味を言われていた。家にいても両親は我が家を継ぐ弟ばかりに関心を寄せ、侯爵家とのパイプとしてしか俺を見ることはなかった。
浴びせられる負の感情、消化しきれない己の気持ち。腹の中に渦巻くものは、日々その黒さと重さを増していっていた。
そんな俺の日々に一つの転機が訪れた。16歳になって貴族の子女が集う学園に入学をしたのだ。
同世代の子供ばかりが集う環境とはいえ、学園も貴族社会の縮図のようなものだ。変わらず嫌味、嫉妬に晒され続けるのだと覚悟をして入学をしたが、その予想は外れることとなった。
『子供のおままごとに付き合わされるなんて大変だな』
『優秀な方なのにお姫様のご機嫌うかがいばかりなんて勿体ないことですわ』
『こんな環境でも努力を続けられているなんてとてもすごいことです』
もちろん予想していたような反応もあったが、俺に対して同情的な反応も少なくなかった。周りは敵ばかりだと思っていた俺は、そこで初めて少し息ができたような気持ちになっていた。
学園が全寮制であり、アマーリアと顔を合わせる機会が減ったのも俺の心を軽くした要因の一つだったと思う。
今までの孤独な環境から抜け出し、気の合う友人も得て、学園で俺は俺らしく生きることを許されたような気持ちになっていた。年相応に笑い、友人と語り、ときにはこっそりと「子守りに嫌気が差す」などと愚痴を言うこともできた。俺はアマーリアに見初められてから初めて、楽しいと思える日々を過ごしていた。
そんな日々の中、俺はある一人の女性と出会った。その女性とはクラスメートの伯爵令嬢のリリアンだった。
俺に接してくるご令嬢の中には、俺の外見だけでちやほやとしてくる子や、アマーリアのことを知りながらも明らかにアプローチをかけてくるような子もいた。
そんな中、彼女は俺の外見など全く気にすることなく、フラットに俺に接してくれた。俺に媚びたり、嫌味を言ったりはしない、成績も優秀で、一人の女性としてピンと背を伸ばして堂々生きる彼女は、俺にとっては少し眩しく見えるような女性だった。
そんな彼女とは普通のクラスメートとして接していたが、その距離感がある日ぐっと近づくこととなった。
その日の放課後、俺は教師に頼まれてリリアンと一緒に授業で使った資料を片付けに行っていた。資料を片付け終わり資料室を出ようとしたとき、隣にいた彼女が足をピタリと止めて、二、三歩後ずさりながら資料室の中へと戻っていった。
いつも凛とした表情をする彼女の顔が少し曇っているように見えたので、俺もつられるように部屋の中に戻った。
「リリアン嬢、何かあったのか?」
俺がそう問うと、彼女は少し答えるのを躊躇うような素振りを見せた。その揺れる肩があまりにも華奢で、俺は思わず手を伸ばしたくなるのをぐっと堪えることとなった。
「質問を変えるよ。何か私にできることはあるかい?」
言いにくいことを聞く趣味はないため、俺は言葉を変えて彼女に問いかけた。すると彼女はいくつか瞬きをした後、意を決したように俺にこう言ってきた。
「腕を……借りてもいいかしら?」
それは予想外の申し出だった。彼女の意図が読めず思わずその瞳をじっと見つめてしまった。
するとリリアンは弱ったように目を軽く伏せ、視線を下に向けたままぽつりと呟いた。
「ごめんなさい、やっぱり大丈夫。貴方にも婚約者がいらっしゃるものね。迷惑はかけられないわ」
「悪いが君は大丈夫には見えない。私の腕ぐらいならいくらでも貸すよ。友人をエスコートするぐらいで何も問題は生じやしないよ」
彼女の意図は分からないままだったけど、何か助けを必要としていることは感じ取れた。そのため俺は半ば強引に彼女の手を取った。
「寮まで送らせてもらってもいいかい?」
俺がそう言うと、リリアンは少し迷った後、どこかホッとしたような表情でコクリと頷いた。
