王宮の夜会①
一度結婚してしまったからには、それを取りやめることは難しい。ましてやローデリアは王族出身であり、侯爵家のほうから離縁を望むのは不可能に近かった。かといって、彼女は自分から離縁を口にすることも出来ないと分かっていた。
ローデリアには、帰る場所がもうない。
婚姻を結ぶために生まれてから数度しか出たことの無い王宮を去ることとなり、これまた数度しか会ったことの無い父親である国王と対峙した時。結婚の祝いの言葉や、心構えなどを説いているようなふりをして、父親は“二度と戻ってこないこと”を暗に示した。戻ってきてもお前の居場所は無いと、通牒を突きつけたのだ。
だから、居場所が無いから。
これからどれだけ、アレイズ様に迷惑をかけて生きて行くのだろう。
そう思うと気分は落ち込んだ。首を振って、手元にある作りかけの刺繍に目をやる。苦しい思い出となってしまったその道具達を使うのは気乗りしないことだ。けれども、これをしなくてはならないと、ローデリアは手を動かした。
アレイズが遠征に旅立ってから明日で三週間が経つ。その間に、三枚のハンカチを仕上げていた。一週間、何一つ手つかずで過ごしたあと、刺繍に取り掛かったのだ。全て、ルージマナリア国とノーベラルト侯爵家の紋章が描かれたハンカチだった。最初こそ一週間かかったものが、この二週間で三つ作れるようになったのは大きな進歩だった。けれどもその形はまだまだ歪で、美しいとは言い難い。指に針をさすことは殆ど無くなったけれど、気をしっかりと保って集中しなくては、チクリと自分の指を攻撃してしまうこともあった。
迷惑を最小限に、抑えよう。
それがローデリアに出来る精いっぱいの事だった。ローデリアを妻にして、アレイズはそれだけで大きな迷惑を被っている。それならば、これ以上の迷惑は、絶対に掛けないようにしなければならないと思ったのだ。
そのためにはまず、アレイズに恥をかかせてはならない。だから、必死に刺繍の練習をしていた。侯爵夫人が当たり前に出来ることを、完璧にこなさなくてはならないと、必死だった。
刺繍だけでは無い。ローデリアはミーアに頼み、最低限しか知らない食事作法や舞踏会のダンス、立ち振る舞いや作法まで、徹底的に洗い直そうと決めていた。幸いなことに、王宮からの祝い金と言う名目でローデリアが自由に動かせるお金は少しだけあった。それを使って、アレイズが恥さらしにならぬために出来ることを全てやろうと心に決めたのだ。
嫌われている以上、それ以外の努力も思いつかなかった。
全ての先生を雇い、予定を組んでくれと頼まれたミーアは、驚いた表情でローデリアを見ていた。これ全て、行うのですか?その言葉に含まれていたのは、出来るわけがないという侮蔑だろうか。この頃めっきり口数が少なくなったミーアの真意は掴めなかったが、侍女はそれ以上のことは言わずに、分かりましたと従った。
夫が遠征から帰ってきたことは、当り前のようにローデリアには伝えられなかった。彼が帰宅の報告をしてくることも無い。そのことを悲しいと思う気持ちは無かった。当たり前だからだ。それよりも、自分を完璧にすることのほうがずっと先決だった。
全てが彼女にとっては新鮮で、かつ難しかった。今まで知らなかった作法やしきたりも沢山あった。他人を迎え入れるときの作法、茶会を開くときの作法。とくに茶会は、それを開く場所によってもその規則が変わってくる。まともに受けさせて貰えなかった歴史や地理の勉強もした。
それらの教師を家に招くことを使用人に知らせないわけにもいかず、ローデリアは自分をよく思っていない使用人に頭を下げて、家とは関係ない人間を定期的に屋敷内に招くことを詫び、了承を貰った。
教師たちは、最初こそローデリアの無知に驚いていたものの、金額の分だけはしっかりと働いてくれた。
そうして勉強だけにすべてを費やし、慌ただしく過ごしているうちに、いつの間にか月日は過ぎ、いつの間にか屋敷にやってから半年が過ぎていた。
そして一年に一度の、王宮での夜会が開かれる日。
結婚した後、普通は夫婦で出席すべきもの――議会のオフシーズンも王都にいる人々が開いている小さな晩餐会等――にアレイズは一人で出かけていて、正装して家を出て行くのを何度か見て知っていた。しかし毎年の社交界の始まりを告げるこの夜会は、基本的に夫婦、家族を連れて出席することが義務付けられている。
