誘拐事件
ふと眼を覚ますと、そこは暗い部屋の中だった。固い地面に横になっていた所為か身体は痛みを訴えている。起き上がろうとしたものの、両手足を縛られていることに気が付いて諦めた。
暫くすると目が慣れてきたのか、小さな明かりとりの窓から差し込む月の光で部屋の全貌が見えてくる。そう沢山の人が入れない小さな部屋で、家具は何も無く、地面はざらざらと砂が目立った。農機具でも入れる場所なのかも知れない。
「なんだ、目が覚めたのか」
低い濁声と共にドアが開かれ、がたいの良い男たちが蝋燭を片手に部屋に入ってきた。ほのかな明かりであったものの突然の光に一瞬だけ目がくらむ。途端に明るくなった室内で、ローデリアはやっと自分がどんな体制でいるのか気が付いた。両手両足を縛られ、毛虫のように横に倒れている。
「攫われた、心当たりは?」
男のにやけた顔が真っ直ぐにローデリアに向けられていた。口では分かりませんとだけ言いながら、ローデリアの脳内にティーゼの顔が過った。彼女が最後に見せたあの表情。今までローデリアに向けたことの無い表情だった。しかしそうだったとして、何の意味があるのだ。彼女を頭から追い出す。
地面に顔を付けて横たわっていると、数人の男が立っていると言うだけで酷い威圧感があった。
「なんだ、もっと酷く騒ぎたてねえのか、お前」
「我儘な女を懲らしめるって聞いてたのによ」
「まあうるせえ女も願い下げだけどよお」
彼らは誘拐の成功が嬉しいのか、機嫌良く会話をしていた。この誘拐がローデリアを目的としたものであることは自明である。懲らしめる、という言葉からは、ローデリアを殺す気は窺えない。けれども酷く傷つけられることは間違いないのだろう。
何をしたらよいのだろう。どうするのが最善だろう。考えがまとまらないうちに一人の男の手が伸びてきて、ローデリアの身体を掴んだ。ずり、と引き摺られる感覚が生々しい。とりあえず時間を稼がなくては。浅く呼吸をして、口を開いた。
「あなた方、覚悟は出来ていらっしゃるのね」
ローデリアの冷静すぎるその声に、男達の視線が向いた。
「ああ?お前こそ覚悟は出来てんのか。今からどんな目に合うか……」
へへへ、と厭らしい笑みが彼らの顔に浮かぶ。それに対して、ローデリアは冷静に、あくまでも冷静に男達の顔を見た。床に這いつくばり男に服を引っ張りあげられている人間の顔など無様にも程があるかもしれなかったが、それでも不安な顔は見せなかった。
「どうぞ、私を好きにしてくださいませ。その代わり、私を懲らしめたあなた方は捕まり次第、処刑台に向かうことになるのよ、可哀そうに」
「ああ?何言ってやがる」
「あら。だってそうでしょう。貴方達はこの国の第三王女を誘拐したのよ。私がどうなろうとこの国の騎士たちが貴方達を地の果てまで追い詰めるもの」
「第三王女?」
男達の顔に、何を言ってやがる、というような表情が浮かんだ。彼らはどうやら、ローデリアの身分を知らないらしい。勿論、元第三王女ではあるのだが、今はその好きでは無かった身分をどうにか活用するしかなかった。
「あら、ご存じない?私はルージマナリア王国第三王女であり、現在はノーベラルト侯爵家子息のアレイズ・ノーベラルトの妻、ローデリア・ノーベラルトよ。もちろんそれを分かっていて誘拐したのよね」
「くだらないウソなど」
「嘘だと思うならそれで結構」
あまりに淀みのない口調に、彼らも冗談ではないと気が付いたのだろう。聞いてねえぞ、本当なのか、と口論が始まる。きっと、どこかの下級貴族の娘だとか、大したことない人間だと思っていたに違いない。王女の誘拐など、お金を貰うだけで割に合うはずが無い。彼らもきっとそう大した犯罪者では無いのだ。ノーベラルト公爵家などという侯爵家の馬車を見て可笑しいと思わなかったのだから。ある意味、騙されていたのかもしれない。けれどだからといって、ローデリアが逃げる手立てがあるかと言えばそれも別だ。両手足を縛られ、立ち上がることさえ不可能だ。どうしたら、と溜息を吐いて、しかしその時はたと、ローデリアは気が付いた。
どうして、逃げなくてはならないのだろう。
