ティーゼ・ドミネイト
貴族社会とは何か。
貴族とひとくくりにされて平民には羨ましがられるものの、貴族の中にも格式があり、身分の違いがあり、差別もある。ドミネイト男爵家という、貴族の中では最下層の身分に生まれたティーゼは、それをよく理解していた。
お金は湯水のようには沸いてこないのに、“貴族”の名誉を維持するためには使用人の数を減らすことも、馬車を手放すこともできない。いつだって裕福だとは言えなかったし、ティーゼや母親の為の新しいドレスを仕立てるのにも一苦労だった。宝石やドレスが好きなのに、何一つ手に入れられないのだ。
小さなころはそれがわからなかったものの、大きくなって社交界に顔を出すようになってからその差に気が付き、自分の立場に気が付いたのだ。けれども小さなころから貴族として育てられ、今さら平民になれと言われても無理なもの。貴族の末席に名を置き続けて、生きていくしかないのだと思っていた。
友人だって頑張って作った。自分と身分が変わらない人だけでなく、子爵や伯爵家の少女たちにも気に入ってもらえるように、人が好む言葉を言うのが上手くなり、これからの人生を円滑に進めていけるだけの関係を作った。侯爵家やそれ以上の身分の少女はいち男爵家のティーゼに興味を持つことも少なかったし、ティーゼから近づくつもりもなかった。彼女たちは毎回の舞踏会で一度だって同じドレスを身に着けては来ないし、その指にはまっている宝石だけでティーゼの全身の飾り以上の価値があったからだ。近くでそれを見、話をしていたら嫉妬に狂ってしまう。彼女たちが羨ましかった。努力は無い。生まれだけの問題だ。生まれだけの問題で、こんなにもの不公平が生じる。それが、悔しかった。
アレイズ・ノーベラルト侯爵子息と出会ったのは、友人であるダーヴィットの紹介だった。平民出身ながら騎士となり準貴族にまで上り詰めたダーヴィットとは、彼の妻である少女と元元の知り合いで、その繋がりで知り合ったのだった。そんな彼がいつだったかの夜会で偶々ティーゼの側に来て、そのときたまたま彼はアレイズと一緒で、そしてティーゼを紹介してくれたのだった。
縁の遠い侯爵家との突然の対面に戸惑ったものの、ティーゼはいつものように粗相なく、当たり障りなく答えた。彼は実直そうな青年で、男爵令嬢であるティーゼにも真摯に接してくれた。お世辞だったけれど、ティーゼを褒めてくれた。薄茶色でくせ毛の扱い辛い髪と平凡な容姿を持つティーゼは、自分の見てくれが取り立てて褒められも貶されもしないものだと知っている。身分の低さもあって、男性が積極的に自分を褒めてくれることはなく。つまり言ってしまえば、褒められ慣れていなかったのだ。それにアレイズが驚くほどの美形という事も相まって、顔を真っ赤にしてお礼を言ったのは記憶に残っていた。
自分の何を、彼が気に入ってくれたのかはわからない。しかしそれから、アレイズはよくティーゼに話しかけてくれるようになった。最初こそ疑いの気持ちを持つ方が大きかったけれど、彼が持つ地位と名誉を見て、そして毎回のように微笑みを向けてくれるその顔を見て、気持ちが動かないというほうが無理なものだろう。ティーゼもアレイズを、愛しく思うようになった。
友人たちもティーゼの玉の輿を喜んだ。彼女たちの喜びの中に、将来の侯爵夫人の友人という地位に対する感情を読み取ったけれど、そんなことは気にならなかった。ただの男爵令嬢の私が、愛する人に愛されて、将来の侯爵夫人になる。貴族社会の端で生きていくはずの自分の人生が、平凡な人生が、薔薇色に彩られていく様子が想像できたのだ。
それからは、彼に飽きられないよう必死だった。彼の好む女性らしく振舞うことに必死だった。
いつのまにか、本物のティーゼは消えていた。アレイズの前では演技をしているように過ごした。
本物のティーゼは彼を愛していたけれど、アレイズの愛が深くなっていったのは、偽りのティーゼだったのだ。
言外に結婚を匂わせて、早く婚約したいという意思を伝えた。結婚してしまえば、すべてを手に入れることができる。彼の愛が枯渇しても、側にいることができる。
アレイズはティーゼの気持ちをすぐに汲みとってくれた。しかし彼の父親という障害は大きく、中々そこまで漕ぎ着くことが難しくて、もどかしく思っていたとき。
ローデリアという存在に、すべてを掻っ攫われてしまったのだ。
あと一歩ですべてが手に入るというときに出てきたその存在を、あっけに取られて見ているしかなかった。その噂が最初に耳に入ってきたときには既に婚約は確定し、その夜にアレイズと会う約束を漕ぎつけた時には、結婚式の日取りまで決まっていた。
一番に押し寄せた感情は、怒りだった。直ぐそこにまで近づいていた幸せを、横から分捕られてしまったのだ。彼女が王族だから。彼女の地位の方が上だから。貴族社会を飛び抜けた、王族などと言う存在には、ティーゼが求めてやまない侯爵と言う地位であっても敵わない。ずるい。そんなの、ずる過ぎる。
