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いまはもういない  作者: 西野 大吾
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第一話「プレアデス」

スリー



















第一話「プレアデス」


 市立一ノ瀬高校のチャイムはカビの生えたような音を鳴らし、昼休みの時間を知らせた。その音は、あと数ヶ月で校舎が無くなることを憂いているように思えた。しかし、チャイムに、校舎にそんな意志などあるはずもなく、その音を聞く人間の主観で捉え方は変わるだろう。

 ぼくは、柚原風(ゆずはらふう)()(もり)(ひろ)(すばる)の二人と昼休みを告げるチャイムを聞く前から、昼休みを取っていた。ぼくらは、同じクラスメイトで、同じ小・中学校で、つまりは腐れ縁というやつだった。

美術室がぼくらの休息を取る場所だった。

美術室にあるモナリザは、生徒たちの落書きで、見るも無残な形になっていた。目は黒く塗りつぶされ、鼻は元の形よりはるかに大きく、もはやモナリザというよりも、鼻の穴の絵と言った方が正しい。他の絵も大差ない落書きがされていた。芸術もわからない生徒ばっかりいるのが、一ノ瀬高校の特徴で特色で短所だった。つまりバカばっかりということだ。

ぼくはこの学校の中で勉強が一番できた。学校でナンバーワンだということが、全然誇れないのが悲しいし、一ノ瀬高校の生徒なら、頭がいいということは逆にバカというのが、定説だった。全く理解できないが、この理解できない定説が定説としてまかり通るのが一ノ瀬高校という所だ。

幸志郎(こうしろう)、焼きそばパンの美味しい食べ方教えてやるじゃんよ」

 風太は焼きそばパンの焼きそばの部分だけを食べながらいった。風太は一ノ瀬高校で一番のバカだった。さっきの定説がまかり通るなら、風太は逆に一番頭がいい、ということになっても良さそうだったが、バカはただのバカだった。風太がバカであることを裏付けるには、彼の現在の姿を見ればおわかりいただけるだろう。彼は、右手に焼きそばパン、左手に焼きそばを持っていた。

風太は、焼きそばを食べ終えると、パンをパペット人形のようにしてパンの切れ込みを広げ、左手に持っていた焼きそばをパンに挟んだ。そして、パンの間に挟まった焼きそばを食べた。風太はその食べ方で焼きそばを食べていた。何度もだ。

「風太。ごめん、全然わかんない。何が変わるのそれ。焼きそばパンを食べてから、焼きそば食べろよ。いや、それよりも、どっちかの焼きそばいらないよね」

「はあ? 幸志郎何言ってんだおめー」風太は紅しょうがを飛ばしながら、ぼくに向かって、右手を差し出した。「これなんだ?」

「焼きそばパン」

「じゃあこっちは?」左手を突き出す風太。

「焼きそば」

「別のモンだろうが!」

「だから……もういいや」

 ぼくは反論するのがばかばかしくなった。

「幸志郎」

スマホを触って女の子のメールを送っていた昴が、長い前髪の間からぼくを見た。

「な、何だよ」

「今のはお前が悪い」

「いや、うそだろ。なんでぼくが悪いんだよ」

 昴は顔を逸らして笑っていた。長年一緒に、いるのにイマイチ笑いのツボがわからない。昴は、勉強は苦手(一ノ瀬高校の生徒全員の共通点)だが、運動が出来て、格闘技が出来て、背は高く、甘いフェイスで、メールが来たら逐一返信するマメな性格だった。だから、昴は当然のようにモテた。そんな男が学校にいれば、世の女の子が黙っていなかった。どうやら噂によると昴ファンクラブがあるらしく、しかもファンクラブの派閥争いもあるという。     

昴を見守る会VS昴を見つめる会の争いは、年々激化していた。卒業の年度ということもあり、その争いは熾烈だという。今年度から、他校によるファンクラブ、昴に見惚れる会も発足し、三すくみの争いがあるとかないとか。

そんなモテる昴だったが、彼は、来るもの拒まずの慈愛に満ちた淫らな性生活を送っていた。昴は常に三股以上をかけていた。ぼくと風太からすれば、一人の女の子を愛するべきなんじゃないかと思うが、昴からすれば、女の子はすべて可愛く美しいから、選べないという。選べるポテンシャルがありながら、そんなことをおっしゃるものだから、女の子たちは美醜に関わらず昴に夢中なのだ。だって、昴と付き合いたいならば、他人を蹴落としてでも早く告白すれば、それで男女のお付き合いがスタートする。三股以上という条件付きではあったが、昴は女の子からしたら、チョロイ存在でもあった。昴がチョロイので、ファンクラブの間で、誰が告白するかの選抜やオーディションがあるらしい。

風太と昴の間にいれば、話題に事欠かないが、ぼくは二人に比べると至って平凡な存在だった。

「なんかしようぜ」風太が唐突に言った。

「なんかってなんだよ。具体的に言えよ」ぼくは呆れながら言う。

「うーん、なんっつうか、ほら、あれだよ。高校生っぽいことだよ」

「漠然としすぎてわかんないな」

「いままでおれの身の回りになかったことをしたいよなあ。例えば昴みたいに彼女を作るとかな」

 昴をチラチラ見ながら、風太はわざとらしく彼女を作るというフレーズを入れた。風太の頭の中には、女の子とイチャイチャすることしか入っていないようだった。

「なあ昴、いい加減女の子紹介してくれよ」風太は焼きそばを食べ終えたらしく、焼きそばのない焼きそばパンをほおばる。

「ダメだ。紹介している余裕なんか、おれにはない。だって、世の女性、すべてに甲乙つけられることができないんだから」

「はいはい、そうですか」風太は毎日同じことを言っている気がするが、めげずに女の子を紹介してくれと言う。そのあきらめのなさはすばらしいと思う。

「なあ、幸志郎。どうすれば彼女できるかな」

「さあ知らない。昴に聞きなよ」

「なあ昴。教えてくれ」

「えっと、相手が言ってくれるのを待つのがいいんじゃないかな」

「いや、それ昴限定だから。参考にならないから、マジで。遊びじゃねえの、おれは。ふざけてねえから、ふざけんなよ昴」

 風太は後半涙混じりに叫んだ。

「じゃあ、自分から動くしかないんじゃないか」

「だーかーらーいま動いてんの。動いた精一杯が、昴に聞くことなんだってば」風太は駄々をこねる子どものようだった。

「風太、他力本願すぎるよ。そんなんじゃ昴も困るだろ」

「あ、そうだ。今日、女の子と会うから、聞いてみるよ。紹介できる友達がいないか」

「さすが昴っさん。マジ神っす」

風太は昴の肩を掴んで揺さぶった。

 そんな姿を見るのはもう何度目だろうか。女の子を紹介したとしても、紹介元が昴なのだから、風太にはなびかずに、昴の虜になってしまうのが、常だった。

「じゃあ、今日の夜にメッセージ送るよ」

「まじ頼むよ。昴っさん。高校生活の最後に彼女いないのは辛いから。辛いから、ホント」

「幸志郎も、だよね?」幸志郎も紹介相手を探すか、という意味だろう。昴がぼくをまじまじと見つめる。一点の曇りもない、純真な目だ。

 ぼくは性懲りもなく頷いた。風太と同じ目を辿るというのにも関わらず、頷いたのだった。風太の言った高校生活最後というフレーズが、ばすん、と突き刺さっていた。

 何かしなくては。

 変わらなくては。

 行動しなくては。

「幸志郎、今年のおれたちは変わろうぜ」

 がっしりと握手を交わしたぼくと風太は、昴に向かって、お願いします、と言って深々と頭を下げた。

「わかったわかった。じゃあ、今日の夜待ってて。じゃあおれ行くから」

「どこに?」ぼくと風太はそろって言った。

「え、デート」

 昴はそう言って去っていった。

 ぼくは高校生活が変わっていくことを期待していた。

 しかし、ぼくたちの高校生活は、予期せぬ方向へ、向かっていった。この日から、崩れ去っていったのだと思う。

崩壊はいつもの生活の延長から始まる。


その日、昴からメッセージは届かなかった。風太は恨めし気に、怒りのスタンプを送っていたが、昴が何も反応しないことに、変に思った風太は、最後の方は、昴を心配するメッセージを送っていた。もちろんぼくも同じようなメッセージを送った。常に三人以上の女の子からくるメールを鮮やかな手つきで返す昴がメールを返さないのは異常なことに思えた。しかし、昴も疲れて寝てしまったのだろうと思うことにして、ぼくは眠った。


 翌朝、風太は教室に入るなり、自分の席――つまりぼくの前の席――に座る。ぼくの席は、教室の扉側の一番後ろにあった。昴の席は教壇の前に、あった。昴はいつも授業が始まるギリギリにやってくる。だからまだ昴は来ていなかった。昴が来るまでぼくと風太は馬鹿話をする。

「昴ヒドイよなー。まったく」

「きっと疲れて寝たんじゃない」

「そうかもしんないけどさ。でもさ、昴ってメール返さないことあったっけ」

「さあ、わかんないよ」

「アイツ、約束したのに裏切りやがってー。今日来たら、コイツでボコボコにしてやんよ」

 風太は手に持ったチュッパチャップスを振り回した。

「チュッパチャップスでは、ボコボコにできないよ」

「なにーコノヤロー」チュッパチャップスでぼくは頭をポコポコされた。

「意外と痛いから、やめろって。ボコボコじゃなくて、ポコポコならできそうだな」

ぼくと風太はくだらない話をして、昴を待った。昴以外のクラスメイトが集まったころ、タイミングを図ったように、昴――おそらく――がやってきた。教室のドアが開いて、そこにいた人物が昴か判然としなかった。その人物の顔はパンパンに膨らんでいた。顔は全体的に赤みがかっていて、一部は紫色に変色していた。昴と思ったのは、わが三年三組にやってきたからだったし、他のクラスメイトは昴以外がすでに登校していたからだった。

昴らしき人物が教室に入った瞬間、一部の女生徒がヒッ、というような小さな悲鳴を上げた。その人物の髪型や、髪のツヤからわかることは、彼が昴ということだった。ぼくは一瞬何が起きているかわからなかった。自分の見ているものが真実ではないと思っていた。しかし、さっきまで賑やかだった教室は、いま時が止まったように静かだった。その静寂さは、ぼくが見ているものが、真実であることを裏付けているような気がした。

風太が震える声で言った。昴に起こった何かについて驚きを隠せなかったのだろう。

「昨日のジャンプ読んだ? まさか、ゆらぎ荘のゆうなさんで泣くとは思わなかったぜ。てか、どうしたん! その顔!」

 不器用な聞き方だとは思うが、それが風太なりの気づかいだった。ぼくだったら、昴の顔について、言及はできなかっただろう。

 静まり返ったクラスメイト達は、風太の質問に対する答えに耳を傾けているような気がした。 

「なんでもないよ。ちょっと転んだだけ」

 昴は、あまりにも平然と嘘をつき、笑った。声は少しもごもごしているように聞こえたが、本当に何もなかったような口調をしていたため、油断するとその嘘を信じてしまいそうだった。しかし、昴の顔は、明らかに何らかの暴力――それも圧倒的な――がふりかかった顔をしていた。

「そっか、なんでもないのかーははは」

 昴の態度に合わせるように、風太は笑ってみせるが、明らかに声はおかしかった。

「昴――」

 ぼくの声は、授業開始のチャイムと数学の山川博先生が部屋に入ってきた音で遮られた。

「じゃあ、出席とるぞ。相場――」山川先生は、相場聡を呼んだところで、昴の異変に気付いた。出席簿と座席表を何度か見比べて言った。「おまえ、森広、か。どうしたその顔。というか大丈夫かお前」

