第三話「いまはもういない」
第三話「いまはもういない」
結婚をしてすぐに子どもがあやのお腹にいることがわかった。まさか、ぼくが風太はおろか昴より早く結婚するとは思わなかった。風太と昴には、さんざんできちゃった結婚じゃないのか、といじられたけれどそんなことは全くなかった。本当に偶然だった。
当時は、社会に出て三年ほどだったため、貯金はそこそこしかなかった。そのため、結婚式は挙式だけのささやかなものにした。ぼくはささやかなほうがよかったし、あやも、そのようだった。それから約十カ月後に、蒼が産まれた。蒼はちっちゃいおちんちんをぶら下げて、この世に生を受けた。蒼を抱いて、初めに抱いた感想は、マンガみたいに泣くのだな、と思った。蒼が生まれた年に、ぼくは英語も話せないのに海外出張に行くことになった。結婚、出産、海外出張が重なり、昴と風太と自然に連絡を取らなくなっていった。
彼らと連絡が取りづらくなった理由は、他にもあった。ぼくが地元のエンジニア関連の会社に勤めていて残業が膨大だったのも理由だし、風太が奈良旅行をきっかけに旅行を趣味にして、そのきっかけから旅行会社に勤め国内を中心に飛び回っていたのも理由だし、昴は研修医になりぼく以上に膨大な仕事量だったのも理由だった。とにかく、みんな地元の友人と顔を合わせる暇もないほど忙しくなってしまった。それは大人になったということでもあるのだろう。年に一回、顔を合わせられればマシという日々が続いていた。しかし、ぼくの結婚、出産、出張が重なって、それも難しくなった。
子どもが生まれ、妻ができたことで、ぼく自身の中で、大きな変化――革命みたいなものが、生まれるかと思ったが、全くそんなことはなかった。もちろん、責任感みたいなものは生まれ、仕事にも前向きに取り組めるようになった。給料をあげるために、情報系の資格をいくつか取った。でもそれでも、劇的な変化は訪れなかった。期待していたわけではなかったが、あれこんなものか、みたいな呆気なさがあった。それはまるで、童貞を捨てたときに誰もが感じる感覚に似ているような気がした。そう思ってしまうぼくは異常なのだろうか、と怖くなって、海外出張前に会社の上司に相談をしたりするが、上司は、そんなもんじゃないかな、と答え、ぼくはその答えに安心を抱く。
海外出張は三ヶ月間だった。出張先はインドだ。わざわざインドに来てまで、しなくてもいいようなことをするためにぼくはインドにやってきた。それが仕事いうものだろうと諦めにも似た思いを抱き、インドの地を踏む。子どもの頃に嗅いだような匂いがインドの地にはあった。砂ぼこりの匂いとかになぜか懐かしさがあった。現地の案内をするインド人はアリさんという名前だった。ぼくはインド人の勝手なイメージを、細い人と想像していた。それはきっと、ぼくが知っている有名なインド人はガンジーだったからだ。しかし、アリさんは、随分と骨太だった。黄色と茶色のチェックのシャツか、ボーダーのポロシャツを毎日交互に着ていた。ズボンは、同じジーンズだった。アリさんは、ぼくのことを滝川さんと呼んだ。アリさんは、日本語が上手だった。多分最近の大学生より、丁寧な日本語を彼はしゃべることができた。アリさんは、四十歳くらいに見えたが、実際は、五十一歳だと聞いて驚いた。十歳ほど若く見えるぐらいにアリさんは、若々しくエネルギッシュに溢れていた。アリさんは、インド支社の責任者でもあった。業務に就く前に、インドのオフィスを案内された。百台ほどのパソコンデスクがずらりと並んで作業する様子は、日本とさほど変わりがない。違うのは、そこに座るほとんどの人がインド人であること、飛び交う言語が英語だということだった。見学の途中、アリさんが現地の社員に指示している様子を見ることができた。英語の苦手なぼくは何言っているかわからない部分はあったが、プログラムのことはある程度は理解できた。アリさんの支持は的確で発想力があり、頭の回転の速さを感じた。
出張している日本人スタッフは、ぼくを含めて十五人ほどだった。慣れないインドで、集まった日本人同士は結束が固かった。ぼくは仕事のことだけでなく、英語のことやインドのことを現地の先輩に教えられた。三ヶ月も毎日のように英語を話せば、流石のぼくも中学生で習うレベルの英語が話せるようになった。それをアリさんに言うと、「日本人は、中学、高校、大学で英語を学ぶのでしょう? それなのに話せないなんてオカシイですね。ジャパニーズジョークですか」とからかわれた。
インド人は仕事の考え方も時間の考え方もルーズというか寛容というかゆとりというか、とにかく日本人とは全く異なっていた。まず、遅刻する人が毎日のようにいた。日本だったら、遅刻は、非常に悪とされる文化だ。それをアリさんに伝えるとアリさんは、盛大に笑う。
「日本の人は、遅刻に怒るのに、ナンデ残業はいっぱいするのですか? 残業は怒られないのに遅刻は怒るってオカシイですね。ジャパニーズジョークですか」とまたもからかわれた。
「ときには残業でも怒られますよ」
「遅刻しても残業しても、怒られますか。大変ですね。滝川さんインド人になった方がいいですよ」
たしかに、とぼくはぐうの音もでない。日本はどこか残業することを美化する風潮がある。ぼくらの上の世代が、残業でこの日本を作ってきたとほざくが、ぼくはそんなのは知らないと思う。インドに来てから、ぼくは仕事を毎日定時で上がった。日本にいるときは会社から残業してはいけないと命令されている以外の日は、ほとんど残業をしていた。なぜ、帰ることができるようになったかと言えば、オフィスの風土だ。インドオフィスは定時になるとみんなが一斉に帰る。もちろん、インド人、日本人関係なくだ。日本のオフィスだと、定時に誰かが立ち上がることはほとんどない。立ち上がったとしても、なぜか申し訳なさが湧き上がるし、定時で帰ることを揶揄する老害もいる。そんな思いを抱くくらいなら、パソコンをカタカタやっていた方が気が楽だと思っていた。けれど、やっぱり残業せずに定時で帰る方が気が楽だった。それをあやに伝える。
あやとは、スカイプでビデオ通話をして、連絡を取り合った。蒼は寝ているらしく、ベビーベッドの中で静まり返っている。
「よかったじゃん。定時で上がれるようになって」あやは、笑顔を見せる。彼女はぼくがインドに来てから笑顔が増えたように思う。出産が終わりひと段落したのが理由だろうか。あやは、少し太ったように見えるが、それに関してぼくはなにも言わない。もしそんなことを言った日には、今後十年は恨まれると思った方がいい。
「そうだけどさ、日本に帰ったら、また残業かと思うと気が重いよ」
「残業やらなければいいんじゃない」
「そうしたら、給料とか会社での立場とかいろいろあるじゃん」
「気にしなければいいんじゃない」
「いや気にするだろ」
「そう?」
「そうだよ。これから蒼を育てていかなくてはならないしさ、今の基本給だけでは立ち行かないじゃん。やっぱり残業することで収入を増やすしかないよ」
「でも、それどうなの? 残業でライフスタイルを作るってオカシイよね。会社として恥ずかしくないのかな。自分の社員が、残業で稼がないと生活が苦しいってさ、アホじゃん」あやは、いつになく辛辣だ。いつも辛辣な口調ではあるが、今日はそれにも増して、辛辣だった。「そりゃある程度の残業はいいよ。三十分とかならそんなこともあるだろうと思う。でも、やっぱり毎日四時間とかはやっぱムカつくよ。家族との時間はあるべきだよ」
そこであやが怒っている理由が理解できた。日本にいるときのぼくは残業続きで、あやと向き合う時間がなかった。新婚だから、もっと一緒にいる時間が欲しいと彼女は言ったが、ぼくは仕事の疲れからその思いに向き合うことができなかった。それを理由にケンカすることもあった。インドに来てから、定時で上がれるようになり、仕事が終わった後に時間を持て余していたぼくは、あやと話す時間に余暇を費やしていた。あやの笑顔が増えた理由は、もしかして、ぼくが彼女と過ごす時間を増やすことができるようになったからかもしれない。
「うん、ごめんね」ぼくはモヤモヤの全てに対して謝る。
「いや、幸志郎が謝ることじゃなくない。御社の社長なり上司が、私に直々に謝るべき案件かと」
「むちゃくちゃ言うなあ」
ベッドで眠っていた蒼が泣き出した。あやは、蒼を連れてきて、カメラに映す。生まれてすぐに出張になってしまったため、父親の自覚なんてものはあまりなく、どうやって子どもと接するべきかわからなかった。父親という重圧を感じることが苦しかったぼくは、正直インドに出張になってよかったと思っていた。もし、あやの前でそんなことをうっかり口に出そうものなら、ぼくはインドに骨をうずめることになるだろう。だから、そんなことは口にはしなかった。蒼のぐずりが、抑えられなくなったあやは、テレビ電話を切断した。その瞬間、ぼくはインドに一人で来たことを実感していた。
休日。アリさんが、インドを観光するためぼくをいろんなところに連れていってくれた。電車に乗るために、ぼくはアリさんと駅に向かった。本当なら、同僚の佐藤も行くはずだった。今朝、佐藤を呼びに行くと、行く意味を感じないから行きたくないと言った。アリさんの好意で連れていってくれるんだから、とぼくは佐藤を説得するが、佐藤は好意に応える必要はどこにもないとにべもなく言う。ぼくは佐藤に腹が立ち、説得することは諦める。アリさんには、佐藤は体調を崩したと伝えた。