「あの」
「何だよ!」
「私を、殺すべきです」
焦りが宿っていた男達が、きょとんという顔をした。凶悪そうな男達のその顔はあまりにも間抜けだ。
これは名案だった。自殺では無い。自殺はできない。しかしどこかの馬鹿がローデリアを攫い、殺したのであれば、きっとアレイズが自分を責めることはないだろう。このまま死んでしまえば、それで良い。そう考えれば、この機会をくれた犯罪者たちにも感謝して叱るべきかもしれないとまで思う。
「聞こえませんでしたか? 私を殺して逃げるべきだと、進言したのです」
「は、お前……何言ってやがる」
「あなた方のお話を聞くに、王女を誘拐するに見合うほどの報酬は貰っていないのでしょう。だったら、あなた方犯人の顔を知っている唯一の人間、つまりは私を殺して、さっさと逃げるのが一番良いのではありませんか?」
「お前……言っている意味、分かってるのか?」
「勿論です。どうせなら苦しまず死にたいとは、思いますけれど」
ローデリアの提案に目を白黒させた男達は、また皆で何かを話しあい始めた。それから暫くして、またローデリアのほうに向かってくる。
「……お前、何も企んでねえよな?」
そう尋ねた男は精一杯威圧的な声を出していいるようだったけれども、眉を下げて申し訳なさそうな顔をしていた。犯罪者がその被害者にこんな顔をさらすなんて、普通は無さそうな出来事だ。犯罪者として小物なのだろう。
ローデリアは出来る限りの笑顔を作って、ええ、と言った。
「生きて戻ったらきっと貴方達の特徴を私は口にしてしまいますし、どうせ元々死にたかったのです。私が死ねば、貴方も私も助かります」
「お前、変な女だな」
その言葉は前に聞いたことがあった。しかし前とは違って、目の前の男は文字通り、気味が悪そうにこちらを見ていたのだった。まあいい、と男がナイフを持ってローデリアの前に立った。準備してくる、早くしろよ。他の男達が出て行った。
蝋燭の灯りに照らされて、きらりと刃先が光っていた。死、というものに恐怖を抱いていないかと言えば、嘘になる。しかし死ぬことが自分にとって最善であることは、もう自覚済みだ。
一瞬の恐怖ぐらい、ローデリアが消えて幸福を感じることの出来る人間の数に比べれば、どうってことないではないかとも思う。
ごくりと喉を鳴らす。悪いな、という男の声がした。ローデリアが首を横に振って応えると、男はすっと右手を振りあげた。その切っ先が狙うのは、彼女の心臓だ。当たり所が悪くて苦しむことが無いように、ローデリアは身体を動かさないように力を込めた。
しかし、痛みは襲ってこなかった。
「ローデリア!」
ドアが開き、男が横に着き飛ばされる。
覚悟を決めていたローデリアは、目の前で起こった出来事にぽかんと目を見開いた。カラン、とナイフがどこかに落ちる間抜けな音が響く。死を願った時よりも、心臓が驚きでばくばくと動いていた。
「ローデリア!」
もう一度、名前を呼ぶ声がした。金色が目の端から近づいてきて、身体を抱き起こされて肩を支えられる。ぎゅうと力強く掴まれて、沢山の足音が部屋に飛び込んできた。
「捕縛しろ!」
一瞬のうちに男は視界の範囲内からいなくなり、手足を縛るロープは解かれ、新たに用意された馬車の中に移される。その間ずっと、身体を抱き寄せる力は弱まらなかった。心臓の音がゆっくりになってローデリアがまともな思考回路を取り戻したのは、馬車が動き出した後だった。
「ローデリア、大丈夫かい?」
「……ええ」
また失敗してしまった。彼女が思ったのはそれだった。
ローデリアの身体を離そうとしない、美しい金色の髪を持ったアレイズは、彼女の手首についた赤色の紐の痕をその親指でゆっくりと擦った。馬車の外は日が昇り始めていて、いつの間にか時間は過ぎていたらしい。案外長い間気絶していたのだろう。
「痛そうだ」
「……いえ、見た目ほどには、痛みは無いですから」
気になさらないでください。そう言ったけれども、身体を力一杯引き寄せられたまま彼の指は手首から離れなかった。
