偽りの姿
雇われた男は、雇った人間の顔は見ていないと言った。しかしその相手が女であったことも、小柄であったことも、正直に話した。そしてお金を受け渡した日、時刻、場所、金額。そう言った要素を全て聞き終えたら、おのずと犯人が見えてくる。
犯罪には不慣れな、慣れていない手口。精一杯存在を隠そうとしている様子が窺えてしまう様な、あどけない手段。
そこから導き出される犯人像は、犯人は、それは。
騎士としての仕事を投げ出したいと思ったのは初めてだった。
事情を知った上司が直ぐに緘口令を強いてくれたことと、騎士たちが皆優しかったのが救いと言うべきか。誘拐事件のその中心に、自分がいることは明白だった。気を利かせた、というよりも気を使ったと言うべき上の配慮で、アレイズは今、友人のダーヴィットと共に馬車に揺られていた。
「アレイズ、大丈夫か?」
「ああ」
大丈夫じゃない、という返答は許されない。実際は答えと違い彼はひどく狼狽していたし、大丈夫だなんて今の自分とは正反対の場合を指すのだとも理解していた。ダーヴィットも分かっているのに、聞かずにはいられなかったに違いない。
「どうして」
ひとりごとだった。けれども友人の耳にはしっかりと届いており、そして頭の良い友人はその言葉の続きも察したのだろう。
「お前の所為じゃない」
それは、分かっている。この結婚はアレイズにとって不可抗力であったのだから。でもそれはローデリアにとっても同じことで。
目指す屋敷に到着すると、青い顔をした男が小走りでやってきた。
「これはどうも、お越しいただきまして……」
声も怯えに満ちていた。一体どうしてアレイズ達がやってきたのか、微塵も考えが付かないに違いない。家の中に案内されると、夫人もエントランスにまで出てきていた。騎士の署名で送られた書簡には、具体的なことは何一つ書いてはいない。ある事件について話を聞きたいと言うことと、当日訪ねる人間の名前だけが書かれていた。
娘の元恋人がそのような形で訪れることなど、ドミネイト男爵もその夫人も望んではいなかったに違いない。予想もしない対面に気まずいのはどちらも同じだった。
「お時間をお作り頂きましてありがとうございます、男爵」
そう言って頭を下げたのはダーヴィットだった。彼は人当たりの良いにこやかな笑みを浮かべて一礼をする。誰も平民出だとは思わないような優雅な物腰だった。
「ティーゼ嬢は、どちらに」
「部屋にいるようにと、言ってあります」
「ご案内をして頂いても?」
「勿論ですとも」
ドミネイト男爵が何かを言うと、執事が出てきて案内に立った。そう大きくもない屋敷で、部屋に行くまでは一分もかからない。こげ茶色の扉の前で立ち止まると、アレイズはダーヴィットの方を見た。その視線の意味を機敏に感じ取った親友が、再び口を開く。
「お話を窺う間に、ドミネイト男爵様とご婦人には私から説明を差し上げましょう」
応接間に入らせていただきます、とダーヴィットが足を踏み出すのを見て、しかし男爵は不安そうな目をアレイズに向けた。その不安も分かっている。元恋人と愛娘を、部屋に二人きりにさせるのは嫌なのだろう。
「お話は、侍女の立会いの元で行いますので、ご安心を」
そう言って夫婦を遠ざける。扉を叩くとティーゼの侍女が開けてくれ、すんなりと中に通された。アレイズの部屋の三分の一ほどの、小さな部屋。その真ん中にある椅子に、ティーゼは座っていた。家にいるには不釣り合いな夜会用の翡翠色のドレスを着て、髪はしっかりと結いあげられている。侍女が何か勘違いをしているのか、頭を下げて退室しようとしているのを引きとめ、ティーゼの近くにいるように告げた。
「言葉を交わすのはお久しぶりですね、ティーゼ嬢」
自分の口から出た言葉の冷たさに、アレイズ自身がぞっとした。しかしティーゼは、そんな声色に気が付かないのか、朗らかに笑って見せた。
「アレイズ様、会いたかったです。ずっと言葉も交わせず、とても寂しく思っていましたの」
それは場違いに明るい声だった。自分が何をしたのか、何のためにアレイズが此処に来たか知っているはずなのに、まるで一年ほど前のまま変わらないような。ティーゼはそのまま、弾んだ声で言葉を紡いだ。
「どうぞ、お座りになってくださいませ。アレイズ様、私とても、貴方に会いたくて。今日来て下さると知って、急いで着飾りましたの。アレイズ様が好きだって言って下さった髪飾りを付けて――」
「ティーゼ」
「そう言えば私、美味しいお茶を見つけたんです。あまり高価な物では無いのに、驚くほどに良い香りがして。いま侍女に用意してもらいますから――」
「ティーゼ、やめてくれ!」
まるで自分が起こした事件など無かったと言わんばかりのその様子に怖くなって、少し大きな声でそれを止めた。するとティーゼは、今の今まで機嫌良さを前面に押し出して微笑んでいたというのに、するりと表情を失った。
その顔から微笑みは消え、口元は一文字に。頬と同じように、顔面全体がつるりとしてしまったような、そんな顔になったのだ。