佐藤とは、配属された部署も同じ、入社した年も年齢も同じだったが、ウマが合わなかった。考え方でどうしてもぶつかってしまうことが度々あった。佐藤は、理屈で動くため、敵を作ってしまいやすいことがあった。感情より、理屈で動く方が、会社としては利益に繋がることの方が多いかもしれない。しかし、実際に働く上で、他社との和というのは、重要な要素だった。日本人は何よりも重んじていると言ってもいいだろう。でもそれはインド人も同じように思えたから、世界共通なのかもしれない。
アリさんに連れられて、タージマハル行きの電車に乗る。インド人たちが密集していて、嗅いだことのない匂いにクラクラした。タージマハルへは三時間ほどかかった。アリさんは日本人スタッフをインド観光するのが好きなのだと語った。日本人はインド人のように気楽に過ごした方がいいとも語っていた。
タージマハルでまず驚いたことは、インド人の入場料と外国人の入場料の違いだ。外国人はインド人の二十倍ほども値段が高い。不平等だなと思いながらも、ぼくは入場料を支払い、進む。写真で見たことのあるタージマハルは、写真からは感じることのできなかった空気を放っていた。澄んだ空気を胸いっぱい吸い込み、どこか体が洗われるような感覚があった。息を呑むほどの美しい白さに目を奪われる。タージマハルの中に進むと、日本人観光客がいた。ツアー客のようだった。ぼくはツアーを先導しているスタッフに見覚えがあった。
風太だった。仕事の真っ最中であったから、声を掛けようか迷っていると風太は、現地の通訳と思しき人に案内を変わったようだった。こっそり後ろから近づいて話しかける。
「おい、風太」
「はあ? 幸志郎……?」風太は顎が外れんばかりの大口を開く。「何やってんだよこんなところで。ここはインドだぞ。生まれたばかりの赤ちゃん置いて、観光か?」
「違うよ。インドにいま出張してんだよ」
「おお、マジか。出張とかかっけえなオイ」何がカッコイイのかわからない。インドでも風太は風太だし、社会に出ても風太は相変わらず風太だった。
「風太はなんで、インドにいるんだ」
「おれは、たまに海外行きたいって会社に要望だしたら通っちゃってインドだよ」
「あれ風太、英語しゃべれるの?」
「イエスとオッケーって言えば何とかなる」
「いや無理でしょ」
「がんばったんだよ。おれは昔から母ちゃんにやればできる子って言われてた男だぜ」
風太と話すとここがインドだろうが、お構いなしで学生の頃の空気になってしまう。そのまま話していたかったが、風太のお客さんの目もありその場を辞去する。
「彼は友達ですか」アリさんに訊かれた。
「そうですね」
「いいですね。インドで出会うなんて君たちはとても仲良しです」
アリさんはなぜかぼくより嬉しそうだ。タージマハルは風太と会ったという衝撃がでかすぎて、帰国した後はタージマハルでのことは、風太と会ったこと以外ほとんど覚えていなかった。
アリさんに連れられて、レストランで食事を取った。食事が出てくるまでアリさんと会話して過ごしていると、レストラン内を五、六歳の男の子が二人で走り回っているのが気になった。その子どもたちの親と思しき人物は何も気にしていないようだった。アリさんも店の中にいるインド人も特に気にしていない様子だった。顔をしかめていたのは、その店でぼくだけだった。
「どうしました。滝川さん」アリさんは自分の眉間を指差す。ぼくの眉間に皺が寄っているよ、ということらしい。
「いや、あの――」
「もしかして、子どもたちが走っているのが気になるんじゃないですか」
「あ、はい」
「ははは、日本人いつも気にします。インドには、こんな言葉があります。人には迷惑をかけて生きるものだから、他者に対しても寛容でいなさい。だから、インド人は子どもたちが誰かに迷惑かけても、許します。日本人は、他人を許さないっていう気持ちが強いみたいですね。人に許されないから、迷惑をかけちゃいけないってがんばって苦しくなって、みんな疲れた顔しています」
たしかにそうだ。毎日のように、誰かが誰かの発言を見張っている。テレビに出ている芸能人や政治家が少しでも過激な発言をすれば、その真意がどうであれ、世論は謝罪を要求する。謝罪をするまでは許さないし、謝罪をしたとしても許さないこともある。何年にも渡って、犯罪者のような扱いを受ける人もいる。中には、たしかに糾弾されてもおかしくない人もいるだろうが、そうじゃない人もいる。テレビがそういった題材を面白可笑しく扱うからか、一般人の発言も炎上することがある。SNSでの、ポロっと発した一言に火が点いて拡散する。日本人は、迷惑をかけてはいけない風土の中で育って生きてきたし、これからも生きていくだろう。迷惑をかけた人間がいたとき、迷惑をかけた誰かを攻撃し平伏させないことには、気が済まないという風潮になってきているのだろう。インドに来て数日だが、糾弾や悪意のある言葉が聞こえていなかった。どことなく心が軽くなっていたことに気づく。
「だから、滝川さんも、あの子たちのこと許してあげてください」アリさんは、屈託のない人懐っこい笑顔を見せた。
ぼくはインド人の考え方が、自分の体に染み込んでいくような感覚があった。「わかりました。インド人の方は、やさしいんですね」
「ありがとうございます。嬉しいですね。でも滝川さんもやさしいですよ」
アリさんはぼくをやさしいと評したが、なにをもってそんな風に思ったのか、わからなかった。
アリさんと電車に乗って、社宅のあるニューデリーに戻った。アリさんはマーケットに寄り、フルーツを買った。家族のために買ったとアリさんは語った。社宅まで、駅からアリさんの車で送ってもらった。佐藤が腹痛で倒れていると思ったアリさんは、マーケットで買ったフルーツをぼくに渡し、「佐藤さんに食べさせてあげて下さい」と気遣った。
佐藤にアリさんからのフルーツを渡すが、「いやおれフルーツ嫌いだから」と断った。腹が立ったが、アリさんの言った――他者に寛容でいる、という言葉を思い出し堪えた。
佐藤はその後、本当に体調を崩し帰国して、挙句の果てに会社を辞めた。ぼくはそれをアリさんと食事に行かなったせいなのではないかと半ば本気で思った。
ぼくはインドでの三ヶ月を過ごす間、アリさんの言っていた言葉を思い出して、仕事で起こる辛いことを我慢した。インドに来て、人生観が変わりはしなかったが、ストレスに対して耐性が強くなった。日本に帰国する際、アリさんは、空港までぼくを送ってくれた。
「また、インドに来てくださいね。滝川さん」
「はい。アリさんも日本に来て下さい」
「行きますよ。もちろんです」アリさんは涙ながらに言う。涙もろい人だ。三ヶ月しか滞在していないぼくのために泣くなんて、と思っているとぼくも自然に涙が出てくる。アリさんと仕事できたことは、ぼくの中で深い部分を占めることになった。それはいつしか、誇りみたいなものに変わるが、このときはまだそんなことになるとは思っていなかった。
日本に帰国して、ぼくは五キロほど太った。やっぱり日本食が一番だ。そんなに太った理由は、日本食が恋しかったというのもあるが、爆発的にあやの料理の腕が上達していたのが一番の理由だった。あやは、蒼が生まれて、料理を上手くならなければと思ったらしく、料理教室を複数通いつめ、料理の楽しさに目覚め、いつか料理教室を始めたいのだと語った。それはインドにいるときから耳にしていたが、話半分で聞いていた。出張前に食べた、あやの料理は散々な出来であったからだ。あの腕前の料理人が、料理上手になるのであれば、世界など簡単に変わることができて、争いのない世界が生まれると思った。あやが料理上手になったということ、それはつまり、世界は変わったということの表れだ。ぼくはこの新しい世界を受け入れる。
三ヶ月ぶりに見る蒼は、ぷっくぷくのほっぺたになっていた。そのほっぺは世界で一番かわいいほっぺだった。生まれた瞬間は猿っぽい顔だったため、え、かわいくない、と思ったが、いまはもうただの天使だった。愛されるためにこの子は生まれてきたのだと思った。インドに行ったことで、他者に対して寛容になることができるようになったように感じていたぼくは、自分の赤ん坊に対して寛容になりすぎ、ただただ溺愛した。
日本に帰国して、昴と風太におみやげを渡すために、集まることを呼びかけた。しかし、二人とも時間が合わず、買ってきたおみやげは、賞味期限が切れる前にぼくとあやで食べてしまった。二人に会えないことが寂しいと感じなかったのは、あやと蒼の存在が大きかった。
蒼がつかまり立ちができるようになったころ、ぼくは仕事で残業が増えすぎていわゆる過労死ラインである八十時間を超えることが多くなった。アリさんがいるインドのあの平和な環境で仕事をすることが恋しかった。しかし、インドには蒼もあやもいないから行くことは難しかった。
ときおり移動時間すら惜しく、睡眠時間を確保するために、会社で眠ることもあった。そのせいか、あやは、浮気を疑ってきたことがあった。ぼくは浮気するほど女性好きではなかったし甲斐性もないし、何より家族のために働いているというのに、なんでそんなことを言われなくてはならないのかが、不思議だった。だから、ぼくは不満を露にした。しかし、それ以上にあやの不満の方が強かった。なんで、子どもとの時間を大事にしないのか、と言われぼくは反論することができなかった。