「はい、だいじょ――」

「先生、森広君が体調悪いので、柚原君とぼくで保健室連れていきますが、いいですよね」

 ぼくは二人を立たせて、トイレへ向かった。昴をトイレの奥に立たせ、ぼくと風太は昴の前に立ち、同時に言う。

「昴、その顔で、なんでもないわけ、ないだろう」

「だから、なんでもないんだって」昴は怒っていた。

 ぼくは昴が怒るところをずいぶんと久しぶりに見た。昴が怒る、ということは、滅多にないことだった。

「でもよお。その顔はなんでもないわけはないだろうが」

「おい、お前ら、授業中だぞ。何サボってんだ」学年主任の田島仁先生の声だった。「なんだその顔、ヒドイ有様じゃないか。お前ら、なにやってんだ!」

 田島先生は鬼の形相だった。後から聞いたところ、ぼくと風太が、昴をリンチしているように見えたらしい。実際そう見えてもおかしくないシチュエーションだった。田島先生に、職員室で叱られている(正確にいうと誤解を解いていた)間、昴は保健室にいた。誤解が解き終わって保健室に風太と向かった。そこには昴はすでにいなかった。昴は教頭先生に連れられ病院に向かった、と保健室の新渡戸先生に聞いた。ぼくと風太は、昴の向かった病院を聞き、学校を抜け出した。自転車で向かうには、ずいぶん遠い距離だったが、そんなことは全く関係なかった。

 病院に向かう間、ぼくたちは無言だった。なぜかはわからないが、ぼくは、今日中に再度、昴に会っておかないと二度と会えない気がした。だから、必死で自転車を漕いだ。

 三橋中央病院に着いた。時間はすでに昼になろうとしていた。着いてから気付く、ぼくの自転車の後輪はいつのまにかパンクしていた。風太は、病院に到着するなり、乱雑に自転車を停めて、病院へ走った。

「とりあえず行くわ。幸志郎、おれの自転車に鍵かけといて」

「おい、そっちは、小児科だぞ」

ぼくの制止を振り切って、風太は、あっという間に見えなくなった。

「ったく、しょうがない」ぼやきつつ、風太の自転車をちゃんと停めて、鍵をかけた。

 小児科に、昴がいるとは到底思えなかったが、仕方なく風太を追った。小児科の受付の人に、「さっき騒がしい高校生来ませんでした?」と訊いた。受付の人は、風太に形成外科に行くように知らせた、と聞き、ぼくは形成外科へと向かった。

 病院に入ってから、足が重かった。自転車を漕いで疲れたのはもちろんだが、昴の身に何があったのか、知ることになるのが怖かった。風太のようなまっすぐさは、ぼくは持ち合わせていない。ぼくの中にあった思いは、昴はこれからも僕と友達でいてくれるだろうか、という思いだった。昴の怪我の原因とぼくは全くもって関係ない、しかし、昴がぼくたちから距離を置きたがっていることを感じていた。それは、きっとぼくたちに、何らかの火の粉がかからないように、という昴の優しさだろう。風太はそんな火の粉などお構いなしに立ち向かっていけるだろう。しかし、ぼくは、どうだ? その火の粉の前で立ちすくむんじゃないか? きっとそうだ。でも、昴はあのとき、ぼくに降りかかった火の粉を振り払ってくれたのではなかったか。

 ぼくは、昴と風太と友達になった経緯を思い出していた。つまり、ぼくの人生が、暗黒から光に、変化したときの事だ。


 小学五年生になれば、クラス替えがある。クラス替えをすれば、ぼくの人生は好転すると思っていた。しかし、人生はそんなに甘くなく、川谷文春とその一派はぼくと同じクラスだった。

 川谷は、ぼくの天敵だった。小学三年生のときから同じクラスメイトだった。三年生のころは、ぼくは川谷一派の一員だった。その頃から、ヒエラルキーは下の方だったが、一員ではあったのだ。四年生になって、あれはたしか、梅雨の季節だっただろうか、足を滑らせて、川谷のお気に入りのシャープペンシルを壊してしまった。ぼくはしっかり謝ったが、川谷は気に食わなかったらしい。その日から、風向きが変わった。始めのうちは、罰ゲームなどで、標的にされた。ランドセルを持つだとか、掃除当番をやらされたりとかをした。ぼくは、「おいおい、お前ら、勘弁してくれよー」と苦笑いをしながら対応していた。それは、不穏な空気を必死に振り払おうとしての苦笑いだった。次第に、苦笑いじゃすまなくなっていった。夏になり、プールの授業が始まったころ、水島秋穂の水着が無くなるという事件が発生した。水島は、泣いて、「私は確かに持ってきた」ということを主張して、泣き始め、水島の友人を中心として、水島の水着をクラスメイトのみんなで探した。ロッカー、掃除道具入れ、机の中、を探すがどこにもなかった。水島が、忘れてしまっただけでは、という空気が流れていたが、水島は、絶対に持ってきたということを主張し続けた。結局プールの授業の間、水島はプールサイドで泣き続けていた。

給食の時間になり、持参したランチョンマットを巾着袋から出そうとしたところ、いつもとは違う感触に気付いた。そして、触っているものが、ランチョンマットなどではなく、水着であることを理解した。川谷を見るといやらしい笑顔をしていた。川谷が首謀者であることは明らかだった。ぼくは、巾着袋に突っ込んだ手を恐る恐る引っ込めた。手にはなにかねばねばした液体が付着していた。そのころのぼくは、それが何なのか理解することはできなかった、がしかし、それが背筋を凍らせるようなものであることは本能的に理解していた。

 ぼくは、そのねばねばを一刻も早く洗いたかった。巾着袋は持ってくるのは不自然だと思ったので、机の中にある教科書の奥に隠した。水道は幸いにも、教室を出て向かいに設置されていた。必死に手を洗っていると教室から、声がした。

「先生、滝川くんの机になにか変なものがあります!」

 悪意に満ちた川谷の声に、背筋だけでなく、全身が一つの氷のかたまりになったみたいになった。廊下側の窓が開いていて、川谷が椅子の上に立ち天高く、ぼくの巾着袋を掲げているのが見えた。川谷がぼくの巾着袋に手を突っ込んだ瞬間、ぼくは走った。教室に入るなり、川谷に突っ込んだ。椅子の上に立つ川谷は、豚汁の入った鍋にぶつかり、鍋は倒れ、中身が床にぶちまけられた。ぼくが突っ込んだ勢いで、巾着袋の中身は、豚汁の上に着陸していた。そこには、箸セットとランチョンマットと水島と書かれたスクール水着が、あった。

「滝川……盗んだの、あんたなの……」

 水島の呟きは、クラスメイト達に聞こえていたらしく、女子たちは、ぼくから一歩引いていった。ぼくの慌てっぷりが、スクール水着を盗んだ犯人を裏付けるような態度になってしまっていたことに気づいた。床に倒れた川谷は後頭部を押さえうずくまったままだった。指の間から、血が溢れるのをみて、僕は唐突に気持ち悪くなり、吐いた。教室は豚汁と川谷の血とぼくの吐しゃ物の臭いが混ざっていた。教師に保健室に連れてかれ、着替えをした。着替えが終わり、水島の水着を盗んだことを問い詰められ、否定した。教師は、信じてくれた。しかし、クラスメイト達はそうではなかった。その日から、ぼくのあだ名は、スク水になった。

それからの数ヶ月、ぼくはあらゆる恥辱を受けた。ぼくが学校に通えていたのは、ただ親を心配させたくないという思いからだった。不穏な空気を感じ取っていた親が、心配するそぶりをしてきても、ぼくはなんでもないと答え続けた。その態度がより親を心配させることになっているとは、わからなかった。ぼくはただただ耐え、堪えた。学年が上がれば、クラス替えがあれば、きっと川谷とは離れることができるだろう。その一点だけが、ぼくの希望であった。しかし、教師たちは、いつも一緒にいたぼくと川谷の仲がいいと思っていたのか、同じクラスにした。これには、ぼくもウンザリだった。大人を信じられないと初めて思った。

「よお、スク水今年もよろしくな」

 クラス替えの名簿を見ているぼくの背後から、川谷が言った。いつのまに忍び寄っていたのだろうか。気色の悪いやつだと思ったが、女子達の間では、ぼくの方が気持ち悪い人物として扱われていたのだった。

「おい、幸志郎じゃん。おれだよ。おれ。柚原風太。覚えてるか」

 風太は、その名前のように、風のように爽やかな奴だった。風太とは一・二年生のときに同じクラスだった。

「ああ、風太。久しぶり。どうしたの」

「どうしたのって、冷たいなー。せっかく同じクラスメイトになったっていうのによー」

「えっ、そうなの」

「そうだよ。あ、あのさ」風太は小声になって言う。「お前って、なんでスク水ってあだ名になってんの?」

「なんでもないよ」

「風太、コイツ誰?」

 前髪の長い冷静な目つきをした人物が、ぼくと風太の間に割って入った。それが、森広昴との出会いだった。森広昴のことは、以前から知っていた。女子達の間で、誰がカッコイイか、という話になったとき、必ずあがる人物の一人だったからだ。

「滝川幸志郎。一・二年のときに一緒だったんだよ」

「ああ、コイツが噂のスク水か」

「……やめてくれよ」ぼくは消えそうな声で言う。

「なんだよ。幸志郎、やっぱりスク水って言われるの嫌なんじゃんか。嫌なら、嫌って言えよなー」

「嫌に決まってるよ。そんなあだ名……」

「滝川、お前がスク水盗んだって本当か」昴は、不躾に言った。

「盗むわけないだろう」ぼくは声を振り絞り答える。

「おいおい、教室に入ってもねえ内から、ケンカすんなよ」

「風太。滝川は、お前の友達か」

「え? 当たり前じゃん」

 一・二年生の頃は、ぼくと風太はそんなに親密ではなかったはずだった。だがそんなぼくを、当たり前のように友達と言える風太は、スゴイ、と単純に思った。

「じゃあ、おれの友達でもあるよな。そうだろ? 滝川」

「……えっと」

 ぼくは答えに困った。会ってすぐの人物を友達だ、と言ってのける昴を見て、スゴイ、と単純に思った。いくら、風太と繋がりがあったからと言って、初めて話すぼくのことを友達と認識してくれたのが、うれしかった。友達という人物がぼくにもいるのだということを約一年ぶりに実感していた。

「だからさ、おれの友達でもあるお前を傷つける川谷がおれは嫌いだ。というか、川谷とは、単純に合わない。あいつは一回殺さないと気が済まないと思う。だから、お前の代わりにおれがあいつをぶちのめしてやるよ」

「おいおいおい昴。やめろよどうしたどうした。急に、怖えよ。物騒じゃんか」

「風太、川谷が滝川に何をやったか、知らないのか」

「え、知らない」

「滝川がスク水を盗んだように見せたのは、川谷だ」

「そうなのかよ。なんで、昴がそんなこと知ってんだ」

「おれの彼女から聞いた」

 彼女! とぼくは思った。小学五年生から、彼女という存在はいても警察に捕まったりしないのだろうか、とよくわからないことを考えてしまった。

「彼女って、水島秋穂のことだよな」

「そうだ。滝川は、おれの彼女――秋穂の水着を盗んだことにされているんだ。しかし、秋穂は、滝川に盗まれていないとおれに教えてくれた。秋穂の水着を滝川の巾着袋に入れたのは、川谷だ」

「待て待て、なんで水島は、川谷が盗んで、幸志郎をハメたことを知ってんのに、黙ってるんだ」

「それは、秋穂が川谷に弱みを握られていたからだ」

「川谷は、本当に小学生かよ。なんか、父ちゃんが観てた時代劇の悪代官みてえな奴だな」風太は苦そうな顔をする。

「弱みって何なの」ぼくは昴に向かって訊いた。そのときのぼくには、自分の人生が好転しそうな予感があった。

「それはいえない。水島秋穂の弱みを他人に軽々と教えてしまったら、それこそおれは、川谷と同類だろう。弱みがある、と二人に教えるのも本当は良くないことだとは思うけど、でも、おれは二人が言いふらすようなヤツではないと信じたから、教えたんだ。とにかく、おれは、川谷に怒りを感じているということだ。だから、アイツを懲らしめてやる」

 ぼくは、人から、「信じた」と言われたのは、初めてだった。その言葉に高揚した。それにしても森広昴は、こんなにもよくしゃべる人物だったのか、と思った。あとになってわかることだが、昴は、怒りを感じると饒舌になるのだった。