校舎を出て、寮への道を進む途中、人気が減った辺りでリリアンはぽつりと先程の話をしてくれた。
「ある男子生徒に少し付きまとわれているの。普段人のいる時間帯は大丈夫なんだけど、こうして校内に人が減ってくると少し不安になってしまって……ごめんなさい、こんなことに巻き込んでしまって」
「男子寮も同じ方向だから私のことは気にしなくていいいよ。でも大丈夫なのかい?教師に相談は?」
「できないわ。直接何かをされた訳ではないの。少し距離のあるところからじっと見られているだけだから」
「でも、十分怖いことだろう」
そう言った俺の視線の先、腕を貸していたため俺の顔のすぐ真横で彼女はさっきまでの不安そうな表情を一転させ、綻ぶように微笑みながらこう言った。
「だから今日ウィリアム様がいてくれて本当によかった」
それまでも俺は多分彼女に悪くない感情を抱いていたのだと思う。それでもまだ自分を誤魔化し、クラスメートの枠に収められる程度の感情だった。
しかしその笑顔を見たとき、俺の気持ちははっきりと好意の方に傾いた。リリアンを俺が守りたい、自分の心を偽りきれずそう思ってしまった。彼女に恋をした瞬間だった。
そこからリリアンを守るため、不自然でない程度ではあったが彼女と行動を共にするようにした。彼女は最初はしきりに遠慮をしていたが、俺が譲らないのを理解すると、少し困った顔をしながらも「不安だったから嬉しい」と言ってくれた。
休憩時間、放課後、休日、なるべくリリアンと過ごした。普段の彼女は凛としていて、所作も美しく、勉学や経済の話もしっかり成り立つような立派な淑女だった。けれどふとした瞬間に不安そうな表情を見せるとき、そっと俺の上着の裾を摘まんで俺を頼るような仕草をする、そんなところが堪らなく可愛い人だった。リリアンと過ごす日々はこんなにも幸せなことはあるのかと信じられないぐらい満たされた時間だった。
そんな幸せな時間の中でもアマーリアとの二週間に一度のお茶会は継続されていた。ただでさえ乗り気ではなかったお茶会はより憂鬱なものになっていった。はきはきとした聡明なリリアンとは比べるべくもない、ただただニコニコとするだけの甘やかされたお姫様のアマーリア。俺の返事がおざなりになっても、必死に媚びるように笑いかけてるアマーリア。早くこの時間から解放されたい、いつしか俺はそんなことばかりを願うようになっていた。
そんな風に苦痛ながらもアマーリアとも向き合っていたのに、リリアンといることをときに周囲から不義理だの浮気などと言われることもあった。見えない俺の心の内を除いては、俺と彼女はただの親しいクラスメートだ。嫌味をチクチク言われたが、全て友人だと突き返した。
そんなことはありながらもリリアンといる幸せな時間を過ごしていたある日、放課後図書室へ一緒に行く約束をしていたのに彼女の姿が教室に見えないことに俺は気が付いた。彼女は何も言わず約束を反古する人ではないし、荷物も席に残ったままだった。何だか嫌な予感がして俺は校内を走り、彼女を探し回った。
しばらく校内を走り回り、俺の息が完全に上がる頃、中庭の奥の静かなベンチの近くからぐすりと誰かが泣いている声が聞こえてきた。慌てて声の方に駆け寄ると、ベンチの裏側の植木に隠れるようにうずくまっているリリアンの姿を見つけた。
「リリアン嬢……!」
俺が声をかけると、彼女は驚いたようにこちらを振り返った。その目には涙がたまり、頬には幾筋も涙が伝った跡があった。初めて見るリリアンの泣き顔だった。
いつもの凛とした彼女からは考えられないほどボロボロと子供のように泣く彼女の側にそっと近寄ると、そのスカートが大きく破れていることに気が付いた。
俺の驚く表情と視線に気付いたのか、リリアンはさっと体の向きを変え、破れたスカートを俺の視界から隠した。
「それは……まさか例の男が?」
