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プロローグ その日、先輩が死んだ。前編

 人生は往々にして真っ白なキャンバスに例えられる。生きるということは好きな色の絵の具を手にキャンバスを彩り、人生という作品を完成させることに意味があると考えた、恵まれた、また満たされた気持ちで日々を送る有識者によって例えられたものだろう。


 けれど、僕は思うのだ。手元に色とりどりの絵の具を用意することができない人もいるだろう。そうした貧しい人は目の前に広がる真っ白なキャンバスに色を染めていくだけで精一杯で、塗り終えた作品は一辺倒な面白味のない色合いになるだろう。大きなパレットを用意できなかった人は次第にキャパシティを超えた絵の具が隣の色と混ざり合い、キャンバスは明度を落としていく。暗く淀んでいく色彩に、気が付けばキャンバスの余白はなくなり、取り返しのつかなくなった頃には作品を投げ出したくなるまで追い込まれている。


 だから、僕は人生をキャンバスに例えて欲しくない。だって、不公平じゃないか。渡される道具に差があってはならないし、やり直す機会だって用意されてしかるべきだ。試行錯誤の末に納得のいく作品は創られる。時には立ち止まり、時には投げ出すことだって許されるべきなのだ。

そういう意味では僕は恵まれた人生に立っているのだろう。


 大きなパレットに色とりどりの絵の具、太さや硬さの異なる幾つかの筆に色ノリの良い上質なキャンバス。それを目の前にするのは南向きの大きな窓から陽の光をこれでもかと取り込んだ少し古びてはいるものの広い木造の教室。


 これが僕を取り巻く環境。僕のまだ色を混ぜている段階に過ぎない人生を送る美術部の部室である。木造の古くなったこの旧校舎の二階の美術室では、僕と先輩の二人が毎日のようにキャンバスに筆を走らせている。


「おや、もう来ていたのか」


 扉を軋ませ、すりガラスをガタガタと鳴らして姿を現したのが、この美術部のもう一人の部員であり、部長である先輩だ。一つ上の先輩である彼女は頭の後ろで縛り上げた長い黒髪を揺らす。艶やかな髪がこの部屋に充満する埃に反射した光を浴びて漆塗りのように輝くので僕はそれにいつものように見惚れてしまっていた。


「相変わらず君は熱心だな。まだ二時間目だというのに」

「それは先輩もですよね」

「その通りだ。授業なんて退屈なものを大人しく受けてやる義理はあの小林にはないからな」

「小林って、古典の小林先生ですか。あの先生の授業は僕も苦手ですね」

「そうだろう。面白くもない自己満足の小話のために何度私の安眠が妨害されたことか。おまけに試験だけはきっちり難しい設問を用意してくる意地の悪さだ。その労力の一割でもいいから授業内容の向上に割いてほしいものだ」

「先輩に関しては内容が良くても聞く気は微塵もないでしょう」

「それとこれとは別の話だよ。第一、私はあの小林の値踏みするような目つきが好きではないからな」


 先輩は教科書も入れていないのだろう、見るからに軽い鞄を教室の隅に放り捨て、描きかけの自分のキャンバスの前の中学生が夏休みの自由工作で作ったような安っぽい木の椅子に腰掛けた。キャンバスを前に袖をまくり、透き通るような色白い細腕を覗かせる。筆を手に取った先輩の顔は先ほどまでの無愛想で不機嫌そうな表情とはかけ離れた、一つしか僕と年が違わないとは到底思えない大人びた顔つきに変わるのだった。


 絵は描き手の心象を映し出すという。明るい時に筆を取れば、キャンバスに乗せられる色は暖色が多くなる。沈んだ時には寒色、怒ってるときには彩度が強く、楽しい時には光度が強く。絵と向き合う度に変わっていく配色が混ざり合い、新たな世界をキャンバスに創り上げる。


 絵になるとはこのことだろう。先輩は今、絵と一体になっているのだ。


「どうだ。今日の空は」

「そうですね。昨日よりも雲が多いですけど、奥の方に積乱雲が見えますから、夏の空にはやっぱりあの天高く伸びていく雲がないと、夏の高い空が映えませんよ」

「確かにその通りだ。夏の風物詩、あの雲がなければ空の絵を見ても誰も季節が夏だとは思わないだろうからね。しかし、君がその絵を描き始めたのは春じゃなかったかな?」

「そういう先輩は去年の秋からずっとキャンバスを変えていませんよ」

「ああ、そうだったか。もう随分と長い間この絵と向き合っていたのか」


 先輩も僕も、キャンバスの先に見据えるのは大きな窓から見える夏の高い空であった。数年前に海を埋め立てて作られた空港から飛び立った飛行機が一筋の人工雲を青空に描いて見せた。刻一刻と変わっていく空をキャンバスに収めようと僕らは世界と向き合い続けているのだ。