「昴は、時代劇に出てくるサムライみたいだな。で、川谷を懲らしめるには、どうすりゃいいんだ」

「ああ、二人は気にしなくていいよ。待ってて」

 昴は、そう言って、軽やかに走っていった。川谷一派を連れて、川谷は玄関前で、談笑していた。

 ぼくと風太は、昴を遠巻きに見ていることしかできなかった。自分が何をすべきか、わからなかった。

 昴が川谷に何かを言っていた。激昂する川谷は、昴に掴みかかった。昴は、鮮やかに川谷の右手を弾いた。弾かれ、バランスを崩した隙を突くように、昴は川谷の右肘をぐっ、と素早く引っ張った。川谷がさらにバランスを崩したところに、昴は足払いをかけた。派手に転んだ川谷は顎を押さえ、呻いた。取り巻きが、昴に何かを言ったが、昴が取り巻きを一瞥すると取り巻きは、しゅんとおとなしくなった。

「てめえ、覚えてろよ」

川谷は、呻き声混じりに言った。

 昴は、ぼくらがいる場所へゆっくりと戻ってくる。その姿は、あまりにもカッコよく、女子達が、ワーキャー言う理由が理解できた。

 川谷がよろよろと立ち上がり、唾を吐いて、教室の方へと去っていった。

「さすが昴。強いなぁ」風太は昴と肩を組む。

「いや川谷が弱いだけだよ」昴は照れくさそうだ。

「な、なんか、格闘技やってるの?」ぼくは恐る恐る訊く。

「ボクシングと空手と柔道」

「すごいね。昴くんは」

「全然すごくないよ。親父がやれってうるさいんだ。あと滝川、おれの呼び方は昴でいいよ」

 ぼくは昴を憧れの眼差しで見つめて、頷きを忘れてしまった。格闘技が出来て、自分の父親のことを親父って呼ぶなんて、カッコよすぎると思った。

 それからのぼくは、川谷一派の悪意から、昴と風太に守ってもらうことで、スク水、という汚名を返上した。そして「滝」の字が入る名字の人にはありがちなあだ名「タッキー」に変わった。タッキーと呼ばれるようになっても、風太はぼくのことを「幸志郎」と呼び、昴は「滝川」と呼んだ。二人だけが、他の人と違う呼び方をしてくれるのが、ぼくはうれしかった。それからぼくたちは奇遇にも同じクラスメイトであり続けた。


 あのとき、ぼくは、昴と風太に守ってもらった。だからもし、二人が大変なときは、絶対に助けてあげたい。

昴を守って助けてあげなくてはいけない。

 ぼくに何ができるだろう。

いまはまだわからない。

でもきっとあるはずだ。

ぼくは、ぼくたちは、何年も一緒にいる友人なのだから。

 

 形成外科の受付で昴の様子を確認すると手術することになったと聞き、ぼくと風太はどうすることも出来ず、ただ待合室で待ち続けた。自転車で長距離を漕いできた疲れで、眠気があったが、昴のことを心配するあまり、眠ることはなかった。しばらくすると昴のお母さんがやってきた。

「ああ、幸志郎くん。風太くん。うちの子は?」

「あの、いま、昴は手術してるそうです」

風太が言った。ぼくは昴のお母さんの心配そうな顔を見て、なんと声をかけるべきなのか、考え、結局何も言えなかった。

「……そうなのね」昴のお母さんは目を伏せる。「どんな様子だったのかな。昨日の夜、あの子部屋にこもってて、朝も私が仕事で早く家を出ちゃうから、全然わかってなくて……。昨日の夜から顔も見てないなんてヒドイ親よね。思えばうちの旦那が亡くなってから、あの子と向き合う時間がなかったわ」

「おばさんがヒドイ親なんてことはないです。絶対に。昴が顔を合わせなかったのは、おばさんを心配させたくなかったからです」

 中学校三年生のとき、昴のお父さんは亡くなった。癌が原因だった。ぼくたちは三人でお見舞いに行くこともあった。おじさんが亡くなって、昴は二人暮らしになった。葬式の日、昴は泣いていなかった。葬式までの間に昴は、十分に泣いていたからだろうと思った。葬式が終えると昴は習っていた格闘技は全部辞めてしまった。昴は母親のために、中学校を卒業して、働きに出たがった。しかし、昴のお母さんは絶対にそれを許さなかった。その理由は、昴のお父さんの遺言でもあったそうだ。

大学までは絶対に出ろ。どんな道に進んでもいい。でも、人のためになるような道を目指すんだ。昴が、信じた道は、おれがここで命を落として途絶える道と繋がってる――

 中学校の卒業の日、帰り道で昴は、お父さんが残した言葉を教えてくれた。昴は、泣いていた。ぼくは昴の涙を初めて見た。昴が進む道は、どんな道なのだろう。きっとそれは、ぼくには到底たどり着けない場所にあるのだろう。ぼくは、昴を応援する。昴が信じられる道を見つけること、そしてその道を進んでいくこと、それを全力で応援することこそが、ぼくが現在進んでいる道でもあった。

 昴のお母さんが、昴の怪我の様子がどんな有様であったかを尋ねてきた。ぼくは昴のお母さんが気持ちを落ち着けられるように、慎重に言葉を選んで、昴の様子を伝えた。

 話が終わりそうになったタイミングで昴のお母さんは、診察室へと案内された。昴の怪我の様子を伝えることに精神力を使い果たしたような気がした。世の中の医者は、こんな大変なことを毎日行っているのかと思うとぼくには絶対にできない大変な仕事だと思った。

 昴のお母さんが戻ってくると命に別状はないとのことで、安心した。昴は、麻酔で眠っているらしく、今日の所は、帰ることになった。ぼくと風太は、昴のお母さんに送ってもらった。車中では、安心しきったのか、ぼくと風太は、車中で眠っていた。

 夜になって、眠ろうとしたところで、スマホに着信があった。見ると、昴からだった。

 ――女の子、紹介するのちょっと待っててくれ。

 ぼくは思わず笑ってしまった。昴は、自分の心配より、ぼくたちに彼女がいないことが心配なのかと思った。


 昴は、約一か月の間、入院することになった。

昴は殴られることになった原因を親にも、医者にも、教師にも、ぼくらにも言わなかった。何も言わない昴に対して、昴のお母さんは、何を抱えているのあなたは、といって泣いた。頑なに、心配しなくても大丈夫だ、と言い続ける昴を見て、川谷にいじめられていたころのぼくを思い出す。心配しなくて大丈夫だと言い続けるその姿は、周りの人をより心配させていた。

昴が入院を始め、一週間後の土曜日、ぼくと風太は見舞い品を買いに出掛けた。駅前まで出向き、相談の上、入院生活は暇だろうから、本でも買いに行こうということになった。ぼくがマンガと小説を選んでいるあいだ、風太はエロ本を選んでいた。本を買って、バスに乗り、病院に向かう。


「よお、昴。久しぶり」病室に入るなり、風太は言った。

昴の顔を見るのは、前回来たときから、たったの三日しかたっていなかったが、ぼくも風太と同じように久しぶりな気がした。小学五年生から、毎日のように一緒にいるから、数日離れただけでもそう思うのだろう。

「包帯苦しそうだね」昴の顔を見てぼくは心配になった。

昴の顔は、目と鼻の穴と口以外は、包帯が巻かれていた。

「二人とも来てくれてありがとう。包帯は見た目ほど苦しくはないよ。とりあえず座ってくれよ」

 昴に促され、ぼくらは座る。

「お見舞い持ってきたぜ」風太は、本の入った袋を渡し、ベッドの脇にあった剥かれたりんごを断りもなくほおばった。「りんごもらうじゃんよ」

「ほおばる前に言いなよ。風太」ぼくは風太に呆れる。

「ありがとう。これは何?」受け取った袋をのぞき、昴は包帯の隙間から、わくわくするような笑みを浮かべた。表情をあまり出さない昴がそんな風に笑うなんて、入院生活は、余程暇なんだろうと思った。

「エロ本」風太はりんごを無理やり三個もほおばりながら言う。

「それ以外の本もあるだろ」

「おお、これ読みたかった本だ」昴は袋から本を取り出す。「ありがとう。うちの母が持ってくる本、つまんないのばっかだから、助かるよ」

「いいってことよ。おれにもこれ見せて」

 風太は昴からエロ本を奪い、熱心に目を通し始めた。

 ひとしきり馬鹿話をした後、風太が切り出した。

「長く居すぎたから、そろそろ帰るわ」

「そう、わかった。気を付けて帰って」

「おう。あ、そうだ。昴って、その怪我どうしたん」

 おそらく風太は自分自身では、自然に聞き出したつもりだと思うが、全くもって、不器用不躾極まりない聞き方をした。

「うん。なんでもないよ」

「なんでもないわけねえだろうが!」

風太は昴に掴みかかった。ぼくは風太がそんな風に怒るということに驚きを隠せず、微動だにできなかった。風太は、いつものアホな言動から、クラスメイトにバカにされることはあった。それはお笑い芸人的なイジリで、そんなとき風太はいつも、怒るというより、ふざけることで、笑いに変えるように行動した。だから、風太が誰かに対して真剣に怒ることはなかった。そんな風太が、いま真剣に怒っていた。

「おい、風太やめろって」やっとの思いで、体を動かして風太を後ろから抑える。「昴、怪我してるんだから」

「止めんな幸志郎。おれはこいつに話があるんだよ。なんで、嘘つくんだよ。親に言えないのは、わかる。教師にも、医者にも言いたくないのも、わかる。でも、おれと幸志郎は違えだろ」

「痛いって……離せよ」昴は目をそらしていた。

「おまえは……おれと、おれたちと――」風太の力は、風船がしぼんでいくみたいに、みるみるうちに小さくなった。「くそっ、何て言えばいいのかわかんねえよ」

「風太、今日はとりあえず帰ろう。面会時間ももうすぐ終わりだし」宥めるように風太の背中を叩き、気持ちを鎮められないかと思う。

「昴、また来るからな。覚悟しとけよ」

「おいおい、風太、その言い方、リベンジするみたいになってるから」

「うるせえ、リベンジするんだっつうの」

「……ごめん。風太。幸志郎」

 昴は目をそらしたままだった。

 気まずい空気を払拭できないまま、その場をあとにした。

バスに乗って駅に向かう間ぼくは、風太とは一言も話さずに、夕日が沈んでいくのを見ていた。

バスを降りて、駅の駐輪場に向かう道すがら、ラーメン屋の中から、素行の悪そうな奴らが五人ほど出てきた。頭の悪いと言われている一ノ瀬高校よりさらに、下のランクである高校――衣丘高校の制服を着ていた。ここいらの地域では底辺とされている高校だ。ぼくは絡まれたらいやだなと思い、そいつらに気づかれないように距離をとった。

「あれ、おい。お前、滝川じゃね」

 聞き覚えのある声だった。聞きたくない声だった。

「川谷……」ぼくと風太は揃って言った。

「は? てめえらなに呼び捨てで呼んでんだコラ」

 中学校に上がり、川谷は別の学校であったため、離れることが出来た。川谷を最後に見たのは、約六年も前だったが、全く成長していなかった。あの頃と同じだった。リーダーぶって、自分より下だと見下している人を連れて歩く、そうすることでしか、自分の居場所を保てないのだろう。人を蔑み、軽んじて、馬鹿にして、虚勢を張る。それが川谷という人間だった。

「川谷クン、こいつらダレ?」

 川谷が常識人に見えるほどヤバそうなヤツがいった。

目には大きな青あざ。金髪オールバックでサイドを刈り上げて、前時代的なそり込みを入れ、眉毛がなくて、歯がボロボロで、学生服は全体的にヨレヨレだった。指にはめているごつごつした指輪は、服に反比例するように光っていた。学生服を来ていなかったら、ただの浮浪者だった。風太も眉をひそめ、そいつを見ていた。

