従者ルーゼ
ルーゼがアレイズの従者となったのは、十五歳の時だった。
ノーベラルト侯爵家というのはある意味奇特な家で、“使用人”に他貴族家や大商家からの奉公人という形での紳士見習いは数名しか雇わず、“庶民に雇用を生み出す”という理由づけで殆どが街の出身者だ。勿論それは建前であり、ノーベラルト侯爵が熱烈な貴族主義者で“貴族”と“庶民”を明確に分けたいと言う本音が存在している事は、公然の秘密だった。
ノーベラルト侯爵家で働きだしたのは十三の時。父親が宿屋を営んでいたことからある程度の収入があり、幸運にも初頭教育を受けることができたルーゼに、宿屋の客がノーベラルト家を紹介してくれた。良い仕事の少ない昨今、嬉しい誘いだった。
人生は中々順調だと思っていた。幼いころに一緒に遊んだ友人たちには教育を受けられない人も沢山いたし、同じ学び舎に通った友人でも結局良い就職にありつけなかった人間は沢山いた。だから、幸運だと思っていた。
けれども、現実は違った。
初めて侯爵家に足を運び、先輩の使用人に案内された屋敷の中は、別世界だった。エントランスの天井が高く、灯りをともすだけの燭台に実家の宿屋の一カ月分の売り上げが使われ、彼らの食事はおとぎ話の世界のようだった。噂で聞いていた時には想像が付かずに何も思わなかったそれらを実際に目にすると、その“違い”がルーゼを圧倒した。
こんな贅沢は、想像してみたこともなかった。
それなのに貴族の彼らはそれが生まれた時から“当たり前”なのだ。それは悔しくもあり辛くもあった。想像できないほどに掛け離れた暮らしが、そこには存在していた。
自分の受けてきた幸運が、貴族よりもずっと小さいと初めて知ったのはその時だった。
もう一つ、仕事を始めてから悔しかったことがある。
ノーベラルト家がルーゼを雇うきっかけとなったのは、偶々宿屋に泊まった客がノーベラルト家の執事と知り合いで良い求人を探していたことではあったのだが、採用された理由はルーゼが“ある程度の教育を受けていた”ことと、そしてなによりも“綺麗な顔立ちをしていたこと”だった。他の貴族の客人などと顔を合わせる機会があるので、その二つは貴族の使用人の絶対条件だ。ルーゼは両親の顔の良いところだけを持って生まれ、他の兄弟たちと比べても整った顔立ちをしている。それが自慢だった。
けれども、貴族たちを見て、何よりもノーベラルト侯爵家の嫡男であるアレイズを見て、その自信も消え果てた。透き通るような金色の髪に、空さえも恥ずかしがりそうな程に美しい蒼色の瞳。真っ直ぐに伸びた鼻筋に、図ったように左右対称な輪郭。初めて会った時、自分より五歳年上の十八歳になった主人は、まるで彫刻のようだった。それに他の貴族たちにも、ルーゼくらいの顔立ちの人間などごろごろいることを知った。
加えてアレイズは、初頭教育しか受けていないルーゼと違って、寄宿学校に通って高等教育まで受けていた。
打ちのめされたような気分だった。ルーゼよりも金持で、美しい顔を持ち、頭もよい。何一つ勝てる所は無かった。
負けたと思った。自分ではどうあがいても努力しても意味のない部分で、アレイズとルーゼの間には絶壁の隔たりが合った。
それでも仕事を投げ出すことなく働いたのは、貴族の使用人の仕事がある程度の地位からは他のどんな職業よりも給金が高かったことと、何よりもアレイズが“良い”人間だったからだ。
ルーゼが何一つ勝つことの出来ない青年は、心根さえも美しかった。貴族主義の強い侯爵の息子であったが、彼は平等な人間であり、使用人だからと言って辛く当たることもなく、文字通りの出来た人間だったのだ。勝ち負けの存在を抜きにして、尊敬した。貴族主義の侯爵の差別的な発言に納得できなかったとき、その気持ちをアレイズが代弁するかのように侯爵にぶつけてくれることもあった。 だから二年間従僕見習いとして働いた後、自身の希望叶ってアレイズ付の従者になったのだ。
従者の仕事は執事の部下となる従僕とは違い、主人に仕える主人の為の使用人だ。自分でも、尊敬する男の為に献身的に仕事に打ち込んでいると自負している。去年十八で成人したときに、無理を言って“少年”の仕事である従者をもう暫くやらせてほしいと頼み込んだのも、侯爵家の使用人の立場では無く、アレイズの従者として出来るだけ長く過ごしたかったから。
それなのに。
それなのに、ルーゼは自分の中にアレイズに対する尊敬以外の感情が生まれてきたことを認めざるを得なかった。
変わったのは、アレイズの結婚がきっかけだった。従者は基本的に、主人の行く場所にはどこでも付き従うのが決まりだ。流石に騎士の仕事について行く訳にはいかないが、それ以外の場所では影のように付き従う。だからその日、王宮での戦勝の祝いにも付いて行き、婚姻が決定するのを、ルーゼは自身の目で見ていた。
結婚は王の一言で決定した。庶民出身の身として横暴にも程があると思ったのだが、どうも貴族社会のルールでは王家の人間を迎え入れることはこの上ない誉であり、嬉しいことであるらしい。割れんばかりの拍手が湧き起こって、あっけなく婚姻は決まった。
従者としてアレイズにティーゼという恋人がいることは勿論知っていたし、彼が父親に婚姻の交渉をしていたことも、戦で成果を上げたらそれが許されることも、全部知っていた。そのための彼の苦労も知っていたしティーゼへの愛も知っていたから、アレイズが怒るのも無理は無いと思っていた。
