第二話「風の形」
第二話「風の形」
昴が大学一年生になったとき、ぼくと風太は大学生になっていた。ぼくと風太は、卒業しても何の意味もない大学に通っていた。昴が大学に通い始めたお祝いとして今日は集まった。高校生のときと相変わらずファミレスが集合場所だった。
「昴は、一年生だから、おれらの後輩だな」
ぼくと昴の向かいにいる風太が言う。
「なんで、そうなんの。お前たちと同じ大学じゃないんだから後輩にはならないだろ」
「おい、後輩、先輩になんて口をきくんだ」「はいはいすいませんね」
「風太、未来のお医者様からかうのやめろよな。そういえば、今日なんか話あるんじゃなかったっけ?」
「そうだ。そうそう。それそれ」風太は間を溜めて、「ゴールデンウイークに旅行行こうぜ」と言った。
「旅行?」昴は首をかしげる。「いいけど……」ぼくも首を傾げる。
思えばいままで、三人で旅行に行ったことがなかった。昴が、医学部に入学するため、予備校に通っていて、ぼくと風太が暇なときも昴は忙しかったのが理由だった。あとお金もそんなには持っていないからだった。
「おれバイトする暇ないから、金ないよ」昴が言う。
「女の子に恵んでもらえよ」風太は、当たり前のように言う。
「いや、極悪非道だな。おれ、ヒモじゃねえから」
「いや、昴はヒモだから」風太は、当たり前のように言う。
「まあ安心しろよ。すぐに稼げるバイト見つけたからよ」
風太は、スマホの画面をぼくらに向ける。
高時給バイト。ダレでも簡単! 荷物を受け取って、届けるだけの軽作業。詳細はお電話にて。時給は――
桁ハズレな時給が掲載されていて、確実に怪しいバイトであることは間違いなかった。
「これは法に触れるような案件だろ」ぼくは風太にスマホを突き返す。「やめやめ、解散」昴はドリンクバーを取りに行く。
「えぇなんでやめろとか言うんだよ。ツレナイなお前ら、大学生になって変わったよな」
風太は机に顔を伏せる。
「変わってないから。落ち着けって風太」風太を揺するが、風太は顔をあげない。
「急に旅行とかなんで行きたいと思ったんだよ」昴はドリンクバーから戻ってくる。
「入学旅行だよ!」「なんだよそれ」
「卒業旅行とか、言うじゃん。あれの逆バージョン」
「あっそ」興味を失う昴は、メロンソーダを吸う。
「で、どこに行きたいの」ぼくは興味がなかったが、あまりにも可哀想なので訊く。
「名古屋」
昴は、メロンソーダを噴き出す。名古屋は、ぼくらの住む町から電車に乗って三十分ほどの所にある。昴が噴き出すのも当然と言える。
「そんなの旅行って言わねえよ。お出かけだよ。お出かけ」口を紙ナプキンで拭きながら昴が言う。
「冗談だよ。冗談。奈良に行きたいの、おれは」
「小学生の頃に行ったじゃん」ぼくは言う。
「あれは修学旅行だろ。今回はガチだよ」
「ガチの意味がわかんないけど……奈良である理由は何?」
「……女の子」風太は珍しく恥ずかしそうに言う。
「え、ナンパが目的なのか?」昴は呆れ顔だ。「それこそ名古屋でいいだろ」
「ちげえよ。硬派の方だよ。純愛なの。おれは純愛側の人間ですう」
純愛側の人間とは意味不明だが、一つひとつ拾っていてはキリがないのでそのワードは無視をして、話を続ける。
「奈良じゃなきゃいけない理由があるんだろ?」
「はい」風太は、口調を改める。「そうでごじゃりまする」
「その口調オカシイからやめろよ。普通でいいよ。何時代のしゃべり方だよ。それ」
風太に注意するぼくの横で、昴はツボにはまったのか、「ごじゃりまするってなんだよ」と腹を押さえている。
「実はさ……笑うなよ? 笑わないって約束したら言う」
昴のツボがおさまるまで待ってから、話を聞く。
「おれさ、彼女が欲しすぎて、出会い系アプリ始めたんだよ」風太は、スマホを操作してアプリを開く。出会い系というから、よくSNSの広告に出てくるものを想像していたが、そのアプリはアバターを作って会話を楽しむアプリだった。最近、コマーシャルでよく流れているが、特に目新しさなどはなく、昔からよくあるタイプのアプリだった。コマーシャルに起用されている男と女のアイドルとチャットできると話題になり、始めている人が多い。ぼくの大学でも、インストールしている人が多いし、ぼくもぼくの彼女もインストールしていた。
「これ出会い系アプリじゃなくね」昴が言う。
「出会い系アプリで検索したら、一番出会えるアプリって書いてあったけどな」
風太は、何を検索しているのだろうと思うが、かろうじて彼女がいるぼくも、今の彼女がいなかったら、風太と同じことをしていただろうと思う。同情を隠しつつ、ぼくは質問する。
「そうなのか。でも確かに、仲良くなったら、そういうこともできるだろうな。それで、奈良の子と知り合ったんだ?」
「そうなんだよ。で、会おうってことになってんだけどさ、一人で会うのが怖いんで、一緒に来てください」
「素直でよろしい」ぼくは風太を褒めたたえるが、昴は「自分で行けよ」とあしらった。
「昴っさん。高校生の頃、君の人生を助けたじゃんか。おれ命がけだったんだよ。その恩を仇で返す気かよ。ひどい、私を捨てないでよ」風太は、なぜか女言葉で、昴にすがる。
「そのカード、ここで切るか普通。卑怯だな。わかったよ。今回限りだぞ。旅行費はなんとかする」昴はさすがに高校生のときのあの一件を引き合いに出され、断るわけにはいかなかったようだ。
「昴っさん。マジ甘味」
「甘味じゃなくて、神だろ」ぼくは風太の発言を訂正する。
五月三日。名古屋駅から、京都駅で乗り継ぎし、奈良に向かった。車内は混んでいたが、座ることができた。一泊二日の旅行だったため、スーツケースに全員の荷物をまとめて、交代で持ち歩いていた。車内で、風太が会う女の子の話を聞いた。
アプリの中で、風太は、「風風」というアカウント名だった。読み方は、「ふうふう」。お相手の女の子は、「@かり」だった。風太に読み方を訊く。
「アットマークかり、さんだろ」
なぜか自信ありげに、言う。
「あかり、じゃないのか」と昴にツッコまれて、風太は衝撃を受けていた。
@かりさんのアバターは、白のワンピースを着て、星の形のヘアピンをつけていた。一方、風太のアバターである風風は、禍々しいオーラをまとい、顔の十倍ほどあるサングラスをかけて、ハムスターの着ぐるみを着ていた。それらのアイテムは課金専用のアバターアイテムだった。昴に課金して何が楽しいの、と冷たい態度を取られていた。
「@かりさんの電話番号とかは知ってんの? こんなアプリを介さないでメッセージとか電話した方が、手っ取り早くね」
昴はアプリを使って出会いを求めるなんて、今の若い人たちの感情はわかりませんね、と訳知り顔でコメントするワイドショーに出てくるコメンテーターのような口ぶりだ。
「そんなの聞けない」風太は首を振る。
「お前は乙女か」「違うわ、童貞よ」「その口調で童貞かよ」
昴と風太のバカバカしいやりとりを見て、ぼくは笑う。三人で旅行するということが、初めてだったせいか、風太も昴もぼくも、どことなく浮かれていた。
昼になり腹が減ったので、京都駅で買った駅弁「はつだ」の和牛弁当(1944円)を、みんなで食べることになった。弁当箱を開くと和牛が弁当箱いっぱいに敷き詰められていて、ごはんが見えなかった。誰が、一番彦摩呂っぽいコメントができるかを競うという謎の戦いが始まった。コメントの様子を一人ずつ動画で撮って、コメントのターンではない人間が実況するという遊びだ。
「わあ、和牛の絨毯やあ」一番手、風太選手。シンプルながらインパクトのある絨毯というワードは、想像しやすいが、いささか意外性に欠ける。
「わあ、和牛の絨毯爆撃やあ」二番手、昴選手。爆撃というワードを重ねることで風太選手の絨毯というワードに被せ、高等テクニック。上手い。
「わあ、和牛の鰻重やあ」三番手、幸志郎選手。食べ物を例えるのに、別の食べ物で例えてしまう。大失態。これは痛い。前半戦のパワーワード「朝ごはんのディナーやん」に引き続き、痛い失態です。
昼食戦は、昴の勝ちだった。これで、昴と風太はポイントで並び、ぼくは最下位となった。食べ終えると、撮っていた動画を見始め、キャッキャウフフ楽しみすぎて、知らないオジサンに怒られたりした。そうこうしているうちに、近鉄奈良駅に着いた。楽しすぎてあっという間に着いた気がした。駅近辺にあるビジネスホテルがぼくらの奈良での寝床だった。どうせどこに泊まっても寝るだけじゃん宿代安く済ませて飯とか食おうぜ、という風太の意見でビジネスホテルにした。ビジネスホテルに寄って荷物を預けた。
「待ち合わせ場所はどこなんだっけ」風太に尋ねる。
「えっと、お坊さんの銅像の前らしい、読み方ムズイなこれ」風太はスマホを触り、答える。
「どれ?」昴とぼくは風太の両側から、スマホを覗く。
「ギョウキ菩薩像、だな」昴が言った。
「おお、さすが大学生」風太が言う。
「風太、君も大学生だぞ」ぼくは事実を言う。
「ああ、そうだっけ」
