奇譚・きざはし
いや、夜中に突然邪魔して悪いな。勉強中? そりゃまぁ、同じ予備校生仲間だしな。悪かったよ。
とにかくさ、聞いてもらいたいことがあってさ、来たんだよ。
そうでなけりゃ、こんなに高ぶってお前の下宿に上がり込んで来やしないさ。
そんなかかんないから。
聞いてもらえるだけでいい。
とにかく、話したいんだ。
それだけ妙な体験をして来たんだ。
その感想を吐き出したい訳さ。
俺は数時間前か、平生の通り予備校からの帰り路に就いていたんだ。
帰る前まではいつも通りの、何ら変哲もない時間だったけどね。反吐が出るくらいにさ。
数学の講義があったからかな、俺の嫌いな。
それで来週にちょっとしたテストもするって聞いたもんだから陰鬱になる訳だよ。
そんな時間を過ごした後はすっかり日も暮れててね、独り夜の寂しい道を歩き始めたんだ。
俺の帰り道は要するに屋敷町の中でね、夜中なんかそれこそ猫の子一匹出やしない。
灰色の塀と小洒落た洋館、それから深い深い夜の闇だけが延々と続いているんだ。
その中を──いくら俺でも独りだからね──多少は憶病風に吹かれて、せかせか足を繰り出して歩いてたんだよ。
最近は物騒だしな。
数学の公式でも呟きながらね。
ところがああいう道はやっぱり嫌いだよ、行けども行けども同じ景色ばかりしか見えて来ないでいやがる。
尽きないんだ。
自分が、同じ景色の中をぐるぐると。堂々巡りでもしているような気分でね。
胸糞悪いったらありゃしない。
俺はとにもかくにも回りに目をやらないようにしながら、うつむいたままの早歩き。それだけだよ。
いや、待て待て。
そっぽ向くなよ、話はこれからさ。
そうして歩いていた俺なんだが、その道中でちょっとした発見をした訳さ。
いや、ちょっとしたっていう次元じゃないかも知れないな。
ホラ、二丁目の空地知ってるか? 随分前に火事で丸焼けした家の跡地さ。
あの前を丁度通り掛かったんだが──ん? そうすると人魂か何かを見たんじゃないかって?
否、そうじゃないんだ。
俺はそんなもんで肝を抜かれたりしないさ。
──階段だよ。階段。
階段があったのさ。
しかも、螺旋階段がね。
……鳩が豆鉄砲食らったような顔だな。
無理はないな。
階段を見付けた時の俺もそうだったんだ。
それがふと視界に入ったその一瞬間に足が止まったんだ。何も考えていずにだよ。
そんで、その次の瞬間には階段を認識する。
そうしたら顔が、もう階段から離せなくなっていたのさ。
自動的と言うのかな。それは、だだっ広い空地の──大体そこらの小学校の校庭半分程はある土地のね──そのその真に中央の地点に、黒々とした鉄塔のようなシルエットが存在しているんだ。
驚いた次に俺は息を飲んだよ。
住宅街のど真ん中に、何か古代文明の遺物を見付けたような、そういうヒヤッとする感覚さ。
それでよく見ると、それはいよいよ螺旋階段にしか見えて来ない。
黒い鉄製の、そうだな……二階半ぐらいの高さかな。
それが、どこか異国のオベリスクみたいな形で、宵夜中の蒼黒の中に聳え立っているんだ。
何だろね、ここまで来ると童話に思えて来ないでもないね。
お前は、今そう考えているんじゃないかい。
でもこれは歴然とした事実さ。
俺は今でも──こうして古びた四畳半の上で胡座をかいていても──この頭の中にありありとあの光景を想像できるのさ。
それから興味本位で、柵越えて近寄って見もしたからね、特徴は完全に焼き付いてる。
錆び付いて厳めしい、それでいながらまだしっかりと形を残した、それこそとぐろを巻いた老齢の竜のよう。
黒々としたシルエットは、膝丈ぐらいある若草色の草むらの中で異様な雰囲気だったよ。
俺はすぐバベルの塔を思い浮かべた。
それでいよいよ見て見ると、俺よりも大きく見える気がする。
一歩一歩近寄る度、勇壮に聳え立つ姿が巨大になって行くんだ。
それがさ、星屑の煌めく夜空の下にある景色を思い浮かべてご覧よ。
全く幻想的さ。
それで触れてみるともう冷たくなってたな。
夏場とは言え、夜だから冷えてもいるんだろう。
手にしっかりと跡が残る、大したことないのに吸い付くような冷たささ。
それから。
それから、俺は一体どうしたと思う?
