新しい始まり
恋を経験した。
ローデリアは少し前に、恋と言うものを経験していた。誰にも言えない恋で、気が付いた瞬間に終わっていたものだったけれど、それでも恋をしたという経験を積んだ。相手は特に格好が良い男では無く、地位も名誉も持たない、きっとどこにでもいそうなほどに平凡な男で。
失恋というものの痛みも経験した。今でも思い出すと、少しだけ胸の奥がじくりと痛む。
ただ平民が珍しかっただけなのかもしれない。物珍しさの好奇心を、恋と勘違いしていただけなのかもしれない。そう考えてみたりもするけれど、真実は分からなかったし、結局ローデリアにとっての恋とは、それだったのだ。
それでは、アレイズは。
彼の恋とは、何なのだろう。
ティーゼを好いていたと言う事実はこの屋敷の使用人たちも、貴族の面々も知っていたことのはずだ。だというのに、その気持ちは消えたというのだろうか。そして、ローデリアに恋をしたとでも言うのだろうか。
言われた言葉を頭の中で反芻する。
俺はきっと、君が好きなんだ、ローデリア。
ずるい言い方ではないか。“きっと”なんて不確定要素を含ませて、慰めるために言ったようにも、引き止めるために言ったようにも思える。そもそも、彼が一体ローデリアのどこに惹かれるというのだろうか。嫌いだった人間を、そうも簡単に好きになれるものだろうか。
少なくとも、ローデリアは違った。
ローデリアは明確に“嫌い”だと言いきれる人間はいない。大嫌いも大好きもヘンスに会うまでに持ったことのない感情だった。そして心の真ん中に線引きをして人を良しと悪しに分けた時、その場所を移動できる人間がいるとは思えない。まず、大部分の人間は線の真上にいた。アレイズもアズリアも、使用人たちも、ティーゼも、システィナも。彼らに罪悪感を抱けども、それは好き嫌いには関係の無い部分にあるものだ。また生涯、父母も義兄弟たちも線よりも下に居続けることになるだろう。その位置が、動くことなど無い。いや、少なくとも、今までには一度も無かった。そしてヘンスは、多分誰よりも高い位置に入るはずではあった。しかしヘンスがどの位置にいるのか、どれくらいの高さにおいていいのか、判断は付かなかった。
つまりローデリアには、ヘンスと出会うまで好きだと思える人間に出会ったことが無かったのだ。性格のちょっとした部分を好ましく思ったり、何かの動作を下品だと思ったりすることはあっても、それを人間自体の評価につなげたことがない。例えばミーアがくだらない話をすることは好きだったけれど、それだからといってミーア本人を好きだと思ったことも嫌いだと思ったことも無かった。
だから、初めて恋心を抱いた人間に対する"好き"の大きさが、どれほどのものなのか判断が付かなかった。過去に出会った誰よりも良い場所にいるけれど、本当はこの“好き”は世間一般から見たらそんなに大きくないものなのかもしれない。分からなかった。
初めての恋が、ローデリアに与えたものは大きかった。人に愛されてこなかったせいか、人を想うというのがどういうことか、ヘンスと出会うまで知りもしなかったのだ。好ましいと思える人がいて、するとその人を想うようになるし、想う人が離れて行ってしまうと心が痛む。初めての経験だった。
そして知ってしまったからこそ、アレイズの言葉に動揺した。
彼が、ローデリアを想っているというのか。ローデリアがヘンスに想ったように、彼が自分を想ってくれているというのか。そう考えることが出来るようになってしまったからだ。恋を知らなかったローデリアなら、“嘘に違いない”と考えるのは簡単だった。“アレイズはティーゼと想いあっている”という事実は、ローデリアにとって記号でしか無かったからだ。知らないことを想像できないように、彼らの恋というのはローデリアの中で“そういうもの”の域を出なかった。だというのに知ってしまうと、その記号の中身にまで想像を巡らせてしまう。想うことの美しさを、素晴らしさを、痛みを、全部想像してしまう。
アレイズの言葉に返事を返すことの無いまま、部屋に逃げ帰ってきたローデリアを迎えたのはミーアの言葉だった。
「何て男なの!」
その声は強く非難の色を宿していた。
「今更、“君が好きなんだ”ですって? 嫌だ、鳥肌が立つわ! ローデリア様、良いですか、あんな男の適当な言葉に騙されないでくださいね!都合がよすぎるったらありゃしない」
「ミーア、あなた聞いていたの」
「ドアの近くでお二人が話された所為で、聞こえたのです!」