ぼくたちは行基菩薩像に向かった。行基菩薩像は、山の形のような噴水の頂点に建っていた。ぼくたちは意味もなく、手を合わせ祈ってみる。@かりさんは、アバターと同じ様な服装で来るらしかった。しかし辺りにはそれらしい人物がおらず、ぼくと昴は傍にあったコンビニで立ち読みをして時間をつぶす。
噴水の前で風太は、目をときめかせ、@かりさんを待っている。
「あれ? なあ、幸志郎? @かりさんって、白のワンピースに、星のヘアピンだよな」
「たしか、そうだよ」
「え、アレじゃないよね?」昴は指を差す。
風太の反対側から、白のワンピース姿、肩に花柄トートバッグをひっかけている女性が歩いてきた。女性と言っても、身長から見て小学生高学年くらいの女の子だ。下手したら、もっと下かもしれない。
「いや、アレは違うよ。何言ってんだよ。昴。風太をロリコンにする気かよ。さすがにあの子は……」
長い髪をなびかせながら、女の子は、風太に近づいていく。
「違……」
女の子は、風太に向かって、話しかけた。「風風さんですか?」
「違わないのかよ!」
ぼくと昴は、友人がロリコンであったことにショックを隠せず立ち尽くした。しばらく傍観していると、@かりさん、風太の手を引っ張ってどこかへ行こうとする。おろおろしている風太は、ぼくらに助けを求めていた。
ロリコンを懲らしめるために、ぼくらはコンビニを出る。
「幸志郎、昴。助けてくれよ……マジで」
「あなたたちダレですか?」@かりさんは、ずいぶんと大人びた口調だった。
「えっと風風の友達です」
「何しに来たんですか? 私たちの恋を邪魔しないで下さい」
「風太、お前、マジロリなのか?」
「マジロリってなんだよ。おれを疑ってんのか。アバター上は、二十二歳だったよね。キミ」
「あれは、登録間違いです。でも、私たちの愛の前で、年齢なんて関係ありますか」
@かりさんは、まっすぐに風太の顔を見つめる。まっすぐすぎる感情にあてられ、慌てふためく風太。
「ちょっと待ってよ。なんか誤解があったみたいだから。あの、ほら、どっか二人きりで話せる静かなところに行こう」
「風太、その言い方の方が、ヤバイから。誘拐するオジサンみたいになってっから」昴は風太より慌てた。
ぼくと昴と風太は、三人で@かりさんを説得し、ファミレスに行くことになった。
ぼくと昴の向かいに座る風太と@かりさん。@かりさんは風太の腕を掴み、べったりといった様子で座る。
「あの、@かりさん? キミ歳いくつ」昴が困り顔で訊く。
「女性に歳を聞かないで下さい」@かりさんはにべもない。
風太は昴と一字一句違えず、同じ質問をする。
「明日で、十歳になります」@かりさんは、昴のときとは態度を百八十度変え質問に答える。
「あの、@かりさん? 彼らは、おれの友達だから、普通に接してくれるかな」
「風風さんは、優しいのですね」
「ははは、そうかな」風太は小学生に褒められ、照れている。見ているこちらが恥ずかしくなる。
「そうです。優しいです。風風さんが、そうおっしゃるなら、私、この方達と節度を持って、接してます」
「そうしてくれると助かるな」ぼくは笑顔で感謝を示すが、@かりさんは、笑顔を引っ込め、会釈を返した。それが彼女の普通の態度らしい。小学生のとき、昴と付き合っていた水島がこんな態度を取っていたことを思い出す。なつかしいようなくすぐったいような。
「風風さんは、二十歳ですよね」
「え、ああ、そうだよ」
「すごいです。大人ですね」
「はは、まあね」
なにが、まあね、なのかよくわからないが、風太はたじたじといった様子だ。
メッセージが着信する。昴からだ。内容は、早くこの娘を家に帰してやろう、せっかく奈良まで来て子守はしたくない。というようなものだった。風太は、メッセージを見て、顔をしかめる。どうやって帰せばいいのかわからないのだろう。もう少し状況伺ってから、切り出してみる。と風太からメッセージが届く。
「あのさ、@かりさんの本名はなんていうの」
「風風さんから、先に言ってください。私から言うのは、その……もう、いじわるなんだから」
本名は男が先に言うものなのか、ぼくの知らないルールになぜかなるほど、と思う。
@かりさんは育ちがいいのだろう。気品のある顔立ちに、上品な態度を持って風太と接している。普段、ぼくの周りで見かける女子大学生達より、よっぽど頭が良さそうに見えるし、仕草やふるまいが女性らしさを感じる。最近の女子大学生が幼いのか、@かりさんが大人っぽいのだろうか。
「ああ、そうだよね……おれは、柚原風太っていうんだ」
「ステキな名前ですね。どういう漢字を書くんですか?」
風太は、テーブル脇にあった紙ナプキンとボールペンを取り、書く。
「漢字もステキです」@かりさんは、風太のすべてを褒める。風太はいま人生で、生まれたときぐらい、存在を肯定されているのではないかと思う。
「あ、ありがとう。@かりさんはすごい褒めてくれるね」
「当たり前です。だって、風風さん、ステキですもの」
昴は笑いをこらえるのに必死そうだ。
「そうかなあ」
「そうですよ」
ははは、ふふふ、と笑い二人の世界で楽しそうにしているのを見て、邪魔しているような気がしてきた。
「@かりさんの本名、教えてよ」
「ちょっと恥ずかしいんですけど、笑わないでくださいね。私の名前は、ごんげんりょうしずか、といいます」
「ごんげんりょう! 珍しいね。でも、ステキな名前だよ。どんな字を書くの」
珍しい名前に、話半分でいた昴も食いついた。@かりさんは、風太と同様に、紙ナプキンに名前を書く。
権現領静香。
一度聞いたら忘れられない、名字は、漢字でもインパクトが強かった。ぼくらはなぜか拍手をする。
「あの、なんで拍手なんですか……」@かりさんこと権現領さんはたじろぐ。そこに背伸びしていない彼女の素を垣間見た気がした。
「権現領さんって名字がカッコイイから拍手せざるを得ない」風太は惜しみない拍手を送る。
「あの風風さんだけは、私のことは、静香って呼んで下さい。私は風太さんて呼んでもいいですか」
権現領さんは、暗にぼくと昴には、名前で呼ばれたくないと言った。風太は、顔を輝かせ提案する権現領さんの顔を見て、断れず、はい、と返事をする。
「今日はどこに行く予定ですか」権現領さんは、風太の目を見つめる。
「東大寺とかに行く予定」
「ステキなデートプランです」
奈良に来て、東大寺に行くのは、ステキなのだろうか? ベタすぎやしないか、と思うが、権現領さんは風太の考えなら、何から何までステキになってしまうらしい。
「デート? みんなで行く予定なんだけど……」
「じゃあ、ディナーは二人きりってことですね」
「そうだよ」昴が言う。完全に風太をからかっている。
「おい、昴っ」
「やっぱりそうなんですね。楽しみです。それまでは皆さんで一緒に楽しみましょう」
「ディナーって言ったけど、権現領さんは、門限とかないの?」ぼくは訊く。可能な限り早いタイミングで帰ってもらいたかった。
「ありません。私、風太さんと会うために家出してきたんです」
ぼくらは絶句する。権現領さんに家出の理由を訊くと、風太さんと会うために決まっています、とぴしゃりと言ってトイレに立った。
「どうしよう」風太は泣きそうな顔だ。
「いますぐ、店出て思い切り走って巻く?」
昴の提案をぼくは断る。
「これから仏様を見に行くのに、子どもを巻くのは、憚られるよ。なんかバチが当たりそう」
「じゃあどうするよ」「親を探す?」
「でもよ、親が捜索願いとか出してたら、どうする? おれら誘拐犯に思われないか?」昴は背筋が凍るようなことを言う。
「なあ、これって竜宮城事件みたいなヤツじゃないよな」
風太は不安気に言う。それこそさらに背筋が凍るような発言だ。高校生のときに水島秋穂を救ったとき事件の話をするときは、ラブホの名前が竜宮城であったため、竜宮城事件と呼んでいた。
「そんなことになったら、おれ、オヤジに顔向けできない」
昴は、亡くなった父親を思い浮かべ、顔が青い。
「権現領さんが、風太と会うために、家出したって言ってたから、美人局ってことはないだろう。あの子はまだ十歳だぞ。そこまでの悪知恵はないだろう」
否定するぼくの言葉を信じられないのか、昴は、現代っ子の怖さなめんなよ、と言った。
「ねえ、みなさん。せっかく奈良に来たんですから、いつまでも、ファミレスにいるのはもったいないですよ。もう、行きませんか。お会計は済ませてきましたので」
小学生に奢られたぼくらは、主導権を失った。
権現領さんは、頑なにファミレスのお金を受け取ろうとしなかった。誘ったのは、私の方なんですから、ここは奢らせて下さい、とずいぶんと男らしい断り方をした。
どこかへ出掛ければ、権現領さんも納得するのではないかと思い、仕方なく、バスに乗って、東大寺方面へ向かうことになった。バスの中は、ゴールデンウイークらしい混みっぷりだった。座っていたおばあさんがぼくらを見て、権現領さんを見た。怪しまれているのだろうか。
「お嬢ちゃん、お兄さんとお出かけかい、いいねえ」