「違うの!これは彼に追いかけられて逃げるときに木の枝に引っかけて破いてしまったの。でも、スカートはこんなだし、また近くにあの人がいる気がして……私……わたしっ」
リリアンの声が途切れ、代わりに涙がポタポタと落ちた。声を殺して泣く姿は余りにも悲しく、また震える肩はあの日見たときより一層華奢で頼りなく見えた。
「リリアン嬢……」
何かを伝えたくて、でも言葉が見つからず名を呼ぶことしかできなかった。でもリリアンはそんな俺の声に顔を上げ、涙に濡れたままの瞳をこちらに向けてくれた。少し赤くなった目元が、場違いだけどやたら色っぽく見えた。俺の心臓がどくりと音を立てて跳ねたとき、はらりと新たに一筋の涙を流したリリアンが俺の名を呼んだ。
「……ウィリアム様」
その瞬間、俺はその衝動のままに彼女を抱き締めた。彼女は驚いたのか一瞬身を固くしたが、すぐに涙を流しながら俺の上着をぎゅっと握りしめてくれた。腕の中にリリアンの体温を感じながら、彼女を守るように、包み込むように、俺は彼女を抱き締め続けた。
しばらくそうしていると、まるで二人を現実に戻すかのように中庭に帰宅を促す鐘の音が鳴り響いた。俺は最後にもう一度リリアンを強く抱き締めてから、彼女を閉じ込めていた腕をそっと緩めた。
「……立てる?」
気恥ずかしさから少し視線を下げたまま、リリアンに手を差し出しながら問いかけた。すると今までは遠慮がちにそっと添えられるだけだった彼女の手が、俺の手をぎゅっと握った。
「ありがとう。立てそうなんだけど、その、スカートが……」
恥ずかしそうに言う彼女に、俺は急いで一旦手を離し、自分の上着を渡した。
「これでも代わりに巻いておいて」
「でも、そんなことしたら上着がしわくちゃになっちゃうわ」
「そんなこと構いやしないよ。さ、使って」
押し付けるように渡すと、リリアンは少し迷いはしたが最終的には俺の上着を使ってくれた。上着を巻き終え、立ち上がった彼女が「ウィリアム様の上着、こんなに大きいのね」なんて言うものだから、俺は思わず再び彼女を抱き締めてしまった。
「……ウィリアム様、いけません、こんなこと」
腕の中のリリアンが少し身を固くしながらそう言った。
「さっきは受け入れてくれたじゃないか」
「私だって受け入れたい。でも貴方には……」
「分かってる。けど気持ちは君しか思っていない。本当だ」
祈るように、想いを込めてリリアンを強く抱き締めると、俺の背に彼女の手がそっと添えられた。この恋が祝福されるものではないことは分かっていた。けれどその瞬間俺の心を満たしていたのは確かに幸福だった。
その後、二人で人目を避けるように教室へと戻り、荷物を回収してギリギリ寮へと戻った。寮の部屋に戻ってからも考えるのはリリアンのことばかりだった。今から思えば、愚かな俺が一番幸せだったのはこのときだったのかもしれなかった。
翌日、少しシワの寄った上着を着て俺はいつも通り学園に登校した。教室に着くと、いつもは俺より先に来ているリリアンの姿が見えないことに気付いた。しばらくしても彼女は教室に姿を現さなかった。隣の席のご令嬢に声をかけると、リリアンは今日は病欠だと教えてくれた。
昨日はあれだけ怖い思いをしたのだ、それも当然かと思い俺はそのことを深刻には捉えていなかった。お見舞いは渡せるだろうかなどと、呑気なことを考えていた。
その日から週末まで彼女の欠席は続いた。すぐにでも会いたいと思っているリリアンには会えずにいたのに、望んでもいないアマーリアからのお茶会のお誘いが来たのは、その週の半ばも過ぎた頃だった。定期以外のお茶会など断りたかったが、思い付く理由がなかった。そのため俺は渋々参加すると返事を返した。
先週訪れたばかりの侯爵家に着いたのは昼下がりの頃だった。いつもの通りテラス席に通されるかと思いきや、その日は応接室に案内された。