家族のために働きながら、家族を大事にできていなかったということに気づいたぼくは、上司に残業を減らしてほしいと告げる。しかし、上司はおれも辛いんだからお前も我慢しろ、とぼくの意見を突っぱねた。お前だけ甘いこと言うんじゃない、説教する時間も惜しいといいながら、ネチネチ一時間説教された。ぼくは心身ともにボロボロになったぼくは家に帰るなり、玄関に転がった。あやが心配してくれたため、ぼくは心の内をさらけ出した。会社のダメな所、上司が残業を良しとする風土など、不満点をぶちまける。
「え、じゃあ、辞めたら?」あやはなんでもないことのように言う。
「それはダメだろ」
「なんで?」
「お金とか……ほら、食っていけなくなるじゃんか」
「でも今の会社いても生きていけなくなりそうだから、仕事変えたらってこと。生きていけなくなるよりいいじゃん」
「でも結構いま、残業代で稼げてるよ? 収入減ってもいいの?」
「残業でライフスタイル作るよりはいいと思う。残業しないで、それぐらい稼げる仕事につけばいいんだよ」
「そんな仕事なかなかないよ。スキルもないし」
「スキルは身につければいいんだよ」
「……その身につける時間がないから大変なんだけど」
「へえ、時間ないのに、スマホゲームのキャラクタのスキルレベルは上げれるんだ?」
「現実世界のスキル上げは、結構難しくってですね……あの」
「あの、なに?」あやの視線に射抜かれ、ぼくは言い訳の言葉をかなたまでぶん投げる。
「すみません」
「素直でよろしい」
ぼくは退職することになった。次の就職先が決まると退職届を出すと上司はネチネチ言ったが、ここで退職届を出さずに、あやにネチネチ言われる方が、怖い。有休消化で十日間休むことになった。その間、あやには日頃、家事と子育てをしてもらっているため、手持ち無沙汰になったぼくはその役目を担う。残業で家事と子育てを手伝う暇がなかったが、一人で子どもを見ながら家事をすることは、はっきり言って大変だった。こんなに大変であれば、残業していた方がマシなのではとさえ思った。こんな大変なことを毎日愚痴も言わず、こなすあやに対して、感謝の念しか湧かない。
「いつもありがとう」とあやに声をかけるが、あやは「何に対して言ってるの」と疑問を口にする。
「家事と育児に対してだよ」
「ああ、そんなことか。大変だと思ってないから全然いいよ。幸志郎と蒼くん以外のためじゃなかったら、ぜっっったいにやらないけどね」
満面の笑みであやは言う。そんな風に笑うあやは、いつのまにか、しっかりと母親になっていると感じた。ぼくはまだ本当の意味で父親になっていないと思った。仕事を変える今だからこそ、父親らしい父親にならないといけないと思う。
仕事を変える際に、ぼくとあやが重視したのは、休みと残業のないことだった。そして見つけたのが、町の情報誌を発行している会社だった。そこでは、前職の経験を活かし、ホームページの担当者になった。前職は、ぼくのパソコンスキルは下から数えた方が早いぐらいのレベルであったが、いまの職場の中では、ぼくは上位といってもいいほどだった。給料は前職の三分の二ほどだったが、休みが週休三日制であった。週休三日で休みながら、ぼくは家事、育児を手伝いつつスキルアップのために、情報関係の資格の勉強を始めた。あやは、ぼくが家事、育児を変わってあげられるようになったことで、やりたかったことである料理教室のために動き出した。料理教室を始めるのに、特別な資格はいらないようだった。だが、あやは色々な資格を取得した。野菜ソムリエだとか、食育インストラクターとか、食に関わるものは片っ端から取得していった。
あやは資格を取ると額に入れて飾る。ぼくは、あやが資格を取るペースに負けていられないと資格を取った。しかし、あやの集中力、やる気はすさまじく、ぼくが一つ資格を取ると彼女は二つの資格を取った。あやは余裕の笑みで、一つ資格を取ったら幸志郎の好きなゲーム買っていいよ、とご褒美という名のニンジンをぶら下げてきて、ぼくは必死に資格を取る。二年後、気づくとぼくは、仕事、趣味、家庭、どれもが充実した時間を過ごしていた。あやはもしかしたら、ぼくを操っていたのではないだろうかと思う。ぼくが資格を取っている横で、彼女はぽんぽん資格を取ることで、ぼくのやる気を促していたのだろうと思う。そうすることで、ぼくが燃える人間だと知っている彼女なら、やりかねない。まんまとあやの思惑にはまったぼくは目標にしていた資格のほとんどを取ってしまっていた。
おなじくあやも目ぼしい資格を取ってしまっていた。そして彼女はそのスキルを駆使して、料理教室を開くことになった。あやの料理教室のホームページはぼくが作った。あやの発注は、細かく大変ではあったが、プロが作ったホームページみたいな出来になってぼくは自信が付いた。あやは、ぼくがホームページを作るときに、ぼくのためにホームページを作る会社を作った。
「こうしておけば、ホームページ作成の依頼がくるかもよ」とあやは、人差し指と親指で輪っかを作り、金の亡者みたいな笑みを浮かべる。
「なにその笑顔。怖いよ。そう上手くいくかな」ぼくは疑問を口にする。
「上手くいくって、ちゃんとやれば」あやは信じて疑わないような口調でそう言った。
始めの内は、ぼくが口にしたように、ホームページの依頼はなかった。しかし、あやの料理教室が繁盛し数年後、依頼がくるようになった。あやの料理教室に通っていた生徒が、料理教室を開くために、ぼくに依頼するようになった。あやの料理教室に通うほとんどの人が、ホームページを通じての申し込みであったため、生徒があやのホームページみたいなものを作ってほしいと依頼するという循環が生まれていた。
それはあやの料理教室のコンセプト「料理が楽しくてたまらないものに思えるように」が伝わった結果なのかもしれない。あやのマネジメント力はすさまじい。あやの料理教室はたちまち話題になり、ぼくの本業である町の情報誌に度々掲載され、客足が途絶えることはなかった。
あやの快進撃はとどまることを知らなかった。生徒からの要望で、料理本を作ることになった。それを聞いて、電子書籍の自費出版はお金がかからないことを知っていたぼくは、電子書籍で自費出版することを提案した。あやに料理本の内容とレイアウトを指示され、電子書籍の作成などはぼくが行った。電子書籍は一冊百円以下で発行した。あやは、料理本の第二作、第三作と意欲的に作成した。三作めを発行するころ、ぼくの会社の社長を通じて、とある出版社から、料理本を発行することが決まった。
ぼくが前の会社を辞めて五年が経ち、本業、料理教室、ホームページ作成と三つの仕事が重なり、滝川家の収入は、過労死ラインで残業していたころより、はるかに良くなっていた。
ぼくたちは、上手く行き過ぎるほど上手く行き過ぎていた。
あやもぼくも成長していく横で、それ以上の成長を見せていたのは、蒼だった。ハイハイができるようになって、つかまり立ちができるようになって、一人で立つことができるようになって、歩くことができるようになって、ぐんぐん成長する蒼に負けられないという思いで、ぼくもあやも資格取得をがんばれたのではないかと思う。蒼は、成長することで、両親を応援していたのではないかとさえ思う。蒼のおかげで、ぼくたちのいまの生活がある。
蒼は、活発な男の子に育った。部屋で遊ぶより、外で遊ぶことを好んだ。この辺りは、あやの遺伝子を受け継いでいると思う。蒼は年長児になってすぐに、ランドセルを欲しがった。少し早いだろうと思ったが、蒼の誕生日である五月に、買いに行くことにした。ランドセル売り場はシーズンオフのせいか、そこまで多い品揃えではなかったが、選ぶぐらいには並んでいた。いまどきのランドセルは、豊富な色のラインナップがあって、なかにはこれは何色と呼べばいいのだろうか、とわからない色があった。蒼に何色が欲しいのかと訊くと、「ぼく、これがいい」と言って両親を驚かせる。それは赤色だった。蒼は、男の子の体で生まれ、女の子の心があったのだろうか、とぼくは驚いたが、子どもの選んだ道を応援しようと思った。念のため、なぜ赤色がいいか質問する。
「だって、赤って、アカレンジャーと同じ色でカッコイイんだもん」蒼は目を輝かせる。戦隊モノのリーダーと同じ色を身につけたいという実に男の子らしい理由で選んでいたらしい。蒼に言われるまで、気付かなかったが、たしかに赤色はリーダーの色だ。男の子は黒、女の子は赤、の二択しかない時代で育ってきたからそんな風に考えたことがなかった。子どもの柔軟な発想に感心して赤色を選ぼうと思ったが、蒼という名前なのに赤色はどうなのだろうと悩む。しかし蒼は結局黒色のランドセルを選んだ。理由は、ファスナーの形状が、剣を模したものになっていてそれがカッコよかったからだった。
蒼は家に帰り、毎日そのランドセルを背負って喜んだ。いつの間に、こいつはこんなに大きくなってしまったのだろう。蒼の成長の早さには、両親が二人がかりでも負けてしまう。あやはそのことをいつも嬉しそうに悔しがっていた。もちろん、ぼくもそうだった。
蒼にランドセルを買って数ヶ月、ぼくのスマホにグループメッセージが届く。メッセージを開くと昴だった。医者になる夢を叶えた昴は、ぼくと風太と昴の三人の中で、誰よりも忙しくこちらから送るメッセージは、開封すらされないことが多かった。そんな昴が自分からメッセージを送ることに驚いた。時間が取れるようになって、集合の連絡かと思った。集合には変わりなかったが、結婚式のお知らせだった。
今年の終わりに結婚式をすることになった。ついにおれも結婚だ。悪いな風太。独身はお前だけだ。絶対に来てくれよな。
