怪物と鏡
沈黙はとても長かったようにも、とても短かったようにも感じた。重たい空気を肺に入れる。まるで世界が止まってくれたかのようだった。
けれども、この世界は何時だって残酷だった。止まったままでなど、居させてくれない。
妻がこの部屋に入ってきた。その目は赤く腫れていて、私もこんな風なのかなと思うと恥じらいを覚えた。すまない、こんな情けない夫で、父親で。
妻はほんの僅かな時間だけ、私の顔を見つめた。その顔は間違いなく驚愕に染っていた。それ以降、妻は顔を合わせることは無く、椅子を引いた。
つまらない事だが、ああ、本当に些細な事だ。
私は哀しみを抑えきれない。苦しさを隠しきれない。歯痒さを、憤りを、憎しみを。幾多の感情がないまぜになった感情が雫となって落ちる。
ああ、そうか君はもう、隣には座ってくれないのか。
今迄の幸せを、日常を壊される恐怖を知った。しかしそれはきっと序章に過ぎなくて。きっとこれから色んなものが粉砕されていくに違いなくて。この苦しみが続く事を知ってまた、机が濡れていく。
それを見た彼等、そう、唯子と會澤君はまた、分かりやすく驚いてみせた。どうしてそんなにも驚く。巫山戯るな。怪物にも心はあったのだ。父親に徹せない愚かな私にも、御することの出来ない昂りがあったのだ。
「ああ、すまない。私は、いや、大丈夫ではない。大丈夫ではないけど、話せる。…うん。そうだ。話そう。あの子が帰る前に」
きっと口から出たその震えた言葉は自分に言い聞かせる為の物だった。どうしようも無く、お前は父なのだと言い聞かせて、心を、昂りを抑えるための鎖だった。
唯子は口を噤んだままだった。下を向き続けたままでいた。彼女は、こんなにもしおらしかっただろうか。ああそうか。私のせいか。私が、泣いたせいか。彼女は何時だって元気だった。笑顔に溢れていた。
笑顔ばかりで疲れないかと尋ねれば、「自然となってるんだから疲れるわけないでしょ!」と笑い飛ばすような彼女。
辛い事や不満があれば何でも言ってくれと言えば「この笑顔見りゃわかるっしょ!」と背中を叩く彼女。
彼女への愛を自覚したから言えることだけれど、私は彼女に笑顔でいて欲しかった。だから、傲慢にも程があるし、自分の意思を押し付ける最低な男で嫌気がするけれど、そんな顔など見たくなかった。
「―――では率直に言います。唯子さんと別れて下さい。僕が唯子さんを幸せにします」
その言葉は私を糾弾していたのだろう。お前では唯子を幸せになど出来ない。出来ないならば唯子が可哀想だろう。ならば、オレが貰っても構わないよなと。
我が思慮ながらここまで悪意を以て解釈するかと嘲笑う。
…大丈夫だ。私は今、夫ではない。分かっている。
「君の意見は今必要無い。其れに関して重要なのは…唯子さんの意志だ。我々の意思で彼女の感情を縛っては…いけないんだ」
名前を呼ばれた彼女はビクリと身体を震わせた。それが嫌悪を表してか、疎外感か、単なる驚きか、知る由も無かった。
會澤君はまた、感情を昂らせているようだった。彼は、誰だってそうだけれど、自分の意見が真っ向から否定される事を嫌う。もっと、君みたいに上手いことが言えるような、出来た男になりたかったと思ったことは一度や二度ではない。
「井垣さん!貴方には人の心ってモノがないんですかッ!彼女がどんな気持ちで今迄――
「もうやめて!!!」
やっと口を開いた彼女から飛び出したのは余りにも刺々しい言葉だった。興奮して何時から立ち上がっていた會澤君も、私も驚いていた。彼女の怒鳴り声とも、金切り声とも取れるその声も私は知らなかった。
「もうやめて…。私が…私が、いけなかったの。勝手に不安になって、勝手に強がって、勝手に、そう勝手に貴方を疑ったりした、私が…」
その言葉の最中も彼女は顔を上げなかった。
そうか。私は彼女を不安にさせていたのか。
そうか。私は彼女に気を張らせてしまったのか。
そうか。私は彼女に疑われるような事をしたのか。
そうか。彼女は私に何も伝えてくれなかったのか。
頬に違和感があった。
また涙が伝ったのだと、気が付くのに少し時間が必要だった。
嫌に響き始めた音で思い出した。
そう言えば今日は雨が降ると言っていた。