「じゃあ、貴方は私に何を話せと言うのですか」
冷たい言葉がアレイズにふってくる。一瞬、その声がティーゼの物だということに気が付くことが出来なかった。あんまりに冷たく、一緒に過ごした三年間で一度だって聞いたことの無い声色だったからだ。しかし彼女は紛れも無くそう口にした。伸ばしていた背筋を背後の椅子に凭れかからせて、立ったままのアレイズを斜め下から見上げていた。
「自分でも、分かっているのだろう」
取り調べる立場なのはこちらのはずなのに、自分が詰問されているような感覚だった。緊張と畏れに声が強張る。
そんなアレイズの様子を見ながら、ティーゼは足を組んだ。淑女が人前でするべき座り方ではないし、ましてはティーゼがそんなことをするのを、アレイズは一度も見たことが無かった。
「分かっているに決まっています、アレイズ様。ええそう、私、私がやりました。私がやったの。街で男性を雇って、お金を渡して、ローデリア様を攫ってもらったの」
何が悪いのでしょう。そう言いだしそうなほど、自信に満ちた罪の告白だった。その後ろに控えていた侍女の方が驚きで顔を青くして、信じられないような眼で彼女を見ている。気を抜けば大声を出してしまいそうなのを、拳を握りしめて耐えた。
「なぜ、こんなことを……」
「だって、ローデリア様がいたら私とアレイズ様、結婚できないでしょう?」
「ローデリアに罪はないと、手紙で書いただろう!」
「罪があってもなくても、私には関係ないことです。ローデリア様がいらっしゃる限り、私がアレイズ様と結婚するための障害であることに間違いないと、思うのですけれど」
「だからって、殺そうとするなんて」
「あら、殺そうとはしていません。ただ修道院に行くようになればいいなと思っただけです。殺されそうになったのなら、きっとそれは雇った男が勝手にしたことです」
ティーゼは驚くほど冷静に喋った。アレイズには理解出来ない理由を、さも当たり前とでも言わんばかりに。目の前にいるのは一体誰だろう。そう思った。少なくとも、アレイズの知っているティーゼでは無い。ティーゼでは、無い。
「ティーゼ、君はどうして、そんな人じゃ……」
「いいえ、私はこういう人間ですわ」
「でも、君は」
「こういう人間です!」
突然ティーゼが勢いよく立ちあがり、椅子が後ろに倒れて部屋に鈍い音が響いた。その音に固まっていた侍女がおろおろと、椅子を起こすべきかティーゼに何か言うべきかと視線を彷徨わせている。
「アレイズ様が愛していたティーゼが偽物なのよ!」
ティーゼはさっきまでの無表情が嘘のように、今度はアレイズをキッと睨みつけていた。先ほどよりも近くなった目線で、仇を見るような顔だった。
「私はずっと、貴方と結婚することだけを夢見ていたわ! そのために、アレイズ様の好みの女性になる為に、私はずっと自分を隠していたの。私は貴方が思う様な優しい女でも、純情な女でも、理想的な淑女でもない! 貴方の妻になる為に、侯爵夫人になる為に、必死で努力していたの!」
言葉は勢いを持ってアレイズにのしかかった。ティーゼ様、どうか落ちつきになって。侍女のその言葉を無視して話は続く。
「貴方は愛してくれていたでしょう? ティーゼが好きだった。理想の女性だと、そう言ってくれていた。私、アレイズ様にとって完璧だったでしょう? なのにどうして、どうして私はアレイズ様と結婚できないの。男爵家に生まれたことがそんなにいけない? 侯爵家には釣り合わない? 王族だからって、どうしてローデリア様が、私がずっと願ってやまなかった場所に一瞬で収まるの? 私の努力はどうなるの? どうして努力もせずに、ローデリア様はその位置につくことができるの?」
言葉には迫力があり、口を挟む隙を与えなかった。言葉には棘があり、その棘はアレイズに次々と突き刺さる。話しているのはティーゼだったけれど、全く知らない女性のようにも思えた。
「結婚自体は仕方ないことだと思ったわ。アレイズ様の所為じゃない。だから私は耐えたでしょう。手紙のやり取りで貴方の愛を確かめることで、まだ大丈夫だと、そう思って自分を励ましていたのに。なのにどうして、アレイズ様。どうしてあんなふうに仲良く、舞踏会に出席したの。私の目の前で、ローデリア様の腰を引き寄せたの。私を愛してくれているなら、そんなことが出来る筈がない。私を好いてくれているなら、そんなこと出来る筈が無い。もう無理だったの。貴方からの愛を支えに我慢していたのに、貴方は、貴方は少しずつ、少しずつ、私への愛を失っていた。それに、それだけじゃない。それだけじゃないじゃない。アレイズ様、貴方は、貴方は――――」
恨みを全て詰め込んだような、低い声だった。
「――アレイズ様、貴方はローデリア様に惹かれていたわ!」
それだけは、どうしても耐えられなかった。そんなのって無いでしょう。そんなのって、酷過ぎるでしょう。
声は段々としぼんで、最後にティーゼは俯いた。