初めての贈り物
アレイズが手紙を離すと、それはひらひらと机の上に乗った。こぼれ落ちたのは小さなため息。目の前に立ちはだかる問題は、多かった。
その時開封したのは、親交の深い友人からの手紙に似せた、ティーゼからの手紙だった。結婚してから月に二回は密通を交わしていたが、この一ヶ月、アレイズは返事を返していなかった。この手紙は今月に入ってから三通目の、返事を返してくれないことに対する不安が書き綴られたものだった。
散々憎んできたローデリアがその相手ではないと知って、そのことをティーゼに伝えることができずにいた。元凶である父親とは、この一カ月仕事だけの関係が続いている。顔を合わせても薄っぺらい挨拶を交わすばかりで、心配そうな母親と妹には悪いと思ったが、当然許せそうにはなかった。
私室の執務台の引き出しの一つの鍵を開けその底板を外すと、結婚してから今日までの間に交わされた十数通の手紙が入っていた。先月までは引き裂かれたことを嘆き合い、アレイズがローデリアを批判し、ティーゼがそれを窘め、そしてお互いの近況報告をしながら愛の言葉で締めくくっていた。けれどもいつも通りのそれを、書くことができなかった。
ローデリアへの憎しみが無くなっても、ティーゼへの愛が無くなったわけではないのに。
婚姻相手の悪が全て嘘だったと知ってしまってから、“結婚”をした自分の立場を初めて顧みて、手紙が書けなくなったのだ。客観的に見てこの書簡のやりとりは不義であり、許されないこと。ローデリアが憎いだとか憎くないだとかそういった感情をすべて抜きにしても“妻”である人間に対する明確な裏切りであることは間違いが無かった。
手紙を書こうとすると、その名目上の“妻”の顔が浮かぶ。彼女は多分、アレイズがティーゼと書簡をやりとりしていると知っても欠片も怒らないだろうし、むしろ怒りも覚えないのだろう。笑わない。泣かない。怒らない。表情を作らない。
彼女の本心は、顔に現れなかった。毎日顔を合わせているのに、何を考えているのか分からない。
それでもアレイズは、手紙を書こうとするたびにふと考えてしまうのだ。
そしてたった今ペンを手に取ったのは、ついこの間の舞踏会での出来事があったからだった。
ユースハイム家での舞踏会。
一家に挨拶を交わして少しダンスを踊った後、ローデリアとは別行動をしていた。最低限の教養しか受けていないという話が嘘のように、彼女はダンスも作法も完璧だったし、そうなれるよう嫁いでから努力していたのだと使用人の誰かに聞いたのはつい最近だ。食事の席で教師をつけて手習いをしていたことを尋ねると、ローデリアは少し恥ずかしそうに俯いた。けれども二言目に言った言葉は、“侯爵家のお金は使っておりませんので、ご安心ください”だったのには、自分がどれほどにも信頼や信用を寄せられていないのかがありありと分かって辛かったものだ。
そんなローデリアだったから、舞踏会で別行動をすることに不安は覚えなかった。けれども同じ寄宿学校で学んだ友人や、仕事上付き合いのある人々に挨拶をして回っていたときに、ダーヴィットが嬉しくない知らせを持ってきた。騎士として準貴族の地位を与えられているダーヴィットは、久しぶりに華やかな場所に行きたいと言う奥方の頼みで舞踏会に参加している。その彼は、挨拶もそこそこにローデリアが令嬢に囲まれて責められているようだと教えてくれた。彼には事の顛末を全て話してある。正義感の強い彼は、噂話に乗っかってローデリアを悪く言ったことに良心の呵責を感じたらしく、気に掛けているようでもあった。
彼が話すには、ローデリアはダンスが下手だとか、そんな謂われも無いことをこまごまと言いたてられているらしい。周囲にいる“常識ある”人間も、何人かは一方的に責められるローデリアを助けようかと様子を窺っていたようだったが、いかんせん身分の高いローデリアにやすやすと声は掛けられず、しかも彼女自身が笑って受け流していることから結局無関心を貫いているとのことだった。
その話を聞いて、アレイズは直ぐにローデリアの元に向かった。彼女が何を言われても、怒りを露わにせずに心に溜めこむことは身を持って知っていた。