けれど。
目の前でハンカチがひらりと床に落ちた時、初めてアレイズに対しての尊敬が揺らいだ。彼の妻となったローデリアは、艶のある長い黒髪を持ったルーゼと同年代の少女だ。王家等と言うのは貴族以上にルーゼからは遠い存在で、庶民から見ればその存在はまるで神のようなもの。けれども実際に目の前にいる少女を見ると、凛とした雰囲気がそこにあれども、腕も脚もある、一人の人間だった。
アレイズが怒りを言葉としてローデリアにぶつけることは許容範囲内だった。けれどもその刺繍ハンカチを捨てたアレイズが、ローデリアを馬鹿にしたその言葉――――庶民の子、という表現は、残酷な言葉だった。尊敬していたはずのアレイズが、貴族主義の侯爵と、被って見えた瞬間だった。
ただ只管に、衝撃だった。従者になって四年、一度もなかったことだ。けれどもこのたった一度の彼の失敗で、彼の仕事ぶりだとかその気さくな性格だとか、他の部分の尊敬までもが音を立てて崩れていくようだった。そしてそれと同時に、ローデリアへの認識が変わった。従者は他の使用人との関わりが薄いせいか噂話に疎く、ローデリアに纏わることなど殆ど知らずにアレイズの敵だと思い込んでいたけれども、彼女が庶民の子と呼ばれただけで親近感を覚えたのだ。
だから彼女が、アレイズの王宮の夜会での服装を教えてほしいとやってきたとき、王族出身の彼女のその頭を下げて頼み込む姿にはより“庶民”を感じて嬉しくなって、正直にそのまま伝えたのだった。アレイズを絶対とする従者にとって、喜ばしくは無いことだと分かっていたけれど、同時にこれくらいの手助けが何だというのだろうとも思った。彼女が社交界で恥をかくことを阻止しただけだ。
アレイズに失望を感じたと言っても、一度で全ての信用を失うほどのことを仕出かした訳では無い。彼が怒りに任せて口にしてしまったということは、時間が経てば理解した。人には過ちがあることくらい、分かっている。
それでも以前のように盲信は出来なかったし、ローデリアについて彼が言うようにどうしようもない我儘女であるという話は信じられないものとなったのだ。
だからローデリアのことを気に掛けていた。彼女は教師を付けて勉学に励んでいるようで、服飾にお金をかける侯爵夫人やアレイズの妹よりやはりマシだった。そうして気に掛けていると、屋敷内での噂も耳に入ってくる。少しずつ少しずつ、ローデリアの評価が上がっていくのを聞くのは心地良かった。
そうして月日は過ぎ、それは突然だった。ローデリア付きの侍女であるアリーが、慌てたように部屋に掛け込んできたのは。彼女は震える声で、しかし早口で、ローデリアの危険を知らせてきた。体調を崩しているとは聞いていたもののまさかの事態に自分でも顔が青くなるのが分かり、また同時に、どうしてアレイズにそれを伝える必要があるのだろうかと思ってしまったのも事実だ。彼はこの半年間一度だって、ローデリアを気遣ったことはない。
しかし一方で、これは良い機会なのではないかとも感じた。自分が敬愛した主人が、ローデリアに向けた言葉を介してルーゼをも傷つけた言葉を、態度を、悔い改める機会になるのではないかと感じたのだ。だから侍女の言葉に頷いて、主人のいる部屋に足を向けた。
結果から言えば、アレイズはルーゼの考えた通り、それ以上にローデリアのことを気に掛けるようになった。毎月欠かさなかったティーゼへの密通の仲介を一度も頼まれていないことからも、それは明らかだった。そこにどのような心境の変化があったのかルーゼは知る由もない。しかし知りたいとも思わなかった。どんな形であれ、間違いに気が付いたのだ。
嘘か誠か、まことしやかに流れてくるローデリアの生い立ちはあまりにも悲惨で、ルーゼは初めて、恵まれた生まれを持っていても恵まれた生活をしていない人間を知った。親に愛されて育ってきたことのどれほど幸福か。アレイズにも自分が知らないだけで、こうした苦しみを持っているのかもしれないと思うと、アレイズへの失望も溶けて消え、前のように盲信は出来なくとも信頼して従者としてやっていけそうだった。
溜息をついて久しぶりに手紙を書き始めた主人を横目で見ながら、その内容に思いをはせる。ティーゼの事が嫌いな訳では無かった。勿論言葉を交わしたことは無かったが、貴族にしてはなんとも控えめで自己主張が少なく、アレイズの言うことならなんでも是というような、少女らしい少女だという印象を持っていた。彼女がアレイズを見る瞳もアレイズが彼女を見る瞳も、世界中の恋人たちの間にありがちな、お互いしか見えていないような恋の瞳だった。誰かを情熱的に愛したとしたら、客観的にはこんな風に見えてしまうのかと思ったものだ。
そんなティーゼとの関係を、どうするつもりなのだろうと言うのは純粋な疑問だった。アレイズは今までの償いだと言わんばかりにローデリアに優しくしながら、穏やかで綺麗なその瞳の奥に、罪悪感以外のものが芽生え始めているのを優秀な従者は感じ取っていた。手紙を書き連ねる主人の眉は潜められ、悲しく歪んでくる。
「ルーゼ、これを出してきてくれ」
重そうなペンを溜息と共に置いたアレイズが、のろのろとした動作で封をとめ、そう言った。その声に自分の感情などきれいさっぱり隠して、ルーゼは応える。
「かしこましました、アレイズ様」