彼女は酷く怒っているようだった。小さな頭のひっつめていた髪を振り乱しながら、力説する。続き部屋にいたアリーが何事かと顔をのぞかせるくらいには、騒がしかった。怒りの理由を聞いたアリーは、その非難の相手が自分達の主人であることを知って顔を青ざめさせる。
「ミーア、口を慎みなさい」
「あら、でもアリーだって、アレイズ様が今更になってこんなことを言う資格が無いって思っているでしょう」
「……それは。別の問題だわ」
「ほら、思ってるじゃないの」
「ミーア、前から思っていたけれど、貴方は口さががないわ。思っていても口に出すべきでは無い言葉は沢山あるのよ」
「あら、話の内容をすり替えて誤魔化すつもり? その手には乗らないわよ」
「まあ、どうしてそうも、口が良く回るの。淑女としてあるまじきことよ」
「やだ、自分ばっかり結婚が決まったからって、自慢かしら。淑女であることが、そんなに偉いっていうの」
「二人とも、やめて」
目の前で口論を初めてしまった侍女たちをどうしようもなく見つめていたローデリアだったが、我に返って間に入った。ローデリアの存在を忘れていたのか、アリーはハッとして頭を下げる。ミーアはふんと鼻を鳴らして横を向いたが、それでもすみませんと謝った。怒ってはいなかったし、もう気にしないでとほほ笑む。そしてそれから、ローデリアはアリーに向き直った。これを聞いて我に返って、二人を止めたのだ。
「それよりもアリー、貴女結婚するのね。おめでとう」
「あっ。申し訳ありません、本当はこの後、きちんと報告させていただこうと思っていたのです。この年齢で恥ずかしいことですが……。ありがとうございます」
恨めしそうにミーアを見ながら、しかし幸せそうにアリーは言った。結婚の適齢期は過ぎている年頃だったが、良い人と巡り合えたのが伝わってくる笑顔だ。
「どうしてその方を好きになったのか、聞いても良いかしら」
その問いを、ローデリアは恐る恐る口に出した。そう、これが聞きたくて二人の喧嘩をやめさせたのだ。人を好きになることは、人を好きでいることは、どういうことなのか。それが知りたかった。アリーは少し驚いた顔をしたものの、快く勿論ですと言った。
「優しい方です。私を大切にしてくださって。勿論アレイズ様と比べたら、少し容姿は劣りますけれど」
「やだアリー、アレイズ様と比べて容姿が劣らない男がこの世の中にいる?」
「ミーア、貴女は黙ってなさい。酒場で料理人をしているのですけれど、美味しいと評判です。勿論、貴族の方が召しあがるものには劣りますけれど」
いちいち、ローデリアを持ち上げてくれる。
「どうして彼を好きになったのか、それはとても難しい質問で、ローデリア様の望む答えが出てくるのかは分からないのですけれど。初めは、なんとも思っていなかったのです。けれど時々お店を訪ねると、料理を出す時のちょっとした気遣いや、丁寧な物腰がとても好感が持てたものですから――――」
「初めは、なんとも思っていなかったの?」
「え、はい、そうです」
その言葉に、ローデリアは素直に良かったと思った。ゼロから始まる恋もあるらしい。それならばローデリアの中にある好きも嫌いも、きっと動くのではないだろうか。
「それなら、私もきっと、アレイズ様を好きになれるのかしら」
思わず声に出すと、ミーアが驚いたような顔をして「ならなくて構いません!」と叫んだ。しかしそれを押しのけるようにアリーが、「きっとなれます」と微笑む。
アレイズがローデリアに消えてほしいと言えば消えるつもりだった。死に行くことに、未練をあまり感じなかった。未だに彼の言葉は信じがたい。けれどもしも本当に、それが気まぐれではなく、慰めでもなく、同情でもなく、本当に彼がローデリアの事を好きだというのなら。ローデリアに生きていてほしいと思うなら。
彼を好きになりたい。
そう思った。ミーアが抗議の声を上げる。
「あんなに酷い人、好きになれるはずありません!」
拳を振り上げて主張され、ローデリアはアレイズにされた“酷いこと”を頭の中で思い出す。ハンカチを捨てられたときは傷ついて泣いたけれど、自分の存在が彼らを傷つけていることを知ってからはそれに傷つくことも無かった。自分が傷つけられるべき人間だと思うと、なんだか全てを客観的に見てしまって、それが当たり前のような気がしていたのかもしれない。
しかし酷いことをされたから好きにならないというのも、ローデリアにはまだ理解が上手く出来ないことだった。少なくともそれによって、ローデリアが彼を嫌いになったわけではない。とにもかくにも好き嫌いの感情を上手に理解できていないせいなのだろう、とローデリアは自分に結論付けた。本当に好きになれないのだとしても、努力はするべきなのではないだろうか。