「ええ、そうなんです。デートなんです」
「兄妹でデートかい、なるほどねえ。それはいいねえ」
権現領さんの発言に、ぼくらは、どきりとするが、おばあさんは兄妹で出掛けることをデートと言った権現領さんのことを子どもらしい微笑ましい意見と好意的に解釈してくれたようで胸をなでおろす。
バスを降りて東大寺に向かう途中で、いたる所に鹿がいて、奈良に来たことを実感する。風太は鹿せんべいを買い漁り、鹿使いにおれはなる、とかよくわからないことを言ってせんべいを鹿にあげる。鹿が風太に群がってきて、風太はせんべいだけでなく色々なところを噛まれる。それを見て、権現領さんと昴とぼくは、この世の終わりが来たみたいに笑いまくる。
東大寺に入るころには、風太は憔悴しきっていて、大仏を見ようともしなかった。大仏の前で、観光客の人に風太のスマホで写真を撮ってもらった。風太は、みんなに撮った写真を添付し送信する。憔悴しきっていた風太の顔が、大仏のように、静かな顔をしていて笑いを誘った。東大寺から出てバス停に向かうと、帰ってきた風太を待ち構えていたように、鹿が風太に群がる。その様子は、外国人観光客たちも足を止めて、写真に撮るほどだった。風太は、家族連れの外国人観光客に英語で何か質問されて、「ディス、イズ、ジャパン」と答えている。外国人観光客は、笑顔になって、彼はクレイジーだと言っていた。日本文化が何やら間違った様子で伝わったようであった。
体力を奪われた風太は、どこかで休憩したいと言った。
「マックねえかな。マック」
「なんで奈良来てマック行かなきゃいけねえんだよ。風太だけで行けよ」
「ぼくも昴と同じ意見だよ。さすがにマックはないよ」
「私は、マックいいと思います」権現領さんは、風太の意見はすべて取り入れようとする。献身的な子である。
結局、近くのカフェに入り、みんなでアイスクリームを買って、カフェの外にあるベンチで、四人横並びで食べる。権現領さんは相変わらず風太の隣をキープしている。ぼくは風太の反対側に座った。風太が東大寺周辺で撮った写真をSNSにアップしている横で、権現領さんは自分のスマホを見て風太とのツーショット写真を眺めていた。ぼくの中で素朴な疑問が湧いた。
「ねえ、権現領さんは、なんで風太と会おうと思ったの?」
「え、そんなの、決まっているじゃないですか。誠実な人柄ですよ」
「誠実ねえ……」昴は遠い目をする。
「とても情熱的なんですよ。風太さん」
「静香ちゃん、二人だけの秘密にしません? それ」頭を抱える風太。権現領さんが、二十二歳だと思っていたから、恥ずかしいメッセージを送っていたのだろうと想像する。友人が、どんな風に女性を口説くか聞きたくないので、その話は、深く掘らない。
「そうですね!」権現領さんは、純真な眼差しだ。風太が話す言葉のすべてが、彼女にとってのエネルギーになっているようだ。
アイスを食べ終え徒歩で春日大社に向かった。風太が行ってみたいと行ったところであったため、権現領さんは大いに賛同する。
春日大社の本殿へ向かうのには、一之鳥居から歩くコースと、二之鳥居から歩くコースがあった。二之鳥居から歩くコースの方が本殿に近いが、権現領さんは歩いて行きたいと言った。東大寺からは一之鳥居には、西側から遠回りしなくてはならなかった。十五分ほど歩き、一之鳥居にたどり着く。一之鳥居は、威厳を感じさせるようなずんとした大きさで、深い朱色が鮮やかだった。
一之鳥居前で、ぼくらは写真を撮る。風太は春日大社に来るまでの間で、自撮り棒を購入していた。外国人観光客が使っている姿を見て、自分も欲しくなったらしい。昴は自撮り棒に否定的だったが、権現領さんはこれでいっぱい写真撮れますね。と肯定的だ。風太は歩きながら、自撮り棒で写真を撮り、鹿せんべいを買って鹿を愛で、権現領さんとしりとりをしながら、歩いて忙しそうだ。権現領さんと長くいる内に、ぼくと昴は、デートの邪魔をしてしまっているような感覚になっていた。ぼくと昴は、先に行く風太と権現領さんから少し離れた位置を歩いていた。本殿までの道は、両脇に緑が生い茂り、空気が澄んでいる気がした。
「幸志郎。おれたち、デートの邪魔してるっぽいよな」
「ぼくもそう思ってた」
「どうする。おれたち二人でどっか別の場所に行く? 風太をロリコンにしてはおけないって思ってたけど、傍から見たら、仲良しの兄妹って感じに見えるし」
「いや、そうは思うんだけどさ、権現領さんは、家出してきたって言ってただろ。もしさ、親御さんがたまたま風太と二人でいるところを見たら、誘拐されたって思わないか。それが心配なんだよ」
「でも、三人組の男でいても、一緒じゃないか?」
「そう、なのかな」
「お二人とも、早く来てくださいよー。置いてっちゃいますよー」
権現領さんがぼくと昴を呼んでいる。いつのまにか数メートル先に風太と権現領さんはいた。歩を速め、風太たちを追いかける。
「あの子って、本当に家出するような子かな」昴はアゴを触る。
「どういうこと?」
「いやさ、権現領さんって、多分、いいところの子だろ。いわゆるお嬢さまってやつ。そんな育ちのいい子が十歳のときに家出するかな」
たしかに権現領さんは、立ち居振る舞いに気品があり、十歳とは思えないほどの落ち着きがある。権現領さんが、大人に歯向かう様子が思い描けなかった。初対面のときは、ぼくと昴に対する態度は冷たかったが、思えば、デートの邪魔者に対する態度としては妥当といえる。
「お嬢さまだからこそ抑圧される事柄が多くて飛び出した、とか」
「いくら大人びてるとはいえ、十歳だぞ。十歳が家出とかしたとしても、せいぜいが友達の家に無断で行くとかじゃないか? だから、家出は嘘なんじゃないかっておれは思ってる」
「嘘?」風太に対する態度がまっすぐ過ぎて家出といったことを信じてしまうぼくたちだったが、そう言われるとそう思えてきた。「じゃあ、やっぱり竜宮城事件みたいなことを企んでいるのか?」
「そこまでのことを考えているかはわからないけど、とにかく、権現領さんは、何か裏がありそうだ。おれは、あの子が風太に対する態度がなんか作り物めいてる気がするんだよ」
「そうかな。ぼくは、恋に恋する少女って感じがしてたんだけど」
「そういう演技をしている気がするって意味だよ」
権現領さんが演技をしているというのなら、女は怖いと思った。
権現領さんと風太は、茶屋の前で待っていた。普段運動をしていないぼくは、東大寺から歩いてきたこともあり、へとへとだった。茶屋――春日荷茶屋に入り、休憩することにした。風太と昴と権現領さんは、オレンジジュースを頼んでいたが、ぼくはせっかくなら名物料理を食べたいと思い、万葉粥を頼む。四季折々の旬の野菜が添えられるらしく、五月の旬野菜は、筍とよもぎだった。粥が届き、筍の香りが食欲を誘う。一口食べると、すっきりとしたよもぎの風味がのどにやさしく抜けていき、筍の自然な甘みがうまかった。風太と昴は、ぼくの顔をまじまじと見て、コメントを期待していた。
「これは、お粥のアベンジャーズや」
ぼくは苦し紛れで、アメリカンコミックのスーパーヒーローたちが一同に集結する映画を例えに使ってしまう。
「なんだよそれ和食の例えじゃないだろ」「完全な和食に、アベンジャーズてやっちまったな幸志郎」
風太と昴にダメ出しをされてしまったが、粥はうまかった。うまいうまい、と言って食べていると、風太と昴が、ちょっとちょうだい、と言う。二人ともイナゴが群がるかのような怒涛の食い意地で、ぼくの粥をほとんど食べつくす。
「幸志郎。ごめん、これ、たしかにアベンジャーズだわ」
よくわからないぼくの例えに輪をかけて、訳のわからない感想を風太は抱いていた。
休憩を終え、ぼくらは春日大社に向かおうと思ったが、春日荷茶屋を出てすぐに、鹿苑という鹿の資料などが展示されている鹿のための鹿による鹿だけの公園、みたいなスペースがあり、寄ることになった。資料コーナーには目もくれず、風太と権現領さんは鹿がいるスペースに走っていった。ぼくと昴は、老後生活を楽しむ老夫婦みたいなスピードで、資料を見つつ歩く。資料スペースを抜けると、金網ごしに鹿を見ることができた。金網に看板があり、読むと鹿苑にいる鹿は、交通事故に遭い体が不自由な鹿だったり、畑のものを食べて人を困らせてしまう鹿がいるようだった。金網には、流しそうめんの竹筒のような金属がところどころあり、そこから、どんぐりを鹿にあげることができた。風太は、今日一日散々、鹿せんべいをあげているにもかかわらず、鹿にエサをあげることを楽しんでいた。
そうこうしているうちに、春日大社の二之鳥居にたどり着くまでに、一之鳥居を抜けてから一時間が経過していた。二之鳥居を潜ってすぐに伏鹿手水所という名の手水舎があった。伏せた神鹿の石像の口元から水が流れており、参拝者は身を清めるようだった。風太は、スマホを操作して、権現領さんに身の清め方のお作法を教えようとするが、権現領さんは風太が調べている間に身を清めていた。