間髪入れずに、お祝いの連絡を返す。昴が結婚することは嬉しかった。しかし、昴は、どんな女の子と付き合って結婚することになったのかを全く知らないのは、少し寂しい。
数時間後、風太から連絡が来た。独身であるおれを置いていくな、というメッセージだった。新婚旅行は我が社でお願いします、という案内も忘れてはいない。おれも重大発表がある、と風太のメッセージは続けられていた。おれ、一年以内に、旅行会社辞めて、旅行会社作る。社長になる。詳しいことはまだ全然決まってないんだけどねーははは、と締められていた。ホームページ作成は任せてくれ、とぼくは連絡した。
昴が結婚することにも驚いたが、風太が社長になることにも驚いた。みんな、それぞれの生活があって、それをしっかりと進んでいる、と思った。変わっていくことを知らないのは、寂しいが、ぼくだって日々の変化を伝えているわけじゃあない。多分、連絡しなくても友情を続けていられるということが、大人になってからの友達付き合いなのだろう。
「なんか嬉しそうだね。いいことあったの?」あやが言う。
「昴が結婚するんだって、あと風太が社長になるらしいよ」
あやは、昴も風太のことも知っているため、風太が社長になる姿は想像できないと言った。二十年近く友人であるぼくが驚いたぐらいだ。あやがそう思うのは無理もないことだった。
昴は、五年前のぼくのささやかな結婚式とは比べものにならないほど豪華な結婚式場で結婚した。これが一般社員と医者の違いか、とぼくは悔しさなど一切抱かずに、昴の凄さに圧倒された。ぼくの横で風太は、高級料理をバクバク食いながら、おれはもっと豪華な結婚式するからな、と悔しがっていた。昴の奥さん――ちなみさん――は、芸能人のように美しい整った顔立ちだった。
ぼくは風太に、「昴の奥さん美人だな」と興奮気味で言った。
「そうか? おれは、そうは思わないけどなー」悔しさからか手が震えて風太はワインをこぼしていた。
「女は、性格だよ。性格」風太は負け惜しみを言い放つ。その後、ちなみさんの友達がスピーチを読む。ちなみさんの性格のよさが感じられるスピーチに会場一同は、涙に包まれた。ぼくは隣で風太が誰よりも号泣しているのが、恥ずかしくて涙は出なかった。
「あの子は、イイ子だなあ。幸志郎。昴はいい奥さんを見つけたんだねえ」
どの口がものを言うのだろうか、と風太を殴りたくなる。
披露宴、二次会が無事に終わり、ぼくと風太は昴に呼び出されていた。場所は、まさかのファミレスだった。今日の主役を向かいに座らせ、ぼくと風太で並んで座る。
「今日は来てくれてありがとな」昴は恥ずかしそうに言った。
「ちなみさんはいい子だ。大事にしてやってくれ」ちなみさんの父親みたいな口調で風太は昴に偉そうな態度をとる。
「披露宴豪華だったのに、なんでぼくらとの三次会がファミレスなんだよ」披露宴と二次会で散々お祝いしたから、ぼくは昴に対して不満を一番に伝える。
「だって、なんか懐かしいじゃん」昴は照れ臭そうに言う。「十年ぶりぐらいじゃない? ファミレスで集まるなんてさ」
「昴が忙しくなりすぎなんだって」風太が言う。「大学三年生ぐらいのときからもう、おれたちに構ってくれなくなったもんな」
「そうそう」ぼくは風太に同意する。「昴がいなくて、風太の愚痴ばっか聞いて、ちょっと禿げたんだからぼくは」
「え、マジごめん」風太はぼくの冗談を本気になって謝る。
「はは、風太いまのは、幸志郎の冗談だろ。風太と幸志郎は今でも会ったりしてんの?」
「いやあ会ってないね。ぜんっぜんだって、おれ年末年始もお盆も忙しいんだもん。日本飛び回ってるし、予定が合わない合わない。だって今日会うのも久しぶりだよな。あれ以来だよ。あの、ほら、インド!」
「インド?」風太の発言に昴は首を傾げる。
「ぼくが、前の仕事でインド出張に行ったんだけど、あれはウチの子が生まれて間もないときだったっけ。現地のスタッフさんに連れられて、タージマハルに行ったんだけど、そのときに風太がツアー客を引き連れていたところにばったり遭遇したんだよ」
「そうそう。あれは感動したよなっ」
「へえ、そんなことがあったんだ」昴はどことなく寂しそうな顔を浮かべた。
「なんで昴、そのときにインドいなかったんだよ。空気読めよな」
「いやムリだから。相変わらず無茶苦茶いうな風太は」
「それが風太だよ。忘れたの昴?」
「たしかにそうだな」
学生ノリを大人になってもできることに、ぼくは恥ずかしさを感じつつも、ほんの少し誇りみたいなものを感じていた。ぼくらは、離れていても連絡を取っていなくても、ファミレスに集まれば、あの頃に戻れるのだと思った。
「インドか、いいなあ」昴は遠い目で言った。「ゆっくり海外旅行とか行きたいな」
「ん? 今度ハワイ行くんじゃなかったの」遠い目をしたままの昴にぼくは言う。
「え? ああ、おれたち三人で行きたいって意味。家族とは、行こうと思えば行けるじゃん。でも、三人では結構難しいからさ、行きたいなあって思ってさ。あのほら、昔行った奈良旅行、あれは楽しかったからさ」
「ああ、あれは楽しかった」ぼくも昴と同じ意見だった。あれはいい思い出だ。「権現領さん、って名前は忘れられないよな」
「権現領さんな、あの子はいい子だったよな。いまいくつだっけあの子は?」
「あの奈良旅行は十年ぐらい前だから、いま二十歳ぐらいじゃないか」
「あれ、風太。急に黙ってどうした?」昴が風太を心配する。
「うるせえな、おれは奈良の傷が未だに癒えていないの」風太は、テーブルに突っ伏す。
「あかりさんのこと、まだ気にしてるの」ぼくはここ十年でベストスリーに入るぐらい驚いた。権現領さんのお姉さんに振られたことが彼の中で、まだ傷になっているとは思わなかった。
「うるせえ」
「もう十年も前だぞ。次に進めよ。オマエ」昴は風太の恋愛に対して、とても冷たい。
「うるせえ。進もうとしても、ふりだしに戻るんだよ」風太は、顔を上げ怒る。
「なんとかしろよ。本気だせば、オマエ結構いい線行ってるぞ」
「そういうなら、紹介してください」
「ええ、やだよ。面倒くさい」
「え、昴くん、そういうこというなら、竜宮城事件のとき……」
「まだその話出すの? 風太さん、しつこいよ。わかったわかった。おれの奥さんの友達に紹介できる子がいないか聞いてみるよ」
「お願いします。昴っさん」
「風太にも春が来そうだし、今日は解散にしようか」あやから、帰宅命令が出たぼくはその場を切り上げた。
ファミレスを出て、駅まで歩いた。昔は、ドリンクバーで徹夜したことを思うと随分健全な時間に帰るようになった、と三人の意見が一致する。
「あ、そうだ。おれが会社起こしたら、おれたち三人で行く旅行が初めての仕事だからな。わかったな。反論は認めない」風太はぼくと昴の間を歩きながら、肩を鷲掴みにする。
「痛いって、やめろよなあ。ぼくは君のお客さんだぞ。ぼくは有休使えば、合わせることできるよ。いまの仕事は余裕あるからさ。問題は、昴だよ」
「そうだよな。おれは、何とかしてみるけど……海外旅行は無理かもしれないなあ」
「言い出しっぺが弱気な発言するなあ」風太社長は、困ったお客に呆れる。
「だって、新婚旅行で休んだ数ヶ月に、海外旅行は言いづらいよ」
「じゃあ、どっか国内旅行しよ。絶対。ぜったいだかんな」
いつになるかわからない旅行の約束をして、ぼくたちは別れる。その数ヶ月後、蒼の葬式でぼくらは再会することになった。
学校に通うことを毎日のように楽しみにしていた蒼は、ランドセルを背負って学校に通うことはなかった。蒼は入学式の前日に、車に轢かれて、亡くなってしまったからだ。
子どもが死んだ日でも、変わらずに時間は流れていて、ぼくは情報誌を作る仕事をしていたし、あやは料理を作ってブログにアップした。その日は、あやの料理本が出版される日であったため、あやは本の宣伝をした。あやのブログには賞賛のコメントが届いた。
仕事の休憩中にスマホを触ると、あやから電話が十件以上もあり、何事かと思い、ぼくは電話をかけ直す。コール音が鳴り響き、何か不吉な感じがした。
「はい、幸志郎?」あやの声はかすれている。
「どうした? 電話。何かあった?」
「幸志郎。あのね……蒼が」あやは泣き崩れる。
蒼に何かが起きたことはわかった。あやがここまで取り乱すという何かが起きている。
「くる……」あやは嗚咽で何を言っているか聞き取れない。
受話器の向こうの音で、どこかの病院にいることがわかる。
「どこの病院に行けばいい?」
昔、昴が入院した病院の名前をかろうじて吐き出したあやは、早く来て、ではなく、「助けて」と縋るように言った。
「わかった」
受話器を切り、ぼくは上司に早退する旨を伝える。
車に乗り込む。助手席には、蒼が使っているサッカーボールが落ちていた。今朝、幼稚園に向かうまでの間、公園でちょっとでいいからサッカーしようと蒼は言ってサッカーボールを車に乗せた。しかし、準備に手間取って、サッカーをしている余裕はなくなってしまった。蒼の頬は膨れていたが、帰ったらサッカーをしようと伝えると、蒼の頬はみるみる萎み、笑顔になった。そんな無邪気な息子の頭を、左手でなでた感触が蘇ってくる。
ぼくは左手を顔に当て、気を静める。病院にいるからといって、まだなにもわからないだろう。でもあやの取り乱した様子は? 息子が病院に搬送されるようなことがあったら、慌てふためくのが母親だろう。あやが助けて、といった意味は?
