アレイズの結婚/侍女ミーア
「よう、アレイズ!機嫌悪そうだな」
「……別に」
「その状態を機嫌悪いって言うんだっての。何々?どしたの?」
「ダーヴィット、煩い」
アレイズは友人の言うとおり、機嫌が悪かった。それは家を出る前に見た、涙のせいだった。頼んでいた刺繍は出来が悪く、しかも指先は傷だらけ。思わず口から出た言葉は本心だった。けれどもその言葉を掛けた瞬間に、ローデリアの瞳にはみるみる内に涙が溜まっていったのだ。そして彼女は、彼を見送ること無く部屋に引っ込んだ。
嘘は言っていないし、無理矢理結婚をさせられたアレイズが多少辛く当たることぐらい彼女だって分かっているだろうに――――その姿は、まるで自身が悪いことをしたように思えて、苛々させられた。
忘れたいと頭を振るものの、あろうことかダーヴィットはその話をアレイズに振ってきた。
「ていうかアレイズ、俺の奥さんの刺繍見てくれよ!今回遠征長いから気合入っちゃって、見て、この美しい刺繍!」
ダーヴィットが自慢げに見せつけてきたのは、アレイズの苛々の原因そのものだった。空気の読めない友人の妻のそれは、見事に美しい紋章が描かれていた。今朝に見た物とは大違いである。ダーヴィットは平民の出だったはずだが、騎士という地位もあり、下級貴族の女性を嫁に貰っていた。下級でさえ、こんなに美しい物ができるのに。余計に苛々がつのる。
「アレイズは?奥さん出来てから初めての遠征だろ?」
「無い」
「え?なんで?」
「……妻は今体調を崩していて」
刺繍をするどころでは無かったのだ。
気の置けない仲である友人にそう嘘をついたのは、あんなにも綺麗な刺繍を見せられた手前、下手過ぎて置いてきたとは言えなかったからだった。けれどその後、ダーヴィットの口から出た言葉に、アレイズは驚いた。
「まあ、ローデリア王女、じゃなかった今はローデリア様、に刺繍は無理だと思うから、やって貰わなくて正解だったよなあ」
「……何故だ?」
「いやあ、妹から聞いたんだけどさ、ほら、うちは代々王宮女官の家系だから知ってるんだけど。ローデリア王女、刺繍とかレース編みとか、やったことないらしいぜ」
「何だって?」
「いやあ、お前も大変だよな。もうすぐティーゼ様と婚約しようって時に、ローデリア様と結婚が決まって、しかもローデリア様は教養も無いときた。俺だったらやってらんないね」
アレイズは返事をしなかったが、ダーヴィットは話したら気が済んだのか手をひらひらと振りながら離れて行った。
その後ろ姿を見ながら、少しだけ、アレイズの心に罪悪感が芽生えた。ローデリアは多分、言われて初めて、刺繍に取り掛かったに違いない。初心者がどれほどに出来るものかは知識が無かったが、確か彼の妹が十二になってそれを習い始めた時、最初に縫ったのは単色の丸だったと言うのに、その形は歪だった。色の沢山ある紋章を縫うのに、どれほど苦労しただろう。彼女の指に巻かれていた包帯を思い出す。下手くそだから怪我をしたのかと思ったけれど、あれはやったことがなかったから。
首を振って、考えるのを辞めた。
刺繍をしたことが無いのに、確かに今日の朝言ったことは少しきつかったかもしれない。けれども、仮にも王族の女性であるにも関わらず、刺繍をしたことが無い方がおかしいのだと、その考えが出てきたからだ。
結局は、どうしたってローデリアを許せはしなかった。
ティーゼとの婚約が近いと言う噂は貴族の間で囁かれていたにも関わらず、王族と言う力を使って、アレイズの妻におさまったことが、本当に許せなかった。ティーゼは男爵家出身で、ギリギリ貴賎婚にはならない度合いの婚約を渋っていた父親をどうにか説き伏せた所だったのだ。例え身分が釣り合わないと言われたって、どんなことを言われたって、彼女と一緒になるつもりでいたというのに。ローデリアはアレイズが覆すことのできない、唯一の方法を使って、ティーゼを奪ったのだ。
その褒賞は、寝耳に水だった。
十八の時に騎士団に入団し、それから父親の領内の仕事も手伝うようになった。その間に幾つかの功績を上げたこともあり、祝賀会にだって何度も出たことがあった。だからその日も、いつものように終わるのだと思っていた。
唯一つ、出席する前にいつもと違うらしいという噂は聞いていた。今回の祝賀会では、人前には出ることが無いと言われている第三王女が出席するのだと、貴族たちの間では驚きの声が囁かれていたのだ。人と触れ合うことを嫌い、私室に籠って行事の参加も拒んでいるという、“我儘姫”。その出生があまり地位も良くないということもあり、貴族たちの間では彼女を揶揄してそう呼んでいた。