本殿に続く参道の傾斜がぐっと深まり、ぼくは歩くのがつらかったが、権現領さんはキビキビと歩いていく。道の両脇には石灯籠があり、鹿がその間から顔を出す。本殿に近づくほど鹿の顔は凛々しく見えるような気がした。
本殿にたどり着き門を潜ると透き通るような朱色が、目に飛び込んで来る。春日大社の本殿は、鮮やかな朱色が巧みに施されており、思わず目を奪われるほどだった。この本殿を見るために長い参道を歩いてきた甲斐があったと思った。参拝入口でパンフレットをもらい、本殿内を歩いていく。パンフレットに書いてあることを風太は一字一句違えず読んで、権現領さんに教えていた。権現領さんに、風太さんはなんでも知っているんですね、褒められる風太は嬉しそうだった。回廊に、無数の燈籠が飾られていた。風太のスマホ調べによると、春日大社の万燈籠と呼ばれるその燈籠には、年に二回、浄火がくべられ、厄除、諸願成就が祈願されるらしかった。
「私、その灯りが点くところみたいです。いつあるんですか」
「ええっと」風太はパンフレットとにらめっこをする。「節分とお盆の時期だね」
「ええ、そんなあ。すぐに見られないんですね。今年の夏、見に行きましょうよ。風太さん」
「はは、そうだね」
安請け合いする風太をぼくは友人として憂う。子どもは信じてしまうだろうから、できないことはキッパリと断った方がいいのではないかと思った。しかし、純真のかたまりである権現領さんが傷つけてしまうようなことを言うことは風太も辛いのだろう。
「ホントですよ。風太さん。約束しましたからね。いま」
風太が自撮り棒を駆使し、写真を撮りまくり、春日大社を周り切るときには、風太のスマホは画像データでパンパンになった。風太が画像を選別している間、権現領さんは、社務所にておみくじを物色しに行った。スマホと格闘する風太を見てもつまらないため、権現領さんの後をぼくは追った。昴は、いかに春日大社がキレイに撮れるかの研究に忙しそうだった。
権現領さんは、縁結びのお守りを手に取っていた。
「それ買うの?」
「はい。買います」権現領さんは快活に答える。「あと、これも買いますよ」
権現領さんは、手のひらサイズの木彫りの鹿を持っていた。鹿の口元には、巻物ようなものがあり、どうやらそれはおみくじのようだった。
「いいね。それ。ぼくも買おうかな。おみやげに」
ぼくは鹿のおみくじを買って、権現領さんと一緒に開く。権現領さんは大凶だったが、ぼくは大吉だった。風太と昴が、ぼくの後ろからおみくじの結果を伺っていて、「いじめ、かっこ悪い」といってぼくをからかった。権現領さんは、大凶という結果なんて吹っ飛ばしてしまうぐらいの清廉さ溢れる笑顔を見せる。
春日大社本殿を出て、来た道を帰ろうとすると、風太に呼び止められる。
「幸志郎、昴、まだこっちに行くところがあるぞ」と風太は言って、権現領さんと二人でとっとと歩いていく。風太の後を追い、五分ほど歩くと夫婦大国社に着いた。そこでは、若宮十五社めぐりをすることができた。十五の社で、人生においてぶつかる様々なことから守ってくれる神々にお参りをすることができるようだった。受付にて初穂料を納め、ポーチに入った玉串木札なるものを受け取る。地図の順番の社を巡り、木札を納め、お参りをしていった。
十五の社を周り切るころには、ぼくの体には神々しいエネルギーが宿っているような気がしたが、風太も昴も同じようなことを言っているので、気のせいだと思った。夫婦大黒社にたどり着くと水占いなる不思議なものがあったので、みんなで体験する。初穂料を納め、紙を受け取り、境内にある水占い所にて、受け取った紙を水に浸すと、紙に書かれている文字が浮かび上がり、ぼく以外は、大吉で、ぼくだけが、大凶だった。バチが当たった、とみんなから揶揄されてしまった。
夫婦大黒社には、ハート型の絵馬があり、権現領さんは当然のようにそれを買いに行く。絵馬を書くところを見られたくないと恥ずかしがったため、ぼくらは権現領さんから目を背け、待った。
しばらくして権現領さんがお待たせしました、と慌てながら、風太の隣にやってきた。権現領さんのカバンがぼくに当たり、カバンの片方の紐が権現領さんの肩から滑り、ぼくの方に向かってカバンの口が開いた。カバンが落ちないように、咄嗟に手を広げ、権現領さんのカバンを守る。そのとき、ハート型の絵馬がカバンに入っているのが見えた。権現領さんはバツの悪そうな顔をぼくに見せた。昴が、権現領さんに質問した。
「絵馬は掛けてきたの? 遅かったね」昴に権現領さんを訝しんでいる様子は見られず、単純に訊いただけなようだった。
「……はい、丁寧に文字を書いていたら遅くなってしまって。すみませんでした」
「いや、いいよいいよ。権現領さんが楽しかったならよかったよね」風太は次に行く場所のルートを検索している。
権現領さんは絵馬を掛けていなかったし、絵馬には何の文字も書かれていなかった。何故、そんな嘘を吐くのだろうか。開きかけたぼくの口を見た権現領さんはぼくに向かって、首を振る。何も言わないでくれ、という合図のようだった。ほとんど泣きそうな顔をする権現領さんの気持ちを裏切るようなことはできず、ぼくは口を噤む。
風太が、次に行く場所を決めたとき、権現領さんは意を決したような声で――すこし声を震わせながら――言った。
「私、行きたい所があるんです。みなさん一緒に行きませんか」
どこに行くのか訊いても、権現領さんは何一つ答えようとしなかった。黙ったまま歩いていく権現領さんの後ろをぼくらはわけもわからずに後を追った。権現領さんが乗るバスに乗り込んで、しばらくすると権現領さんはバスを降りた。
どこか神社だとか仏閣だとかに連れられるのだろうか、と思っていた。しかし、たどり着いたそこは、病院だった。敷地面積がかなり大きく総合病院であることは容易に想像できた。権現領さんは、ただひたすらに黙って歩いていく。形成外科の病棟に入り、個室の病室をノックした。
「お姉ちゃん、連れてきたよ。風風さん」
権現領さんは、数時間ぶりに風太のことをアバター上の名前で呼んだ。権現領さんは、振り返りぼくたちにお辞儀をした。
「風太さん。昴さん、幸志郎さん。私、本当は@かり、じゃないんです。いままで黙していてごめんなさい。本物の@かりは、このお部屋の中にいる私の姉なんです」
つまり権現領さんは、お姉さんの代わりとして@かりさんになりすましていたということか。一体何故そんなことをしたのだろうか。
「どうぞ、静香。みなさんに入ってもらって」ドアの内側から声がする。
「はーい」権現領さんは、扉に向かって返事をして、再びぼくたちに向き直る。「お願いだから、悪く思わないでください。姉のこと。私の大切な姉なんです」
作り物めいた権現領さんの仮面のような笑顔の隙間から、深い慈愛のような悲しみがこぼれていくようだった。権現領さんは口角を上げているが、笑っているようにも泣いているようにも見えず、寧ろ怒っているように見えた。
ぼくたちは、権現領さんが何を心配しているのか問い質すことはできなかった。それは権現領さんがあまりにも真剣な顔をしていたからだった。風太を先頭に、次いで昴、そしてぼくの順番で病室に入る。権現領さんはその間、何かにお祈りをしていた。無数の参拝者を奈良中で見かけたが、ここまで真摯に、そして真に迫った祈りを見たのは、初めてだった。今日の権現領さんの祈りは全てこのときのために、祈っていたのではないだろうか。
病室のベッドに座っている権現領さんのお姉さんは、窓を眺めていた。外は日が落ちてきており、夕日に変わる手前といった明るさだった。権現領さんのお姉さんの髪の美しさに目を奪われた。黒い長い髪は腰まで伸びている。艶のある髪は、キューティクルで天使の輪ができている。振り向いた彼女から、ぼくは目を背けそうになる。
権現領さんのお姉さんは、顔が包帯で覆われていた。口元と鼻だけが穴が開いている。
「こんにちは。風風さん。風風さんのお友達も、よく来てくださいましたね。私は、静香の姉のあかりです。アットマークじゃなくて、あいうえおの「あ」と書きます」
口元を手で押さえ微かに笑ったあかりさんに、ぼくらはただたち尽くす。あかりさんが手を動かしたとき、窓側にある左手にギプスが付いているのが見えた。
「静香。お客様に椅子を出してくれる?」
「もう出しているよ。どうぞみなさん、座って下さい」
パイプイスにぼくらは座った。ぼくは端に座り、左側に、昴、風太、権現領さんの順番で座り、あかりさんの方を向いた。
「あら、そうだったのね。少しの間、お話してくれませんか。ここは暇ですから」
あかりさんの膝元に、文庫本が置かれていた。三田誠広の「いちご同盟」だった。読んだことはないが、名前は知っていた。いちご同盟の表紙の写真は、学校の教室で女生徒が一人で窓の外を眺めていた。その女性は学生服だったが、あかりさんと重なっているように見えた。
あかりさんは、本を読めるのだろうかという疑問が湧いたが、質問することは憚られた。