まさかそのまますごすごと踵を返す訳がない。
何だか……何だか、『これを登りたい』って考えがどこからか湧いて来たんだ。
なぜかって?
それは俺でも分からない。
だけどね、そこを理論的に考えちゃいけないと思うよ。
そこに山があるから山を登る。
そこに海があるから海に漕ぎ出す。
無鉄砲に飛び出したくなったんだ。衝動、って言おうか。
胸の底がうずうずとこそばゆくってね。
気付いた時には勇んでその一段目に足を掛けようとしてたよ。
その螺旋階段な、いかな代物であるにせよ何かの廃棄物なんだろう。
だから、俺も少しは、足を掛けた刹那に黒い鉄の姿が崩れ落ちやしないかと思ったさ。
でも、さっきも言った通り俺はその時無鉄砲に、否、無鉄砲過ぎたからね。
躊躇はほとんどなかったよ。
ギシリ、とひと揺れはしたが。
これが案外、大丈夫だったのさ。
それが分かった瞬間、また俺は興奮した。
その次の段に進むんだよ。
そうするとまた大丈夫。
こりゃいける、って感じたよ。
一段一段、一段一段上がる度に、俺は興奮を増しながら上がったんだ。
ゾクゾクしたね。
ウン、背中に粟が立ったさ。
一段毎に背中の毛全てが波立つんだよ。
手摺が辛うじてあったからまだマシなんだろうけどね。
夜風と俺の足に合わせて、黒い塔がギシリギシリ言うんだ。
周りは、空も草原も何ら変わっちゃいない──むしろ、嫌なくらいなりを潜めてた。
草原は青々と。
夜闇は深々と。
星はその中で爛々と。
でもその中で、唯一絶対的に世界が違うのが、俺の登っていた階段の塔だよ。
こうまでなると、この階段が……そうだな、天国へ登る階段のような。そんな只者じゃないだろうという雰囲気を帯びる訳だよ。
いや、俺は気は確かだよ。
ただね、周りの平凡な屋敷の波に比べると、俺は今どこか違う世界に足を踏み込んでいるんじゃないか……そういう興奮さえ覚えるんだよ。
……何だか涼しいな。
未だに興奮しているせいなのかな。
でね。
さっき、階段は二階半ぐらい、って言っただろ。
そんなもんだからさ、必ず階段は尽きるんだ。近からず遠からず。
意外に早く終わりになったよ。
ぶっつりと途切れてるんだ、鉄の階段が。
まるでその先に続いていた光景や空間も丸々切り取られたみたいに。
俺は少し立ち尽くした。
まだ興奮覚め遣らぬ状態でだよ。
『これでお終いか?』
ってね、息を荒げながら考えてた。
ただね、それまで一段毎に精神を集中させて登ってたんだ。
もう、意識すら頼りなくなってね。
何か……境地、って言うのかな。
いや、笑ってくれよ。端から見れば変人の戯言にしか思えないからな。
でも今でも頭がボンヤリとしてるくらいなんだ。
その時は朦朧として……周りの世界が、頼りない。
そう思えたんだ。
周りの世界はまるで水中さ。
水の中の暗がりから、俺は今出ようとしている。
思うところはそういう風な感じだよ。
俺はただ、自分の足下を見詰めている。
ぶち切られた階段の断面、それを通して下の地面まで。
草が暗闇の中で藻のようだったよ。
もう終わるのか、もう、終わるのか……それだけを必死に念じて。
今思うと異様かもしれないよ、それは。
ただ、鰯の頭も信心からって言うだろ?