そんな姫を見られることを、友人たち――騎士団の仲間たちは、楽しみにしていたように思う。彼女が社交界デビューしたときに目にすることが出来なかった奴らは大勢いるし、アレイズもその一人だ。けれどもアレイズは、その時はそれどころでは無かったのだ。父親にずっと反対されていた、ティーゼとの婚約。けれどもアレイズの粘りに折れたのか、彼は今回の戦で功績を上げることを条件に、それを許すと言った。そのためにアレイズは全力を尽くした。いつの戦いでも気を抜いたことなど無かったが、今回は鬼気迫るものがあったとダーヴィットに言われたくらいだった。そうまでして父親の眼鏡に敵いそうな功績を上げ、この祝賀会が終わったら婚約する手筈を整えようと、父親は言ったと言うのに――――。
「また、皆も知っての通り、ノーベラルト侯爵家はこの度の戦において多大なる貢献をしている。その健闘を称え、我が娘、第三王女ローデリアとの婚姻を認めよう」
聞こえてきた言葉に、耳を疑った。
驚いて父の顔を見ると、彼も知らない、と首を横に小さく振った。そしてアレイズに向けて眉を下げた後、ノーベラルト侯爵である父親は、恭しく頭を下げて言葉を紡いだ。
「我が息子へのそのような褒美、身に余る光栄でございます」
分かっている。父親の立場から、どう考えたって王の言葉を受け取らない訳にはいかないことぐらい、分かっていた。
アレイズは、王族席のほうを見た。いつもはいない、一つの顔。黒髪を結いあげ、何を考えているのか分からない瞳で、つんと彼女は前を見ていた。母親似なのか、国王と似ているところはあまり見当たらない。そのすました瞳が、一瞬だけアレイズに向けられたものの、彼女は視線に何か意味を込めることなくすっと逸らした。彼女が何を考えているのか、分からなかった。
その日の夜、父親と話し合ってどうにかならないかと訴えたものの、侯爵は横に首を振って無理だとその意思を露わした。父親もどうやら、国王にその意を聞きに向かったらしい。
「アレイズ、どうやら国王様は、第三王女からどうしてもと強く望まれたらしいのだ。ちょうど会も開かれるところだったので、その一つとして結婚を与えることにしたらしい」
お前は昔から、女性を引き付ける魅力があるのだろう。母親によく似て、美しい顔立ちをしているし、あそこの子爵家の娘やら、あそこの侯爵家やら、たしか第四王女やらもお前の事を気にいっていたのではなかったか、と侯爵は言葉尻を誤魔化す様に適当な話を続け、それから気まずそうに息子を見た。
「ああして公の場で発表されては、もう断ることは出来まい、ティーゼ嬢には申し訳ないが、この結婚を受けてもらわないと、家の立場が無くなってしまう――――」
その夜直ぐに、ティーゼに会いにいった。
アレイズの結婚の話は、もうすでにティーゼの耳に入っていたらしい。こっそりと待ち合わせ場所にやってきたアレイズの目に、泣きはらした顔のティーゼが目に入った。
ティーゼと出会ったのは、数年前の夜会だった。下級貴族である彼女は元々ダーヴィットの知り合いで、彼に紹介されたのが始まりだった。初めから、小柄な彼女のその可憐さや、アレイズと真摯に話をしようとする瞳が気にいった。夜会で会うたびに話す様になり、声を掛けるようになり、ティーゼもアレイズを見る度にはにかんだように笑ってくれた。それからは早かった。彼女の癖のある柔らかな薄茶色の髪、微笑む時に出来るえくぼ、口の下にある小さなほくろ、全てが美しく思えた。下級貴族だからと謙遜するその姿は弱々しく、アレイズに思いを抱く他の女性達から当たられて眉を下げている姿は抱きしめたいと思わせた。彼女を一生、守りたいと思っていた。
なのに。
「どうして、どうしてこんなことに――――」
か細い声が聞こえてくる。
前から夜会では公認の仲になりつつあったけれど、言葉にして気持ちを伝えたのは二ヶ月に及ぶ戦が始まる前だった。君を心から愛している、結婚してほしい。そう願ったアレイズに、ティーゼは嬉しいと泣きながら、自分の地位の低さを気にしていた。
全て任せてくれ、父親は説得して見せる。そう言って揚々と出かけ、功績を上げて帰国し、結婚できると喜んだのはどこの誰だったというのだろう。
腕の仲に、小さなティーゼを閉じ込めた。
「すまない、ティーゼ……」
怒りをこらえた自分の声に、ティーゼはすんと鼻を鳴らした。貴方のせいではございません、と泣いていた。
「王女様とのご結婚なら、きっとアレイズ様はお幸せになれますわ」
震える声で、そうも言った。その言葉が、彼女の強がりが、腕に込める力を強くさせた。
「君以外、俺が愛せるとでも思っているのかい?」
アレイズの言葉に、ティーゼは驚いたように顔を上げて、嬉しそうに頬を上気させた。
「…………そんなことを言われたら、貴方を、お慕いし続けてしまいます」
「俺だって、心はいつまでも、君の物だと約束するよ」
アレイズは必至に言葉を紡いだ。彼女との結婚だけが、自分の望みで、自分の中にあった喜びだと言うのに。