ぼくの中で、どんどん不安が押し寄せてきて圧し潰されそうだった。息をするのも苦しいぐらいだ。顔に当てた左手が熱いと感じた。左手で顔をパンパンと叩く。しかし、それはぼくの意思ではなく、蒼の意思だとなぜか思った。蒼はハイハイができるようになって、活発な男の子ぶりを加速させた。ぼくが寝ていると、ぼくの手を取って、それをぼくの顔にぶつけ、ぼくを起こしてくれた。今感じたのは、ぼくを起こす蒼のいたずらみたいな意思を感じたのだった。
ぼくはアクセルを踏み、病院に向かった。
何科に行けばいいかわからなかったが、受付の人に状況を説明されて案内されると、手術中のドアの前であやがうなだれて座っていた。あやの様子から、蒼に何が起こったのか感じさせるほどだった。ぼくはそんなあやを見て、逃げてしまいたくなる。逃げてしまえば、聞かなければ、蒼には何も起きなかったということにできないだろうかと本気で考えた。あやの周りの空気が重く淀んでいる。一歩足を踏み出す。重い空気に圧迫され胸が苦しくなって、吐き気がする。吐き気を呑む込み、あやに話しかける。
「あや」それ以上、繋がる言葉が見当たらなかった。
あやは顔を上げる。思わず顔を逸らしたくなるほど、あやの顔は変貌していた。あやは、ああ、とうめき声を上げて、顔を両手にうずめる。
手術室のドアが急に開く、中からストレッチャーに乗った子どもが運び出された。ぼくはその子どもは、自分の子どもではないと思った。思いたかった。でも、思えなかった。
包帯に囲まれた中に見える細い眉毛は蒼のものだったからだ。ぼくはその眉毛をなぞるのが好きだった。ぼくの好きだった蒼の頬も目も腫れ上がっていた。蒼の愛らしい唇を見たいと思ったが、そこには器具が付けられていた。ぼくは蒼の姿を見送った。あやがいつの間にかぼくの腕を掴んでいた。
「滝川蒼くんのご両親様でしょうか」手術室から出てきた医者らしき人の声に、ぼくとあやは振り返る。
「診察室へ案内――」
医者はぼくの顔を見て絶句する。怯えたような表情を浮かべ、言った。
「幸志郎……?」
医者は昴だった。
ぼくは昴が淡々と蒼の状態を話すことが許せなかった。昴じゃなくても、同じだっただろうとそのときのぼくは気付かなかった。昴の話を何度も止めて、ぼくは湧き上がる怒りをコントロールすることはできなかった。昴は何も悪くないし、悪いのは幼稚園児が散歩しているなかを車で突っ込んだドライバーの方だった。しかし、いま怒りをぶつけることができる相手は昴だった。話の途中あやはストレスからか意識を失って倒れた。あやを介抱しているうちにぼくは少しだけ平静さを取り戻す。
「昴。すまない」
「うん。おれは大丈夫だ」
「単刀直入に言って、蒼の状況はどうなんだ」
昴は弱々しく首を振る。「非常に難しい状況だ。今夜が――」昴は医者にあるまじき行為をした。昴は泣いて謝ったのだ。
「おれが何とかしてやるって言いたいけど、もう最善は尽くした。あとは天に祈るしかない。申し訳ない。本当に申し訳ない。幸志郎。蒼くんは……蒼くんは」
昴が取り乱す様子を見て、ぼくは全てを悟る。
蒼はもう死ぬのだと。
その二時間後、蒼はこの世からいなくなる。
ぼくは理性をコントロールできなくなって、昴にまたも怒りをぶつけてしまうが、昴は自分の腕が未熟だったと言った。
「お前が手術しなかったら、蒼は救えていたっていうことか」とぼくは昴を攻めた。怒りの矛先を向けられる相手が昴だった。
「すまない。おれのせいだ」昴は頭を下げた。
ぼくは昴を罵倒した。昔、ぼくをいじめから救ってくれた人物に対して、ぼくはとても酷いことを言った。頭を下げ続ける昴の足元に涙が溜まっているのを見て、ぼくはその場から逃げるように去った。
世間が入学式を迎えた日に、蒼の葬式が行われた。
蒼の葬式が終わり、出席していた風太はぼくに何かを言おうとして言えないまま帰っていった。昴が葬式に来なかったのは、仕事のせいだけではないだろうと思った。ぼくはそのことに対して、安心する。昴ともう、顔を合わせられないかもしれないと思った。それぐらい酷いことをぼくは言った。風太が、最初のお客さんは、ぼくと昴だと語ったがそれどころじゃなくなってしまった。
あやは葬式を終えると、ぼくに離婚届を出して実家に帰っていった。ぼくといると蒼のことを思い出して辛い、と言った。ぼくは離婚届を受け取ったが、名前も書かず、タンスの奥にしまう。いつか気が変わってくれるだろうということを期待した。
ぼくはあやが実家に帰ることを止めることができなかった。あやの精神は粉々になっていた。あやの精神が崩れてしまったのは、蒼が死んだことが引き金になったのは言わずもがなだったが、追い打ちをかけたのは、あやが大好きな料理だった。
蒼が死んで、あやの料理は不味くなった。とても食べられないことが続いた。あやはそんな料理を食べ続け、体調を崩した。あやは料理教室を続けて行くことが難しくなった。料理本を出した日に蒼が死んだからか、あやは料理と蒼の死を繋げて苦しんでいた。あやのブログやホームページを閉鎖するべきだと考えたぼくは、インターネットを立ち上げ、閉鎖の準備を進める。更新は蒼の命日で途絶えていた。更新が途絶えた日のブログのコメント欄には、他の日の数十倍のコメントがあった。ぼくはコメント欄をクリックし、中を覗く。大半が、あやのブログが途絶えたことを心配する内容だった。しかし、その中に、悪意のあるコメントがあった。
――コイツは自分の子供が死んだ日に本を出版する鬼畜女(笑)アタマオカシイんじゃねえのwww
あやはこのコメントを読んでしまったのだろう。そのコメントを書いたクズのリンクが、一度クリックしたことを示す色に変わっていた。ぼくはこのクズに殺意が湧いた。目の前でこんな言葉を吐かれた日には、ぼくは殺人者になるだろうと思った。クズのことを社会的に制裁してやろうとぼくは思った。ぼくはそいつのハンドルネームを検索した。するとそいつの発言が、まとめサイトに取り上げられていた。なんだこのクズは、という形で取り上げられつつも、あやのことを批判する内容が書かれてもいた。あやの本をボロクソに言うやつもいた。蒼の死とあやが料理本を出したことを繋げて考える意味がわからなかった。蒼の死は、まったくの不運だったし、あやの出版は彼女の努力が結びついた結果だ。本の内容で何を感じるかは、人それぞれだが、本を出版したことで、あやが育児怠ったのではないか、と結ぶ論調もあり、ぼくはインターネットの住人の馬鹿さ加減に、怒りを感じ憎悪を抱き、疲れてしまう。
あやが育児を怠ったことは、蒼が生まれてから一秒もない、いや、生まれる前から一秒もないと言った方が正しい。
あやはもしかしたら、これらの文を読んでしまったのかもしれない。今となっては訊くことはできない。彼女がこの記事やコメントを見たときに、気付いてあげることができれば、何かが変わっていただろうかと悔やみながら、ぼくは彼女のブログやホームページを閉鎖した。
ぼくは普通の生活を取り戻すことに、全身全霊取り組んだ。会社に出勤した。休んでもいいんじゃないかと周りの人間に言われたが、ぼくはいつあやが戻ってきてもいいように、会社に通わなくてはいけないと思っていた。風太から毎日のようにメッセージが届いていたことに気付いていたが、開封すらしなかった。ぼくは始めの内は、外食ばかり食べていた。しかし、一週間もしないうちに外食に飽きてしまった。あやの手料理が恋しかった。ぼくは自炊することを決めた。幸い、あやが残したレシピが大量にあってレパートリーには困らなかった。ぼくは、あやの料理本を片手に、料理を作った。あやの料理本は、わかりやすく、素人でも作りやすいと感じたが、ぼくの料理の腕が下手くそ過ぎて、失敗してしまうことがあった。
料理を作り始めるようになってから、風太からメッセージではなく、電話がかかってきたが、ぼくは無視をしてやり過ごした。しばらく続けていると、風太はぼくの家までやってきた。風太の好意はありがたかったが、鬱陶しくもあった。ぼくは一人になりたかった。居留守を使おうと思ったが、ぼくの家からは、「筍とジャコとアスパラのペペロンチーノ」の香りが漏れているのか、風太がドアモニターの向こうで、いい匂いするな、と呟いていた。
居留守を使うことをぼくは諦め、風太を迎え入れた。風太は、蒼の写真に向かって手を合わせた。遺影にも使った写真だ。遊園地のヒーローショーに行ったとき、ヒーローのポーズをとった蒼が写っている。
「いい匂いだな。幸志郎が作ったのか?」風太は部屋中の空気を鼻から吸い込む。
「うん、あやは実家に帰ったからね」
「そうか、あやちゃんの手料理が食べたかったんだけどな。幸志郎の手料理で我慢するかあ」風太は食卓に座る。
「なんだよ我慢って、食べる気満々だな」ぼくは失礼な客人に向かって言う。仕方なく、ぼくは風太の分のパスタも茹で始めた。
「今日はどうしたんだよ?」ぼくは鍋に入れたパスタをかき混ぜながら問いかける。風太と顔を合わせづらいと感じていた。
「幸志郎が連絡取ってくれないから、直接来たんだろ。友達の顔ぐらい、理由もなく見に来てもいいじゃんか。まあ理由はあるんだけどな」
「理由あるのかよ。なんだよ」
「なんだよ幸志郎、やっぱり忘れてんな」
「え、なにが」ぼくは振り返った。風太と目が合う。
「ヒドイなあ。ほら、昴が結婚することを報告した日に、おれの会社のホームページを作ってくれる約束しただろ。それを近いうちに作って欲しいんだよ」
「え、ああ、あの話、随分前にした約束のことだよな。ごめん、忘れてた。なんだよ、もっと早くから言えばよかったのに」
「いや、連絡してたから。幸志郎が蒼くんのことで何も連絡してくれなかったんだろ。しょうがないけど、てか、ホームページのことなんて、ホントはどうでもいいよ。どうでもよくないけど、そんなの口実だよ。お前の顔が見たかったんだよ。昴となんかあったんだろ?」