それでも希望を持てたのは、アレイズがその結婚を心底嫌がり、ティーゼの事を心底愛していると囁いてくれていたから。きっとどうにかして見せるという彼の言葉を信じた。信じるしかなかったのだ。
けれども、それがどうだろう。
月に何度も交わす手紙に、彼はティーゼへの愛と、ローデリアへの憎しみを綴ってよこした。ティーゼだってローデリアに対する恨みは山ほどあったけれど、それを書かずに優しく甘い言葉ばかりを掛けたのは、悪口を言う女を彼が嫌うことを知っていたからだ。
手紙の内容はいつも似通っていて、結婚した彼らの関係に何の進展も後退も無く、いつまでたっても彼らが離縁するという話は出てこなかった。アレイズは、ローデリアとは全く口も聞いていないと言うけれど、それだって本当か確かめる術がない。そんな状態が半年近く続いて、焦りが出てきた頃、王宮での舞踏会が開催された。
「まあ、ティーゼ様、あれを御覧になって」
友人の一人が態々その方向を示して、何の気なしに見た後、ティーゼは自分の目を疑った。腕を、組んでいた。どうして、と思った。頭では理解しているのだ、夫婦であるのだから入場の際は夫が妻のエスコートをしなくてはならない決まりがある。しかし、彼は手紙ではあんなふうにローデリアを貶しておきながら、こうして現実では彼女と腕を組み、まるで中睦まじげな様子で歩いてくるなんて。そしてその事実以上に、ティーゼを打ちのめしたモノが、もう一つあった。
その場にいる全ての人間は、二人に注目していたように思う。
「ローデリア様って、なんてお綺麗なのかしら!」
近くにいたどこかの令嬢がそう呟くのが聞こえ、周りの人間もそれに同意していた。そう、初めて見たローデリアという人間は、アレイズの横に並んでも引けを取らないほど、美しかったのだ。彼らは教会での結婚式の後にお披露目の会を行わなかったから、社交界には殆ど顔を出したことの無いローデリアを拝見する機会など無いに等しかった。結婚の発端となった褒章会には出席していたらしいが、出席した武人達でも遠目でしか見ることが出来ない距離であったし、そもそも令嬢たちが出席するものではない。
貴族には少ない漆黒の髪に、白粉を沢山はたいた様子も無いのに白い肌。頬と唇は優しい薄紅色で、髪と同じ色の睫で包まれた瞳は王家の証であるセーラムが輝いている。コルセットで締め付けられたその腹部は、どの令嬢も敵わないくらい細かった。
皆が口ぐちにローデリアの容姿を褒めていた。勝手に酷い物を想像していたわ、と誰かが言う。その言葉に対して、でもあの美しさだもの、母親もきっと美しくて、それを国王様が気に入ったに違いないわ、と答える声がする。お二人が並んでいるのは絵になるわ、と感嘆の声も聞こえた。途中であの美しさだから我儘になるのだって仕方ない、とローデリアに纏わる揶揄を馬鹿にするような言葉もどこからかやってきて一気に、話題は彼女の噂に変わっていく。
ローデリア様は本当に我儘娘だと思うかい。あなたちょっと、声を掛けてきてよ。私は無理よ、恐れ多いわ。あんな美しい女性なら、我儘だって許してしまいそうだよ。
集まった人々が口ぐちに褒め立てる。それを聞いて羞恥心に襲われた。この半年、会うこともままならなかったアレイズとの久しぶりの対面に浮かれ、飾り立てていた自分は何て間抜けなのだ。
「ティーゼ様、ローデリア様の所へ行きますわよ」
友人の一人、先程ノーベラルト侯爵一家が入場した時に教えてくれたシスティナが、そう言って腕を引いた。システィナは友人たちの間でも一番地位の高い伯爵の娘で、その言葉には逆らえない強さがある。そんなシスティナに続いて、いつもの茶会のメンバー五人でローデリアの方へ向かった。
友人たちは未だ、“侯爵夫人の友人”という地位を諦めていないようで、アレイズの心が未だにティーゼの元にあると洩らしてからは、積極的にローデリアを貶し批判した。社交界の何処から出てきたのかわからない“我儘娘”という噂を信じ込んで、恐れ多くも王族に名を連ねる女性に真っ向から対立しに行くというのだから若い力というものには怖さがある。
友人たちよりも張本人であるティーゼの方が幾許か冷静で、辞めた方が良いと進言したけれども、社交界に蔓延した悪い噂を信じ切っている少女たちは、周りから良く思われていないのだから大丈夫だと、崩れそうな根拠を心から信じ、そしてティーゼの手首を離さなかった。
そして目の前で笑みを崩さず、友人たちの悪口に何一つ反論しないローデリアのその様子は、ティーゼに余計な敗北感を与えた。どうしてこの目の前の女は、友人たちの批判に、向けられる悪意に、平然としていられるのだろう。それが欠片も理解出来なかった。見せびらかすような大きな瞳はセーラムに彩られ、そしてその瞳から心は読みとれず、更には微笑んですらいる。どうして。それが王族なのか。奪った人間が、そんな風にいるなんて、ずるい。
