妄想稽古
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
おお、こーちゃん、まだ起きているのかい? 相変わらずの執筆仕事のようだね。大変にお疲れ様だ。でも、もう丑三つ時すら過ぎ去ろうって時間帯だぞ。老婆心ながら、身体のためにも少しは眠った方がいいと思うがね。
一日の時間には限りがある。必然、24時間ぶっ通しでやり続けても、こなせる量には限りがあるもんだ。体力も無尽蔵に消費できるわけじゃないからね。効率も落ちる。そいつは手直しを必要とする、無駄な作業になりかねない。
若いうちはなまじっか無理が利くせいで、休むタイミングを失っちゃう。「かつてはこんだけやれた。今回もこれ以上にできるはず。できなきゃ、自分が手を抜いているんだ」とばかりに、力の右肩上がりを心のどこかで信じてしまうのさ。そのしわ寄せがすぐにやってこないから、なおさらね
おじさんも昔はくだらないことに、全精力を注いであたっていたが、ある体験をきっかけに力のセーブを考えるようになったんだ。こーちゃんのネタになるといいんだけど。
おじさんは若い頃、周囲からの期待もあって剣道を習っていた。当初はいやいやだったんだが、同期に入った子がめきめき力を伸ばしてきて、これはいけないと感じたんだよね。
自分とスタートラインを同じくする相手って、親近感が湧くせいもあると思うが、どうにも、自分と互角な存在であり続けて欲しいって気がしないかい?
おじさんもそんな気持ちを持っていた。内心、彼とは同じくらいの力のまま、ずっと行くのだろうなという、漠然とした希望的観測があったんだ。でも、ここにきてはっきりとした開きを見せられて、一瞬、頭が真っ白になった。いつでもこの手で触れることができていた愛玩動物が、無理矢理、遠い場所へ置かれたかのような感覚だった。無意識に、自分の方が優れていると、思っていたこともあるのだろう。
今ひとつ稽古に身が入らなくなったおじさんに、師範が声をかける。
「誰にでも自分にふさわしい成長の早さがある。君は君にあった歩みを続け、重ねていきなさい」
聞いた当初こそ感じ入り、心の支えとした言葉だった。しかし二ヶ月が経っても、いまだ基礎の素振りと足さばきを完全に身につけられていないおじさんに対し、彼はすでに検定を受けて級位を得ていた。
防具をつけて、先輩達と打ち合う彼と、道場の隅でこれまでとほぼ同じ動きを続けるおじさん。口に出さなくても、他の人からの蔑みの視線を感じるようになってきた。自分よりも劣るものを目にして楽になる、心の保養だ。
その見え透いた意図が面白くないおじさんは、同期の彼と先輩たちに勝る何かを身につけようと考えたよ。そちらが見下すなら、こちらからもそちらを徹底的に軽視してやると、なんとも後ろ向きな感情でね。
先生はそれから、誰よりも早く道場に来て掃除を済ませると、準備運動前に素振りをするようになった。もともと、掃除をする時は形だけ、素振りも準備運動以外ではほとんどしない、という連中だ。同期の彼だってそうだったように見えた。
誰よりも基礎をしっかりと、数を重ねる。その実践と自覚を持って、あいつらを見下してやろうと先生は思ったんだ。当然、自己満足の範疇で、血肉になるかどうかは別問題。
暑さが日ごとに増してくる陽気だ。胴着姿のおじさんでさえ汗をダラダラかき、手ぬぐいで拭ったところからは、垢がぼろぼろとこぼれ落ちるほどだった。防具を着けて打ち込んでいる皆の苦労は推して知るべしだろうが、そんな彼らにも負けないものが、おじさんにはあるんだ。
もう何ヶ月、基礎練習ばかりを続けてきただろうか。師範からは防具をつけた練習を何度も薦められたが、なんのかんので断り続け、もくもくと竹刀を振り続けるおじさん。皆が休んでいる時でも、絶えず道場の縁をたどるようにすり足の練習。またもうっとおしそうな目で見てくる連中だったが、もはやその視線に傷つくおじさんではなかった。
――どんな理由があろうが、今のてめえらはサボり。俺はやっている。その差はどうやったって埋まらないんだよ。怠け者の嫌悪など、みじめなだけだわ。
スッスッ、スッスッとこれ見よがしに、足さばきの練習。もうおじさんの中では上達などどうでも良くなっていた。ただ他の連中の誰よりも練習をしている――と、思い込める――自分に酔いしれたかったのさ。
一度依存しちまうと、そこから抜け出すのは辛いことこの上ない。おじさんは自然、稽古のない日の早朝、学校帰りと時間が許す限り竹刀を持ち出し、家の近くの公園で素振りをするようになった。
――こうしている一本一本が、あいつらに差をつけているんだ。防具をつけてたたき合うだけのあいつらの何倍も、俺の方が練習している。俺が本当の実力者なのさ。