「まあ……」
パスタが茹で上がったことを知らせるタイマーが鳴った。風太との話を一旦切り上げ、パスタと具材とソースを絡めるために、さっと炒め、混ぜ合わせる。皿に盛り付け、食卓に並べる。
「どうぞ」
「うお、うまそうだな。これ」風太の少年のような喜びようを見て、風太はいくつになっても変わらないと思う。それはいい意味でも、悪い意味でもあったが、概ねいい意味ではある。
パスタを一口食べ、風太は「うんめえー」と言った。風太は味わっていないようなスピードで平らげ、味わいのコメントを発し続けていた。
「おかわりないの、おかわり」
「ないよ」
「ええ、マジかよ。もっと食いてえよ。これお店で食うより美味い、マジで。幸志郎が考えたんか?」
「違う。あやだよ。あやの作った料理本に載ってるレシピ」
「ほお、どうりで、うめえわけか」
「あやが作ったら、この二倍は美味いよ」
「いい嫁持ったな、幸志郎」
離婚届のことが過ぎり、苦笑いをするしかなかった。風太には離婚届のことは伏せておこうと思った。あれはあやの一時の判断だとぼくは信じているからだ。
「昴が、蒼くんの手術をしたんだってな」
「うん」ぼくは筍の風味が、口の中で消えたことに気づいた。
「そうか」風太は何度もうなずいた。「あのときおれが言った約束覚えてるか?」
「風太が会社作ったら、最初のお客さんがぼくと昴ってやつのこと?」
「それそれ。来月旅行行かないか? 三人で」
「無理だ」ぼくは即答する。「昴としばらくは、顔を合わせたくない」
「――ああ、わかった」風太は、何か言いかけたが飲み込んで納得したようだった。
風太には悪かったが、来月という短い期間では気持ちの整理ができないと思った。それができるのが、いつになるかはわからない、来年かもしれないし、十年後かもしれない。もしかしたら、来月でもできるかもしれない。でも、決められている期間の間で無理矢理押し込めることはできない。
「じゃあ、おれと二人なら、どうだ」
「まあいいけど……」しぶしぶぼくは妥協した。風太を困らせるのは忍びなかったし、蒼が生きていたときは、毎週外に行って遊んでいたから、なんとなく体が鈍ったような感覚があってぼく自身が外に行きたいと思ったからだ。
「よっしゃ決まり。たしか幸志郎、水曜日と土日が休みだよな」
「そうだけど……?」
「じゃあ来週水曜日行こう」
「え、ちょっと待って、どこに」
「旅行だよ」
「いきなりすぎるな……」
「いいじゃんか、こういうのは決めちゃわないと一生行かないもんだぜ。おれが奢るからさ、その代わりホームページ作ってくれよな」
こうしてぼくは旅行に行く代わりに、ホームページを作ることになった。
翌週の水曜日。ぼくは風太を車に乗せるために、風太の家に迎えに行った。風太は、三十代前半だったが実家暮らしだった。お金を貯めるために家を出なかったらしい。それに、風太は、毎日のように全国を飛び回っているため、一人暮らしをするには効率が悪かった。時刻はまだ朝四時だった。風太に着いたとメッセージを送ると風太が走ってやってきた。風太はカバンを後部座席に乗せた。
「ランドセルとサッカーボールは、蒼くんのヤツか?」トランク側に乗せたままだった蒼の物に、風太は気づいた。ぼくの中で、それはお守り代わりに車に置いたままにしてあるものだった。
「ああ、そうだ。邪魔だったらどかそうか」
「いやいいよ。ちょっと気になっただけ」風太は助手席に乗り込んできた。「出発進行」
「了解」ぼくはアクセルを踏む。
今日の目的地は静岡だった。愛知からは、高速道路を使って二時間ぐらいで行ける。運転をしながら、ぼくと風太はホームページの詳細を詰めたり、風太の仕事内容を聞いたりしていた。風太は、全国を飛び回っているが、奈良だけは業務を外してもらっているらしい。そのせいで、白い目で見られることもあり肩身が狭いという。だから、独立したいのだという。そんな理由で、と思ったが、風太は少人数で楽しめる旅行を提案する会社を作りたいのだと語った。普通の旅行よりも値段は張るが、贅沢な旅行を企画していきたいのだという。いまの職場でのノウハウを活用して、プランを練っている最中で、その下見も兼ねてぼくとの旅行を計画したようだった。
風太は、助手席で写真を撮りながら、良い景色がないか探すのに忙しそうだった。パーキングエリアの情報も欠かさず調査し、メモを取ることを怠らなかった。静岡の浜松に着くと写真とメモの忙しさは加速した。どこかになにか楽しいものはないか気になるものはないかと一生懸命探している。風太がこんなに真面目に仕事に取り組んでいるのは意外だった。
風太に指示された道を辿り、中田島砂丘というところにたどり着く。駐車場に車を止め、砂丘の上を歩く。東日本最大級と言われる中田島砂丘は、広大で、歩いても歩いても向こう側に見える砂丘や海に辿り着けないような気がした。まるでベルトコンベアに乗っかっているような感覚に陥った。
「よーいドン」風太が不意にそう言って、走っていった。
「子どもかよ」と言いながら追いかけるぼくもまあまあ子どもだ。
浜辺まで辿り着く。僕の靴は砂まみれになった。風太は途中転んだせいで、全身砂まみれだった。ぼくらは浜辺に座った。砂まみれになることはもうどうでもよかった。
「楽しいなあ、ここ」風太は言った。「子どものときに来たかったよ」
「そうだな」ぼくは風太に同意しながら、蒼を連れて来たら喜んだだろうなと思った。
しばらくぼくらは無言で座った。海の音を聞いて、風の声を聞いた。
中田島砂丘を出て、風太オススメの鰻屋に向かった。絶滅の危機に瀕している鰻を食べることはなんとなく気が引けたが、蒲焼の香ばしい匂いと甘いたれの匂いに抗うことはできなかった。静岡に来て鰻を初めて食べたが、鰻の身がギッシリ詰まっていて、いつもぼくが口にしていたものは、似て非なるものだったと知った。静岡に来てまで食べる価値があった。何度も食べたい味だった。もし今後静岡に来ることがあったら、ぼくはこの店に必ず寄るだろう。
鰻を食べ終えると掛川花鳥園に行くことになった。そこは名前の通り、花と鳥を見学することができた。鳥たちにエサやり体験を風太は誰よりも楽しんだ。昔の奈良のときと同様に風太は動物にエサをあげることがなにより楽しいみたいだった。ペンギンと写真を撮影することができるスペースがあって、風太と体験する三十も越えたオッサン二人で、何が楽しくて写真撮らなきゃいけないんだよと思ったが、ペンギンと触れ合うのは思いの外楽しい。
ペンギンは二歳ごろの蒼みたいな走り方をしていた。ペンギンを見て、蒼と水族館に行ったことを思い出した。あれは蒼が二歳になったころだ。蒼はイルカやセイウチなどの大きい動物を見て、怖がって泣いていた。シャチを見たときには、それはもうぎゃんぎゃん泣いた。しかし、小さい魚なら大丈夫らしく、水槽に手を当てては、口に持っていこうとしていて、どうやら魚を食べようとしていたらしい。蒼は、ぼくとあやを心の底から楽しませてくれた。ぼくとあやが、蒼を楽しませたかったのに、蒼はいつだってぼくたちを楽しませてくれた。ペンギンの水槽に来ると蒼ははしゃいだ。絵本で見たことのあるペンギンが蒼を出迎えたことに興奮して蒼は水槽に向かって走って、水槽に頭をぶつけていた。
「幸志郎、どうした?」風太の言葉に我に返る。「ペンギンと触れて涙流すほど嬉しかったのか?」
ぼくは蒼のことを思い出して泣いていたらしい。
「そうかもしれない。思い出したから」
係員の人が、苦笑いでぼくを見ていた。風太はぼくのことを見る目が苦しそうだった。
花鳥園を出ると、三時を廻っていた。風太が帰ろうか、と言ったが、ぼくはもう一度砂丘が見たいと言った。砂丘に沈む夕日が見てみたかった。風太は、ぼくが乗り気ならと砂丘に向かうことを快く了承してくれた。
中田島砂丘に着くと風太が、「サッカーしようぜ」と言って、ぼくの車の後部座席からサッカーボールを取り出した。どうせ靴に砂が入るなら、とぼくらは靴を脱いで砂丘に向かった。
浜辺に向かうまで間、ボールを蹴りつつ進む。裸足でサッカーをしているぼくらはブラジルの子どものようだった。浜辺に着いて今朝と同様に、その場に座った。子どもの笑い声が聞こえ見ると蒼と同じくらいの歳の男の子が母親とかけっこをしていた。
蒼もここに来たら同じことをしていただろう。
ぼくは風太と沈みゆく夕日を眺めた。風が、海と砂を撫でていく。そこに風の形が見えるような気がした。
水平線に沈みゆく夕日を見たら、蒼はきっと、綺麗だね、と言っただろう。蒼に美しいものや綺麗なものを教えたのは、あやだ。あやが育てた子どもが、この景色を見て美しいと思わないわけがないと思った。
あやと蒼と一緒にここに来たかった。
場所はここじゃなくてもいい。
あやがいればどこでもいい。
蒼がいればどこでもいい。
二人がいればいいのに。
でもいまはもう――
「幸志郎。理解することと受け入れることは、違う、ってあかりさんが昔、言ってたの覚えてるか? おれはそれで振られちまったんだけど。振られてからさ、結構考えた。人の気持ちをわかってあげるときに、その二種類しかないのかって。考えてたらさ、あったんだよ。それはさ、受け止めるってこと。理解でもなく受け入れるでもなく、受け止めることができればさ、人の気持ちって少しは理解できるんじゃないかな」
ぼくは風太の言葉を無言で聞いていた。
受け止めること、と思う。蒼の死を、他人に理解されてほしくなかった。蒼の親は、この世でぼくとあやだけだ。それなのに、理解しようとする人が多いこと多いこと。葬式で、訳知り顔で、「がんばるんだよ」とか「大変だね」と言われた。理解しようとするなよわかるわけがないんだからと内心思っていた。かといって受け入れられるのも違うと思った。「辛かったね」「苦しいよね」とぼくとあやの気持ちを言い表そうとする人たちに、腹が立った。そんな言葉じゃ収まらないと思ったし、蒼が死んだときの思いは一言で収めたくはなかった。そう感じたのは、ぼくが誰かに八つ当たりしたかっただけなのかもしれなかった。