何でもやってみるもんなのさ。
……見えたんだね。
足下に、ボンヤリと次の段が。
非常にボンヤリとだ。
最初は目の霞みか目の迷い程度だった。
それが、眺めている内に『実体化して来ている』ように見えて来るから不思議さ。
心太を思い浮かべればいい──あの水の中に沈んで揺れている煙色の物体のように、震えながら震えながら『幻』は『実体』と化したのさ。
俺は、いよいよそれまでよりも鋭い感度を持ってそこに踏み出そうとした。
これが踏めれば、もっと異常な興奮が得られるだろう、と。
もう、少し時間が経つとその先高くまで階段の続きができていてね。
本気で天国に行けるんじゃないかとも少しは思ったが。
それで一歩を踏み出したんだが──何だろうね、まるで得たものがない。
実感がないのさ。
まぁ元が幻だから仕方ないか。
でもその代わり次の一歩を知らぬ間に──本当に俺の気付かぬ間に──俺は踏み出していたんだ。
率直に言おうか。
その時俺は脳があまり働いてなかったんじゃないかな。本能だけで動いていたような。
次々と幻の階段に足を掛ける度、全身が脳を通して麻痺して行くんだよ。
登りたい。
いつしか俺に成り代わった奴が、意識の外でそう言っていたんだ。
本当にそんな気がしたよ。
そこから、俺は背中のゾクゾクが別なものに思えて来たね。
正気付いて来た、とも言えるな。今更ながら。
……おい、少し涼し過ぎるんじゃないか、ここ。
ま、それはどうでもいいか。
とにかく。
一歩の度に、まるで自分の体が自分のものじゃなくなるようだったのさ。
あれほど恐ろしい感覚はないよ。
もうその時には遅かったんだが……高所から撫で下ろして来る夜風の気持ち悪いことっていったらなかった。
しかもだよ。
もう、気付く度気付く度とんでもなく高度が増している、はずなのに俺にはその実感もないんだ。
もう……登り始めてしばらく経ったら、東京タワーの天辺にいるくらいの自覚はあったんだよ。
無論視界もそうなっている。
ヘリコプターからの光景さながらの大パノラマが眼前に足下に広がっているんだ。
足の裏に風が吹くんだよ。
そしてその下は闇の中に地上の電灯がチカチカしているだけだよ。
地上からそんな闇の中を鋼鉄の円塔が貫いているんだよ。
一体どんなアトラクションだい。
それでもそうであっても、俺は高度何百メートル上空を歩いているっていう、気がしないんだ。
丁度下りエスカレーターを無理繰り登っているようなもんさ。
これ程奇妙なことってあるかい?
これが分かった時、俺は初めて体が震えた。
強くなっていた夜風に骨の髄から体が揺らいだ。
そのまま体が塵になって崩れて行くようでさ。
それでもやめられない。
体は俺の意思を全く無視し続けているんだ。
プログラム解除不能のロボットのように、ガクガク登るんだね。
登る登る。
登りに登ったよ。
でもね。
キリがないんだ。
どこまで登ろうと果てが見えない。
それこそ闇の天空に一本の鉄柱が突き刺さっている、それだけさ。
キリがないんだよ。
どこまで行っても。
無間地獄って……まさにあのことさ。
……その後……俺はいつの間にか、意識が飛んでいたんだ。
気付いた時には……天国に着いた? 落ちてあの世? いやいや。
地上さ。
元の。
俺はいつの間にやら地上に倒れていたんだ。
しかも、はっきりしない意識で首をもたげて見てみると、何のことはない、あの空地だったよ。
虫の音がヤケに五月蠅くってね。
あの螺旋階段は……なかった、ってオチじゃないぞ。
しっかりあったんだ。
ただ、もう前のような聖性は微塵もなかった。
見掛け通り、錆び付いた廃墟の鉄塔さ。
暑苦しい闇と草っ原の中にそれはあったんだ。
ただ見てたよ。俺は。
ただ、倒れた姿のまま、首だけ捻って。
意識が途絶えた時のことなんて、覚えていやしないんだ。
ただ、脳裏にかかっていた霞の中に……果てしなく夜空に続く鋼鉄の高塔の姿だけはあったんだ。