「本でも読めたら、いいんですけどね」あかりさんは本を口元に当て、笑う。「怪我のせいで、本の匂いを嗅ぐぐらいしかできないんですよ。匂いを嗅いだところで、文字なんてわかるわけないんですけどね」
「その本面白かったです」誰よりも本を読まない風太がそう言ったので、ぼくと昴は顔を見合わせる。
「ホントですかっ、いいですよね」あかりさんは声を張り上げる。あまりにも急だったので、権現領さんもビクッとしていた。
「あんまり本とか読まないんで、三ヶ月近くかかったんですけど、初めて本読んで泣きました」
風太は、すっごい良かった、切なかった、登場人物がすてきだった、と言って、いちご同盟を褒めたが、小学生の読書感想文のような感想だった。そんな稚拙な感想でも、あかりさんは、同じ本を読んだことを共有できるのが嬉しいらしく、しきりに頷いていた。風太とあかりさんは、アプリ上でやりとりをしていたためか、話が盛り上がっていた。昴とぼくは、話に参加することができず、手持ち無沙汰だった。それを見かねたように権現領さんは、あかりさんに話を振った。
「お姉ちゃん。今日ね、東大寺と春日大社に行って来たんだ。風太さんが、鹿にいっぱい噛まれて面白かったんだ」
「そうなんですね」
「あ、そうなんですよ――」風太は何かを言いかけた。おそらく撮った写真を見せようとしたのだろう。しかし、あかりさんが見られないことに気が付き、口を閉じた。
「それは、ぜひ、見てみたかったですね」
「あかりさんの怪我が治ったら、写真見せますよ」
「お気持ちは嬉しいのですが――」あかりさんの表情は全くわからないが、包帯が動き、顔をしかめているのではないかと想像した。「怪我が治っても、視力は戻らないんですよ」
風太が謝るより、早くあかりさんは、会話を続けた。
「今日はどこに行かれたんですか」
「えっと東大寺と春日大社です」
「どうでしたか」
「あの、疲れました。じゃなくて、楽しかったです。春日大社は、キレイでしたね。燈籠に、灯りがついたときにまた奈良に来たいです」
相変わらず読書感想文的な口にする風太に、あかりさんは呆れることなく、話を聞いていた。あかりさんは、たくさん話したいこと、訊きたいことがあるのを我慢しながら、風太の話をじっくりと聞いているように見えた。音楽を聴いているかのように、話を聞くあかりさんは、体をうっすら揺らしている。
「そうだ。あかりさんも今度一緒に行きましょうよ」
風太は、これ以上ない提案しただろ、おれ。というようにぼくと昴に自信ありげな顔を見せる。ぼくの反対側に座っている権現領さんの顔は明らかに曇る。
「この足で、行けたらいいんですが……」足にかかった布団をめくりながら、あかりさんは言う。あかりさんの右足は、膝から下が存在していなかった。権現領さんが顔を曇らせた原因はこれだろう。ぼくと昴が絶句していると、風太は、気にしていない素振りで話を続ける。
「大丈夫です。おれがあかりさんをおんぶしていきます」
「そんな、大変ですよ」
「大丈夫ですって、おれバイトで、もっと重たいもの持っているんで」
あかりさんは、風太のバイトに興味を持ち質問した。それは風太が連れていくという話を逸らしたかったのでは、という思いがよぎる。
権現領さんが不意に立ち上がる。
「お姉ちゃん。私、昴さんと幸志郎さんを連れて、奈良を案内してきます」
風太は、おれは? という顔をするが、なんとなくの空気を察したらしく黙ったままだった。
「風太は、あかりさんと色々話すことがあるだろ。おみやげ買って来るから、ゆっくりしてなよ」
ぼくはそう言い残し、権現領さんと昴と病室を出た。少し話しませんか、そう言って権現領さんは、飲み物を買って病院内にあるベンチで座った。
「今日はみなさんありがとうございました。姉はいつもより楽しそうにしてくれていました」権現領さんはあかりさんが楽しそうだったことが嬉しそうだ。
「そっかよかったね。それは」ぼくは笑う。
「騙していて、ごめんなさい」権現領さんが謝った。
「え、騙したって、なにが?」
ぼくも昴も、何を謝られたのかわからない。
「だから、その、私が、姉のフリをしていたってことがです」
「ああ、そういうことか。それなら、おれと幸志郎は全く気にしていない」昴が一番権現領さんを邪魔くさがっていたが、お姉さんの事情をなんとなく察したぼくたちは、権現領さんを傷つけないようにしたかった。
「うん、そうだよ。権現領さんと奈良観光楽しかったし」
「ホントですか」権現領さんは目を輝かせる。さっきまでの作り物めいた笑顔ではなく、心の底から安堵したような笑顔だ。「嫌がられていると思っていました」
「おれらと権現領さんは、もう、ともだちだろ? ともだちとの旅行が楽しくないわけないだろ」昴は慰めるように言って、缶ジュースのタブを開ける。
そこで権現領さんは、張りつめていた糸がプツンと切れたようにわっと泣き始めた。ぼくらは権現領さんが泣き終わるのを待った。権現領さんが泣き止むのを見計らって、ぼくは奈良市街で買っていた鹿の絵がついたハンカチを渡す。
権現領さんは無言で受け取り、顔を洗うように涙を拭く。赤ん坊のように泣いた権現領さんは、泣き止むと再び大人びた顔を取り戻す。
「姉の話を聞いてもらってもいいですか」
ぼくの返事を待たず、権現領さんは話始める。
あかりさんの怪我は、交通事故だった。
事故の原因は、私にあるんです、と権現領さんは自分を責めた。四月のある日、権現領さんとあかりさんはケンカをした。ケンカの理由は、風太だった。風太を取り合ったというわけではなく、あかりさんは風太と会う約束をしたために、ゴールデンウイークに姉妹で大阪のテーマパークUSJに出掛ける予定があったにもかかわらずキャンセルした。権現領さんは、それが許せなかった。あかりさんを責めて、権現領さんは、家を出た。権現領さんは、二度とあかりさんと口を利きたくないと思った。学校が終わり、家に帰るとあかりさんは、「今週行こうよ」と言って、権現領さんにテーマパークのチケットを渡す。しかし、権現領さんが行きたかったのは、その週ではなく、ゴールデンウイークの間だった。ゴールデンウイークの間しか開催されない催しに行きたかった。あかりさんがなだめても、権現領さんはどうしても納得できなかった。だから、権現領さんはチケットをくしゃくしゃにして家を飛び出した。それは私はこんなにも怒っているのよ、だから、ゴールデンウイークに出かけたいのよ、という表現をするためだった。コンビニやデパートで時間を潰しているうちに、雨が降ってきた。雨はすぐに土砂降りに変わった。いつまでも外にいては、両親に怒られてしまうからという理由で権現領さんは、ほんの少しの家出を終え、土砂降りの中、帰った。家に帰ると両親に怒られた権現領さんは、あかりさんがいないことに気づいた。あかりさんに電話をかけても、繋がらず。権現領さんの父は、あかりさんを捜索に出た。権現領さんは母と二人、あかりさんの帰りを待った。権現領さんは、家出の理由を母に話すが、叱られなかったことが、なぜか怖かった。母の電話がなって、母が慌てふためくのを見て、権現領さんは冷静を装った。電話が終わり、病院に行くことを指示された。その時点では、権現領さんにはあかりさんの症状はわからなかった。権現領さんはテーブルの上に皺だらけのチケットを見つけ、泣き崩れた。
あかりさんは二週間ほど意識不明の重体だった。病室に移され、権現領さんは面会に行った。そこであかりさんは、テーマパークに行けなかったことを謝った。
「静香、ごめんね。一緒に行けなくなって」
権現領さんが話し終えたときには、日がほとんど落ちていて、外は薄暗かった。権現領さんは、バッグから、しわくちゃのチケットを取り出した。
「これが、そのチケットなんです」チケットの期限はすでに切れていた。
昴はそれを奪うように取った。「明日、行こうか。USJ」
「え、いや、行きませんよ」権現領さんは、ぶんぶん首を振る。
「なんで? ゴールデンウイークに行きたいんじゃなかったの」
昴にそう言われ、ぼくは権現領さんが、行きたがっているのがわかる。しかし、権現領さんは、自分の気持ちを諦めるように言った。
「姉を置いて、私だけ行けないです」
「じゃあ、あかりさんも一緒に行こうよ」
「まだ外出はできません。だから、私だけ楽しんだらいけないんです」
「なんで」ぼくは権現領さんの気持ちに気づいていながら、質問する。
「だって、お姉ちゃんをあんな目に合わせたのは私ですから」
「あかりさんがそう言っていたの?」
「違いますけど……考えたら、わかりますよ」
「でも、あかりさんがそう言っていなかったのなら、わからないよね」
「わかりますって。じゃあ幸志郎さんが、姉の立場だったら、どうですか? 自分のワガママで家出した妹を探しに行って、事故に会って、好きな本を読めなくなって、楽しみにしてたデートにも行けなくなったら、どうですか」
「苦しいね。きっと想像もできないぐらいに」