重厚な応接室のドアが開くと、そこにはアマーリアといつもの侍従と侍女、そして見知らぬ中年の男が一人いた。
アマーリアの親戚だろうか、と記憶を掘り起こしながらも、勧められるままにソファに腰を掛けた。
そんな風に考え事をしていたせいか、俺は出されたお茶に手をつけるまでその場にあった違和感に全く気付かずにいた。
いつもは俺がどれだけ短い相づちしか打たなくても媚びるようニコニコとしているアマーリアが、その日はにこりとも笑っていなかったのだ。
そのことに俺がやっと気付いたとき、アマーリアが視線を中年の男に向けた。それを受けて、その男が俺に向かって話しかけてきた。
「初めまして、カーグス伯爵令息ウィリアム様。私はフランドル家の仕事に携わっております法律家のグラークと申します」
なぜ法律家がアマーリアとのお茶会にいるのか、状況が全く理解できていなかった俺に、アマーリアの侍従がおもむろに声をかけてきた。
「本日はカーグス伯爵令息様とアマーリア様の婚約解消をするため、立会人としてグラーク氏にいらしていただきました」
婚約解消。
意味が分からず俺は思わずアマーリアに視線を向けた。いつも「ウィリアム様と過ごせて幸せです」とアマーリアは微笑んでいた。彼女は俺に惚れきっている。きっとそんなことを望んでいないはずだと思っていた。
しかしそんな俺の愚かな期待を打ち砕くかのように、視線の先にいたのは今まで俺に見せたことのない毅然とした態度のアマーリアだった。どろどろとシロップ漬けのように甘やかされた、俺に盲目的に恋をしているお姫様はどこにもいなかった。
「言葉の通りですウィリアム様。四年間も貴方の時間を拘束してしまって申し訳ございません」
「アマーリア、一体なぜ?」
「理由はアマーリア様から語らなければいけませんか?」
アマーリアに問うたはずなのに、答えを返してきたのは鋭い視線を隠そうともしない彼女の侍従だった。その態度に、俺はリリアンとのことが知られていると一瞬にして理解した。
「質問の回答は不要のようですね」
顔色を悪くした俺をチラリと見て、アマーリアは淡々とそう答えた。そして法律家に視線をやり、彼が取り出した書面を俺に見せながらこう言った。
「私たちは私の年齢が足りず正式に書面を介した婚約はしておりませんでしたが、実質的には婚約者同士でした。そのため、念のため婚約解消の書面にサインをお願いします」
そこには綺麗な筆跡でアマーリアのサインが入った婚約解消の書面があった。話が急すぎて俺は正直付いていけていなかった。ペンを持ったまま固まる俺に法律家がそっと声をかけてきた。
「申し上げにくいのですが、今週のカーグス伯爵令息様の行動は多くの方からお話を伺っております。本来ならば婚約破棄の後、慰謝料の話まで出てもおかしくはありません。しかしアマーリア様がこの婚約は自分の意見が強く反映されたものだったとお気遣い下さっております。色々お考えはございますでしょうが、このままサインされることをお薦めいたします」
俺を気遣うような言葉を並べていたが、法律家の目も笑ってはいなかった。リリアンのことは知っている、これは恩情であり慰謝料を払いたくなくばさっさとサインをしろ、端的に言うとそう言われていた。
あんなにアマーリアとの関係を嫌だと思っていた癖に、目の前に婚約解消の書面を突きつけられると一気に戸惑い、恐怖のような感情が俺の中に浮かび上がってきた。俺は大変な間違いをしてしまったのかもしれない、そう思ったが今更気付いたところでできることなど何もなかった。
俺は侍従や法律家の厳しい視線に促されるまま、震える手で書面にサインをした。
「カーグス伯爵家とは既に話がついております。今後の話は私が代理人として伺いますので何かございましたらカーグス伯爵より私にご連絡をお願いします」