「幸志郎。おれにだったら、なんでも言っていいんだぜ」風太は手を背中側に廻し、支えにして座っている。
夕日が沈みかけている。夕日の半分はもう水平線に吸い込まれている。夕日を反射する海面が淡い橙色に見える。蒼が死んでからのことを思い出す。涙は枯れることを知らない。人のやさしさが辛かったことを思い出す。
わかってほしくなかった。理解してほしくなかった。代弁なんてしてほしくなかった。ぼくの瞳を覗き込むように話してほしくなかった。そっとしてほしかった。でも、ぼくはもしかしたら、話を聞いてほしかったのかもしれない。
風太にそのことを話す。蒼が生きていたときのこと、蒼が死んだあとのこと、あやが実家に帰ってしまったときのこと。話している間、ずっと苦しかった。溺れて、もがいているようにぼくは話した。
風太はぼくの話を止めることなく、ただ、うんうんとうなずいた。夕日が水平線に消えていった。ぼくの思いが風太に沈み込んでいるようだと感じた。
「風太はなんでさ、ぼくのことをそんなに気にしてくれるんだ」
「はあ?」風太は怒っているような顔でぼくをにらむ。「そんなの、友達だからだろうが。当たり前だろ?」
「そうか、ありがとう」
「おれさ、幸志郎と昴に助けられたことが何度もあっただろ? だからさ幸志郎と昴が大変な時は絶対に助けるっておれは決めたんだよ。いまがそのときだろ」
「ぼくが風太を助けてあげたことってあったっけ?」
「あかりさんに振られたときとか、いろんな女の子に振られたときに、話を聞いてくれたじゃんか。おれ、結構救われてたんだぜ」
「そうなんだ」救われていたと風太が発言したことにぼくは驚く。風太を慰めていたのは、ぼくらにとって日常の風景みたいなもだだった。そんな風に思っていたとは知りもしなかった。
「そうだよ。だからこれからもよろしく頼むぜ。振られたら」
「いいけど。その前に振られるなよな」
「うるせえ」
風太に笑いながら砂を投げられた。ぼくも投げ返して砂まみれになった。
砂まみれになったぼくたちは車に戻っていく。サッカーボールを蹴りながら砂丘を歩いていると風太が言った。
「なんでランドセルが、車に置きっぱなしなんだ? 蒼くんはまだ小学校に入る前だったよな」
「ああ、あれね。蒼がさ、ランドセルを背負いたがったんだよ。毎日。だから、小学生になったときの楽しみにとっておきなさいって一旦ぼくの車に置いていて、そのままなんだよ」
「そっかあ、蒼くん……そっか」風太は、蒼のことを思い浮かべ何かを考えている。
ぼくは蒼とランドセルを買いに行ったときの赤いランドセルを選び、アカレンジャーと同じ色と言って、ぼくを驚かせたときのことを話す。
「うわあ、それ、おれも昔言ったかも。父ちゃんにめちゃくちゃ怒られた思い出あるもん」風太は目を見開き驚いている。途端、風太は泣き始めた。あまりにも急でぼくは驚く。「蒼くん、ランドセル……背負いたかっただろうなあ」
ランドセルの話で風太は蒼に共感してくれているようだ。本気で泣いている友人にぼくは、なんで風太が泣くんだよ、と言いながらぼくは涙を堪えていた。
ひとしきり泣いた風太は、車の鍵を貸してくれといって、ぼくから奪うように車の鍵を持って、砂丘を走っていった。
疲れていたぼくは走ることはできなかった。しばらくすると風太が戻ってきた。日が落ちて薄暗いからか、風太が肩に掛けている黒いものは何かの見間違いかと思った。しかし、見間違いではなく、その黒いものは、ランドセルだった。風太は、蒼のランドセルを背負い、うおおおと叫びながら、猛然とこちらに向かってきた。止まるかと思ったが、風太は通り過ぎて浜辺に向かった。何がやりたいかわからない。放っておくことにしてぼくは車に向かう。しばらくすると叫びながら、風太は戻ってきた。ぼくの肩を掴むなり、風太は言う。
「このランドセル、おれにくれ」
「何に使うんだよ」
「決まってんだろ。おれがいつか男の子を産むから、そのときに使うんだよ」
「はあ、それはいいけど。風太が背負う必要ないよね」
「幸志郎の荷物を持つって意味が込められてんの。背負うことで体現したのよ。わからないか」
「わかりたくないんだよ。早く取ってくれ、いい大人がランドセルを背負うな。恥ずかしい」
「んだよ。冷たいな。幸志郎は。わかったよ。すぐ取るよ。あれ、すぐ……ちょっと待って、すぐに……取れない」
見るとランドセルのバンドがキチキチに風太の肩に食い込んでいた。どうやって背負えたのだろうかと思えるほどに、食い込んでいる。風太は大人になっても相変わらず突拍子もないことをやってぼくを困らせるが、それ以上にぼくを楽しませてくれた。
「ちょっと幸志郎、笑っている場合じゃないよ? 取ってくれよ。取ってください」
「そのままでもいいんじゃないの」ぼくは笑ってそう言った。
笑うことで、ぼくの体から、重たいものが少しずつではあるが抜けていくような気がした。それはきっと風太がぼくの荷物を持ってくれたからだ。
風太は毎月ぼくを連れて出かけた。風太に勧められて、美しい景色を見て美味しいものを食べることで、ぼくの中に新鮮な血が流れているような感覚があった。風太は長い時間をかけてぼくを癒してくれた。そんな暮らしを三ヶ月した後、来月はどこに行きたい、と風太が質問した。ぼくは、奈良を選んだ。来月は、八月であったため、中元万燈籠を久しぶりに見たくなった。風太は、奈良に苦い思い出があるようだったが、ぼくが昴も呼んでほしいとお願いすると、快く引き受けてくれた。
昴と会おうと思えたのは、風太と旅行をしながら、ぼくは意味を考えていたからだ。蒼が死んだ意味、蒼が生まれた意味、あやと結婚した意味、そういったものを考えたりした。その中で、ぼくは、昴が蒼の手術を担当したことの意味を考えた。どうしてあんな偶然が起こったのに、蒼は救われなかったのだろうか、と。ぼく一人の考えでは答えが出せず、風太に訊いてみる。
「すべてのことに意味があるなしで考えるのは難しいんじゃないかな」と風太は前置きをした。「でも、起こった出来事に意味があるんじゃなくて、起こった出来事に対して意味を見つけることが大事なんじゃないのかな。ってインド行ったとき現地の案内してくれる人が昔言ってたな」
「風太の意見じゃないのかよ」
「五年くらい前のことを覚えてたら、もうおれの意見にしてもいいよな。著作権切れてるもんな」
「通訳の人の意見に著作権はないだろ。でもたしかに、意味があるんじゃなくて、意味を見つけるって考えた方がいいかもな」
ぼくはインド出張でアリさんが言っていたことを思い出す。
――人には迷惑をかけて生きるものだから、他者に対しても寛容でいなさい。
ぼくはその言葉を聞いて、蒼を他者に対して寛容でいられる気持ちを養ってほしいと育てた。これは親バカかもしれないが、蒼は他人のために動ける子どもだった。もしかしたら、特撮ヒーローの見過ぎだったのかもしれないけれど。
「昴が医者になったのはさ、多分蒼くんを手術するためだったんじゃないのかな」
「え、どういうこと」
「うーん、なんて言っていいかわからないけどさ、蒼くんを手術したのが、見知らぬ医者だったら、幸志郎は立ち直れてなかったんじゃない?」
そうなのだろうか。ぼくは見知らぬ医者が手術してくれればと思ったことがあった。そうであれば、昴もぼくも苦しくならなかったんじゃないかと思った。ぼくも昴も友人としていられたのではないかと思った。
「昴だったから、遠慮せずに思いをぶつけられたんじゃん? 昴は、きっと自分が一番悪いってことにして、幸志郎の思いを全部受け止めたんだよ。そうすれば幸志郎の気持ちが楽になれるって思ったんじゃないかな。ほら、よくインターネットでも、炎上して悪者を徹底的に攻めるじゃんか、攻撃する対象があれば、そっちに目を向けるじゃん。事故は起こったことだから、考えてもやりきれないけどさ、そんなやりきれない思いをいくつも知っている昴は、そうやって幸志郎のことを考えたんじゃないかな。おれがこうやって旅行に連れていくみたいにさ、昴は昴にしかできない方法で、幸志郎を助けているんだと思う」
その通りだと思った。昴は、間違いなくぼくを助けてくれている。怒りの矛先が昴に向けたことで、ぼくは蒼が死んだことを昴の責任にしようとした。昴がそうやって抱えてくれたから、ぼくはすぐに仕事に復帰することが出来たのではないだろうか。実際、誰にもぶつけられずに抱えてしまったあやは、未だ実家から出ることができない。
ぼくは昴に謝らなくてはならない。
お盆休みでぼくと風太は奈良に電車で向かった。昴は仕事の都合で夜にしか来られないようだった。
十年前と同じルートを辿ろうということになってまず初めに行基菩薩像を見に行く。行基菩薩像は十年前と同じ姿で建っていた。懐かしいなと風太としゃべっていると女性に話しかけられた。
「私のこと覚えていますか?」と話す女性を見て、全く見覚えがなかった。デニムにシャツというラフな格好だが、スタイルがよくキマっていた。モデルと言われても納得できるぐらい綺麗な子で、オッサン二人連れに何の遠慮もなく話しかけてきたことに、ぼくは新手の詐欺なのではないかと思う。
「権現領静香です」
「えええ」ぼくは周りの人が振り向くぐらいの大声を上げた。十年前に奈良を案内してくれたあの権現領さんが、美しい女性になっていることに心底驚いた。「なんで権現領さんここにいるの」
「なんでって、私の地元ですよ。幸志郎さん」
「いやそうだけど。風太はなんで驚いてないんだよ」