「ああ、小学校んときの気に食わないヤツ」

 さすがの川谷も、金髪には一目を置いているのか怯えているのかわからないが、態度が軟化したように見えた。見た目通りのヤバいヤツなのだろう。

「ふうん。そうなんだ。じゃ、こいつもこの前のアイツみたく――」金髪はファイティングポーズをとる。「ボコっとく?」

「アキト。こいつらは、ザコだからどうでもいい」

「コイツも? こいつらは? ってどういう意味だ。川谷」風太は川谷に詰め寄った。

「おまえらのボディーガードちゃんのかわいいお顔に訊けよ」

「昴のことか。おまえらが――」風太は川谷の制服を掴んだ。

「お? やんの? いいじゃんいいじゃん」

金髪は嬉々とした声を上げ、不意に風太の腹を殴った。

「アキト、ここはやめろって」狼狽した川谷は、金髪の動きを抑えようとする。

「は? 知らんし、こいつからやってきたんだし」金髪は、更に風太の腹を殴った。

 ぼくは動けなかった。怖かった。自分にも、暴力が降りかかってくるのではと、足がすくんだ。

「アキト!」川谷が叫ぶような声を出した。「ここじゃ、人の目もあるから殴るのはやめろ」

 金髪は舌打ちをして、しぶしぶといった様子で殴るのをやめた。風太は腹を抑えその場にうずくまった。

「じゃあな」金髪は、うずくまった風太の腹を蹴った。

 んぐ、というくぐもった声を漏らす風太に、近寄ってあげることも、離れることもできず、ぼくは立ったままでいた。

「てめえ、警察とかに言うんじゃねえぞ。わかってんだろうな。言ったら、この前のヤツもコイツも殺してやるからな」

 何も考えられなくなっていたぼくは、金髪の言葉に頷いた。

 その頷きは、昴と風太に対しての裏切りの証であると思った。

 風太を病院に連れて行こうとしたが、風太は頑なに拒んだ。ぼくは、何としても病院に連れていきたかった。風太を病院に連れて行くことは、裏切りに対する罪滅ぼしでもあると思った。しかし、風太は、「おれまで、病院に行ったら、昴が心配するだろ」と言って断るのだった。

「でもさ……」

「幸志郎は気にすんなって、おれが決めたことだ。昴はあいつらから、おれを庇うために黙ってたのかな」

「そうなんじゃないか」

「あいつらが昴をあんな目に合わせたのは、確かなんだろうけど。昴があんな奴らに負けるかな」

「ぼくもそれは思った。あの金髪の右目にあった青あざは、昴が攻撃した証だ。多分」

「いくら相手が何人もいたとしても、昴がたった一発しか繰り出せずにケンカで負けることはあるか。いや、ねえよ」

「それはそう。余程のことがない限りありえない、と言ってもいい。だから余程のことが起こったんだと思う」

「なんだよそれって」

「弱みを握られているとか」

「女……かな」

「女の子だろうね。とにかく昴が何を握られているか探そう」

「そうだな。悔しいけど、おれらじゃ、ケンカじゃ勝てねえもんな。別の方法で、昴を助けてやんないとな」

 ぼくらは頷いて、昴を守ることを誓う。


翌日、学校の休み時間と放課後を使って、片っ端から昴の女友達・元カノ・現在進行形の彼女に話を聞いて昴の弱みと昴が殴られる前の足取りを探っていった。

そうして、昴と最後に会っていた人物が、ぼくがスク水と呼ばれる原因に関わっている人物――水島秋穂だった。

「なに、急に呼び出して、私これからバイトなんだけど」

 小学校以来となる再会に、開口一番食って掛かるような口調で水島秋穂は言った。水島秋穂の高校から、近い場所にあるファミレスに呼び出していた。

「悪いな、水島。ここおごるから許してくれよ。それにしても、おまえ、茶髪似合わないなぁ。黒い髪のが似合うぞ」

 水島秋穂は茶髪に、ブレザー制服を少し崩したような着方をしていた。小学生の頃の水島秋穂を知っているぼくらからしたら、目の前にいる水島秋穂は、背伸びして空回りしているような印象があった。

「え、なに、ウザイんだけど。帰るよ?」

水島にイライラされて、帰られる前に話を進めるために、単刀直入に訊く。

「今日、呼び出したのはさ、昴のことなんだけど」

「それメールでも言ってたけど、私と昴って、とっくの昔になんでもないんだけど」

「昔の元彼だろ」風太が言う。

「あのさ、付き合ったって言っても、中学生の間だけだよ。そんなのままごとみたいなもんでしょ」

「あのころの水島は、真剣だったけどな。結婚したいとかなんとか――」

「なに? やっぱ帰る」水島は立ち上がろうとする。

「待って水島。悪かった」ぼくは水島に手をかざし制止する「風太、ぼくが話すからちょっと黙ってて」

「わかったよ」

風太はふてくされるが、水島を怒らせないためには仕方なかった。水島は、ぼくに対して、過去の負い目を感じているのか、すんなりと従ってくれた。

「昴が、先週から入院したんだけど水島は、知ってる?」

「え、なにそれ。入院ってどういうこと?」

 ぼくは昴が入院に至った経緯を、憶測を交えながら、話した。

「川谷が、昴の怪我に関わってるの……?」

「確証はないが、十中八九、間違いない」

「そうか……」

「なにか心当たりある? 昴が怪我するまでの間に、最後に会ったのは、多分水島だと思う」

「私を疑ってるの」

「いや違う。そういうわけじゃなくて、どういう経緯で昴と会ったのかを聞きたいんだ」

「そう、わかった。私はあの日、知り合いに頼まれて昴との出会いのセッティングをお願いされたの。私の知り合い――吉田優香っていうんだけど。あ、優香は、同じ高校のクラスメイトなんだ。今年から同じクラスメイトになったんだ。優香は、昴のファンだったの。優香は、私が昴の元カノって知ってたから、いつも昴の話を聞いてて、始めは話だけで満足してたんだけど……」

 一息で話した水島は飲み物を口にした。喉が渇いたというより、気持ちを落ち着けるような態度に見えた。なぜかその態度は怯えているようにも見えた。水島が、優香、という人物を知り合いと言ったことに違和感を覚えた。優香なる人物はクラスメイトなのに、ずいぶんと距離があるように思えた。小学生の頃の水島は、全ての女子を味方につけるような愛想と魅力があった。それは、権力を振りかざすような人気ではなく、人徳によって得られるものだった。

「次第に、昴の家を見たいとか、昴とどこまで進んだかとか、プライベートなことまで聞くようになってきた。ちょっと嫌だなって思いながらも答えてたんだけど、中学生のときに、別れたっていう話をしたら、優香は、私のことを否定したの。なんであの昴くんと別れられるの、アンタ頭おかしいんじゃない、ってね。中学生だったとはいえ、私は昴に対して真剣だった。別れる前の昴は、お父さんのことがあって、すごく辛そうにしてたから、私は昴と一旦距離を置いたの。そこから連絡が自然になくなっちゃって、自然消滅っていう感じで私たちは終わったの。別れたことはずっと傷みたいになって残ってて、そんな言い方されて、私は本当に腹が立った。だから、ついカッとなって、言っちゃったんだ」

 水島は呼吸を整えているように見えた。そこで飲み物を飲み干した。

「なんて言ったんだ」風太は話の続きを促す。

「うるせえストーカー。ストーカーに何がわかんの、って」

水島は呟くように言った。飲み物はすでに空になっていたが、水島は残った液体を音を立てて飲み干す。

「優香はその言葉にヒドク傷ついたみたいだった。私と優香はその日から絶縁関係になった」

「水島も、傷ついたんだから、おあいこだろ。そんなの。しょうがねえよ」風太は水島の気持ちを思いやるように言った。

「そうかな」

「そうだよ」

「でも、優香はそうじゃなかったんだ。優香は、昴のファンクラブの代表の子と繋がってて、私が昴の悪い噂を流しているってことにされた。それから、瞬く間に、あることないこと広がって、標的にされたよ。標的にされているのは、今もなんだけどね。滝川、いじめられるのって辛いね」

 水島は、弱々しく笑った。

「そうだね。水島」ぼくは同調する。水島となんとなく目を合わすことができなかった。

「なんど謝っても謝まりきれないけれど、あのときのことは本当に申し訳ないと思ってるよ。ごめんね」

「大丈夫だよ。ぼくは。それに水島は何回も謝ってくれたし結局悪くなかったんだから。なんとも思っていないよ」

「それならいいんだけど。でもきっとあのときのバチが当たったんだろうな……」

「そんなことねえよ」風太は机を叩く。「お前は悪くねえって。幸志郎のことはもう過去のことだろ。幸志郎も許してくれてんだから、終わったことだろ。だから、過去の間違いと今の悪いところをムリヤリ繋げんなって。そんなことしても無駄だろ、辛いことと辛いことが繋げてもよ、辛いことがでっかくなったって思うだけじゃんか。昔は昔、今は今。問題は問題と繋がることもあるけど、繋がんないこともあるだろ。水島の抱えている問題は繋がんねえよ。……だよな? 幸志郎。言っててよくわかんなくなった」

「風太の言う通りだと思うよ」

「柚原は相変わらずよくわかんないけど、確信を突いたようなこと言うよね」

「なにバカにすんなよ」「風太。今キミ褒められてるから。怒るのおかしいから」「え、そうなの?」

 ははは、と水島は笑った。苦笑いじゃない水島の笑顔を見たのは、今日初めてのことだった。その笑顔はずいぶん魅力的で、昴は小学生の頃から、水島の魅力に気づいていたのだろうかと思う。

「標的にされて、数ヶ月後――つまり先週ね。優香は私のスマホを奪って、昴を呼び出した。私は優香と大の親友のフリをさせられて昴と会った。久しぶりに会った昴は、私との再会を喜んでくれた。優香そっちのけで、昴は、私と話した。優香は、それが面白くなかったみたいで、ずっとムスっとしてた。優香がトイレに立ったとき、昴は、私が抱えているものに気付いて心配してくれた。久しぶりに会ったのに、昴は、なにも変わっていなかった。むしろファンクラブとかができるのにも、納得できた。そこで昴は、何でいままで連絡をくれなかったのか、って言った。私は正直に、昴が辛そうにしているのが見てられなかったって言った。それを聞いた昴は本当に辛そうな顔をして、謝った。謝るのは、少なくとも昴じゃないと思った」

 昴の話をする水島は、より魅力的に見えた。うつくしいなとも思った。

「昴は謝った後に、おれは秋穂と別れたつもりはない。急に連絡が取れなくなったから、自分は嫌われていたと思っていた。だから、おれは水島に連絡することができなかった。水島のことを忘れるために、いろんな女の子と付き合ったけど、無理だった。だから、また付き合ってくれ、と言われた」

「なんか、昴。ヒモ男みたいな発言するな」風太はなぜか嬉しそうだった。多分、昴が水島を想い続けていたことが嬉しかったんだろう。でも、ヒモ男という形容詞はどうかと思う。風太の頭をはたいて、黙らせる。

「私はなんて返答すればわかんなかった。昴の言葉は嬉しかったけれど、標的にされていることを思い出し、よりヒドイ目にあうのではないかと思うと怖かった。答えあぐねている私のもとに、優香がトイレから戻ってきた。優香は、昴の言葉を聞いていたのか、顔を真っ赤にして私を睨んでた。テーブルにあった水を私にぶちまけて、優香はどこかへと行ってしまった。私はその日、昴に答えを出せないまま、帰った。昴は送ると言ったけれど、私を標的にしている人たちに、昴と一緒にいるところを見られるのが怖かった。昴には、私が標的にされていることを知って欲しくなかったのが一番の理由だった」

 昴の足取りがわからないまま話は終わる。ぼくは身を乗り出して聞く。

「じゃあ、水島が帰ったあとの昴がどうなったかは?」

「ごめん、わかんない。でも、心当たりはある」

「え、そうなの?」

「多分、昴の怪我には、優香が関わっている」

「まあ、今の話を聞く感じそうだろうな」風太は腕を組んだ。

「優香は昴のストーカーだったけど、優香をストーカーしているヤツがいて、そいつが昴を怪我させたんだと思う」

「そのストーカー野郎はどんなヤツなんだ」

「山口アキトっていうヤツ。金髪で、シンナーとかやってて歯がボロボロでキモイ奴。頭のネジがぶっ飛んでて、歯止めが効かないから、アイツいつか捕まると思う」

「そいつだ!」ぼくと風太は顔を見合わせた。

「川谷は、そいつとつるんでるらしいよ。なんか、川谷の子分的な立場らしいけど、実際には統率できていないらしい。だから、川谷って聞いたときに、山口アキトが関係してくると思ったけど。やっぱりそうだったのね」

