二度目の刺繍
胸をはって歩くこと。自分を卑下しないこと。堂々と話すこと。必要以上に感情を押し込めないこと。そして、アレイズの言葉を信じること。
少しずつ会話が増えてきた侍女たちと、ローデリアが交わした約束だった。前向きになるために、何をしたらよいのかと話し合った結果である。人に自分の心の内を話したことがなかったローデリアにとってこの話し合いは勇気を必要としたものの、それによって世界が広がることを初めて知った。自分の意見だけ見ていてはいけない。他人の話で、知らなかった考え方を知ることができる。過去のローデリアがどれほど凝り固まった思考回路を持っていたかを、優秀な侍女たちは優しく教えてくれたのだ。
アレイズとの会話も増えた。
相手の事を知ろうと思うと、必然的に話しかけることも多くなる。質問に答えるばかりだった受け身の自分が、どれほど会話で楽をしていたのか知ったのもこの時だ。ローデリアが質問することを、アレイズは決して嫌がらない。聞いたことに対して丁寧に優しく返事を返してくれる。
他人が、こんなにも自分に優しくしてくれることさえも、彼女にとっては初めての経験だった。
しかしだからと言って彼の好きという感情を信じることができたのかと言えば、それは良く分からなかった。もとよりアレイズの事は信頼していたし、今の彼の言葉はいつも優しい。けれど侍女たちにそう思えたときのように、言葉が溢れ出て来ることはなかった。そして彼がローデリアに対し、そこまで楽しく会話しているようにも見えなかった。ローデリアとしても話をするときは正直になるように気を付けているけれど、しかし言葉を発する前にいつだって頭の中で予行演習をしてしまう。
そんな折だった。
アレイズの従者ルーゼが、静かにローデリアの部屋を訪ねてきたのだ。礼に乗っ取った格好をして、ルーゼは言った。
「もうすぐ一週間ほど、ゼヴィへの遠征がございます」
その言葉が、最初何を意味しているのか分からなかった。しかし侍女は気が付いたようで、側に控えていたナーがあら、と口に手をやった。その横でミーアがうげ、と嫌そうな声を出す。
「自分で頼みに来なさいよ」
ミーアが厳しい瞳でそう言った。しかしルーゼはそんな視線もどこ吹く風である。
「私が独断でお耳に入れたいと思ったのです。アレイズ様は言いだせないでしょうから」
「はあ?仮にもアレイズ様の従者が、そんなことして良いわけ」
「主人の手が回らないところまで気を使うのが、従者の役目です」
「違うわよ、アレイズ様は臆病なだけ。傷つけた過去と向き合いたくないのよ」
「私は向きあうための手伝いをしているのでございます」
相変わらず口の悪いミーアだったが、残念ながら今日は止めるはずのアリーがいない。アリーはこの頃結婚の準備が忙しく、休みを取ることも多いのだ。口論が続くかと思われたが、ルーゼはミーアよりも幾許か大人であるらしい、途中で会話を引き上げると、失礼しますとさっさと帰ってしまった。
話の意図が掴めなかったローデリアが困惑した顔をナーに見せると、侍女三姉妹の真ん中の年齢の彼女は、ふふふ、と笑って言った。
「ローデリア様、ゼヴィへの遠征の途中には、アドゥリア神殿がございます」
その言葉で、彼らの言わんとしたことが分からないほど鈍感ではない。ローデリアは思わず息を飲んだ。もう一年は前になるだろうか。指を傷だらけにした記憶が蘇る。同時に、ひらりと床に落ちたハンカチの、自分が縫ったあまりにも下手くそな刺繍も思いだした。
思わず音を立てて、椅子から立ち上がる。
「ナー、刺繍道具を出して頂戴」
今のローデリアであれば、三日もあれば美しい刺繍を縫うことが出来る。まだ二週間も期間がありますよ。ナーはそう言ってまだ良いのではと言う顔をしたし、ミーアにいたっては昔に練習した一枚を渡せば良いとまで言ったが、そういう訳にはいかなかった。
きっともうアレイズはどんなに下手な刺繍でも床に捨てたりはしないだろう。しかしそれでも、ローデリアは過去一番に美しい刺繍を仕上げたかった。流石に前回のように食事や睡眠をおろそかにすることはしなかったけれども、暇な時間は全てそれに費やした。ローデリアは自分でも、どうしてこんなにも必死になっているのか分からなかった。けれども、何か強迫観念のようなものが、彼女を突き動かす。
アレイズから直接、遠征の話が出ることは無かった。だからローデリアも当日までは、知らないふりをした。
そして出発のその日、久しぶりに緊張がローデリアを襲っていた。刺繍は侍女たちに意見を求めながら何度も作り直しを繰り返し、ローデリアが出来る最上級の美しさだ。大きく息を吸って、彼女は今にも屋敷を出そうなアレイズに駆け寄った。
「アレイズ様」
「ああ、ローデリア。暫く留守にするから、家のことはよろしく――」
「あの、これを」
アレイズの言葉を最後まで聞いている余裕は無かった。駆け寄った勢いのままに、手に握りしめていたハンカチを差し出し、下を向いた。彼の顔を見ることが出来なかった。気のきいた見送りの言葉も用意していたはずなのに、声が出てこない。ただ、手の中にある布の感触が、消えるのを待った。しかしそれは、時間が経ってもローデリアの手からいなくなろうとしない。段々と不安が押し寄せてきて、受け取って貰えないのだろうかと手が下がった。すると前からずいと伸びてきた手が、ローデリアの掌ごとハンカチを掴んだ。