ぐっと握り込んだ左手が痛み出す。正確な本数など、とっくに数えていなかった。身体の悲鳴を無視して、もう一本、もう一本と食い下がるように振っていく。親はおじさんの姿を見て「熱心に練習をして……」と感心すらした。むしろ、どんどんやれとすすめてくるくらいだ。
やがて、ただ振るだけということにつまらなさを覚え始めるおじさん。想像の中で連中を自分の竹刀で叩きのめすようにしたんだ。形だけはご立派な面打ち、小手打ち、胴打ち……あたかも奴らが目の前に立っているように思い、打ち込んでいく。
実際、稽古をしている奴らの表情は面がね越しかつ、距離があることもあってはっきりと確認できているわけじゃない。それでも疲れや痛み、師範たちからのしごきによって、くたびれている姿だけは、ずっとこの目で見てきた。
おじさんはまぶたの奥から、連中の無様を思い浮かべる。その中で奴らを打ちのめす師範達の視線と自分を重ねて、一方的に叩きのめしたんだ。
これがはまる。最高のストレス解消だ。何せ、相手はこちらに打たれるがままのサンドバックなのだから。あまりに凝り過ぎたためか、稽古の時以上に汗を流してしまい、家に帰るとすぐにシャワーを浴びて服を着替えなくてはならないほどだった。
もはや道場での稽古は、連中がへばりながらもしごかれる、そのきつさにあえぐ姿を見る劇場のごとき機会と化していた。相変わらず、基礎練習から抜けようとしないおじさんに、師範は何度か声をかけてきた。
「もう、それ以上は君に必要ない。無駄に汗を流すことはないから、次へ進みなさい」と。
だが、妄想稽古の心地よさのとりこになっていたおじさんは、聞く耳を持たなかった。
回数を重ねるたび、打ちのめしている実感も欲しくなる。おじさんは公園の隅にある鉄棒や、生えている木の枝で試してみるが、どうにもその感触は生の肉体をぶっ叩いているとは思えない。実際、目にしていて正体が鉄なり樹木なり、無意識に理解してしまうこともあるのだろう。
想像力を増し、記憶の中からいっそう鮮やかにかき立てるため、おじさんは目を閉じる。先日、連続の面を打ち込んで、気にくわない先輩のひとりを壁に叩きつけた、師範代の動き。その一切を再現しようと、竹刀を構える。
目の前には疲労を隠しきれず、肩を震わせながら息をしている先輩。そのゆるい打ち込みが迫ってくる。おじさんは師範代の動きを真似て竹刀を擦り上げ、それをいなす。
すかさず返し。裂帛の気合いと共に、真っ向から竹刀が先輩の面がねに打ち下ろされた。まともに動けないあいつは体当たりを受けて、そのままたたらを踏みつつ後ずさり。意図せず、また間合いが開く。そこを更に打った。
二本目、三本目、四本目……怒濤の足運びによる連続の面打ちが、もう先輩がほとんどのけぞった姿勢になっても、止むことはない。竹刀とそれを通じて伝わってくる手応えを必死に想像する。
感じる。両手に走る確かな手応え。俺の剣はあいつをとらえているんだ。
そして仕上げ。イメージの中の最後の一押しが、あいつを壁へ叩きつける。同時におじさんの顔の前で「ガシャン」とフェンスにぶつかる音が。
公園の一方はすぐアパートになっている。その敷地との間はフェンスで区切られていたから、それだろうと検討がついた。おじさんはふっと目を開ける。
おじさんの竹刀の先は、フェンスの網目の間にかかっていたが、それより驚いたことがある。フェンスとおじさんに挟まれたわずかな空間に、竹刀を頭部に打ち込まれた状態の何かが刺さっていたんだ。
一見、湿った粘土に思えた。おじさんとほぼ同じ体格をしているそれは、目をつぶる直前まで、確かにその場になかったもの。そしておじさんは想像しながらも、実際に動き続けてここまでたどり着いていたんだ。
――あの打ち込みをしている途中、誰かがこの人形を置いた。それに気づかず、手応えがあると思って体当たりし、打ち込み続けて、ここまで運んできた……のか?
めりこんでいた竹刀を外すと、粘土人形はぼろぼろと崩れていく。まさに細切れとなって落ちていく様は、先生の身体から落ちる垢を思わせた。だが、それだけにとどまらない。
人形の中からは、大量の液体が吹き出てきた。おじさんの身体を濡らし、あっという間に地面にも広がって水たまりを作っていくそれは、独特の臭いを放っている。
汗だ。おじさんがあの妄想稽古のたび、全身にかき、服をぐっしょりと濡らす液体。あの臭いにそっくりだったんだ。人形は完全に崩れるまで汗を拭き出し続けて、おじさんの目鼻を塞ぎにかかる。たまらず、背を向けて逃げ出したよ。
けど、あの汗のしぶきは、おじさんが公園を逃げ出すまでの間、ずっとおじさんの背中を濡らし続けていたんだ。まるでおじさんを責め立てているかのようだった。
服を着替えて現場に戻った時には、もう垢人形も汗の洪水も残っていなかったよ。
あの垢と汗。師範の言葉を借りれば、おじさんが無為に流してきたものだったのかもしれない。それがあんな形で集まって、妄想ばかりに無駄な熱をあげるおじさんを叱り飛ばしたんじゃなかろうかと思っているんだ。