書面を片付けながら法律家がそう言うと、待っていたとばかりに使用人がやって来て俺に退室するよう促してきた。ここに来て30分も経たない間の出来事だった。四年間の婚約のあまりに呆気ない最後に、俺は思わずすがるようにアマーリアに視線を向けた。
そこにいたのはいつの間にか子供から少女へと変わろうとしている小さな淑女だった。まだ線の細い、小さな体は記憶のままであったが、その表情は侯爵家の名を小さな背に背負って立とうとしている女性のものであった。
俺がお姫様と侮っていたアマーリアはどこにもいなかった。
「ウィリアム様、どうぞお慕いされる方とお幸せに」
一瞬だけ泣きそうな顔をしたが、すぐにそれさえも消し、ピンと背を伸ばしたままアマーリアはそう言った。そんな彼女に返す言葉が見つからないまま、俺は応接室から追い出された。
そこから一応報告をしなければならないと思い、寮ではなく実家へと戻った。使用人に帰宅を告げると、すぐ両親から呼び出された。
父はこれからの事業に影響が出るとぐちぐちと言い、母はあれ以上の縁談などないのに何が不満だったのと嘆いた。
そこに俺の意思など何もなかった。
「お言葉ですが父上、母上、俺は人形ではないのです。心があり、人を好きにもなります」
リリアンへの恋心は間違いなく俺のものだった。誰に強制されたものでもない、俺の心が生み出した感情だった。
今まで言いなりになってきた不満をぶつけるように、俺は強くそう言った。
しかしそんな俺に父が返した言葉は、余りにも冷酷な言葉だった。
「そんなことは知っている。しかしそれを理性で押し殺すのが貴族だ。お前の心が何を考えていようがいい。しかしそれを通すなら、それなりの手順と手間をかけねばならない。人に見られるところでどこぞの娘を抱き締めるなど論外のことだ」
「それは確かに俺の落ち度です。しかし俺はずっとアマーリアに拘束され、やりたくもない彼女のお守りを強制されてきたのです」
「それがどうしたと言うのだ?ならお前は自分からアマーリア様との婚約を解消しようと何か動いたのか?何もしなかった癖に不満を言いつつも婚約者の椅子に座り続け、その上で他所の女に手を出していただけだろう」
「ですが……皆だって俺の環境は大変だって言ってくれました」
「皆?お前をアマーリア様の婚約者から引きずり下ろしたい奴らの甘言のことを言っているのか?お前どれだけの人間があの方の婚約者の座を未だに狙っているか理解していなかったのか?」
冷めた目の父にそう言われ、俺は殴られたような衝撃を受けていた。俺を思いやって、同情してくれた人たちが、裏では俺を裏切っていたと言いたいのだろうか?
思わず黙ってしまった俺に父は淡々と続けた。
「お前が例の娘を抱き締めたのが五日前だと聞く。そしてうちに向こうのお抱え法律家がやって来たのが三日前だ。お前学園でも子守りは懲り懲りだとか文句を言っていたそうだな。それも含めて侯爵家に報告する者たちが多くいたのだろう。全て筒抜けだったぞ。
それであってもアマーリア様は今まで周囲のお前が婚約者として不適格だという声を抑えようとしてくれていたそうだ。しかし他所の娘に手を出したと聞かされ、折れざるを得なくなったそうだ。ウィリアム、お前の気持ちが他にあるなら婚約を続けることはできないと判断されたそうだ」
父の言葉に俺は目の前が真っ暗になっていた。穏やかで、楽しい日々だと思っていたのは俺だけで、周囲は俺の粗を探すために近寄って、密告するための愚痴を吐かせるために親密になっていたと言うことなのだろうか。
顔を伏せ、完全に沈黙した俺に、父はこう言った。
「こうなってはもう仕方がない。せめてその娘は娶ってやれ。彼女も侯爵家の縁談を潰したとあってはもう他に生きる道はないだろう。うちの領地内で仕事はくれてやる。今からでも卒業してからでもどちらでもいい、臣下として二人で生きるがいい」