「この空も、そろそろ完成させてなきゃいけないのだろうな」


 そう呟いた先輩の顔は少し寂しそうだった。


 僕がここに通うようになったのは去年の春、丁度、新校舎の前が新入部員の勧誘で躍起になってた頃だった。絵を描くことだけが好きだった僕は中学時代と同じように美術部に入ろうと考えていた。同級生の友達も皆そうしていたから僕はそれが自然なことのように思えたし、建物が新しくなった美術室の備品はどれも綺麗で道具に困ることはないだろうと、整った環境に思えたからだ。


 けれど、一つ気がかりだったのはその美術室が後者の北側に位置した教室であることだった。僕が描きたいのは空の絵だ。それも南向きの、陽の光を一身に浴びる輝きを含んだ空が描きたかった。朝焼けも夕焼けも、快晴も曇天も、この町の空はどうしても海に面した南の空が綺麗だったのだ。だから、美術部の見学を早々に切り上げ、南の空に臨む僕の絵に適した教室を探し始めた。


 教室の一番南、廊下の突き当りに辿りつた僕はそこから見える古びた校舎の存在に気が付いた。西側の正門から入ったのでは気が付かない奥に追いやられたその木造の建物は立ち入り禁止の札が張られていたのだけれど、どうにも誰かが頻繁に出入りしているような痕跡を見つけて、僕は恐る恐る中に立ち入ってみたのだ。


 侵入者を見つけたかったわけじゃない。ただその僕とは違う侵入者が遺した侵入経路を使わせてもらっただけで、その何者かの正体に興味がなかったわけではないけど、真なる目的は空を描き出す場所を探すことだった。


 軋む廊下は所々穴が空いていて、埃の被った床は少し黒ずんでいた。かびの匂いがツンと鼻の奥をくすぐり、あまり気分の良い場所ではないように思えた。そんな廊下には埃の上に残された足跡が点々と、校舎の奥、南の方へと繋がっていたので、どうやら僕は図らずも先客の侵入者さんと同じ目的地に向かっているらしい。


 怖いもの見たさの好奇心を抱えながら僕はその足跡に倣うように色あせた廊下を進んでいく。足跡は廊下の突き当りまで至ると左手、校舎の東側に設置された階段を上っていった。この古い建物の上階に上がるというのは少し危険な気がしたのだが、前例が目の前にあるわけで、加えて空を描くならば高い方が良い気がしたので、躊躇いがちに一段一段確かめるように僕は階段を踏みしめていった。


 二階の廊下では、その足跡は迷うことなく左へと折れる。それを追って僕も視線を南に向けてみると、先ほどまで薄暗かった校舎内とは異なる、吹っ切れたような明るさに包まれていた。


 美術室と書かれた木の板が傾きながらも扉の上に掛かっていた。足跡はその教室の奥へと続いており、どうやら本当に最後まで目的地が同じだったことに一抹の運命を感じながら僕は躊躇うことなく扉に手をかけ、ガタガタと不格好な音をたてながら中へと入っていったのだ。


 そこで出会ったのが先輩だった。今よりも埃っぽい教室は陽の光を浴びてまるで深海に見られるマリンスノーが降るような、いや、季節的には桜の花びらが舞い踊っているかのような、とにかくその時の僕にはその時の美術室がとても幻想的に見え、その中心に座っていたのが先輩だったのだから、一目で見惚れてしまうのは無理もないことだった。


 それから僕は先輩と一緒にこの部屋で空を書き続けている。図らずも、先輩と僕は描きたいものが全く同じだったこともあり、気難しい性格ではあったのだけれど先輩はすぐに僕に気を許してくれるようになっていた。


 そうして出会った頃から先輩が絵を完成させ、新しいキャンバスを取り出した瞬間を目撃したのは一度しかなかった。先輩は絵を完成させることを絵との別れだと考えているようで描き上がりそうになるといつも寂しそうな顔をするのだ。


「先輩は、今年受験生ですよね」

「ああ、その話しはやめてくれ。毎日、耳にタコができるほどに聞き飽きた話題だ」

「ですよね」

「私はこうして絵を描いていられれば幸せなんだ。進学だの、就職だの、社会が無理やり押し付けてくる普通の生き方には反吐が出るほど興味がない。使わない古典だとか、終わった歴史だとか、学ぶ必要性を感じない学問に優劣を付けて、どうしてそいつの人生を評価できるというのか。私には生きにくい世の中だ。生存は許されようとも、自身の欲を抑えて生きているのなら歩く屍と変わらないだろう」