「ですよね。だったら、その原因を作った妹が、楽しそうにしていたら、どうですか」
「嬉しいね」
「嬉しい? それはオカシイですよ。私だったら、絶対に嫌です。楽しそうにするなって思いますよ」
「そっか。じゃあさ、もし権現領さんがお姉さんの立場で事故をしてしまったとして、例えばそれが妹が家出をしたのが原因だったからといって、妹にずっと苦しんでほしいと思うの? 権現領さんは」
「それは……さっき言ったじゃないですか……」
「じゃあ、質問を変えよう。あかりさんは、権現領さんにずっと苦しんでほしいと思っていると思う?」
「私のお姉ちゃんは……そんな風に思うような人じゃないです」
涙をこらえ、権現領さんは絞ったような声を出す。
「つまりはそういうことなんだと思うよ。君が、楽しんでいたから、あかりさんはいつもより楽しんでいたんじゃないかな」
はっとしたような顔をして権現領さんは頷いた。
「一つ疑問なんだけどさ」昴が切り出した。「権現領さんはなんでお姉さんのフリしたの? 年齢も離れているのに」
「それはですね。私が風太さんに会いたかったんです」
「え、あかりさんじゃなくて、権現領さんが?」昴は混乱している。当然だろう、アプリを使って風太と連絡を取っていたのは、あかりさんだったのだから。
「はい、姉は事故が起きてから、視力がなくなってしまいましたから、私が姉のアプリを使って風太さんと連絡してたんです。姉にメッセージを読んで、姉の代わりにメッセージを打ち込んでいました。だから、風太さんと姉のやりとりは、ほとんど知っています。やりとりをしているうちに、次第に風太さんはどんな人か会ってみたくなったんです。アバターはちょっと変わった格好でしたけどね。姉も会いたそうにしていたので、私は姉に黙って、奈良に遊びに来てくださいというメッセージを送りました。送ってから、しばらくして風太さんから、今日の予定が取れたことの返事がありました。それを姉に報告すると私は姉に、なんで勝手なことするのよ、と怒られました。姉は怪我をしたことで、自信をすっかりなくしてしまっていました。こんな姿を見られることが怖いと言っていました。私は姉に喜んでほしかったんですが、傷つけてしまいました。私は姉を説得しました。きっと風太さんは見た目で判断するようなそんな人じゃない、だから、小学生の私が@かりのフリをしてみる。二十二歳が来ると思って、実は小学生だったからといって、帰るような人じゃなかったら、お姉ちゃんは風太さんと会うことを約束してよ、と私は提案しました。お姉ちゃんは、無茶苦茶なこと言うね静香は、って言って笑ってました」
権現領さんが来た理由は、あかりさんからの依頼からだったと思っていたが、違っていた。権現領さんがお姉さんを喜ばせようと思ったからだったのか。ぼくと昴は権現領さんを煙たがったことに、なんとなく申し訳ない気持ちになり、顔を伏せる。
「風太さんは、最初戸惑っていましたけど、小学生の私でも自然と仲良くなってくれました。ときどきトイレに隠れて姉に電話を掛けていました。私が風太さんの様子を伝えると姉は風太さんに会ってみたいと言ってくれました。実は、春日大社で縁結びに名前を書いて来て、っていうお願いもされてたんです」
だから名前を書かれることを恥ずかしがっていたのか。あかりさんの絵馬を掛けてきたのなら、権現領さんのカバンに入っている絵馬は何だったのだろう。
昴のスマホが着信した。風太からの電話のようだ。「悪い、ちょっと病室に戻ってるわ」昴は風太に呼ばれたのか、あかりさんの病室に戻って行った。
「私たちも戻りますか。姉も風太さんといっぱいお話できたと思いますし」
ぼくは風太から送られてきていたメッセージを開く。権現領さんをある理由から引き留めておいてほしいようだった。ぼくはそのメッセージを開く前から、権現領さんと話がしたいと思っていた。
「ちょっと待って、権現領さん」
立ち上がりかけた権現領さんは座って、ぼくを不思議そうに見る。「どうしました?」
「権現領さんは、絵馬をどうして二つ買ったの?」
「え――ああ、幸志郎さんには見られていたんでしたっけ」
「君はもしかして風太のことが――」
「はい、好きです」はにかむ権現領さんは、恋に恋している乙女ではなく、一途に恋する女性だった。「姉を通じてメッセージをしているうちに、姉が思いを語るうちに、私もそんな風に思ってしまいました」
「せっかくなら、絵馬を掛けに行った方がいいんじゃない」
「初めはそう思って、絵馬を買ったんです。でも、やっぱりそれは姉に悪いなって思ったんです。姉から、視力を、足を奪って、さらに好きな人まで奪いたくなかったんです」
権現領さんは、どうしても事故のことを責めてしまうようだった。どうにかしてあげられないかと思う。
「願うくらいはしてもいいと思うよ」
「心の中にしまっておきます」この話はおしまい、というように権現領さんは、立ち上がる。いまの権現領さんに、何を言っても、あかりさんの思いを大事にするだろう。ぼくはそれ以上、絵馬のことには触れないようにする。
「権現領さん、病室戻ろっか」
「そうですね。幸志郎さんこの話、誰にも言わないでくださいね」
「もちろん。そうするよ」
病室に戻ると風太がいなかった。
「あれ、風太さんは?」権現領さんはあかりさんに訊く。
「あいつは一回ホテル帰ったよ」昴があかりさんの代わりに答える。
「え、何のために?」
「さあ、わかんない。すぐに戻るから待っててくれってさ」
何か忘れものでもあったのだろうか。風太の行動に意味を探しても詮無いことであるため考えないことにした。
「権現領さん、明日USJ行ってもいいことになったよ」
昴がしてやったぜ、みたいな顔で言う。
「え、ホントですか。いいの? お姉ちゃん」
「なんで、私に遠慮するのよ。静香は。今日はいっぱいお姉ちゃんのためにがんばってくれたんだからご褒美よ。お父さんとお母さんには確認取っているから行っても大丈夫よ」
「ありがとう。お姉ちゃん」権現領さんは、あかりさんに抱きつく。あかりさんは、権現領さんの頭を静かにゆっくりとなでた。
昴がぼくの服を引っ張る。病室を出て、二人きりにしてあげようということらしかった。
病室の外で風太を待った。昴があかりさんと話した内容を聞いた。実は、USJに行くことを切り出したのは、昴ではなく、あかりさんだということ。あかりさんは、事故の後に、自分自身を苛む権現領さんを見て苦しんでいた。権現領さんは、友達とも遊ばずにあかりさんの見舞いに来ている。権現領さんが持っていた明るさが少しずつ消えていることをあかりさんは心配していた。だが、今日、ぼくたちと過ごしたことで、彼女本来の明るさが少し取り戻せたらしかった。だからこそ、テーマパークで遊ぶことで、彼女本来の明るさを取り戻してほしい。とお願いされたらしかった。
「私たちからも是非ともお願いします」
昴の話が終わる待っていたようなタイミングで、後ろから急に声が聞こえた。振り向くと中年の夫婦らしき人だった。おそらく権現領さんの両親だろう。
「あかりと静香の両親です」権現領さんのお父さんはそう言って、深々と頭を下げた。「今日は、娘のワガママをお聞きいただき、ありがとうございました。あかりが事故してから、静香はどんどん暗い表情になっていたんです。でも今日、あなたたちと奈良を周ったことで、あの子たちの明るい表情が見れてよかったです」
「明日も、テーマパークに行くことになってしまったとお聞きしたんですが、みなさんの予定は大丈夫なんですか」権現領さんのお母さんが申し訳なさそうに言う。
「大丈夫ですよ。この旅行を計画した奴が、乗り気なんで」昴は頷く。
「あの、明日テーマパークに行くことになってますが、ご両親は心配じゃないんですか、その、見ず知らずの人に、お子さんを預けるのは……」ぼくは変なことを心配してしまう。ご両親がいいと言っているなら良いと思うが、なぜそんなにぼくらのことを信じられるのかが、不思議だった。
権現領さんのご両親は、顔を見合わせ、笑う。
「もちろんですよ。あなたたちは信頼に足る人物だと、今日見ていてわかりましたから」
「今日? ここで話しただけで、そんな風に思っていただいたと?」
「いえいえ、違いますよ。今日一日ですよ。行基菩薩像から、娘が心配だったので、あなたたちを見ていたんですよ。静香は知らないことですけれど、あかりからの依頼でね」
「なるほど」ぼくは頷く。小学生の女の子が、見ず知らずの大学生三人と会っていたら、心配するのが当然だろう。今日の様子を見ていたからこそ、任せてもいいと思っていただけたということか。
「みなさんは、小学生の先生を目指しているんですか」権現領さんのお母さんがそう言った。
「いえ、そんなことは全くありませんよ」ぼくは否定する。
「そうなんですか。みなさん子どもの相手がお上手だから。てっきりそう思っていました」
権現領さんのご両親は再度礼を述べ、病室に入っていこうとする。そこで昴が驚きの声を上げ、その場にいた全員が何事かと固まる。