それだけを言うと、両親は俺を置いて部屋から去っていった。そうだ、俺がこうして話を聞かされたということは、リリアンの身にも何かが起こっている可能性が高かった。そのまま家にいることができなかったのもあるが、俺は急ぎ寮へと帰った。週末の間、何とかリリアンと連絡を取ろうと手紙を託したりしたが彼女から返事が来るとこはなかった。そのまま週明けまで、寮の部屋で不安に苛まれながら時間を過ごした。
翌週、父の言うことにも間違いがあるのではないかと一縷の望みをかけながら俺は学園に登校した。しかし教室に入ると、皆がちらりと俺に視線を向けたが、先週まで親しくしていた誰もが俺に声をかけることなくそのまま俺に背を向けた。俺ににこやかに話しかけてきていたご令嬢も、気安く肩を叩いてきた友人も、遠巻きに俺を見て何かを言っていたが、俺に声をかけてくることはなかった。
俺は父の言葉が正しかったこと、そして自分が愚かであったことをその空気の中痛感していた。
そんな教室の中で、リリアンはどうなったのか俺はかなり不安になっていた。その日も彼女は教室に姿を現さなかったし、相変わらず手紙の返事もなかった。もしや彼女の身に何かが起こっているのではと不安に思いながら数日過ごしたある日、たまに俺にちくちくとお小言を言ってきていた一人の令息がこっそりと声をかけてきた。
「リリアン嬢はもう学園を退学していて、近々領地に戻されるという話だよ。侯爵家の婚約を潰してしまったんだ、このままもう社交界には出てこないと思うよ」
彼はそれだけを言うとさっさと去っていこうとした。俺は思わず彼を引き留め、こう聞いてしまった。
「どうして俺にそのことを?」
「明らかな悪意で他人の足を引っ張る人間は好きではないんだ。それにはまったとは言え、不義理をした君のことも好きではない。けど、君は彼女の末路を知っておくべきだと思ったからだ。もちろん彼女にも非はあるだろうけどね」
それだけを冷たく言うと、彼は今度こそ背を向けて去っていった。
リリアンに会わなければならない、そう思って学園に通い続けていたが、それが叶わないとなるとこの環境はただ責苦が続くだけのものだった。親しいと信じていた友人が、好意的に俺に話しかけてきていたご令嬢が、今や俺とリリアンを遠巻きに嘲り笑う存在となっていた。婚約者の座に胡座をかいていた愚かな男、浮気の末捨てられた男、情けない男に引っ掛かり将来を棒に振った女、色々な噂、嘲笑が俺に聞こえるところで囁かれた。
父の今からでも領地に引っ込んでもいいという言葉は、さっさと追い払うという意味ではなく、俺に施された優しさであったことに今更ながらに気付いた。
学園を卒業しなければ社交界には出られない。しかしこのまま卒業したとしてもその世界に俺の居場所があるとは思えなかった。考えた結果、俺は父の言葉に甘えることとした。
馬車に揺られ、最低限の荷物と共に俺は領地へと続く道を進んでいた。長い旅路の中で、俺は自分のしてきたことを思い返していた。
結局俺はないものばかりを見つめて、自分は恵まれていないと癇癪を起こしていたただの子供だったのだと思った。侯爵家の次代に見初められながら、俺自身を見られていないと不満に思っていた。しかしアマーリアに、周囲に自分を見せる努力もしなかった。
リリアンに好意を抱いても、アマーリアのことを何もせず、ただ彼女を手にしようとしただけだった。戸惑っていた彼女を抱き寄せ、独りよがりの恋に勝手に酔っていただけだった。
自分の愚かさで彼女たちを傷つけてしまった。
せめて自分ができることで償いを行いたいと思った。しかし中流の伯爵家を支えるただの男になる俺はアマーリアに手紙一つ送ることができない立場になっていた。
そしてリリアン。彼女にも無力な俺は何もすることができなかった。
なぜなら彼女は領地へと戻される途中で、殺されて帰らぬ人となってしまったからだ。