アズリア・ノーベラルト
社交界シーズンが幕を閉じる、最後の舞踏会。大舞踏会と呼ばれるこの舞踏会は貴族が持ち回りで行うことになっており、今年はノーベラルト侯爵家がその順番である。母親に言われて、アズリア・ノーベラルトはそれの準備を手伝っていた。
「せっかくローデリアちゃんが家に来て、アレイズと結婚した年なのだから、二人の髪の色――金か黒を基調とした服をドレスコードにしたの。どうかしら?」
「……いいと、思うけれど」
「ふふ、でも良い案でしょう? 私がひらめいたのよ」
彼女の母親である侯爵夫人は、どこか浮世離れした女性だった。ふんわりとした話し方や、気品しかない動きや、それらは彼女が良家に生まれ落ち、苦労を知らずに生きて行く人間であることを証明していた。彼女はそれ以外で生きるすべなど学んではいないのだろう。実家は公爵の爵位を持ち、ローデリアとは親戚筋にあたるはずだった。そんな母親は噂など聞いてもいない様子で義娘に対して他の人間にするのと同じように接していたが、決して母親や年配の女性として誰かに進言しようなんて思いもしない、生涯少女のような女性であることをアズリアはよくわかっていた。
「去年の大舞踏会は確か、スージー侯爵家が開催したのよ。その時は燃えるような赤色がテーマだったの。悪くはなかったけれど、あんなに赤色ばかりでは少し派手すぎて、成金趣味みたいにも思えたわ。それに比べたら黒と金は素晴らしいとは思わない? スージー侯爵家夫人には絶対に負けたくないから、ちゃんと用意しなくては……。ねえ、テーブルクロスはこの色でいいわよね?」
母は助言を頂戴とアズリアを呼びよせながら、結局は自分の案に頷き、賛同してくれる人間が欲しいのだ。舞踏会の成功が侯爵家の評判に関わるとあって、準備に余念はない。この夜会が終われば皆が田舎屋敷に帰っていくことになる。今年の最後の華やかで煌びやかな場とあって、皆が楽しみにする集まりだ。残念ながら今年も良い人を見つけられていないアズリアにとっても、大切な夜会であることは間違いなかった。
「ああ、そういえば、今日はローデリアちゃんを家に呼んだの。彼女も侯爵家の一員だもの、手伝ってもらおうかと思って。かわいそうに事件に巻き込まれて家から出ていないみたいだけど、気晴らしが必要でしょう」
「そうね、お母様」
母親の意見には全く同意できずとも、アズリアはそう言った。自分だったら、殺されそうになってすぐに夜会の準備など手伝いたいとは思わない。
誘拐事件は、ひた隠しにされることとなった。世間でこの事件がどのように扱われたのかは知らなかったが、常識的に考えて、女性が男性に誘拐されたときにどのような下品な噂が流れるかは自明の理だ。そしてそれがローデリアであるのならば、余計に。そう思って、アズリアは目を伏せた。
ローデリアが攫われ、犯人を捜すためすぐに騎士団の一員が侯爵家を訪ねてきた。それが兄ではなかったものの、騎士団に嘘をつくわけにもいかず、茶会のメンバーはローデリアとティーゼだけだったという事実を伝えざるをえなかった。すぐにその事実は兄の耳に入り、彼は数日後に詰問しにアズリアのところにやってきた。ティーゼの名前を出したらきっとローデリアは来ないからと、兄には嘘を告げていたのだ。
家にやってきたアレイズはひどく怒っていたけれど、アズリアも最初は、それに対して文句をぶつけた。何を思ってティーゼにあんな手紙を送ったのか。どうしてローデリアなどをかばったのか。騙されているのではないか。誘拐されたことには同情したけれども、それとは別問題だと思ったのだ。しかし、アレイズは、そんなアズリアに酷く怒り、ローデリアの無実をこんこんと説いた。その内容に、驚愕したことは間違いがない。
すべての元凶は我らが父親であるノーベラルト侯爵だ、と言われて、頭に何かを打ちつけられた気分だった。兄はアズリアや母親を気遣って、父親の悪行を黙っていたのだ。このごろ兄と父の仲が良くないことには気が付いていたが、その理由は女が口出しできるものではないと思い込んでいたのに、まさかそんなことだとは。
それでもアズリアが食い下がらなかったわけではない。いきなりティーゼにあんな手紙を送りつけられたことも、舞踏会で側にいただけのティーゼを糾弾する内容が書いてあったことも、どれだけティーゼを傷つけたのかわからないのかとも問うた。傷つける意図はなかった、とアレイズは言った。しかしそれに続けて、正当な質問を手紙でしたのだとも言った。ローデリアを囲んで、これ見よがしに悪意をぶちまけながら舞踏会で恥をかいていた集団は全員ティーゼの友人であり、ティーゼは側にいたのではなく立派な一員としてそこにいた。だから、と主張したのだ。
ずっと同じ家で育った兄が、嘘をついているかどうかくらい、アズリアにもわかる。そこでやっと、自分の間違いに気が付いたのだ。あまり妹にはそう言ったことを話したがらないアレイズではなく、同性で仲の良いティーゼの話ばかり鵜呑みにした。どれだけひどい言葉をぶつけたのか、酷い態度をとったのか。考えるのも嫌だった。
「お母様、少し気分が良くなくて。私、部屋に戻るわ。ローデリア様には、よろしくと伝えてくれる?」