それきり静まった馬車の中は、身動きすると衣擦れの音が目立つ。閉じ込められた家は王都の隣の町で、家までは少し時間が掛かる距離だと言うので、汚れたドレスを眺めながら時間が過ぎるのを待った。身体を包み込む他人の体温が温かい。
ゆっくりと、眠りに落ちた。
***
解けた髪の毛はまっすぐに下に伸びていた。艶やかな黒髪は綺麗に輝いていたけれども、救おうとするとところどころに砂が付き指に絡まる。アレイズに肩を預けて寝入ってしまったローデリアの寝顔はあどけない。彼女の頬についた砂を払いおとして、自分の片腕がずっと彼女を抱き寄せていたことに気が付いて、ゆっくりと力を抜いた。手は彼女の身体を掴んだまま強張っている。何度か掌を動かして血を巡らすと、その指先が震えていることに気が付いた。
はあ、と息を吐き出す。想像以上に緊張していたらしい。
ローデリアが帰って来ない、と最初に騒ぎ始めたのは彼女の侍女だったという。帰宅予定時刻を過ぎても帰って来ないことに不安になって、他の使用人に相談したのだ。しかし勿論、少しの遅れくらいで騒ぎ立てるものではない。話が弾んで遅くなる可能性だってある。誰も侍女の言葉をとりあおうとは思わなかった。
しかしその空気は、予定時刻よりも二時間ほど後、御者が一人きりで戻ってきたことで全てが変わった。御者は潰れて黒くなった顔のまま、大きな口を開けることができないままに見知らぬ男に襲われたと言った。不意打ちで三人に囲まれ、そのまま意識を失った。起きた時には道端の路地にいたのだという。その御者は服を取られた、とも言った。下着だけの格好では不審者然としており侯爵家に入れてもらうことができず、痛む体を押してアレイズの別邸まで掛けてきたのだった。ローデリア様は帰っていませんか、と言った声は震えていたという。
状況を理解した使用人の行動は早く、すぐに馬が走らされ、侯爵家から彼女が馬車に乗って家に帰ったはずだという返答を聞き次第、その知らせを騎士団にもたらした。使者は誘拐の知らせと捜索の願いを出すとともに、騎士団として仕事をしていたアレイズにもその知らせを持ってきた。
アレイズはすぐに、捜索・救助隊の一員となって、ローデリアの行方を追った。幸いにもというべきか、誘拐犯はあまり頭が良くなかったらしく、しばらくはノーベラルト侯爵家の馬車を使用して移動したために足取りが追え、その消息は掴みやすかった。夕方に消えた彼女にまで辿り着いたのは、朝も近づく時間。外に立っていた男たちを音もなく倒すと、ドアを開けて中に駆け込む。
目の前に見えた光景に、心臓が止まるかと思った。
ナイフを振り上げた男が、まっすぐに狙っていたのは、床に転がる布の塊。その柄には見覚えがあって、何よりもその布には手足が付いていて、頭があった。黒髪が流れている。血の気が引いて、彼女の名前を叫んで、男を殴っていた。
結果的に、ローデリアは見たところ怪我もなく、無事だった。屋敷についても目を覚まさない彼女を起こす気にもなれなくて、そっと抱き上げて馬車から降りる。変わりますという手を押しのけて、彼女を部屋に運んだ。ベッドにそっと身体を落とし、その手首を見る。赤い痕はまだ残っていた。
それをさすると、彼女が誘拐されたと聞いた時の、あの、心の冷えた瞬間が思い出された。彼女にもし危害を加えられたら。彼女が死んでしまったら。
長い睫。小さな顔。赤色の唇。彼女の顔を、こんなにも近くで、こんなにもじっくりと眺めたことはない。規則正しい呼吸と一緒に、その胸も小さく上下した。
その頬に触れたいと手を伸ばして、途中でこぶしを作って手を引っ込める。意思を確認せずに触れないくらいの分別はあった。
けれど。
――――触りたい。
思わずそう思った。アレイズは彼の中に芽生えた感情を、自覚せざるを得なかった。彼の中で、眠りについている少女の存在が少しずつ大きくなっていることを。彼女がいなくなったことに身体が震え、見つかったことに体の芯から息が漏れた。
ティーゼに対する感情とは違った。何と言い表せばよいのだろう。元々悪感情から始まった関係だというのに。今の彼女の対する気持ちを言い表せる言葉は見つからなかった。