離別
それは毒であった。
身体の管を巡り、臓物の、骨髄の、皮膚の隅まで染み渡る甘い、甘い毒であった。
その言葉は私を骨抜きにする。愛した人に求められる事がこんなにも心に響くとは思いもしなかった。
充満した毒がこの場の時を止めていた。
嗚呼、すまない。
怪物としての私は喜びと同時に感じてしまうのだ。
何とも言い難い、拒絶を。
私の妻ならば、このような事は言わない。
そう言った妄言の類ではない。私の胸に広がる毒の甘さに抗うかのように激しく燃え始めた何かがある。
その焔を、私は飲み込んだ。
心に毒の蝕む感触と焔に燻られる感触を感じながら、ただ真っ直ぐに妻、いや私を選んだ「女」を見つめた。
―――羅刹をその尻目に捉えながらも私は何もしなかった。する気もなかった。
ここで焔をその身に宿すべきは羅刹であるから。
「唯子さん、それは…どういう事ですか」
會澤君の声は震えていた。
「…ごめんなさい」
唯子の声もまた震えていた。
だが、唯子の双眸は羅刹を捉えていた。
震えながらも、雫を湛えながらも、唯子は己の決断を曲げる意志を見せなかった。
「……」
血走った目で羅刹は「女」と見つめ合った。
「……ハハ」
乾いた笑いだった。血走った眼をそのままに、眉間に刻み込んだ皺をそのままに、器用に口角だけを釣り上げて笑った。
「……ハハハハッ」
羅刹は笑った。寸劇を見たかのように。
「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」
羅刹は笑った。侮蔑、後悔、狂気、憎悪、様々な黒い感情達を束ねて、笑った。
禍々しいその姿を私も唯子もただただ見つめる他無かった。
「ああ、愉快、御二人もさぞ愉快でしょう。唯子さん、大丈夫、騙されたなんて言いませんよ。夫婦元鞘、収まる所に収まった。良い。素晴らしいじゃないですか。僕はその為の踏み台で、都合の良い当て馬で、間男で、それで良いんでしょう?」
「それでハッピーエンド」
「くだらねえよ」
「くだらねえつってんだよ!何がもう一度チャンスをくださいだよ!巫山戯るなよ!」
「夫が愛してくれない、貴方は私を愛してくれるだの散々囁いて、いざとなったらポイッてか?」
「てめえは遊び気分でも俺はマジだったんだよ!ただでさえ上司の嫁で、恋心押し潰して、だってのに向こうから寄ってきて!!」
「何もかもかなぐり捨てて!!気に入らねぇ上司にざまあみろって思いながら!てめえを抱いて!!」
「それで、ちょっと優しくされたらそっちが良いとか冗談キツすぎんだろ…」
彼は、固く握りしめたその拳を遂に振り上げなかった。それは彼なりの意地の表れなのかもしれない。俯いたその体制から表情は伺えなかったが、机に落ちる雫が全てを物語っていた。
唯子は全てを受け止めた。そしてまた、小さく謝るのだった。會澤君はそれを聞いた上で無視した。彼が求めるのは謝罪でも、贖罪でも無いだろう。だが、それを知って尚、唯子は謝罪を告げた。そうするしか無かった。
私は沈黙を貫いた。これは私の問題ではない。唯子がつけるべきケジメだ。あのような身勝手で、振り回したことへの贖罪の断片だ。静かに愛する人の業を受け止めた。
會澤君は黙って立ち上がった。
「井垣さん、俺あんたが大っ嫌いでした。何もかも全部分かってるって面して、友情、愛情、絆なんて馬鹿げてるとでも言いたげなその目が、死ぬ程嫌いでした」
それは、それだけは違う。私は何も分かっちゃいない。私は何時だって臆病だ。場の空気を乱すことを恐れ、愛している事にも、愛されている事にも確証を持てず、友人と断言する事に度胸がいる人間だ。
だが、それを告げるには至らなかった。
この場で私が會澤君に弁明する事など一つも無かった。
だから私は扉に手を掛けた彼に一言だけ投げかける。
「すまない」
静かにゆっくりと扉が會澤君を隠していった。
お久しぶりです。河蓧です。1ヶ月程空いてしまい申し訳ないです。忙しい時期を乗りこえたので、頑張って完結を目指します。
あ、あと今後語ることがない上に會澤君目線だと誤解が生まれるので言いますが、唯子が會澤君と関わりを持ち始めた時は上司の妻と部下という関係がハッキリとありました。会合を重ねる度に愛情に飢えていた唯子と愛情に駆られた會澤が引かれ会って行ったのが正解です。一方的ではないです。