「よし、わかった。水島ありがとう。そいつの名前がわかったら、こっちのもんだ。じゃあな水島」

「おい風太待てって。本来の目的がまだ果たしてないだろ。それに名前がわかったぐらいじゃなんにもできないよ」

「そうか。確かに。本来の目的って何だっけ?」

「あのなあ……昴の弱みが何なのかって話だろ」

「水島のことだろ。そんなの」

「え、なんで私が」水島は顔の前で手を振る。

「ああ、なるほど」ぼくは水島が照れる顔を見て、すとんと納得できた。昴はこの子を守りたかったのか。

「ちょっとまって、滝川まで。やめようよ。なんで昴の弱みが私の。恥ずかしいな」水島はしきりに前髪を触る。

「とりあえず昴の弱みがなんなのかわかったことだし、吉田優香っていう女に、話聞いてみたいよな。そいつが絶対に鍵を握っているし」

風太の発言に水島は怯えたような表情を浮かべた。

「でも、吉田優香に直接話聞きに行ったら、水島に迷惑がかかるだろ」

「そうだな。水島が学校でよりヒドイ目にあわされるかもしれねえもんな。それはダメだ。危険すぎる」

「うん、そうしてくれると助かる」水島は安堵した顔を浮かべ言った。

「どうしようなあ」

風太は今日何度目になるかわからない腕組みをして考える。

「じゃあ、話聞くんじゃなくて、尾行とかしてみる? 吉田優香を尾行すれば、吉田優香の周囲に、山口アキトが現れるんじゃないかな。ストーカーだし」

「現れるかもだけど、それでどうするんだよ」

「山口アキトの弱みを握るんだよ。それに、吉田優香の弱みも握れるかもしれないし」

「そっか、いいなそれ。昴も水島も助けられるし。弱みを握ったらどうしようか。警察に突き出すか?」

「山口アキトは警察に捕まるようなことをしてそうだけど。吉田優香は難しいんじゃないかな。ヒドイことはしてるけど、警察に捕まるようなことはしてないと思う」

「してるよ」ぼくの言葉を遮るように水島は言った。

「どんなことをしてるんだ」「風太やめろ。簡単に聞いていいようなことじゃない」

「いいよ」

 水島は、語った。先々週、昴と会った後から、いじめはエスカレートしていったという。ぼくが小学生の頃に受けたいじめとは違い、肉体的なものより精神的なエグさが増していた。それは女のいじめという違いなのか、高校生になったからの違いなのかはわからなかったが、おそらくどちらも合わさった結果が、酷さに繋がったのだろう。

特に酷かったのは、水島の写真を勝手にあるサイト上に乗せたことだった。そのサイトは、女子高生とデートをしたいと願う人が集まる世にも気持ち悪いサイトだった。水島は、中年男性とデートすることが勝手に決められていた。キャンセルしたら十万円を支払うことになっていた、と水島は言ったが、それはいじめ加害者が勝手に決めたことだろうと思った。水島は、その十万円を払うことが怖くなり、先週、知らない中年男性とデートをしたという。

風太は行かなくてもいいだろう、と言ったが、水島はその判断力すらなくなってしまったのだろうとぼくは悟った。

水島はデートの詳細を語った。

デートの条件の一つに、制服を着ていくことが条件だったらしい。学校の終わりに水島は指定の場所に向かった。スーツを着た中年男性がいた。その男は、普通のオジサンに見えた。ハゲでデブで汚い男が来ると想像していたが、どこにでもいそうな人物に見えた。仕事はできなさそうな人物だと漠然と思った。その男の車に乗り、ドライブをして、ラブホテルに連れて行かれた。中年男性は、「僕は捕まりたくはないからセックスはしないよ安心してね」」と安心させるように言った。そこで水島はセックスの手前まではすることだろうか、とより怖くなった。

そこまで話した水島は思い出して、気分が悪そうにしていた。ぼくもだいぶ気持ちが悪くなってきた。風太が話を止めようとするが、水島は話したいと言った。誰にも言えないから、あなた達二人だけにしか言えないから聞いてほしい、と言って話を続ける。

ラブホテルの中で、男は服を脱いだ。胸毛が腹まで繋がっていて体毛が多かった。水島は服を脱ぐように言われ、脱いだ。下着姿になり、水島は覚悟した。体や口などのあらゆるものを舐められるのだろうと。しかし、予想に反し、男は水島の体に一切触らなかった。

男は脱いだ制服を手にとって、それを着た。着た後、男は猫なで声になって、猫が毛づくろいをするように制服をベロベロ舐めた。男は舐める姿を強要した。見られることに興奮するようだった。ひとしきり舐めると男は、お金を渡し、帰れ、と言った。態度が豹変したことに怖くなり逃げるように退散した。ラブホから歩いて家まで帰った。制服からは、男の唾液の臭いがして、家に帰るまでに二回吐いた。親に制服の臭いを考えていると雨が降った。雨は次第に、どしゃ降りに変わり、親への言い訳を考えなくてもよくなるだろうと安心した。その翌日は風邪をひいたため、週明けから学校に通った。学校に行くと吉田優香に視聴覚室へ来るように呼び出された。視聴覚室に入ると教壇にあるプロジェクターが天井から降りてきた。映像が映し出される。男が制服を舐めているのを見ている水島がいた。ぴちゃぴちゃという音だけが、視聴覚室に響いた。吉田優香は、仲介手数料と称して、水島が受け取ったお金の七割を持っていった。この映像をばらまかれたくなかったら、同じことをしろと強要された。水島は従うことしかできないと思った。

「バイトがあるって言ったじゃん? それは今話したデートのことなんだ。今日この後、行かなきゃ行けないんだ」

「行かなくていいよ。そんなの」

「幸志郎何言ってんだよ。水島行け。行くしかない」

「おい待てよ。それは酷だろ」

「どっちみち行かなかったら、水島は、映像がばらまかれるんだぞ。行かなきゃダメなんだっつうの」

「それよりも、行かずに、吉田優香の怒りを買うのはどうだろう。短気な奴だから、絶対に水島に怒ってくるだろ。怒ったときにさ、動画をばら撒くって脅すと思うんだ。その音声を録音して、警察に突き出せば、吉田優香を痛い目にあわせることができるんじゃない?」

「でも、私は捕まらないかな。オジサンからお金もらったこととかが」

「ならないだろ。そんなの。水島が捕まるなんてことになったら、世の中、間違ってるぜ」

「結果的に、私の動画が世に出回ったりしないかな」

 ぼくたちは、そこで行き詰まり沈黙した。

 水島のスマホが鳴った。「あ、優香だ。――もしもし」

「ねえ、アンタどこにいんの? 今日バイトの日でしょ? 来なかったらわかってるよね」

 吉田優香はそれだけ言って、有無を言わさず電話を切った。声は甲高く、水島が持っているスマホの電話口から、キンキンとした声が、テーブルを挟んだぼくらのもとに響いた。

「ごめん、行くよ。私」

「そんな――」

 言いかけたぼくを遮って風太が言う。

「おれらもついていくから、安心しろ。絶対に助けてやる。おれら昴よりケンカが強いわけじゃないけど、昴の友達だから、絶対に助ける。ごめんおれバカだから、何言ってっかよくわかんないかもだけど。何とかするから」

「うん。ありがとう。信じてる」

「あ、水島」

「何? 滝川」

「あのさ、どうして、数年ぶりにあったクラスメイトを信じることができるの」

「だって、別れる間際の昴がよく言ってたこと思い出したんだもん。あいつらはおれの恩人だ。何があっても信じるって言ってたから、私も二人のこと信じようと思うんだ。じゃあね、行ってくる」

 水島はこれから大変な目に遭うかもしれないのに、笑っていた。自分を鼓舞しているとか強がりとかではなく、ただ純粋に笑っていた。昴のことが、好きで好きでたまらない、と言った笑顔に見えた。水島は、オジサンとの待ち合わせ場所をぼくたちに教え、待ち合わせ場所に向かった。

 水島が出発して、十分後、出発した。遅れて出発したのは、吉田優香を警戒してのことだった。

「なあ、幸志郎。おれらが、昴の恩人ってどういうことかな」

「ぼくにもわかんない」

 昴はぼくの恩人であることは間違いなかったが、ぼくら(特にぼく)が昴の恩人というのはどういうことかわからなかった。

 ぼくは昴を助けたことはなかった、いつも助けられてばっかりだった。ぼくは昴を助けるために行動していることは多分始めてだった。


 ベンチに座ってハンバーガーをほおばっている風太を横目に、水島を見守った。水島は公園の噴水の前でスマホをいじっている。ぼくと風太のスマホが震える。水島からのメッセージだ。ぼくと風太と水島でグループを作ってメッセージをやりとりしていた。

――柚原、さっきもごはん食べてたのに、またなんか食ってるし(笑)

――さっきはピザ、今はハンバーガー。

 風太のメッセージを見て、水島はくすくす笑っている。そこに近づく人物がいた。半袖のシャツをジーパンの中に入れて、色褪せたリュックを背負うすこぶるダサいオッサンだった。横幅は水島の三倍はあった。水島は顔を引きつらせて、歩いていった。

――やばい、超キモイ。なんか臭いし。ボクのこと、王子って呼んで、だって。誰が呼ぶかバーカ。

 水島はオッサン王子、と歩きながら、しきりにメッセージを送ってきた。メッセージを送ることで、心を落ち着かせているのではないかと思う。ぼくらは、主に風太だが、他愛ないやりとりをすることで、彼女の負担を和らげるように努めた。

 水島を見失わないように尾行する。

――ラブホに連れてかれそう……

 メッセージを見て、驚く。女性をラブホに連れて行こうとするまでに、会ってから五分も経っていない。中年男性の性欲の気色悪さに気味が悪かった。水島はその気味の悪さをより近い場所で感じている。可哀想だと思いながら、ぼくはメッセージを送る。

――腹が減ったとか言って、焦らせないかな。時間を引き伸ばすことで、どこかで見ている吉田優香をあぶり出したい。

――お互いのこと知りたいとか、お互いのこと知らないとムリとか言えば王子は、簡単に言うこと聞くと思うぞ。

 風太は水島にアドバイスした。もてあそばれ、振られた経験が多い風太は、男のもてあそび方を熟知していた。

――オッケーやってみる。

 水島は王子に何かを言った後、二階建てのカフェの窓際に座る。王子のような人物が入るには、かなり敷居が高く、女子力が高そうなカフェだった。

 向かいのビルの二階に昔から営業しているであろう喫茶店があった。ぼくらは喫茶店の窓際に座り、水島を見守った。

 王子は会話をしながら、馴れ馴れしく水島の体を触った。苦笑いする水島の前には、三つもケーキが並んでいた。それをゆっくり食べることで、時間を引き伸ばしている作戦だろうと思った。

「おい、幸志郎。アレ見ろ。山口だ」

 風太に言われた方向を見ると金髪の黒い服を着た山口アキトがいた。山口はヘラヘラしながらタバコを吸い、何かに向かって歩いていた。ガードレールに腰掛けている女性のところまで歩いいくと、おもむろに肩を組み、女性を驚かせた。女性は山口をうっとおしそうに、突き飛ばす。山口は相変わらずヘラヘラ笑っていたが、女性は怒りを隠そうとも思っていないようだった。

「あれが吉田優香ってヤツか」「多分そうじゃないかな」

 断定はできなかった。ぼくらは吉田優香の顔や特徴をまったく知らなかった。水島に確認してもらうためにメッセージを送ろうと思い、水島に目線を戻すと水島がいなかった。王子だけがそこにいて、少し焦る。

「あれ、水島がいない」

「多分トイレだろ」

 ぼくらの会話を聞いていたかのようなタイミングで水島からメッセージが届く。

 ――もうマジムリ。臭いし。トイレで五分くらい休憩する。

 労いの言葉を送信し、水島を気遣う。

「おれが山口たちの近くに行って動きを探ってくるから、幸志郎は水島を見守ってくれ」

 風太はぼくの返事を待たず、喫茶店を出ていった。水島と他愛ないやりとりをしつつカフェを見張る。カフェの入り口に目を向けると風太がスマホをいじるフリをして、山口と吉田に近づいているのが見えた。