「あれ? 幸志郎。なあ、あれって風太かな」「ん、え、風太だね」「風太だよね」「いや風太じゃないよ」「いやいや風太だよ」「風太かよ」「逆に風太?」「直で風太だわ」
病院の中をタキシード姿で風太は歩いている。
「なにやってんだ。あいつは」昴は頭を抱える。ぼくは天を仰ぐ。風太がタキシードを着ているということが恥ずかしくてたまらなかった。
「よお、待たせたな」自信あり気な声で風太が言った。
「待ったけど、何だよその格好は」昴は半分、いや完全にキレている。
「女性をディナーに連れていくのに、タキシード着ないバカがどこにいるっつうのよ」
「女性をディナーに連れていくのに、タキシード着るバカがここにいるぞ。幸志郎」昴は風太を愚弄する。
「知ってるよ」ぼくは昴に同意し、権現領さんのご両親に謝る。「権現領さんのお父さん、お母さん、お騒がせしてすみません」
風太は、病室のドアを開ける。
「静香さん、ディナーに行きますよ」
「え、風太さん、え、ディナー?」権現領さんは戸惑っている。
あかりさんは口元を動かしている。笑っているようだった。
「約束したじゃないですか」風太は、権現領さんの手を取って病室を出ていく。
「ち、ちょっと待って下さい」権現領さんは慌てふためくが、顔は笑っていた。
「では、あかりさん、お父さん、お母さん。静香さんをお預かりします」病室を出る間際、風太は好青年っぽく言って、出ていく。
「よろしくお願いします」と権現領さんのご両親は、この状況を受け入れているようだ。
風太はずんずん進んでいき、あっという間に見えなくなった。呆気に取られているぼくと昴は、しばらく立ち尽くしてしまう。
「あいつディナーとか言って、マックとか行かないよな?」昴は、恐ろしいことを口にする。
「それがありえるのが風太だ」
ぼくは昴と風太を追いかけた。エレベーターで一階まで降りて角を曲がると、風太と権現領さんが病院を出るところが見えた。権現領さんは風太と手を繋ぎ、何かを話しかけて笑っていた。風太と話せることが、二人でいられることが幸せ、といった権現領さんの笑顔を見て、立ち止まる。
「あの権現領さんを見る限り、大丈夫そうじゃないかな」ぼくは昴にそう言って、追いかけるのを止める。
「そうだな。おれらもどっかで飯食おうぜ」
ぼくらは二人で夜の奈良市街へと向かった。
翌日、権現領さんを連れて、USJに向かった。権現領さんは、一つ目の黄色い不気味なキャラクタを前に興奮と驚きが隠せないようだった。そのキャラクタの可愛さを受け入れることはできなかったが、これが権現領さんの好きなキャラクタであることは理解はできた。
夕方になり、帰宅することになった。ぼくたちは、大阪から名古屋方面に帰ることになっていて、権現領さんは、一人で奈良まで帰ることになっていた。一人で帰ることを心配するぼくたちをよそに、権現領さんは堂々としたものだった。
「大丈夫ですよ。みなさん。そんなに心配しなくても」
「大丈夫って言っても、ほら、君はまだ子どもだよ。ああ、やっぱりおれが付いていこうかなあ」慌てふためく風太を見て、権現領さんは別れを惜しむように笑っている。せめてもと権現領さんを奈良方面の電車まで送っていく。
電車が来るまでの数分間、権現領さんは風太から目を離さなかった。まるで、この場所に二人しかいないようだった。
電車が来た。なぜか風太が号泣する。権現領さんは風太の泣き顔に笑うしかできなかった。
「ちゃんとごはん食べるんだよ」と風太は田舎に住むおじいちゃんみたいな口ぶりで、権現領さんを送る。
電車のドアが閉まる。権現領さんは、口を開き、何かを言っていた。それはきっと――。
電車は奈良方面へ向かって走っていった。
「なあ、権現領さんは、最後何て言ってたんだ?」風太の質問に、ぼくと昴は、手を広げ「さあ」と応える。風太が、権現領さんの口の動きを理解できていたら、違った意味として捉えていただろう。だから、ぼくと昴は知らないフリをした。
三ヶ月後、ぼくらは再び奈良に向かった。今回は、風太、昴、ぼくの三人以外に、昴の彼女である佐々木ひとみさんとぼくの彼女である川野あやの二人が同行していた。ひとみさんもあやも、揃えたように白のワンピースを着ていた。ワンピースって、茶髪のウェーブがかったひとみさんにも、黒髪セミロングのあやにも似合うな、と感心した。
奈良駅では権現領さん一家が待っていた。権現領さんも白のワンピースを着ていた。あかりさんも車椅子で迎えに来てくれていた。あかりさんは傷を隠すためか、夏だというのに薄手のパーカーを羽織って、大きな麦わら帽子を被っていた。あかりさんも当然のように白のワンピースだ。
風太は、この三ヶ月の間、権現領さんを通じてあかりさんと連絡を取っていて、約束であった春日大社の万燈籠に火がくべられる様子――中元万燈籠を見に来た。ぼくも昴も今回ばかりは、風太だけで行ったほうがいいのではないかと思ったが、風太がそれを拒んだ。理由は、権現領さんもあかりさんも寂しがるから、と風太は口を濁していたが、本心は言わなかった。一人で行くのが恥ずかしいからだとぼくも昴も、そのときはそう思っていた。
三ヶ月前にも来た東大寺にまたも来ることになったのは、昴の彼女――ひとみさんが見たいといったからだ。ぼくと昴と風太と権現領さんは、三ヶ月前に見たこともあって大仏は見に行きたくはなかった。というよりも大仏よりも鹿に夢中だった。東大寺の中に入る前の開けた場所で鹿と戯れた。それに呆れたひとみさんとあやの二人は、東大寺の中を進んでいった。
あかりさんは遠くの方でぼくらを見守るように微笑んでいた。風太があかりさんの手を取って、そこに鹿せんべいを乗せた。すると鹿が群がってきて、あかりさんが慌てふためく。鹿は乱暴にせんべいを咥えたため、せんべいがあかりさんの膝元に降り注ぐ。そこにまた鹿が群がって、大変なことになった。風太は鹿を遠ざけようとしたが鹿に袖を引っ張られて無理だった。あかりさんは、きゃあきゃあ言いながら楽しそうだったため、ぼくらは安心した。
一匹の雌鹿が、あかりさんのそばから離れなかった。あかりさんは、「キミはどうしたの? 撫でてあげよっか」と鹿の頭を撫でた。雌鹿は、気持ちよさそうに目をとろん、とさせる。こっちまで、とろんとしそうなほどやさしい手つきで撫でている。その雌鹿に嫉妬したのか、別の鹿が、あかりさんの元に集まってきた。その鹿たちは、教師の元に集まってくる幼児のようだった。私も撫でて、と言っているようにも見えた。あかりさんは、集まった鹿たちを一匹ずつ撫でていく。その群れに、風太も突っ込んでいって、頭をあかりさんに差し出す。あかりさんは風太の頭に触れた瞬間、驚いた。風太は、盛大に笑う。子どもか、お前は。とぼくは思うが、鹿と戯れている時点でぼくもそんなに変わらないことに気づき、口を閉じる。結局、ひとみさんとあやが東大寺を周ってくるまで、ぼくらは鹿と戯れることをやめなかった。
中元万燈籠の開始が夜七時から開始であったため、それが始まるまで各自の行きたい所を見て回ることになった。興福寺で、五重塔と阿修羅像を見て、ならまちで雑貨などを物色し、薬師寺の荘厳さに目を奪われる。唐招提寺で、鑑真和上お身代わり像に拝む。今回の旅はあかりさんがいたため、風太のスマホによるガイド要らずだった。あかりさんはぼくたちの専属ガイドになって、建物の由来や人物の遍歴をすらすらと教えてくれた。奈良観光をしているうちに、ひとみさんとあやは、あかりさん、権現領さんとすっかり仲良くなっていた。日が落ちかけてきて、春日大社に向かうことになった。
春日大社一之鳥居から進む。前回とは違い、辺りはもの凄い数の人だった。みんな中元万燈籠が目当てなのだろう。あかりさんは、春日大社の由来を教えてくれる。あかりさんの車椅子を押して歩く風太は、うんうん頷いている。一之鳥居を潜ってから風太は、あかりさんの車椅子を押す役目を変わろうとしなかった。ここはおれの出番だ、と言わんばかりの様子だった。道の両脇にある燈籠に、明かりが灯っている。幻想的な雰囲気があり、道行く恋人たちは、手をつないで歩いていく。あやもその雰囲気に当てられたらしく、手をつないでくる。友人の前で、手をつないで歩くのは気恥ずかしかったが、昴とひとみさんも同様だったので、恥ずかしさは和らぐ。
「昴も、幸志郎も先に行っていいぜ。おれとあかりさんと静香さんはゆっくり行くから」
それは、先に行ってほしいという意志の表れだと感じ取り、ぼくらは先へ進んでいった。昴たちは人混み紛れ、どこにいるかわからなくなった。参道で巫女さんが、提灯を売っていた。あやに買うことを提案するも却下されてしまう。あやは、若宮十五社めぐりがしたいと言ったため、夫婦大黒社に向かう。十五社めぐりを却下したら、ぼくの命はきっとこの世になかっただろう。人生とは不平等である。提灯欲しかったなと思いながら、十五社をめぐり、水占いをして、最後にはハートの絵馬を掛けた。春日大社に向かって歩くところで、風太たちを発見した。風太もあかりさんも提灯を持っていた。