「だって、権現領さん呼んだのおれだもん。サプライズゲスト。びびったろ。権現領さん美人過ぎて」
「びびるどころか、感動だよ」
「ふふ、幸志郎さん驚き過ぎですよ」権現領さんは笑う。その笑顔はもうなんていうか写真に収めて額に飾りたいほどだ。権現領さんは続く言葉でさらにぼくを驚かせる。「姉も来てますよ」
傍にあったコンビニから、車椅子に乗ったあかりさんが出てきた。十年前のときと同じような白のワンピースを着ていた。薄手のパーカーを羽織り、麦わら帽子を被るあかりさんは、十年前と何も変わっていないように見えた。
「お久しぶりです」あかりさんは言った。
ぼくは戸惑いつつ返事をする。
「あれ、風太。奈良の傷が癒えてないんじゃなかったっけ」ぼくは小声になって風太に言う。
「十年ぶりに連絡したんだよ。おれの傷なんて、とっくの昔にかさぶたになってたんだよ。幸志郎の傷に比べたら、傷でもなんでもなかった。むしろいい思い出だよ」
「じゃあ、行きましょうか」権現領さんが元気よく言う。ぼくの知っている権現領さんはまっすぐ育って素敵な女性になっていた。蒼が生きていたら、大人になったときこんな素敵な女性と出会ったのだろうかと考えた。
十年前と同じく風太は鹿ばかり相手にしていて、ぼくを呆れさせる。いろんな寺を周り、春日大社に向かうことになった。
風太があかりさんの車椅子を押して歩いて、春日大社に向かう道を歩いていった。中元万燈籠に向かう人の群れに混ざりながら、ぼくは権現領さんに話しかける。
「あかりさんは、いま恋人はいるんですか?」大人になった権現領さんを前にぼくは知らず知らずのうちに敬語になっていた。
「いないんですよ。作ろうとも思っていないんじゃないですかね。多分。風太さんは恋人いるんですか」
「いないんですよ。作りたくても作れないみたいですね」
「へえ、じゃあ、うちのお姉ちゃんと付き合えばいいのに……」権現領さんは呟いた。十年前に振られて泣いていた風太を思い出す。
「でも十年前に振られてるからなあ。風太」
「一回振られただけじゃないですか」権現領さんは強く言い放つ。なんとなくぼくが怒られたみたいな気持ちになる。「そうか、お姉ちゃんは、風太さんを待っているのかも」
「そうかな」
「そうですよ。じゃなきゃ、十年前に振った人と会わないですって」
ぼくは権現領さんの意見には懐疑的だった。もう時効だろうと風太が十年前に振られた理由をぼくは権現領さんに伝えた。
「そんなこと言ったんだお姉ちゃん。でも、きっとそのときのお姉ちゃんは自分に起こったことに整理がつかなくて、きっと受け入れられなかったんじゃないかと思います」
そこでぼくは、十年前の権現領さんの願いを思い出す。
お姉ちゃんが、好きな人の気持ちを受け入れられますように。あの願いが未だ叶えられていないというのは、神様の怠慢じゃないだろうか。もう十年も経ったから、叶えてあげてもいいと思う。
春日大社二之鳥居付近にある駐車場で、風太はあかりさんと誰かと話していた。それは昴だった。昴はぼくを見つけると、近づいてきて謝るために頭を下げようとする。しかし、ぼくは昴の肩をグッと掴み、頭を下げさせない。昴は殴られると思っているのか、歯を食いしばって目を閉じている。
「昴、ありがとう」
ぼくは昴に会って、謝ろうと思っていたのに、なぜか感謝の言葉が出た。きっとそれが、ぼくがなによりも伝えたい本心だった。
「おれの方こそ、ありがとうだ。幸志郎。おれとまた会ってくれるなんて感謝しかない。蒼くんのことは本当に……本当に」
昴は泣き崩れた。
「昴、顔を上げてくれよ。蒼のことありがとう。昴じゃなかったら、ぼくはこんなにも早く立ち直れなかった。あのとき昴が、ぼくの怒りを一身に受け止めてくれたから、いまのぼくがある。だから、ぼくはもう何も怒っていない。あのときはごめんよ。昴、ぼくを許してくれ」
「許してもらうのは、おれの方だよ。幸志郎」
ぼくは昴に向かって手を差し出す。昴がぼくの手を強く掴み、うずくまった。ぼくも堪え切れられなくなってしまった。
ぼくと昴は、風太に宥められて落ち着きを取り戻す。昴も権現領さんの変貌ぶりに驚いた。当然の反応だろう。そして昴は、風太とあかりさんを交互に見て、言った。
「あかりさんと風太はいつから付き合ってるんだ?」
いやいやいや、と照れるあかりさんに対し、風太は堂々と、「今からだ」と言って、あかりさんに交際を申し込む。「十年前から、気持ちを固めてきました。もうあなたの全てを受け入れることができます。よろしくお願いします」
風太は手を差し出した。風太は十年前の気持ちに決着をつけるべくあかりさんを呼び出したのだろう。
あかりさんは、しなやかな手つきで風太の手を取る。
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
こうして二人はあっさりと付き合うことになり、権現領さんの十年来の想いは遂げられた。
昴と風太と権現領さんとあかりさんと一緒に参ることで、ぼくは抱えていた荷物を一つずつ降ろしていけるような気がした。春日大社を出るときには、晴ればれとした気持ちが湧き上がり、ぼくはやらなくてはいけないことをやるために、権現領さんとあかりさんと別れる。二人に近い内に戻ってくることを告げ、ぼくたちは奈良を後にした。
帰りは昴の車に乗って、三人で帰る。車の中で風太は、蒼のランドセルの話をした。ぼくは昴に譲るべきだったと言うと、風太は怒って、昴は笑っていた。
昴にぼくの家ではなく、あやの実家に向かってもらうようにお願いした。あやの実家に着く。ぼくが気持ちを落ち着かせるように深呼吸していると風太に肩を叩かれた。
「幸志郎。蒼くんからのプレゼントだ」後部座席から、風太はぼくにラミネート加工された画用紙を渡してきた。「ランドセルの中にそれが入っていた」
ぼくは受け取ったそれを見た。
画用紙には蒼の絵と文字。
絵は、真ん中に大きく家が描かれ、その周りに蒼とあやとぼくが描かれていた。家は絵本で見るようなレンガの家に見えた。我が家は三階建てのアパートだったため、蒼が一軒家を描いていたのが、不思議だった。蒼が一軒家を描いた理由は、蒼が書き残してくれていた。
おかあさんはりょうりがじょうずです。
ぼくは、おかあさんにりょうりのおみせをつくってほしいです。
おとうさんはおかあさんがつくったりょうりをはこびます。
ぼくは、そのおみせでりょうりをたべるひとになりたいです。
たきがわ あお
「なんだよ、たべるひとになるって。蒼もお手伝いしないとお母さんに怒られるぞ」ぼくはその絵に向かって、言った。そこに蒼がいるみたいに、言った。
ぼくが昴と風太と友達だったから、ぼくの手元にいまこの絵があると思った。蒼が、ぼくたち三人の関係をより力強いものにしてくれたと思った。
昴と風太に背中を押され、ぼくは蒼の絵と奈良のお土産を持って、あやの実家のインターホンを押した。インターホンを押したぼくは、昴と風太に向かって、蒼の絵を見せる。二人はぼくのその姿に安心したような顔を見せ、車を発進させた。
あやのお母さんには事前に連絡していた。だからだろう、あやが玄関に出てきてくれた。玄関の門の前まであやはやってきたが、門を開けようとはしなかった。あやはすっぴんで、やつれていた。
「なに? もう離婚したでしょ。私たち」
「悪いけど、離婚届出してないから、ぼくたちはまだ夫婦だよ。それにぼくは離婚届を出すつもりなんて、一切ないから」
「なにそれ。じゃあ、裁判でもするって言うの。前にも言ったけど、幸志郎の顔を見ると蒼を思い出して辛いんだって」
「蒼の顔を思い出して悪いことなんか何一つないよね。ぼくもあやの顔を見て、蒼のことを思い出すけれど、辛くないよ。むしろ嬉しいぐらいだ」
あやは口を結び、何かが刺さったみたいな顔を見せる。
「私は辛いんだってば。わかってよ私の気持ち」
「うん」
「蒼が死んでから生きる意味なんてなくなっちゃったんだから」
「うん」
「どうやって、生きていけばいいの」
「うん」
「私はどうしたらいいの」
「うん」
「本当は蒼のこと、忘れたくなんかないに決まってるでしょ」
「うん」
「でも、もうどうすればいいかわからないの」
「うん」
「うん、じゃなくて、何か言ってよ」
ぼくはあやに請われるまで、あやの目をまっすぐ見て、ひたすらうなずいて、あやの気持ちを受け止めた。何か言い返したくなっても、必死で堪えた。あやが抱えているものの重みをぼくは感じる。きっとぼくがいま感じた重さなんかより遥かにあやの内側には重いものがあるのだろう。
ぼくはあやの重さを抱えきれることはできない。だから、ぼくは蒼にお手伝いしてもらおうと思う。
「うん。あやがいま言ったことを、蒼が解決してくれるよ」
「蒼が? 何言っているの。あの子は、もういないじゃない」
「これ見て。蒼のランドセルの中に入ってた。これを見てもあやが、まだ辛くなってしまうなら、ぼくは別れることにするよ――」
あやはぼくが見せた蒼の絵を取った。その絵をじっくりと眺め、あやは、笑った。
「なんでお手伝いしないのよ。蒼は」
ほら、言っただろう蒼? お手伝いしないと怒られるぞって。
あやが門を開き、ぼくに飛び込んできた。
ぼくの前には、受け止めたあやの気持ちがあった。あやの体を抱きしめると、その気持ちが、ぱちんと弾け、ぼくとあやの中に染み込んでいった。
「帰ろうよ」ぼくはあやの髪を撫でる。
あやの髪の毛から蒼と同じ匂いがした。
数年後、風太とあかりさんとの間に男の子が生まれる。産婦人科医になっていた昴は、風太の要望でその赤ん坊の担当医になる。
ぼくとあやは蒼の願いを叶えるために色々と考えた末に奈良で洋食屋を開く。風太が会社のツアーに組み込んでくれたおかげで、連日忙しい日々を送っている。
そんな忙しい日々の中、あやのお腹に新しい命が宿った。
第三話「いまはもういない」 完