「人を、不幸にして楽しいですか」
何も言わないでおこうと思っていたのに、口から言葉が出た。私を不幸にして、どうしてお前は笑っているのだ。そう思ったのだ。しかし結局、ローデリアはそれにも返事をしなかった。何でもないと言わんばかりに、余裕綽々な態度でその場を去る。憎かった。恨めしかった。
ローデリアと再び相見えたのは、ユースハイム家での舞踏会だった。アレイズともローデリアとも会ってしまえば負の感情が湧きだしそうな気がして大きな舞踏会は避けたかったのだけれど、安泰だと思っていた娘の婚約話が一気に白紙になったことで焦った両親が、ティーゼに舞踏会に行かないという選択肢を与えなかったのだ。
そこでも、当たり前のようにシスティナ達はティーゼを引き連れてローデリアの元へ向かい、前回中断されてしまった会話の続きと言わんばかりにローデリアを責め立てた。
多分、少し適当な理由を付ければ、その場をティーゼが離れることは可能だっただろう。周りの大人たちがこちらに聞き耳を立てているのは分かっていた。口の悪い、教養が無い少女たちだと思われてしまうからここを離れなくてはと思っていた。それでもその場に留まったのは、そう、気持ちが良かったのだ。ローデリアという少女を一緒になって憎み、嫌ってくれる友人がいる。ティーゼが口に出したくて堪らない悪口を、代弁してくれる人がいる。その事実を、聞き逃したくなかったから。
けれど勿論、その判断はとんでもなく馬鹿だった。
「私について、何か?」
ローデリアの背後から、まるで守るかのようにやってきたのは、アレイズだった。その声を聞き間違えるはずも無く、顔を上げると驚いたような表情の彼と目が合う。けれども彼は一瞬でティーゼから視線を逸らし、その場にいる少女たちに言い聞かせるように言葉を放った。明確な、嫌味だった。
ローデリアを一方的に責め立てているこの会話を、周りの人間は皆聞いているぞと、そう言ったのだ。けれどそんなことにまで気を使っている場合ではなかった。どうして嫌いなはずのローデリアを助けにきたの。何故私を見てくれないの。その腕を、彼女の腰にまわす必要はあるの。
――――アレイズの気持ちが、離れて行ってしまう。
それは恐怖だった。
そもそも、彼が結婚してしまってからもティーゼが夢を、将来を諦めないでいることができたのは、アレイズに愛されているというその事実があったから。言いかえれば、根拠はその一点のみだったのだ。
それが無くなってしまったら。
私のこの、三年間の努力は何になるのだろう。彼と出会ってからずっと、彼のことを考え、彼の好みに合わせた努力の時間は、私の将来は、どうなってしまうのだろう。怖かった。一度掴みかけた夢を離すことは、恐怖だった。アレイズと結婚するはずだった。男爵と言う肩書をつける娘ではなく、侯爵を持つ夫の妻になるはずだった。あの金色の髪も、蒼色の瞳も、大きな屋敷も、広大な領地も、ドレスも、宝飾品も、贅沢品も、そして何よりも彼の愛も全部、全部私のものになるはずだったのに。
それらは全て、無くなる。
ローデリアの所為で。
憎しみが膨れ上がり、心の内が驚くほどに熱くなった。あの女の所為だ。あの、女の所為で私の努力が全部、全部無くなってしまう。そんなの、許されない。
彼女さえ、いなければ。
アレイズから届いた手紙のローデリアについての説明も、彼女の生い立ちも、何もかもがティーゼにとってはどうでも良かった。結果が全てだ。結果が全てではないか。今ああして、ローデリアは侯爵家で、アレイズを手に入れている。ティーゼは男爵家の小さな部屋で、怒りと哀しみに打ちひしがれている。これが全てだ。
――――彼女さえ、いなければ。
殺そうと思った訳ではなかったのだ。
ただ少し、淑女として婚姻関係を続けてはいられない状態にして貰おうと思っただけ。そうなってしまえば、どんなに中睦まじい夫婦でも、心の結ばれた婚約者でも、女は修道院に入るしかない。そうなってしまえば、ローデリアは居なくなる。そうしたらきっと、きっとアレイズは目を覚まして、ティーゼの元に戻ってくる。そう思ったのに。
計画は失敗したし、ローデリアは無事だった。
事件は内密に済まされ、ティーゼにも表立って処罰が下ることはない。普通であれば他の罪状を作って裁かれるところに恩情を出したのは、なんとローデリア本人だと言うではないか。
よりにもよって、ローデリアが。
それさえも、憎かった。
ティーゼがしたことを知った父親の失望。母親の涙。そしてアレイズの、減滅の瞳。
もう、終わったのだ。
私の夢は叶わない。私の将来には、何も無い。
涙は出なかった。何も感じなかった。私はこんなに努力したのに、彼を愛していたのに、結局それが報われなかったのだ。
馬鹿みたいだ。
こんなに頑張ったのに。
こんなに、頑張ったのに。