それとのギャップでね……俺は、しばらく力をなくしたように草むらに倒れてたよ。
嫌な夢から醒めた気分……だな。
あの怖さは、今でも体の痺れになって残ってるんだから。
草がいやにひんやりと心地よかったのを覚えてるよ。
「……ちょっと」
そんな頃合だよ。
「御宅、何してんの」
急に視界が白くなったな、と思ったら、懐中電灯の光さ。
近所を見回っていたお巡りさんがいたんだよ。
「もう夜中だぞ」
俺にとっては、そのお巡りさんが久々に見た人間だったんだ。
だからか不思議と、お巡りさんに見付かったからって何の怖さもなかったね。ビビらなかった。
それはそうさ。
あんなことの後だから。
「いえ……ちょっと酔ってたみたいです」
訝しげな表情のお巡りさんに、俺はそれしか言えなかった。
フラフラした体を無理に引きずって、立ち上がる。
と、そばの階段が目に入る。
何て小さかったんだ……今でも思うよ。
「お巡りさん……この階段、何ですか」
「知るか」
階段についてはそれっきりさ。
後は、大丈夫か、一人で帰れるか、なんていう通り一遍の問答だった。
そうしてお巡りさんは渋い顔して帰って行ったね。
俺はというと……全身の草をほろって、とりあえず空地を出たよ。
その間も、あの螺旋階段は空地の真ん中に丈低く立ってるんだよ。
情けない君臨の格好だった。
俺は、振り返り振り返り帰った。
何度も見て帰った。
でもね、どうしても初めのような途方もない神々しさはなかったんだ。
これ、怪談になるのかな。
ならないのかもしれない。
なるかもしれない。
単に、怪しい話、っていうだけか。
俺は今でも不思議だ。
あの階段は現実に存在している。
今でもあるんだろうよ。
どこぞのビルを解体した残りなんだろうな、それが不法投棄されてるんだろう。
由来は、探りさえすれば明らか過ぎる程明らかだ。
でも、俺がそこで怪異にあったのも事実。
そんなものに一体全体どうしてあんな怪異が起こったのか。
フフフ、ありゃ何だったんだろうね。
ようやく落ち着いて来れたと思ったら、笑えて来たよ。
いやごめん、今夜はこれだけなんだ。
ん……、お前、何だか固まってるね。
ビビってんの?
ビビってない、ってか。
それよりその話、嘘じゃないかって。
いや、ある。あるんだよ。
必ず。二丁目の空地に。
何なら行ってみろよ。
責任は持たんけどな。
やっと力が抜けたよ。
全部吐き出したからかな。
いや、いずれにせよ、俺はあれを幻と思うことに決めた。
だからいいんだ。
こうやって話しても、何をしても。
俺の番は終わったんだ。
……今夜はヤケに冷えるね。
フッ、少し前までは俺があの螺旋階段にビビってたのにな。
まぁいいさ。
行ってご覧よ。
天国なんてないからさ。
この話にはモデルがありまして。
実を言いますと、自分が学生だった頃に現代文の講義を受けた先生の雑談に基づきます。
無論実際は、こんな怪談チックではなかったそうですが、原っぱの真ん中に立つ螺旋階段──上り先をなくした螺旋階段を見付けたことは、事実なのだそうです。
本当に何なんですかね。原っぱの真ん中に螺旋階段。
確か、講義の課題文は『手段の自己目的化についての倒錯』……か何かを主題とした文章だったでしょうか。それに関連しての雑談、ということで。
つまり、『上り先の階』という目的を失った『階段』という上る為の手段。
自分もそれを主題とした文章を書きたかったのに……これは。単なる怪談のようになってしまいましたか。
蛇足になりますが、この話も実は、別に掲載している自分の拙作『奇譚・地下にて』同様、某地下道にてたった数時間で書いたものなのです。
何なんでしょうか……ここまで上手く行くなんて。
地下道パワー?
そんなのある訳ないか。
有り難い場所には変わりないですが。
では、蛇足な話もここらで終わりにしましょう。
最後に、この話の素を得るきっかけを作ってくれた某校のM先生に多大なる感謝を捧げます。