 カフェ店内に視線を戻す。水島が遅くなっていることに焦れた王子は持っていたリュックから、ビニール袋を取り出した。何をしているのだろうかと注意深く見る。王子は、水島が使っていたフォークを手に取り、水島の食べかけのケーキを切る。食べるのだろうかと思っているとビニール袋にケーキの切れ端を詰めた。三つのケーキがすべて食べかけであったため、王子はご丁寧に袋を分け、ケーキの切れ端を袋に詰めた。飲み物のストローも当然のようにビニール袋に詰める。慣れた手つきだった。水島が使った三本のフォークの内、二本を別のビニール袋に詰めた。一本のフォークだけはベロベロと舐める。持ち手までしっかりと舐めていた。前回の制服舐め野郎といい、王子といい、性欲が暴走すると人は何かを舐めずにはいられないのだろうかと思う。その一部始終を何らかの保険にならないかとスマホで録画していた。ぼくのスマホが汚されたような感覚があった。水島には、ケーキを食べるな。食器には触れるな。何も聞くなと送信した。

 ――うん、わかった。なんかヤバそうだね……。もうちょっと休憩しようかな。

 水島からのメッセージを読み終えるたところで、不意に肩を掴まれた。風太が驚かせてきたのだろうか、と振り向くと、そこには川谷がいた。

 川谷は口を一文字に結び、ぼくを睨みつけている。と思った。

「川……谷」

 なぜ川谷がここに、という疑問で頭の中が埋め尽くされた。山口と川谷は繋がっているから、ここにいてもおかしくない。川谷にぼくがここにいることが明らかになったせいで、水島を守れなくなるのではないかと恐ろしくなる。近くに山口と吉田以外の人物がいる可能性を考慮すべきだった。風太のこともバレているのだろうか。そもそも川谷は山口の近くにいるからといって、同行しているとは限らない。だが、現状は何もわからない。とにかく安易に、情報を漏らさないようにしなくてはならなかった。

「滝川。ちょっと座ってもいいか」

 ぼくは頷いた。川谷は睨んでいるのではなく、思いつめたような顔をしているのだと気づく。その様子に、断ることはできなかった。それに、川谷が、ぼくのことをスク水ではなく、滝川と呼んだことに虚をつかれた。

「昴の容態はどうだ?」

「え……昴? うん、えっと、全治一ヶ月ぐらいだって」

 川谷が昴の容態を気にかけることに不信感があった。昴をあんな目に合わせたのは、川谷が首謀者と思っていた。しかし、いま目の前にいる川谷は、悪いことして謝る少年のような顔をしていた。

「そうか……」

「川谷が、昴をあんな目に合わせたんじゃないのか?」

「おれが原因ではある。でも、おれが昴をあんな目に合わせられると思うか? 昔、コテンパンにやられたんだぞ。それに何度も。アイツの強さは十分に知っているよ」

「複数人で襲ったとかじゃないの。奇襲とかしてさ」

「中学のときに懲りてるよ。そんなの」川谷は苦笑いを浮かべる。

 中学のときにそんなことがあったなんて知らなかったが、昴にとっては取るに足らない出来事だったのだろう。

「じゃあどうして昴があんな怪我を負ったの」

「山口アキト――あのとき柚原の腹を殴ったやつな、アイツが昴をあんな目に合わせた」

「そんなに強いの。アイツ」

「いや強くはない。昔、アキトとケンカしておれが勝っているからおれの方が強い。その経緯もあって、おれとつるんでるんだ」

「昴より弱いのなら、なぜ」

「アキトがあることを昴に吹き込んだんだ。要は脅しだ。水島秋穂って覚えてるか」

「覚えているに決まっているだろ」ぼくは思わず語気を荒げた。川谷が水島とぼくに酷いことをしたせいで、どれだけぼくが、水島が傷ついたかわかってないのだろう。川谷の言動から察するに向かいのカフェに水島がいることは知らないのだろうか。もしくは、水島がいることは知っていたとしても、ぼくと水島が繋がっていることまでは知らないのだろう。そうでないと、覚えているか、なんて発言は出ないだろう。

「いまのはおれの言い方が悪かった。あんなことしてしまったのに、覚えてないわけないよな。申し訳ない」

 ぼくは謝られたことになんだか拍子抜けしてしまう。いま目の前にいるのは、あのころの不遜な川谷ではなかった。テレビとかで見る人間関係に疲弊した社会人みたいだと思う。

「いまさらだけど、おれはあのころのことをずっと謝りたいと思っていた。滝川に偶然会えたから改めて謝らせてくれ。すまなかった」

 川谷はテーブルにぴったりと頭をくっつけているように見えるほど、頭を下げる。

「悪いけど、そんな簡単に、許せるような問題じゃない。昴のこともあるし。昴の怪我の原因に、川谷が関係してるなら、なおさら許せるわけがない」

「……そう、だよな」

「うん。そうだよ。許す許さないの話は、昴に謝ってから考える」

「森広の入院している病院を教えてくれるか」

「ごめん、それはぼくだけじゃ決められない。昴にも相談させてほしい。川谷のことを信じられているわけじゃないから」

「わかった。森広が了承してくれたら、教えてくれ」

 ぼくは川谷の言葉に返事をせずに、探る。

「で、昴が脅されたのは、結局何だったの。水島が関係するの」

 川谷は語った。

 吉田優香が水島を脅すために使った動画の撮影者は、山口アキトだった。山口は、吉田のストーカーというより奴隷に近いような存在らしく、吉田の命令はなんでも聞くのだという。山口は、吉田の命を受け、ラブホを押さえ、スマホのカメラを起動し設置した。動画はコピーされ吉田に渡った。山口のスマホの中には、水島の動画が削除されないまま保存されていた。

 山口は、吉田の命令で昴の様子を探ることがあり、昴の存在を気に食わなかった。その動画を手に入れた山口は、これは使える、と思ったそうだ。昴の強さを知っていた山口は、川谷達を呼び出し、昴をシめてやろうと提案した。昴の存在は、不良ぶっている男子高校生にとっては気に食わない存在だった。だから、川谷達は同意した。

川谷は昔のことがあったから、いつか仕返しをしてやろうと思っていた、と言った。次いで、あそこまでやるとは思っていなかったし、動画の内容も知らなかったと言った。ぼくはそれを聞いて、自分を正当化させるための嘘だろうと思い、沈黙で返す。拳を握り過ぎて血の気が引いていた。

 昴を呼び出したのは、川谷だった。水島秋穂のことで話がある、と中学のときの同級生経由で、連絡を取った。夜の公園に来ることを要求した。来ないと水島秋穂が援助交際をした動画をネットにアップする、と伝えた。

 昴は呼び出した公園にやってきた。川谷は山口と公園のトイレで待っていた。昴は、水島がそんなことをする奴ではない、と言って動画のことを信じていなかった。山口がスマホを操作し、昴に見せつけようとしていると、昴は山口を殴り、スマホを奪った。陰で潜んでいた川谷以外の人間は、山口が殴られたことにより、慌てて出てきた。全員が金属バットや竹刀などの武器を持っていた。武器を掲げた人間たちは、山口が殴られたことにより、冷静さを失っており、やみくもに殴りかかった。いつもの昴であれば、警戒なフットワークで、巧みに避けただろう。しかし、その公園で誰よりも冷静さを失ったのは、昴だった。昴がスマホを手にしたときに既に動画の再生が始まっており、そこに映し出された水島を見てしまった。

 昴は後頭部を殴られ、バランスを崩す。反撃の間を与えないよう滅多打ちに殴られ、昴は何もできないままぐったりした。川谷は同級生の頭が、膨らんでいくことに怖くなり、何も出来なかったと言った。

 ぼくはそれを嘘だと思った。虚勢を張らずにはいられない川谷が何もしていないわけはなかった。人から舐められることを嫌う川谷は、確実に攻撃の手を加えたはずだった。

「自分は何もしていないなんて、嘘つくのはやめろよ」

「本当だって……」

「嘘だ」

「……一発だけ、だ」

「ふざけるなよ」

 ぼくは、川谷に対して、怒りを露わにすることはできても、風太のように掴みかかったりするようなことはできなかった。それは昴に対して、不誠実なのだろうかと思う。

 川谷が手を出していないことを、山口に感づかれ、やむを得ず殴った。と言った。力を込めたフリをしたから、痛くはないはずだ、川谷は言ったが、殴ったことにはかわりがなかった。ぼくの怒りは、沸点を超えて上昇し続けているように思えた。

「言い訳はするな。事実だけ言え」

 そう言って川谷の話を続けさせた。

「昴がほとんど動かなくなって、おれたちは、その場を引き上げた。昴が死んでしまうかもしれないと怖くなったおれは、山口達と別れた後に、公園に戻った。だけど、昴はその場からいなくなっていた。家に帰ったのだと思い命には問題はなかったのだと正直安心した。おれはその日から、山口と距離を置きたかった。アイツは、頭がオカシイ。ネジとかが外れているとかじゃなくて、ネジそのものがないんだ。アイツはいつか警察に捕まるようなことをやる、いや、もうすでにやっている。遅かれ早かれアイツは捕まる。そうなったときにおれはアイツに巻き込まれたくはねえ。もう少し普通に生きたいんだおれは……」

「もうすでに巻き込まれてるじゃないか。川谷は」

「そうだけどよ。今ならまだ、引き返せるところにいるんじゃねえかと思ってんだよ。無理かな」

「それはぼくは知らない。知りたくもない」

 ぼくは川谷に対し、あえて突き放すように言った。ぼくをいじめたことに対しては、謝ったこともあり許してもいいかと思えた。だが、昴は違う。昴を殴ったことは絶対に許さない。

 川谷は思いつめたような顔をして、沈黙した。

「許されるか許されないかはわからないけど、川谷には、やることがあるんじゃないか」

「なんだよ。昴に謝ること……か?」

「違う。それもそうなんだけど、水島の動画を削除するとか、あるだろ」

「ああ、そうだな。確かに。そのこと、なんだけどよ。実は水島は、この近くにいるんだよ」

「水島が?」ぼくは白を切り、水島がいるカフェを見た。王子がイライラしているのか、テーブルをトントンと指で叩いていた。カフェの下を見ると、吉田がいたが、山口と風太はいなかった。風太はこっちに戻って来ているのが見えた。

「そうだ。水島は、今日もそのバイトをさせられてるんだ。山口は、ラブホをすでに押さえていて、そこで待ち伏せしている手はずになっている。あらかじめ断っておくが、おれはこのバイトの件に絡んでいない。山口がペラペラしゃべったから知っているんだ。山口は動画を撮って、水島だけじゃなく、客のオヤジどもも脅す。美人局ってヤツだ。それに加え、今日は水島が帰る前に脅し、オヤジに金を払わせた後、水島を犯すつもりなんだ。吉田の命令でもあるらしいんだが……。おれは、それを止めたい」

 そこまで聞いて、川谷は、水島のことが好きなのだろうと思った。小学生の頃のスク水事件は、川谷の屈折した愛情表現だったのかもしれない。屈折しすぎて嫌われてしまったが。川谷は、不器用なのだな、と思う。直情的な行動をとるが、それを反省し、なんとかしたいと思っている。だが、不器用だから、一人ではなにもできないままでいるのだろう。川谷は、子分の前で弱みを見せるわけにはいかないし、怯えることも恐れることもできなかった。だから、事情を少しでも知っているぼくくらいしか、昔いじめていたぼくぐらいしか、縋る人間がいないのかもしれない。そう思うと、すこし怒りが和らいだような感覚があった。

「おい、川谷。なんでお前がここに座ってんだよ」

 風太だった。

「柚原、お前もいたのか」

「風太。一旦落ち着いて。まずは座ってくれ」

 ぼくはかいつまんで、川谷との経緯を説明した。そこでぼくは、川谷に、水島とのことも明らかにした。

「おれはコイツのことは信じねえ。昴に怪我させたヤツを信じるわけにはいかねえ」

 風太もぼくと同様に怒りを抑えることができない様子だった。

「おまえらがおれを信じられないのはわかった。でも、いまは信じなくていいから、お互い協力するべきなんじゃないか。水島に危険が迫っているんだから」

「でもよ――」

「風太、川谷の言うことも一理ある。いまは互いに、協力しよう」風太は口を結び不満そうだったが、納得した様子だった。

「川谷は、これから行くラブホの場所を知っているのか」

「ああ、知っている。竜宮城って名前のラブホだ。ここから歩いて十分ぐらいの所にある」

 ぼくと風太のスマホが着信を告げる。水島からだ。

――さっき優香からメッセージが来た。スクショ送る。とりあえずもう少ししたらお店出る。なんとかして、くれるよね?

