表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/11

聖武天皇が「北の3代目に」

(聖武天皇の時代と3代目『北の将軍様』との共通点)


曾祖父の天武。並びに祖父の兄・天智の時代に成立した律令体制。

全ての住民に対し、

土地の私有を認めない代わりに

戸籍を与え

口分田を班給することにより、

安定した税源を確保することに成功。


民も自分で使うことの出来る土地が出来て喜んだのでありましたが

どんなに頑張って

良い田んぼに改良したとしましても

自分のモノではありませんので。


(……どうせ最期は国に持って行かれるのでしょ)

と生産する意欲の減退が生じるようになり、

税源たるコメの収穫量に陰りが見え始めたため


(ここまでは

北の将軍様など

旧東側によく見られた事例)


(その後、日本では)

新しい土地の開墾を奨励しましたり、

開墾した土地につきましては

向こう3世代までは有効にしますよ。

と私有に近い形を採用するなど

規制を緩和し続けた結果。

最終的には

開墾した土地全ての私有を認めることになる。

私有

と言うことは

国の保護を得ることが出来なくなる。

と言うことでもありますので

自衛

ないし

周囲に対し、

この土地は私のモノである。

と言うお墨付きが必要となりました結果。

10世紀に入りまして

武士や荘園が

日本史の中に登場することになります。


(話を土地私有以前の時代に戻しまして)

国が民に対し土地を配給するのは

勿論無償ではありません。

配給を受けた側。民には

様々な義務が生じることになります。

代表的なモノとしまして

コメなどの作物や

織物などを納めること

に加えまして

京での労役もしくは布を納めること。

いわゆる租庸調のほかにも

兵役や強制的な貸し付けによる利息の徴収など

その時代に生きていませんので

実際問題。

どれほどの負担であったのか定かではありませんが

平等であったのかもしれませんが

自由では必ずしも無かったことが想像されます。

(どの時代のどの場所に暮らしていましても

多かれ少なかれ不自由は存在するモノなのではありますが)

嫌気が差すかたもいらっしゃったのでありましょうし、

土地が国割り当てでありますので

どんなに頑張っても収穫量を増やすことが出来なかったところもあるでしょう。

結果。

逃亡者があとを絶たず、

今の京都にあたる民のデータでありますが

大抵は近隣への逃亡が多いのでありましたが

防人の関係もあるのでありましょう。

遠く九州へ。

と言うかたもいらっしゃったそうにございます。


加えて

海に隔てられていることもありまして

一応、北九州の防備を固めてはおりましたが

実際に戦闘になることはありませんでした。


経済の停滞。

住民の逃亡。

戦時体制ではありますが、

少なくとも攻め込んで来る相手は皆無。


以上の3つの共通点が見られます

聖武天皇の時代と

3代目北の将軍様。

では

もし聖武天皇が

3代目北の将軍様に就任しました場合、

どのような政策を実行に移すことになるのか?

を考えてみようと思います。


聖武天皇の治世で行われた事績となりますと

次の3点になると思います。

1つは、先程も触れました

土地私有の解禁。

ただそれを行ってしまいますと

国の税源を喪失する。

国に入るべき税収が

その私有地を保護する勢力にコメが回る可能性が生じ、

国の脅威となる危険性を孕んでいる。

それを防ぐ施策が必要となるのでありますが。


その防ぐ手立てが

2つ目になると思うのでありますが

これは世界の中でも

日本が特殊な事例になるのでありますが

ずーーーーーっと

元首の家系が

元首であり続けることが出来ている国

と言うのが

辛うじてイギリスぐらいであるのでありますが

その秘密はどこにあるのでしょうか……。

権力とは直接関わらない

象徴として

とも考えることが出来るのかもしれませんが

そうなりましたのは

どんなに緩く見積もりましても

室町以降でありまして

それより以前は

直接政務に携わられておりましたので

負けてしまいますと……

の状況での統治であった。

にも関わらず

元首であり続けることが出来た……。

直接の武力を有していたわけでもないにも関わらず……。

この理由がわかれば

誰も苦労しなくても済むのかもしれませんね……。


とは言え

為政者である以上、

国を動かしていかなければいけないため

聖武天皇が行ったことが3つ目。


公共事業であります。


世の東西を問わず為政者は

『水』との付き合いかた

治水、利水に

交通の手段など

場所場所に応じ、

方法は異なるのでありますが

聖武天皇時代は

律令体制が一定の成果を修めたあとでありましたので

水の制御に資源を投下する必要は

無かったことなのかもしれません。


どちらかと言いますと

聖武天皇治世下に行われました公共事業となりますとこちら。

仏教寺院の建築。

更には

首都機能の移転

でありました。


平城京に東大寺大仏殿や

国府の横に国分寺・国分尼寺

と言いました

大阪市の中に

大阪府立と

大阪市立の

同じ施設が併存するようなことが

聖武天皇時代にも行われておりまして

それこそ

無駄な公共事業。

脱寺宣言のようなことが巻き起こった

(実際、国分寺・国分尼寺の建設には

長い年月を要すことになりました)

ことが予想されるのでありますが

目的は

建物を造ることにより経済を回すことでありまして

出来たあと

どうなろうが知ったことではありません。


この動きと並行して

今度は都・奈良で。

それも東大寺以外の動きとして

行われましたのが

首都機能の移転でありまして

わずか5年の間に3度の遷都を行っております。


表向きは九州で大きな乱が発生したことになっておりますが

実際は

景気対策の一環として。

もしくは

(……単なる旅行のため

なのかもしれませんが……)


このようなことを行い続けた結果。

聖武天皇後の日本はどのようなことになったのか?

と申しますと

平城京周辺の森林資源が減少し、

新たな

燃料資源でもあります

木材資源を求め、

桓武が本拠地に構えましたのが

今の京都であります。


……と見ていきますと


仮に聖武天皇が

3代目北の将軍様に就任したとしましても

(……国を上向かせることは

……難しいのかもしれませんね……。)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