「あら、どうしたの。このごろよく体調を崩すわねえ」
だから、アズリアは部屋に逃げた。合わせる顔などないと思ったのだ。部屋に戻って次女を追い出し、一人きりになる。誰かと話していると、ふとした拍子にローデリアのことが話題にあがったりして、嫌だった。
ティーゼと出会ったのは、彼女が兄であるアレイズと良い仲になってからだ。社交界ですぐ噂になった二人のことはアズリアの耳にも飛び込んできた。父親はいい顔をしなかったし、母親は微笑んでそうなの、と言っただけだったけれど、アズリアはすぐにティーゼに会いに行った。すると男爵家の、アズリアよりも幾許か年上の少女は、声を掛けた彼女に大層恐縮し、大げさに礼をした。アズリアの質問には、恥ずかしがりながら真摯で真面目に、純粋な少女のように答えてくれたのが印象的だった。どこか母親に似ていたけれど、しかし母親のような浮世離れした様子はなく、ものの道理を弁えているようでもあった。その様子を見て、兄が彼女のどこを気に入ったのか分かった気がしたし、彼女自身もティーゼを気に入った。ティーゼは優しく、すぐに仲良くなれた。だから、彼女のことは信じていたし、心から大切だったから。
「ローデリア様がいらっしゃっております」
思考の波は、侍女の言葉で途切れた。逃走の意味はなく、無情にも侍女が、ローデリアが部屋に訪ねてきたことを告げたのだ。
「……どうぞ」
少し前の自分ならきっと追い返してしまっていたし、今だって追い返してしまいたいけれどもその意味は少し違っていた。今は、追い返せるような立場ではない。
おずおずと言った様子で入ってきたローデリアに、アズリアは横目でちらりと視線を向けた。茶会のときのように、正面から視線を向ける勇気がなかった。
「お休みのところ申し訳ありません。夫人から、アズリア様のご様子を伺ってほしいと言われまして。私などが伺ってもとは思ったのですが」
その言葉はとても控えめで、ああきっと彼女は、あの母親に否と言えなかったに違いないと気が付いた。彼女とて、来たくなかったに違いない。そのまま眺めていると所在無くして立ちつくしている。椅子を、と思いながら色んな感情が入り混じって「早く座りなさいよ」とつっけんどんな言葉になってしまった。ローデリアは向かいにあるソファの端に腰を下ろした。
「お加減は?」
「別に」
「それなら、良かったです。アズリア様が塞いでいますと、侯爵夫人がお悲しみになられますから」
会話は続かなかった。そもそもお互いに会話できる内容など持っておらず、それどころかきっと、ローデリアは会話したいとも思ってもいないに違いない。静寂が襲う。自分の私室がこれほどまでに居心地が悪いと感じたのは初めてだった。
ローデリアは目を伏せていて、どこを見ているのかわからない。前に舞踏会で会った時と、ついこの間茶会に呼んだ時となんら変わらないようにも見える。
「あなたは」
思わず口から言葉が出た。
「あなたは、大丈夫なの」
ローデリアはどうしてそんなことを聞くのだろうと不思議そうな顔をしながら、しかし「私は何も患ってはおりませんから」と言った。そうじゃない。体調のことじゃない。
「誘拐、されかけたのよ。大丈夫なの」
「その節は、アズリア様にはご心配をおかけして、申し訳なく……」
「そうじゃないわよ、馬鹿ね!」
口から出た言葉の音量が上がった。
「あなた、ついこの間誘拐されかけたばかりなのよ、どうして、どうしてそんな平気でいられるのよ!」
そう、ローデリアはいつだって、何を言われたって、何をされたって、このままなのだ。それは変だった。それはおかしかった。彼女はどうして、こんな風に平然と、何事もなかったようにしていられるのだ。
「どうして傷ついた様子もないの、どうしてそんな平然としているの!」
「……私の態度で、傷つけてしまって、申し訳ありません」
「違うったら!」
とんちんかんな謝罪をされて、余計におかしくなりそうだった。
「違う! どうしてそうすぐに謝るの。聞いたのよ、全部馬鹿げた作り話で、貴女は本当に何も悪くないんですってね、なのにどうして謝るの。悪くもないのに頭を下げて、私とてもひどいことを言ったのに、それなのに!」
「気分を悪くされたのなら、申し訳なく思っております」
「謝らないで頂戴!」
謝らないでよ。私がみじめだわ。私が、自分が、どれだけ馬鹿みたいか思い知らされる。泣きそうになって、こぶしに力を入れて耐えた。
「貴女を、傷つけるつもりじゃなかったのです」
その言葉に、アズリアはやっとローデリアを正面から見た。言葉に違和感があった。
「違うわよ、貴女を、私が傷つけたのでしょう」
「まさか!私のことなど。傷ついておりません」
「嘘つかないで!」
「嘘じゃ、ありません」
「だってあんなこと言ったのよ、傷ついてないはずがないわ!」
「……そんなこと」
ローデリアは決して、彼女の傷を認めようとはしないようだった。どうして。そう思った。彼女が傷つかない限り、彼女が傷ついてくれないと、アズリアは許されない。アズリアの言葉は、彼女を傷つけた言葉は、許されない。
これでは謝罪も、できない。