 水島の不安を告げる文章に、風太は、当たり前だ、という文章を送った。しかし、風太は、不安で仕方がないという顔をしてカフェの様子を見ていた。

水島から吉田優香とのやりとりをしたメッセージ画面が送られてきた。そこには、吉田優香から、水島を見張っていること、バイトをさっさと終わらせること、命令に従えないのであれば写真をばら撒くと脅すことなどの内容が映し出されていた。

 カフェを見ると、水島がトイレから出てきて、席に戻った。

 川谷にも水島からの内容を伝える。

「もう時間はない、な」川谷は一瞬で年をとったみたいに深刻な顔をする。

「山口達の様子はどうだった」

「なんか言い争ってたな。金がどうとか。川谷が言っていた通り山口は、水島を犯すつもりだ。水島を犯せば、吉田は山口と付き合ってあげてもいい、みたいなことを言ってたな。あの女も男も、胸くそ悪りいな。山口は、五分前ぐらいにラブホに向かったな。そのあとも見張ってたんだけど、吉田は誰かに電話してたな。誰かはわかんないけど、水島は偉そうな態度だった」

「その電話の相手に心当たりある? 川谷」

「わからない。吉田とおれはほとんど接点がないからな」川谷はお手上げだ、というように両手をひらひらさせた。

「幸志郎、これからどうすればいい」

 ぼくに聞かないでくれ、と言ってグダグダしている余裕はなかった。考えてとりあえずの答えを出す。

「川谷はラブホで山口を止めてくれ、風太は吉田の動向を探ること、ぼくは水島と王子の尾行をする。各自、連絡を取り合うために連絡先を交換しよう」

 ぼくと風太は、川谷と連絡先を交換した。川谷は一足早く喫茶店を出ていった。ぼくと風太は、一緒に喫茶店を出る。

「幸志郎ヤバくなったら、連絡しろ。おれがなんとかするから」

 風太はそう言って、吉田がいる場所へ向かった。

 水島が王子とカフェから出てきた。王子は薄ら笑いを浮かべている。これから水島とする行為に期待を膨らませているのだろう。

 気持ちが悪い。

 道路を挟んで、水島と目があった。ぼくは水島に頷く。

 ――大丈夫だから。

 ぼくはまるで根拠のないメッセージを送る。

 水島はゆっくりと歩くことで、時間を稼いでいるが、着実ラブホに近づいていた。川谷から、メッセージが届く。

 ――部屋は三〇二号室だ。山口から、水島をみんなで犯そうっていう内容のメッセージが来た。おれは怪しまれないように行くことを告げた。他の奴らは、さすがにビビッて来られないみたいだ。

 部屋の番号を水島に知らせる。風太からは、部屋の番号を指定されたら別の部屋がいいって焦らせ、と連絡が入った。水島は了承する。

 水島と王子がコンビニに入っていった。水島が時間を稼いでいるのだろう。

 コンビニから先はラブホに向かうための路地しかない。後からつけても一人でいるところを王子に見られたら、怪しまれるかもしれない。ぼくはラブホの入り口に先回りして、待つことにする。ラブホの入り口前にはヤシの木みたいな植物があり、その木の陰に隠れる。幸い、ラブホの照明から逃れる場所にその木はあった。

 水島に先回りしている旨を告げる。

辺りは静まっていた。目の前の道路はラブホに向かう人しか通らないような道なのだろうと思った。黒い車が乱暴な運転で、ラブホに入っていった。

スマホが振動する。メッセージではなく、着信だった。風太からだ。

「幸志郎、吉田がサラリーマンの男に連れ去られた」

「え? どういうこと」精一杯に声を潜めて、返事をする。

「多分だけど、水島の服を舐めた男だ。そいつが吉田に近づいて、何かを話していた。吉田は抵抗するようすもなく、車に乗せられてった。黒い車だ」

 風太が知らせたサラリーマン風の男の特徴は、水島の制服を舐めた男と合致していた。川谷の話によると舐め男も脅迫されたということだった。舐め男の逆鱗に触れてしまったのだろう。制服は舐めるくせに、自分が舐められることを我慢できなかったのだろうと思う。

「車はどっちの方向に向かった」

「ラブホの方向に向かったのは間違いない」

 さっきの黒い車が、その車だろう。

「わかった」

「幸志郎、すぐにそっちに向かうから、一人で行動するなよ」

 風太は言って電話を切る。

 ――滝川、柚原、こっちはスタンバイした。浴槽に隠れてる。山口は、ナイフとバットを持ってる。

 川谷からメッセージが来た。吉田が連れ去られたということを告げる。川谷は狼狽した様子だったが、とりあえずスタンバイしていてくれと告げる。

 水島からのメッセージが来た。

 ――歩いて入るのは恥ずかしいってごねったからタクシーに乗って、ラブホに入ることになった。これ以上は時間を稼げない。もうすぐで着く。

 タクシーが坂を上がってくるのが見えた。水島の横顔が照明に照らされる。無表情を作っているのがわかる。

 風太からの連絡はない。

 ――ねえ三〇二ごうしつだよね

 水島からのメッセージから、文字変換している余裕がなさそうなことが伺えた。そうだ、と返信しようとすると続けてメッセージが来る。

 ――九かいの

 メッセージは途切れていた。九階に行こうとしているのか。王子はなぜ予定を変更した。川谷が裏切ったのか。

 ――おまえら逃げろ

 川谷からのメッセージだ。逃げろとはどういう意味だろうか。一体どうなってるんだ。川谷のメッセージからは裏切りの様子は見受けられないような気がした。

 風太を待ってはいられず、ぼくはラブホに向かった。電光パネルにいくつもの部屋が映し出されていた。最上階は九階だった。

 どこだ。どこに、水島は向かった。電光パネルの点滅が消えた。九〇四号室。

 ぼくはエレベーターに駆け込む。エレベーターで上がる間、風太と川谷にメッセージを送る。

 ――多分、九〇四号室に水島が向かった。

 すぐに返信が届いていたが、スマホを確認する余裕はなかった。九階に着いた。

 エレベーターが開くと王子が歩いているのが見えた。王子は一人だった。手には札束を持っていた。王子はぼくに気づくことはなく、歩いていった。王子が向かった方向を見ると、帰るためのエレベーターがあった。

 王子は帰っていった、のか。

 目的は性欲じゃなくて、金だったのか、なんで金がもらえるんだ。金を払うのは、王子のはずではないのか。疑問符が頭を駆け巡る。九〇四号室に近づく。声は聞こえない。ドアを開けたところでぼくに何ができるというのか。風太を待つか。二人が集まったところで、ぼくらになにができるというのか。こんなとき、昴がいてくれたら、と思う。昴を守るために、行動していたはずなのに、昴にすがろうとするなんて、なんて情けないのだろうかぼくは。

 ぼくはドアノブに手を――

「おい」

 ぼくは心臓が爆発したのではないかと思うほど驚く。見ると風太がいた。風太は声を潜め、続ける。

「幸志郎。何してんだよ。おれを待てっていっただろうが」

「ごめん、水島が心配で。居ても立っても居られなくって」

「水島はそこの部屋にいるのか」

「多分」

 風太は躊躇なく、ドアを開いた。

「水島!」

 風太の突然の行動に驚きつつ、ぼくは必死に風太を追いかけた。

「柚原……滝川……」

水島は制服を着たままベッドに寝かされていた。水島に覆い被さった全裸のオッサンが水島の全身を舐めている。舐め男だ。

「助けて……」

「おい、アンタやめろよ」

 風太は舐め男を蹴り飛ばす。舐め男はベッドの上から転がり落ちた。ぼくは水島の手を引っ張って、体を起こさせる。水島の手のひらは唾液でべっとりと濡れていた。水島はぼくたちの後ろに周る。

 舐め男が立ち上がる。

「なんだ、君たちは! 僕は、この子の客だぞ」

「うるせえ、知らねえよ。おれはコイツの同級生だよ」風太は面倒くさそうに言った。

「同級生が何だって言うんだ。金なら払っただろう」

「もらっていないし、そんな汚い金なんかいらないってば」水島は叫ぶ。

「だってよ。だから帰るわ。おれら。じゃあな舐め男」

「ただで帰れると思ってんのか、オマエら」

 舐め男は、ベッドの下にあったなにかからナイフを取り出した。切っ先はすでに、血が付いていた。水島の血か、と思うが、さっき見た限りでは、血が出ている様子はなかった。

「それ、誰の血だ」風太は声を張った。恐怖心を振り払うように大きい声を出したのだろう。

「オマエらのお仲間の高飛車な女だよ」

「吉田のことか? アイツは仲間なんかじゃねえよ。でも仲間じゃないけど、お前アイツになんかしたのか」

「ちょっと脅してやっただけだ」

「あの子はどこにいるの」水島が言った。

「教えるわけねえだろ」舐め男は右手側の部屋を見た。恐らくその方向に、吉田がいるのだろう。

「放っておけよ。あんなヤツ。おれらは帰ろうぜ」風太は帰ろうする素振りを見せる。

「おい、待てって、僕は金払ってんだぞ。あのデブ男と女子高生に。出ていくなら、刺すぞオマエ」

「は? 知らねえっつってんだろ。どうせお前には人を刺すなんてできねえだろ」

 風太は明らかに挑発していた。

「僕をバカにするのか。オマエ、ガキの分際で」

「バカにすんに決まってんだろ。いい年したオッサンが、女子高生とエロいことしたいとか考えてんじゃねえよ。アダルトビデオとか風俗でガマンしてろよ」

 風太は近くにあったペットボトルを投げて、出ていこうとする。

「ふざけんなクソガキ。おれはガマンしてるんだよ。常に。大人がどんだけガマンしてると思ってんだ」

 舐め男が出口にむかった風太に突進していく。ぼくと水島は動けずに、ベッドの脇に突っ立ったままだった。

 不意に昴の言葉を思い出す。

 ――いいか、滝川。ナイフを持った相手と対峙したときには、恐怖しないことが重要だ。ナイフを使ってくるヤツは、実際に人を刺したことなんてないやつが大半だ。ナイフを使い慣れていない奴は、突進してくる。だから、その突進さえ避けてしまえば、あとは簡単だ。勢い余っているところを蹴り飛ばす。それだけで、相手は簡単に倒れる。あとは馬乗りになるだけだ。

 ぼくは横を通り過ぎていこうとする舐め男を蹴った。

 急に横から蹴られた舐め男は、バランスを崩し、倒れる。ナイフが床に落ちる。ぼくは舐め男に突進する。風太が落ちたナイフを蹴る。ぼくは舐め男の手を抑える。しかし、舐め男の力はとてつもない。風太も協力し、抑える。風太は膝に体重をかけ舐め男の顔面を圧迫する。舐め男の力は弱まるどころか強まる。もうこれ以上は抑えきれない、と思った所で、急に舐め男の力が弱まる。水島がぼくの背後にいた。水島は舐め男の股間に蹴りを炸裂させていた。

「ヘンな感触したあ。最悪……」

「さすがだ水島」「ありがとう」

「いや、こっちのセリフだから。助けてくれてありがとう」

 言い終えると水島は声もなくポロポロ涙を流し始めた。安堵から、泣いているのだろう。ぼくはティッシュを水島に渡す。風太はバスルームに吉田の様子を見に行った。

 水島が落ち着いてきた様子を見計らって、ぼくもバスルームに向かう。吉田は下着姿で洗面台の前でうずくまっていた。

「お前、水島の動画持ってんだろ。今すぐ削除しろ」

「アンタ、誰? いきなりなに指図してんの」

「おれは柚原。早く出せよ。お漏らし野郎」風太は、洗面台に脱ぎ捨てられていた制服を手に取り広げた。スカートの部分がぐっしょり濡れていた。スマホで写真を撮り、風太は追い討ちをかける。「この写真、ネットに流してやろうか」