「……貰っても、いいのか」
想像よりもかなり弱々しいアレイズの声が降ってきて、ローデリアは顔を上げた。ローデリアの手を握りこむように掴んだ彼は、蒼色の瞳を彷徨わせていた。
「アレイズ様の、お気に触らなければ」
貰って欲しいのです。
アレイズにつられたかのように、ローデリアの声も小さく萎んだ。ぎゅうと包まれた掌が熱を持つ。
「……すまない」
続いて言われた言葉に、ローデリアはびくりと身体を震わせた。彼は貰えないと言うつもりだろうかと怯えたのだ。けれども、その想像は全くもって間違っていた。ローデリアの手を離さないアレイズの、その手は震えていた。
「本当に、すまなかった……!」
アレイズは、涙を流していた。
その美しい貌を歪ませて、真珠のように大きな涙がぽろりぽろりと頬を伝って転がっていた。そして彼は、何度もローデリアに謝罪を口にした。震える手でローデリアをしっかりと掴んだまま、涙を拭うこともせずに謝った。
その言葉を聞いて、そしてその顔を見て。ローデリアの心に、すとんと感情が落ちてきた。
アレイズに対する初めての、強い感情。
これは、怒りだ。
ローデリアの心に、その感情は轟いた。
一年前のあの日からずっと、辛くて、悲しくて、そして怒っていたのだ。心の奥底に沈められていたから気がつかなかっただけで、ずっとずっと。その感情が、アレイズの涙を見た瞬間に溢れ出したのだ。
胸の内から込み上げるような、心のどこかから姿を現したそれらの感情は、一気にローデリアの全身を駆け巡った。
ずっと傷つけられたことに悲しんでいたのだ。自身ではどうしようもない不遇な扱いに、身に覚えのない揶揄の言葉に、どうにもならない中傷に、傷つき、悲しみ、怒っていたのだ。
どうして私ばかり。どうして私だけ。どうして私が。昔はそんなふうに身体から溢れ出ていたはずの感情を、閉じ込めて隠してしまったのはいつだろう。怒りを、諦めとすり替えてしまったのはいつなのだろう。傷つけられることに対する感情を悲しみにしてしまったのは、諦めだけにしてしまったのは、いつなのだろう。
目の前の男に対して、これほどまでに心を動かされたのは初めてだった。怒りと言う感情が脳天にまで一気に上りつめて、その瞬間、ローデリアは目の前の男を罵倒してやりたいと思ったし、傷つけられた全てをやり返してやりたいと思った。他人に此処までの気持ちの高ぶりを感じた経験は、かつてない。
そして怒りが身体を打ち砕くと同時に、ある事実にも気が付いていた。
憤怒と並行するように、ローデリアの瞳にも涙は溜まった。ぎゅうと胸が痛む。こんな、痛みを伴うものを、私は忘れていたのか。そう思った。涙がこぼれ落ちるのを防ぐように、下唇を噛む。けれどもそれは、つうと一筋の道をローデリアの頬に作った。
アレイズが間違いに気が付いた後、どのような行動を示して来たのか十分に知っている。彼は真摯に謝罪し、ローデリアに気を使い、優しさを持って接してくれた。
それが、どういう意味であったのかを今更ながらに知ったのだ。ごくりと、小さく喉を鳴らす。
「……許します」
ローデリアは言った。
「もう、いいのです」
ローデリアの全身を駆け巡った憤りは、その言葉を口にした瞬間に縮んでいった。許すという言葉の、何と神聖なことか。それはローデリアが忘れていた、もう一つの感情だった。怒りの気持ちが無ければ、許しの気持ちは存在しない。
今このときまで、ローデリアは大きな勘違いをしていた。アレイズを縛り付けているのは、死を願った馬鹿な行動の所為だとばかり考えていた。優しさも、同情も、全てそこに起因するのだとばかり考えていた。しかしそうではない。
アレイズは縛り付けられていたのではない。あれは贖罪だったのだ。ローデリアを傷つけたことに対する償いが、その優しさの始まりだったのだ。
その真実に辿り着くと、アレイズのローデリアに対する感情への見方も少し変わる。同情から偽物の恋心を育ててしまうことはあっても、贖罪からそれは考えられないのだから。
ローデリアは真っ直ぐに彼の瞳を見た。まだ涙の名残はあれど、彼はもう泣いてはいない。ただ、ローデリアの言葉を噛みしめるように聞いていた。
「私は、いまだに貴方の言葉を、心から信じることができていません。私が、貴方の事を好きなのか、いつか好きになれるのか、それもわからないのです」
口から紡ぐ言葉はなんとも気恥ずかしいものだった。けれど、この言葉を言いたいと、そう思った。
「けれど、アレイズ様が、まだ私を妻として側に置いてくれるのなら」
一度、言葉を切る。もう彼の出発の時刻は過ぎていたし、早く言ってしまわなくてはと思うのに、続きを口から出すのが難しかった。握られていた手をそっと救い出し、ハンカチを彼の手の中に入れる。それからそっと、自分から、彼の腕に手を置いた。
「私は、貴方を好きになりたいのです」
その小さな告白は、広いエントランスホールの中に小さく響き渡った。