その日は朝から落ちつかず、ローデリアは何度もそわそわと意味も無く歩き、気合と緊張の中で準備をした。
今の流行だと言う手首部分に膨らみを持たせた袖に背中の大きくあいたドレス。コルセットで胴を細く絞り、スカートの裾のふくらみは控えめに。髪はふんわりと結いあげ、柔らかさを持たせ、髪飾りは花をモチーフにしたものを。口元を隠すための扇は、ドレスとお揃いに。化粧は“している”と思わせないように、けれどもしっかりと、“素顔が美しい”と思わせる物を。
全ての準備を終えて鏡に映った自分を見て、しかしローデリアは不安になった。それをどうにか、“大丈夫”と落ちつかせる。ちゃんと今の流行も調べた。粗相の無いように何度も練習をした。
そして部屋から出て、エントランスに繋がる階段を下りている途中、アレイズが先に立っていることに気が付いて、慌てて駆け寄った。
「お待たせいたしまして、申しわけありません」
「……いや」
あの遠征の日から何も話さず、おおよそ何カ月ぶりかに交わした言葉ではあったが、それは直ぐに終了した。アレイズのなんとも言いたげな視線を受け、やはりどこか失敗しているのかもしれないと不安を抱きながらも、一人で歩きだした夫に続いてミーアの手を借りて馬車に乗り込む。いってらっしゃいませ、と頭を下げるミーアを見ながら、二人を乗せた馬車は出発した。
馬車の中では会話も無かったが、何か話をしてアレイズの気を悪くさせるのも申し訳なく、黙って下を向いていた。もう一度自分の格好を確認する。先生に教えて頂いた通りの、手本のような格好のはず。ちらりと夫を見て、その服装を確認する。その色が予想通り黒であったことを確認して、安堵した。夫婦で夜会に出るときは、基本的にその服装をセットにするのが通例だ。それをあわせることは妻の役目だと習っていた。かといって今回、ローデリアがアレイズの服装に何か口出しを出来るはずもなく、アレイズの世話をする使用人に頭を下げ、その服装を聞きだしたのだった。黒を基調にその髪色のような金を刺繍した服装だと聞きだし、急いで輿入れの際に持ってきていた唯一の黒いドレスを引っ張り出した。大勢の教師を雇ったせいで手持ちのお金は少なく、新しいドレスを仕立てることができなかったのだ。幸いにも季節にあった生地のドレスではあるものの、どうにも形が古く野暮ったい印象は否めないものでもあったのだが、彼女はそれを着る以外の選択肢は持っていなかった。仕方なく金色だけでも入れなくてはと、練習を繰り返して縫う速度だけは上がった刺繍で、髪留めのモチーフになっている花を縫い込んだ。
数日そうして縫いこんで完成が近付いてきたとき、ローデリア付きの三人の侍女の一人である、この時初めて名前を知ったのだが、アリーがドレスのリメイクを申し出てくれた。その思いがけない申し出に、ローデリアは喜んでドレスを差し出した。するとアリーは、まるで魔法のように上手に、ドレスを流行の物に仕上げてくれた。
そう遠くもない王宮には直ぐに到着し、ローデリアは一年ぶりにその場に足を踏み入れることになった。王宮に着いてからは体面もあるのか、アレイズが手を差し出し、馬車から下りる。その時丁度、ノーベラルト侯爵の馬車も到着し、侯爵――つまりはアレイズの父親と、侯爵夫人である母親、そしてアレイズの妹も馬車を降りてきた。
「やあ、元気にしていたかな」
「お久しぶりです、御父様、御母様。アズリア様も、お元気そうでなによりです」
一言だけの簡単な挨拶を交わす。夫人と妹には結婚式以来、侯爵本人には引っ越しの日以来だった。侯爵と夫人は笑顔で挨拶を交わしてくれたものの、妹であるアズリアは小さく会釈をしただけだった。この妹からは、結婚式の日に直接、“どうして貴女なのかしら”という言葉をくらっていた。慣れているので気にはならないが、好かれることはなさそうである。
差し出されたアレイズの腕に申し訳程度に腕を差し入れ、ローデリアはゆっくりと会場に入った。
ざわり、と空気が震えたのは、勘違いではないだろう。自分と言う人間が珍しく、また揶揄の対象であるのは十分に理解しているつもりだった。そんな人間と腕を組んで歩かなくてはならないのは何て不名誉なことだろうとアレイズに心の中で謝りながらだた思うのは、これ以上の不名誉をアレイズに与えないこと、そして粗相をしないこと、それだけだった。