「やめてよヘンタイ。最低っ。わかったって消せばいいんでしょ」

 吉田は風太から制服を奪い、スマホを胸ポケットから取り出した。風太は吉田のスマホを奪い、風呂場に行き、浴槽に捨てる。

「ちょっと、なにすんの」

「削除しただけじゃ。信じられねえから、保険だよ保険。さっきの写真消すから、あんま怒るなって」

「怒るに決まってんじゃない。そんなの大体あんた秋穂のなんなの? カレシなの?」

「いや、昴の友達」

「昴くんの……」

「あの、吉田優香、さん?」

「ひっ」吉田は話しかけられたことに驚く。「急になによビックリした……アンタも昴くんの友達なの?」

 ぼくは頷く。「怪我は大丈夫?」

「怪我? ああ、指の先っちょ刺されただけよ」

「やめて」

 水島の声がした。ぼくと昴はベッドルームに慌てて戻る。

 山口が水島を押さえつけていた。水島は下着を脱がされていた。

「やめてじゃねえよ。今日はオマエを犯してもいい日なんだよ。ちょっと計画が崩れちまったけどな」

「やめろ」風太は掴みかかろうとするが、足を止める。

 山口は、ナイフを持って振り返った。ナイフには血がべっとり付いていた。

「あ、なんだオマエ。この前殴ったやつじゃんか。邪魔すんなよ。いまいい所なんだから。ムカつくなあ! どいつもこいつもおれの邪魔ばっかしやがって」

 山口は、頭を掻きむしり、ベッドから降りてきた。山口は、ナイフを逆手に持ち替えながら、入り口に移動し、逃がさないように入り口を塞ぐ。舐め男のように突進せず、確実に切ろうとするものの動きだった。昴はこういうときどうすればいいって言っていたのだったか――思い出せなかった。

「川谷はどうしたんだ」

 山口の持っているナイフの血は、川谷の血としか思えなかった。

「川谷クンは、三階の部屋にいる。血出して倒れた」

「なんで」

「そんなのおれがやったに決まってんじゃんか。だってこの女、水島、だっけか? が三階に来なくて、むしゃくしゃしたんだよ。川谷クンが急に怖気づいて、犯すのやめようとか言うんだもんよ。怖気づいてムカついちゃってな。アイツ、いつも偉そうだったし。だから、太もも刺した」

 まるで、蚊を叩いた、みたいな口調で言う。山口にとって川谷は――裏で信用されていなかったのを知らなかったとしても――仲間じゃ友人じゃなかったのか。いとも簡単に友人であった人物を刺せるなんて、やっぱり、コイツは頭がイカれている。

「ぶっちゃけ、川谷クン刺して、捕まるかもしんなくなったから、どうせなら全員殺そうかな。人を殺してみたかったし、邪魔者いなかったら、水島も犯しまくれるし」

 ぼく、風太、水島は、山口のイカレっぷりに言葉を失った。

「やめてよ。アキト。そんなのアタシが困るじゃない」

 一部始終を聞いていた吉田が、バスローブ姿で出てきた。

「あれ、優香じゃん。なんでいんの?」

「色々あったのよ」

「ふうん。おれも色々あった」

「水島を犯すのなんて、いいからもう終わりにして帰ろうよ」

「わかった」

 子どものような態度ですんなり納得する山口に拍子抜けする。

「じゃあ、優香。ヤらせろよ」

「は、なんでそうなんの」

「約束だろ。オマエに協力したら、ヤらせてくれるって」

「してないわよ。そんな約束」

「え、なに、約束破るんだ」吉田は目を剥いたようににらむ。

「そんな約束してないってば」

「そっかあ、わかった。じゃあ、とりあえずこの場にいるやつ全員殺す」

「だから、なんでそうなるの」吉田は明らかに怯えていた。噛み合っていない山口との会話は、横で聞いているぼくらも恐ろしいと感じる。平気で人を殺すと言えること、そして、本当にやってもおかしくない人物であること、山口アキトは完全に場の空気を掌握していた。

「で、殺した後にオマエを犯すことにするわ。人も殺したかったし、オマエも犯したかったし、一石二鳥、だろ?」

 諦めのような希望を口にして、山口は嗤う。

「意味わかんない。なんでそうなるの」吉田は泣き始めた。

「自業自得じゃない。そんなの。オマエがおれに振り向かないのが悪いだろうがよ」嗤っていた山口は、感情が狂ったように叫ぶ。

「だって、そんなの……」吉田はその場でへたり込む。

「じゃあ誰から、殺そうかな……。あ、女は後だから安心しろよ。水島と優香は、風呂場の前で座ってろ」

 水島と吉田は仕方なく従い、風呂場の前にて座る。

「どっちにしようかな」

「おれだ」風太が言う。

 ぼくは何も言えなかった。

「おお、勇気あるね。でも、オマエの言うとおりにしたくなーい」

 ヘラヘラする山口。なぜ、人を殺すと言っている人間がこうも嗤えるのだろう。こいつは、人ではないなにかなのだろうと思う。

「ああ、そうだ。かみさまのいうとおりで決めよう。かみさまが決めるんだもん。いいだろ、なあ?」

 山口はぼくと風太を交互に指差して、口ずさむ。

「ど、ち、ら」

 ぼくは風太と目が合う。

「に」

風太が、目で合図を送る。

「し」

極限の緊張からか、ぼくは風太の考えていることがすべてわかる。まるでテレパシーみたいに。

「よ」

 舐め男の持っていたナイフを取り、山口に刺せ、おれがお前を庇うから。

「う」

無理だよ、だって、風太が死んじゃうかもしれない。

「か」

やるんだ、幸志郎。このままじゃ、どっちみち全滅だ。

「な」

昴になんて言えばいいんだよ。

「て」

 幸志郎。頼む。

「ん」

 ぼくは、目を閉じる。考えろ。どうすればいい。考えろ。どうするかを。

「の」「か」「み」「さ」「ま」「の」

 ぼくは、目を開ける。考えた。どうするかを。考えた。どうしたいかを。

「い」

 ぼくは、風太を見る。

「う」

 風太は、ゆっくり首を振る。

「と」

 ぼくは、動く。

「お」

「やめろ、幸志郎!」

「り」

 ぼくが山口に向かって飛び込もうとする瞬間、山口の背後にあった入り口が開く。川谷だ。山口は突如開いた扉に驚き、振り向こうとする。川谷は、山口の首を羽交い絞めにする。ぼくはその隙を狙って、ナイフを抑えようと飛び込むように突進する。山口は懇親の力で抗い、ぼくは蹴り飛ばされる。視界が反転し、風太がナイフを取っているのが見える。風太が叫ぶ。川谷の名前を叫んでいる。水島と吉田は目を見開いている。体を起こし、川谷を見る。川谷の右腹にナイフが刺さっている。川谷は羽交い絞めを解かない。山口の口からよだれが溢れる。山口はぐったりする。ナイフが床に落ちる。川谷が跪く。

「川谷、大丈夫か」風太が駆け寄る。

「……あ、ああ」川谷は、はあはあ、と息を漏らして服をめくる。腹には、週刊誌が巻かれていた。そこから血が滲んでいた。

「ちょっと痛えな……でも、多分、腹、は大丈夫、だ」

 川谷はその場にうずくまる。左の太ももが、真っ赤になっていて、血を流しすぎているせいで、意識が朦朧としているのだろう。

「くっそ、クラクラすん、な」

「もう、しゃべんなって、救急車呼ぶからよ」風太はスマホを乱暴にタッチして、電話をかける。

「水島、は、大丈、夫か」

「私なら、大丈夫」水島は、バスタオルを持って川谷に駆け寄る。

 ぼくは、舐め男と山口の体をバスローブでぐるぐる巻きにして暴れないようにする。山口のスマホも風呂場の浴槽に投げて、壊してやった。作業が終わり、一息つくと昴からメッセージが届く。

 ――マンガの続き、持って来てよ。あと、エロ本も頼む。

 ぼくと風太は、昴の平和そうなメッセージに笑った。

 

「なんか、二人ともやつれてない」

 病室に入るなり、昴が言った。

「うるせえなあ。昨日色々あったんだよ」風太はどっさり買い込んだマンガを昴に渡す。紙袋から、エロ本を取り出す。

「ありがとうマンガ。で、色々って?」

「水島のことだよ」風太の興味は、会話ではなく、エロ本に注がれる。

「え、水島?」

「昴が怪我した原因を解決してたってこと」ぼくは言った。

「なんで水島が絡んでるって知っているの」昴は開いた口が塞がらないといった様子だ。

「まあ、色々だよ。色々。とにかく、もう大丈夫だから」風太は、それ以上説明したくなさそうに言った。

「あ、今着いたって」ぼくは届いたメッセージを見て言った。

「なんだよ、もっと詳しく教えてくれてもいいだろ。誰が着いたの」

「今回の主役とヒロイン」

「誰だよ」

「昴?」

水島が病室に入ってきた。続いて川谷が入ってきた。川谷は昴と同じ、病院で支給される服を着て、松葉杖をついている。

「なんで、川谷がいるんだよ」昴は刺すような口調で言う。

「気持ちはわかるけど、落ち着けって。色々あったんだから。川谷がいなかったら、たぶんおれら死んでたから、コイツは命の恩人だぜ」

 昴は風太の冗談だろ、という目つきで、ぼくを見る。ぼくが否定もせず頷くのを見て、風太の言葉を信じたようだった。

 水島と川谷が座って、昴に一部始終を説明した。

「だから、コイツは命の恩人なんだって言っただろう」

「そうか、川谷が」昴は口ごもっている。殴られた相手なのだから、当然だろう。ぼくも川谷が昴を殴ったことに対しては、許してはいなかった。

「森広、滝川、柚原。おれは大変申し訳ないことをした。この場を借りて、謝らせてくれ」川谷は急にその場で土下座をした。「殴って申し訳ありませんでした」

「おれは、昴と幸志郎に任せるわ」

「ぼくは昔のことは、今回の件で許すことにする。でも、昴を殴った件については許さないけど、昴がもし許すっていうなら、許そうと思う」そう言って、ぼくは昴に判断を委ねる。

「おれは、川谷が、風太と幸志郎と、そして、水島を守ってくれて感謝しかしていない。川谷に殴られたことは、覚えてないし、どうでもいいよ」

 川谷は、うずくまったまま、震えていた。


 昴は退院して、水島に改めて告白して、振られた。水島は、川谷のことを好きになってしまったらしい。

今回の件で一番残酷だったのは、山口でも吉田でもなく、水島だな。といって風太は、昴をからかった。

ファミレスに集まって、ぼくらは昴のグチを聞いていた。

「おれ、女の子に初めて告白して、初めて振られた……」

「いままでの女たらしのせいで、バチが当たったんだよー。ざまあ」

「幸志郎、コイツ殴ってもいいか?」

「ごめん、昴。今回ばかりは、ぼくも同意見だ」

「てめえらっ、ふざけんなよ。慰めてくれよ」

 ぼくらは笑った。こんな風にバカ話をまたできることが嬉しかった。昴は、顔に傷が残った。そのせいで、ファンクラブは解散したとか、縮小したとかいう噂を聞いた。顔に傷が残ったぐらいじゃ、昴の良さはなにも変わらないのに、不思議だとぼくは思う。

「まあいいか。もうしょうがないしな。そうだ、おれやりたいことできたんだ」

「なに」「なんだよそれ」

「入院してて思ったんだけど、おれ医者になりたい。おれの担当医がすっごいいい人で、めっちゃカッコよかったんだよ。医者になってオヤジみたいに病気で苦しんでいる人を助けたいと思ったんだよね。だから、今から勉強しないとな。今年の受験は無理でもさ、がんばって勉強し続ければ、なんとかなるだろ」

 昴はそう言って、笑う。目標ができた昴は、以前の昴より見違えたように輝いていて、やっぱりカッコよかった。

「そうか、がんばれよ。じゃあ、いつかナース紹介しろよな」

「風太は、女の子のことばっかりだな」

呆れるぼくにかまわず風太は、続ける。

「あ、そうだ。お前おれたちに、女の子紹介してくれる話どうなったんだよ」

「それってたしか、昴が怪我する前日の話だよね。よく覚えてんね風太。そんなこと」

「忘れてないって。二人には、本当に感謝してんだからさ。今から行くんだよ」

「どこに?」

「え、合コン」

 昴は約束を果たし女の子を紹介した。

ぼくはその日出会った子と付き合って、やがて結婚することになり女の子が生まれるが、それはまた別の話だ。

風太がばっさり振られたのは言うまでもないし、昴が女の子を持ち帰ったのは言うまでもない。


二年後、昴は、医学部に合格した。

ぼくらは、全員、大学生になった。


                第一話「プレアデス」  完


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