「絵だけを描いていたいのは僕も同意ですけどね」

「そうだろう。好きなことだけして生きていきたい。そんな単純明快なたった一つの慎ましい我欲すら許されないのだから、生きづらいはずだ」

「先輩は難しく考えすぎですよ。そうだ、美大に進学するのはどうですか。そうしたら、絵だけを描いていけますよ」

「美大か。しかし、課題とかがあるんだろう。描きたくないものを描かかなければ、絵を続けられないのだろうか」

「言われてみれば、そうですね。好きなことをするには、どこかで苦労しなきゃいけないんでしょうか。なんだかそれが当たり前のことのように社会は語るけど、どうにもおかしな話ですよね」


 好きなことをすることと嫌いなことをすること。両者は裏と表で対ではあるのだけれど、それらは引き換えではないと思うのだ。好きなことだけして生きていくことは許されない悪行ではないだろうし、嫌いなことをすれば好きなことができるというわけでもないだろうし、どこかで苦労している人間が楽をしている人間を不平等だと引きずりおろす、やっかみから生まれた考えのようにも思えた。


「社会は才人を疎ましく思うのさ。大多数の凡人たちには成し得ない偉業の成就を支援するなど、恨めしさ妬ましさの怨恨を生むばかりで全体主義には何の利もない方針でしかないのだろう」

「僕は自分を才人とまでは言いませんけどね」

「いいや、君も才人さ。少なくとも、凡人は代わり映えしない同じ空を半年も描き続けることはできないさ。それも、誰かに評価されるわけでもなく、ただこの朽ちゆく校舎に埋もれていくだけの景色を描くことはね」

「いやいや、そんな。誰でもできますよ」


 そんな僕の謙遜に先輩は呆れ顔を浮かべて、ため息交じりに止めていた筆を再び動かし始めた。先輩は社会性という名の重力に縛られたくないのだろう。空に焦がれたら飛んでいきたいし、星が煌めけば掴み取りたいし、自分の欲求を何かに妨げられることに対しての並々ならぬ嫌悪感を社会に対して抱いているんだろう。


 理解できないわけじゃないし、同じ苦悩を抱いていないわけじゃない。けれど、僕は先輩程自分に自信を持っているわけじゃないし、この重力に抵抗できるだけの羽を持っていないのだから、こうして空を見上げて綺麗だなあと感嘆の声を上げるのが丁度いいのだ。


 そうして会話も途切れた僕らは黙々と同じ空を見上げてキャンバスに色を乗せていく。この心地よい空間は無重力だ。体は軽く、走る筆に空気抵抗なんか感じられない。学校でも自宅でも、十代の僕に求められるのは勉学に励めという画一化された評価基準。教科書や参考書に押しつぶされた心をこの空間では元通りに膨らませることができる。そうして僕は僕の形を何とか保ち、日々を逃げるように過ごしている。将来の安定とか、最終学歴とか、生涯年収とか、社会におけるステータスの一切から目を背ける今日という日はこの上なく僕に幸福を与えてくれる。


 けれど、いつかはこの日々を捨てて、社会に降伏しなければならない日が来るのだろう。逃げるということはいつか追い詰められるということだ。その期限が先輩には迫っている。自由の剥奪。与えられる選択肢は、進学か就職の二つに一つ。大学が選べるとか、企業が選べるとか、そんな選択肢を自由だと謳うから僕は窮屈な道で不自由を嘆くのだ。


「このまま、いつまでもこの時間が続けばいいのに」


 進めば進むほど、未知は狭くなっていく。大学に行けば、学ぶ分野が狭くなる。可能性を切り捨てて、悔やんでも悔やみきれない選択の連続の果てのどん詰まりでやりたくもない仕事に就くしかない。


 それなら立ち止まっていたいじゃないか。前になんか進みたいと思わないじゃないか。それでも先を行く大人たちが手招きし、手を引き、立ち止まることを許さない。


「……そうだな」


 社会の束縛が先輩が先輩足るための絵を奪うのなら、卒業は個性の絞首台のようなものだろう。

半年後には先輩はいなくなる。その喪失は僕にどんな変化を与えてくるのだろうか。


 想像もつかなかった。だって、先輩はそこに居て一緒に空の絵を描いて、それは当たり前のことでそこに居るのが当然の景色で、僕の日常には先輩が不可欠になっていたから。


 流れる雲が止まらないように、暮れる空が赤らむように、僕が目を逸らし立ち止まっても時間は慈悲も容赦もなく流れて行く。この先どうなるかなんて僕には皆目見当もつかないのだけれど、それでもこの陽だまりの美術室で描いた空模様がいつも快晴だから悪いようにはならないだろうと、そんな根拠のない確信を持っているのだ。


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