王宮主催の夜会は、入場すると最初に、主催者、つまりは国王と王妃に挨拶をしなくてはならない。普通の夜会では、地位の高い人間から主催者の元へ向かうものの、ここまで大規模な夜会になると挨拶をした後の待機時間も長く、挨拶の順番は逆だった。つまり、一応は王族であるノーベラルト侯爵家は、最後に近い。会場にある百以上の瞳から見られて、少しだけ手が震えた。
「国王様、お招きありがとうございます」
「これはこれは、ノーベラルト侯爵。変わりはないかね、ご夫人も」
「ええ、勿論。全ては国王様のおかげでございます」
「息子たちともども、感謝しておりますわ」
「それなら良かった。アレイズ騎士団員もよく国に忠誠を尽くしてくれているし、アズリア嬢は美しい淑女になられたようだ」
「ありがたきお言葉です」
「光栄ですわ」
侯爵一家が挨拶を終えたあと、ちらりと国王の視線が自分に向いているのを見て、ローデリアは思わずアレイズの腕を掴んでいた手にぎゅうと力を入れ、ハッとしてそれを緩めた。先程までの笑顔が消えた父親は、固眉を上げてローデリアを見ていた。彼は直ぐに視線を逸らし、アレイズに問う。
「ローデリアは侯爵家に迷惑をかけてはいないか」
「……ええ、勿論です」
アレイズの答えにほっとしていると、国王はそうか、と言って手にした扇を振った。さがれ、という合図である。何か咎められることが無くてよかったと深く頭を下げて礼をすると、アレイズに引かれるままその場を去った。
年に一度のこの夜会は、他の貴族で開かれるどの夜会よりも規模が大きい。基本的には舞踏会の様相だったが、貴族の音楽会ではお目にかかれぬ一流の音楽家たちが集められることから、敬意を持って夜会と呼ばれていた。一流の音楽に合わせて踊ることのできる、数少ない舞踏会と言ったところである。
カドリールから始まった舞踏会で、ローデリアは礼儀とばかりに社交ダンスを二曲アレイズと踊り、早々に壁際に収まった。必死に練習した甲斐があって、ダンスは滞りなく踊れたと思う。少なくとも振付を間違えるだとか、アレイズの足を踏むなどの失態は犯さなかった。そういえばアレイズと踊るのは初めてなのだと考えたが、特に感慨があるわけでもなく。
未婚女性の壁の花は恥とされるが、既婚であれば咎められることは無い。そもそも舞踏会は未婚男女の為に開催されるもので、主役は彼らだ。アレイズのように美丈夫として有名だと、ローデリアという妻がいたとしても申し込みが殺到するに違いないが、ローデリアのような人間、それも既婚とあっては声を掛けてくる男性もいない。
視界の端でアレイズが、ローデリアの妹である第四王女のカトレアとダンスをしているのを捕えて、視線を逸らした。アレイズは笑顔だった。妹との結婚ならば、まだアレイズだって納得したのかもしれない。そう思って、申し訳なくなったからだ。
「ローデリア様、よろしいでしょうか?」
女性の涼やかな声が聞こえて顔を上げると、いつの間にか五人の令嬢が近くに来ていた。同い年か、それとも前後か、それくらいの年代の少女たちだ。腕につけられた白い宝石のブレスレットは、未婚の証である。
「ええ、もちろんです」
突然の問いかけに驚いたものの、ローデリアは出来る限りの笑顔を作ってそれに答えた。義姉妹や侍女以外で、同年代の少女と会話するのは初めてに近い。彼女たちの名前を知らないことに一瞬動揺したものの、どうやら全員侯爵以下だったためか、先に挨拶をしてくれた。
「私、ハラノイド家の娘、システィナと申します」
「サラマルダ家のステイですわ」
「デューティナス家の娘、レイクリーです」
「テルド家のネイデリアです」
「ドミネイト家の娘、ティーゼ、と申します」
ごくりと、喉を鳴らしてしまった。
聞き間違いかと耳を疑ってはみたものの、齢十八になるまで難聴になったことはない。ドミネイト家のティーゼ。忘れるはずはなかった。このところは思い出すことは減っていたけれど、そう、それは、アレイズの想い人の名前だ。
彼女たちが友好関係を望んで話しかけたのではないことを、ローデリアはこの時悟った。よく見てみれば彼女たちの顔に笑みは無く、どこか挑戦状を叩きつけるような、そんな顔だった。
顔は知らずとも、爵位をもっている家名は全て頭に叩きこんである。伯爵以下の身分の彼女たちが、勇気を持って話しかけてきたことはわかっていた。
「ノーベラルト家アレイズの……妻のローデリアと申します」
儀礼的に名乗り返す時、その自分を指す敬称を口に出すのが重たかった。
こんな対面は、予想していなかった。