自分の感情について自身が持てそうにないローデリアは、それをそのまま侍女二人に告げた。
「私は世間知らずで、あまり頭も良くないけれど。私の事を“好き”だと言ってくれたのは彼が初めてなの。それが嘘でも、同情でも、私――嬉しかったのよ」
「あんな男に対してそんな――」
「ミーア、少し黙っていなさい、本当にもう!」
似たような感情を、ヘンスに抱いたことをローデリアは思い出していた。初めて人に褒められた。初めて人に好意を向けられた。それが、嬉しかった。ヘンスの時のように“ずっと話していたい”だとか、“側にいたい”という感情は抱かない。だからきっと、アレイズに恋はしていないのだろう。けれども決して、嫌いでもないのだ。
まだ文句を言いたげなミーアを、アリーは年の功で一喝して黙らせた。それから柔らかく微笑む。
「ローデリア様。女性と言う立場で、私もアレイズ様の行ったことは看過したくはありません。それに、私たち使用人がローデリア様に対しきちんとした敬意を払っていなかったことも、許されるべきことではないのでしょう。この場を借りてまず、謝罪させてください」
「突然どうしたのアリー、私、そんなつもりじゃ」
「いいえ、ローデリア様。けじめをつけさせてくださいませ。そして、もしもローデリア様が私たちの行いを許して下さる気持ちが御有りになるのなら。失礼を承知で言わせていただくと、私はローデリア様とアレイズ様の関係が、良いものになっていただけたらと思っております」
「どうして!」
今度のミーアの叫び声は、アリーの一にらみで止まった。
「アレイズ様は、騎士として、また領を納める立場としては立派にやり遂げるお方です。今回のことでは間違えてしまったことも多く、ローデリア様に対しては許せないこともなさりました。それでもアレイズ様は間違いに気が付いたときに素直に頭を下げ、償おうと努力される方です。アレイズ様はお変わりになられました。私は、侯爵家に雇われている人間として、アレイズ様を信じたいのです」
頭を下げて言われた言葉に、ローデリアは少しだけ驚いて目をしばたかせた。ミーアは“侯爵家に雇われている人間”と言われてふん、と鼻をならしてそっぽを向いたものの、その自覚はあるらしい。アレイズ様については言い過ぎました、と反省を口にした。それからキイと鋭い瞳をローデリアに向けた。
「いいですか、ローデリア様は王族出身ですから、少々世間について不案内であるのも普通です! それにローデリア様の頭が悪いなどと言われては、私たち侍女などは馬鹿に馬鹿にされてしまいます。ローデリア様は、毎日弛まぬ努力をされて、十分教養を身につけています、わかりましたか!」
びしりと指をローデリアに向けてミーアは言った。わかりましたか、と念押しするようにもう一度言う。しかしそこでは終わらず、アリーが「まだ言うことがあるでしょう」とミーアの腕に手を添えた。その言葉にミーアは心底嫌そうな顔をして、しかしそれから気まずげに、視線を彷徨わせた。しばらくそうしてから、覚悟を決めたようにローデリアを見た。
「私は、ローデリア様に対して失礼ばかりを働いてきました。どれだけ酷いことを言っていたのか、どんな罰を受けても文句は言えません。本当に、申し訳ありませんでした」
下げられた頭に、ローデリアは今度こそ目を見開いた。アリーが考えていたことも、ミーアが思っていたことも、一つだって知らなかった。分からなかったのだ。彼女たちが謝りたいと思ってくれているなど、思いもしなかった。何と返したら良いのだろう。何が正解だろう。正しいことが分からなくて、ローデリアは心の中に浮かんできた言葉を、口にした。
「ありがとう」
その言葉に、侍女の二人が不思議そうな顔をした。
「ありがとう、二人とも」
言葉が見つからなくて、同じ言葉を二回繰り返した。二人の謝罪を求めていたわけではないし、それを聞きたかったわけではない。しかし本音で話してくれたその事実に、お礼が言いたかったのだ。
「アリーもミーアも、とても素敵な侍女だわ。だからこれからも、私は迷惑をかけてしまうけれど、私の侍女でいてほしいの」
ああ、これが“好き”なのかもしれない。ローデリアは思った。
二人の台詞に心が暖かくなって、お礼を言わずにはいられなかった。考えて言葉を発するのでは無くて、言いたいことが自然に口から出てきた。
きっとこれが、“好き”なのだ。
そう、思った。
最終の二話は、同時掲載いたします。