王女の我儘一つで、それが奪われる。怒りが、湧いた。
***
あんなこと、いうんじゃなかった。
部屋を出たミーアは、そう思って頭を抱えた。今更ながら後悔していた。
ローデリア様にお仕えすることになったのは、ミーアが起こした小さなミスからだった。お仕えしていた側妃様の、敷布の色を間違えたのだ。朝方、側妃様が「今日はディー色に囲まれて眠りたいわ」と言ったのを、「今日はビー色に囲まれて眠りたいわ」と聞き間違えたのだった。側妃様は色に名前を付けるのがお気に入りで、赤をディー、黄色をビーとややこしく呼んでいるせいで間違えたのだ。
その間違いに、偶然側妃様の機嫌が最高潮に悪いのが重なって、ミーアは首にするとまで言われたのだった。それを女官長がどうにか窘めてくれて、それでもミーアがそのままそこで働く訳にもいかなかった。そしてそのとき、丁度女官が一人辞めてしまってあいていたのが、ローデリア付きのポストだった。
女官たちの間で“僻地”とまで呼ばれたそこに行くことになって、ミーアの機嫌はすこぶる悪くなった。せっかく地位の高い侍女になる為に、必死で針仕事や帽子作りの練習までしたのに――まあ、どちらも得意とは言い難かったが――それがあそこに行くとなれば給料も下がるし、他にお喋りできる女官もいない。そもそも、いつからかは知らないがローデリア様は邪険に扱っても良いという風潮が女官の中にあって――もちろん一部の人はそうは思っていなかったようだが――ミーアは彼女に会って開口一番、挨拶もそこそこにその憤りをぶつけたのだった。
「ちょっとヘマしただけでこんな最低な場所に来るなんて!もう出世できないじゃないの!」
自分の言葉を、一字一句覚えている。どうか忘れていますようにと願っていたのに、彼女はしっかり覚えていたようだった。
そのときだけではない。それからもずっと、この一年の間、ローデリアに悪態をついた。最初にローデリアが何も言い返さないものだから、調子に乗って、まるで人形に話しかけるように、悪態をついたりとりとめのない言葉を語ったりしていた。街に遊びに行きたい時など、断わりもせず仕事を休んだ。仕えるべき立場として最低のふるまいだったのに、それでもローデリアは何も言わなかったし、それどころか少しでもミーアが仕事をするとお礼を言った。私は使わないからと、お給金を多くくれることさえあった。
そう、もうその頃から、薄々分かってはいたはずなのに。
ローデリアは優しかった。出生は関係なく、気品があり、他の我儘な王女たちよりもずっとその資質を持っているのではないかとさえ思う。そんな彼女に、唯“鬱憤の捌け口が欲しい”と言うだけで、悪意をぶつけてきたのは自分だった。
それに気が付いたのは、ローデリアが結婚し、侯爵家にやってきてからだった。出世が望めない王宮を諦め、適当な言葉を並べてねだってみれば、彼女は二つ返事でミーアが付いて行くことを了承した。馬鹿な子だなあと思いながら付いてきて、そこで“不遇”されているのを見て、やっと気が付いたのだ。
妻として扱われず、アレイズから冷たい目で見られるローデリア。それを客観的に見て、自分のしていたことに気が付いたのだ。正面から悪態をついていたときには気が付かなかったし、ローデリア自身も気が付いていないのかもしれないが、ローデリアは心無い言葉を言われるたびに、目を伏せて諦めたような表情をした。
それで、自分の過ちに気が付いた。
何を言われても怒らないのだと思っていたけれど、きっと彼女は知っていたのだ。怒っても意味が無いと。
後悔したのは、アレイズから刺繍のハンカチを捨てられて、咽び泣くローデリアを見たときだった。二週間、時間を惜しんで懸命に刺繍をしている姿を見ていたのだ。彼女の刺繍は、初めてにしては上出来だった。とても上手に出来ていた。それを捨てられた瞬間、一度だって見たことの無い涙を流したローデリアを見て、自分がどれほど彼女を傷つけていたのかを知ったのだ。
今更、後悔しても遅い。
時間は戻らないし、ローデリアの心の傷を消すこともできない。この一週間、碌に食事もとらずに外ばかりを見つめる彼女に、胸がじくじくと痛んだ。
他の使用人が、泣きわめくローデリアの事を“嫌われているのだから当然じゃない”と馬鹿にするのを見て、ミーアも泣きたくなった。屋敷の使用人がローデリアに対して冷たい視線を向けるのは、勿論元々の評判による勘違いや、結果的にアレイズと婚約者の仲を引き裂いたというのもあったかもしれないけれど、何よりもミーアが率先して馬鹿にしていたからだ。前から仕えていた人も嫌っているのだから、ローデリアはそういう人間なのだという印象を与えてしまったのだ。
どうしたらいいのだろう。私の所為だ。私の、せいだ。
歩きながら、目の端に落ちる涙を拭った。