「おお幸志郎。いいところに来たな。静香さんといつの間にかはぐれちまったんだ。探してくんねえか」
「いいけど、電話掛けたのか?」
「電話が繋がらなくてさ」風太はあかりさんを押しながら参道を歩いてきたということと権現領さんとはぐれたことにより、尋常じゃない量の汗が噴き出ていた。
ぼくは権現領さんのいる場所に心当たりがあった。「多分、どこにいるかわかるから、みんなはここにいてくれ。おれ一人で探してくるよ」一同に有無を言わさず、ぼくはその場から離れた。権現領さんがいる場所は、おそらく夫婦大黒社だろう。
絵馬を掛ける場所にたどり着くと、一人でいる少女を見つけた。権現領さんは絵馬を掛けようと手を伸ばしていた。最上段にぎりぎり届かないようだ。
「権現領さん」
「え! 幸志郎さん……。お一人ですか。あやさんは?」
「ああ、ちょっと風太達と一緒に待ってもらってる。権現領さんが他の人にここに来ていることを知られたくないと思ってさ。電話もわざと無視してたんでしょ?」
権現領さんは口を結び頷く。
「ここに掛けたら、すぐに戻ろうと思っています」
「うん。じゃあ、ぼくは先に戻ってるよ」
「あ、幸志郎さん。待って」振り向きかけたぼくを権現領さんは慌てて止める。「これ、一番上に掛けて下さい」恥ずかしさでうつむきながら権現領さんは絵馬をぼくに差し出す。受け取ったぼくは絵馬に書かれているねがいごとを見てしまう。
――お姉ちゃんが、好きな人の気持ちを受け入れられますように。
ぼくはその言葉の意味について考える。権現領さんは、風太への思いよりも、あかりさんに幸せになってほしい気持ちが何よりもあるのだろう。だから、このねがいごとを書いた、と。
「幸志郎さん、誰にも言わないで下さいね」
「もちろんだよ」
権現領さんは少し寂しそうな顔で笑う。権現領さんの恋が、今日終わってしまったのだろうと思った。
「姉には春日大社の中に進むように伝えて下さい。私は後から追いつくから、と」
「わかった。先に戻るよ」ぼくはその場を離れた。振り返りたい衝動に駆られるが、必死で堪え、風太達の元へ戻った。
風太達のところへ戻り、権現領さんからの言伝を伝える。風太とあかりさんと別れて、春日大社を進んだ。三ヶ月前に来たときは昼だったが、夜に来るとこんなにも暗いのか、と驚いた。回廊には明かりが灯った燈籠が並んでいた。燈籠の模様はそれぞれ異なっていて、そのどれもが意匠が細やかだ。淡い橙色の明かりを放つ燈籠がいくつも並べられている様は、春日大社の神々しい空気と合わさって幻想的だった。人々は口々にうつくしいだとか綺麗だとか、凡庸な感想を述べていた。しかし、それ以外の言葉で装飾する必要はないとも思えるような景色だった。回廊を周っていると不意に風太の声が聞こえ、振り向く。
風太とあかりさんが歩いているのが見えた。車椅子に座るあかりさんが明かりに照らされている。風太はその横顔を見ていた。それは見惚れているようにも憂いてるようにも、ただ疲れているようにも見えた。
周った後は、春日大社の駐車場で待ち合わせすることになっていた。権現領さんも昴たちもすでにそこにいた。風太とあかりさんがしばらくしてやってきた。風太は疲労困憊の様子で、意識が朦朧としかけているように見えた。風太はぼくが飲んでいたスポーツドリンクを奪いあっという間に飲んで、飲み切るとその場に倒れた。慌てて救急車を呼んで、風太は病院に搬送された。倒れた理由は、脱水症状だった。命に別状はないということだった。日帰りで帰ることになっていたため、風太はあかりさんと権現領さんに任せ、ぼくたちは先に帰ることになった。その日、風太から、置いていったことを怒るメッセージが来たが、昴は、あかりさんと二人きりの時間を作ってやったんだろうが、と返していた。風太はその日はメッセージを返さないままだった。
奈良から帰った翌日、風太からの集合することを強制するメッセージが届いた。いつもはファミレスで集合するが、今回は珍しく車でドライブするらしかった。
風太は昴とぼくを乗せて、車を発進させた。車中では、置いて行ったことを散々責められるが、倒れる風太も悪いとわあわあ言い合った。風太は夜の公園に車を停める。公園のそばにあるコンビニで買ったカップ麺(醤油)を持って歩く。ぼくと昴はベンチに座ったが、風太は草むらに座った。
「話したいことがあるんだろ?」昴が風太に向かって言う。昴は麺をすする。醤油の匂いが辺りに立ちあがる。風太がこの公園を使うときは大体が女の子に振られたときだった。
「ああ、ちょっとな。まあさきにラーメン食おうぜ」と言った風太はすでに食べ終えている。
昴とぼくがラーメンをすする音が公園に響く。風太は何も言わず、草むらに寝転び、右腕で顔を覆う。ラーメンを食べ終え、公園のゴミ箱に空いた容器を捨て、またベンチに座る。風太は眠ってしまったように動かない。
「おれさ」風太は顔を覆い隠したままだった。「今日の朝、あかりさんと別れ際にさ、告白したんだよ」
「おお、そうなんだ」昴は笑う。風太がこの公園に来ている意味を知ってからかうように言った。「どうだった?」
「お前らはもう、わかってるんだろうけどよ。ダメだったよ」いつもの風太であれば、振られたことを全身を使って悔しさを表現しふざけるが、今日は様子が違っていた。さっきから、口以外は、ぴくりとも動かない。
「そっか」風太のいつもとは違う様子に、昴も困惑気味だった。
「あかりさんが、理解することと受け入れることは違いますよ、って、言ったんだけど。おれ、バカだからよくわかんなかったわ」
理解することと受け入れることは違う、というのは、あかりさんの怪我のことを指しているのだろうか。ぼくはあかりさんだから、よくわからない。想像することしかできない。でも、ぼくが風太と同じ立場だったとき、ぼくは、あかりさんには、告白できるほどの勇気は湧かなかっただろう。
あかりさんには申し訳ないが、あかりさんの怪我の辛さを理解して、友達でいることはできる。しかし、あかりさんの重すぎる怪我を受け入れて、恋人になることはできないと思う。それは、恋人になった後のことまで考えてしまうからだ。責任だとか、重圧だとか、面倒だとか、そういったことまで、見えてしまうからだ。理解するというのは、そういった責任を引き受けず、寄り添うことなのかもしれない。であれば、つまり、受け入れるというのは、そういった責任を引き受けて寄り添って、分かち合うことなのだろうと思う。風太はそんなことを考えていなかったと思うが、心の奥底の深い部分では、そういったことに対する準備が出来上がっていたのかもしれない。
「振られた理由なんか、一つだろ。あかりさんに風太が合わなかったんだろ」昴は言葉こそ辛辣だが、口調は柔らかに言う。
「そうだろうなあ」風太は諦めたように言った。いつもであれば、諦め切れないことを口にするが、やっぱり今回はいつもとは違うようだ。
「あのさ、ここだけの話、お前らにしか言えないんだけど……。聞いてくれ」
「そのために呼んだんだろ」昴は呆れたように笑う。
「もったいぶらないで、早く言いなよ」急かすぼくに対して風太は、「心の準備があるんだよ」と言ってしばらく黙ってしまい、いよいよ心配になる。
風太は、顔から腕を動かした。風太の顔は、涙で濡れている。
「おれさ、本気で、あかりさんのこと想ってたのにさ、振られたときにさ、どっかで安心しちゃったんだよ。ああ、この人のためにがんばらなくてもいいんだ、って安心したんだ。そのとき思ったマジ情けねえな、おれ。この人のこと好きじゃなかったんじゃん、好きになろうとしてただけだったんかな」
「情けないとはおれは思わないし、寧ろあかりさんに告白できたお前は男らしいだろ。でも、振られたときにそう思ったってことは、多分それが、あかりさんの言ったことだったんじゃないのか」風太の気持ちを受け止める昴は苦しそうだった。
「あかりさんの言ったこと?」
「理解することと受け入れることは違うっていうことだよ」昴に代わってぼくは答える。
「ああなるほど。じゃあおれ、全然本気じゃなかったってことか」
風太は納得して、嗚咽する。
嗚咽したくなるほどには本気だったんじゃないか、と思ったが、声は掛けなかった。ぼくは風太のことを理解し、受け入れていたからこそ、何も言わなかった。
あのとき権現領さんが願ったことを思い出す。
――お姉ちゃんが、好きな人の気持ちを受け入れられますように。
きっと受け入れられなかったのは、風太だけじゃなかったのだろう。権現領さんのねがいごとは、今回は叶えられなかった。けれど、いつか叶えられる時が来るだろう。いや叶えられなければならないと思う。あのときの権現領さんの真剣な祈りが届かないんだとしたら、神様はただの馬鹿だし、あの子のねがいごとを叶えないような神様は、神様を辞めた方がいい。
ぼくたちはそれから、十年近く、奈良に行くことはなかった。
第二話「風の形」 完