男女の交流の場である舞踏会で少女たちの固まりは目に入りやすい。近づくにつれて耳に会話内容が入ってくる。自分を勝手に引き合いに出していることに眉をひそめながら、ローデリアの腰を抱いて会話に入って、そしてそこにティーゼの姿が見受けられることに驚いた。
それでもなんとか平静を保ちながら、ここに来るまでに考えていた嫌味も飛ばし、人気のない場所にローデリアを連れだした。ティーゼを見た動揺から、自分が静かな場所に行きたいと思ったこともあって、人通りの少ない場所に行ったのだ。
大丈夫かと彼女に言いながらも自分に言い聞かせるように問う。あろうことか、中傷を受けた彼女が心配したのはティーゼのことだった。勘違いさせてしまう、とそれは心配そうに眉尻を下げた。
違う。そう思って口調が強くなった。ローデリアは考えなくて良いことだった。自分とティーゼの問題で、巻き込むべきではない存在。しかしローデリアはそうは考えていないようで、帰りの馬車の中でティーゼ様は何一つ私に言ったりしておりません、とティーゼを庇うことも忘れなかった。
そしてその舞踏会の後、ティーゼから三通目の手紙が届いたのだ。届いた日付から考えて、これが舞踏会の後に書かれたことは明白だったのに、そのことについて一つも触れていなかったのがどうにも不気味だった。口を開いていないのが事実であれど、ローデリアを責めていたのは紛れもなくティーゼと仲の良い友人たちであり、その場にいたのだからきっと何か理由が書いてあるに違いないとばかり思っていたのに、手紙には返事が無いことへの嘆きと、そしてローデリアに対する少々の不満のみが、書かれていた。
それに、ショックを受けた。
いつもローデリアに対する憎しみを露わにするのはアレイズで、それを窘め、ときにはローデリアに味方までするのがティーゼで、その彼女が初めて人を貶めるようなことをしたことが衝撃だった。
アレイズ自身、その感情は酷い物だとは思う。自分が散々悪口を言っていた人の事を、ティーゼがほんの少し悪く言っただけで彼女に対する失望を覚えたのだ。それを棚に上げるなど最低だったが、しかしそれでも、そんな感情をティーゼに抱くのは、初めてだった。
そして、自分の中にある二重規範を自覚しながらも、現在すぐにしなくてはならないこと――――ローデリアに対する誤解をとくこと――――をするために、ペンをとったのだった。
身内のいざこざを手紙に書き記すのはどうにも気が進まず、手紙はとても短い物となった。ローデリアが結婚を望んだのではないこと、全ては誤解であったことだけを簡潔に書き、それから舞踏会の時のことについても少しだけ書いた。ティーゼが書いてこなかったということはあまり話題にしたくないのだと見当はついたけれど、それでも顔を合わせる度にローデリアが嫌味を言われては堪らない。友人たちの誤解を解いてほしいと、お願いしたのだ。
それだけの内容を便箋の半分を過ぎたくらいの量でしたためると、直ぐにいつも通りの偽名を使い、使用人に手紙を託す。慣れたはずの一連のやりとりに後ろめたさを感じながら、しかし必要なそれを出した。
会って顔をあわせられたらどれほど楽かと思う。
手紙はどれだけ心をこめて書いたとしても、所詮は文字の羅列だ。表情の些細な変化や、音として発せられる言葉の機微がわかるわけではない。
頭を振って頭の中にあるもやもやを追いだすと、ローデリアの部屋に向かった。
彼女はソファに腰掛け、熱心に本を読んでいた。何の本だい、と聞くと、天文学ですと返ってくる。分かるのかいと聞くと、分かるように努力していますと言う返事で、なんともローデリアらしかった。
毎日部屋を訪れる自分を、彼女が不思議に思っていることは知っていた。特に深く話すことも無く、会話は途切れがちだ。けれどもどうしても、アレイズは足を向けてしまった。
単純に彼女がふとした拍子に死んでしまうのではないかという不安もあったけれど、それだけではなかった。アレイズが態度を百八十度変えたことはお互い分かっているだろうに前と変わらない様子のローデリアの、その本心を知りたかったのだ。過去の過ちを謝罪したときでさえ、ローデリアの態度は変わらず、まるで自殺未遂直後であるなど嘘のように、気にしておりませんと小さく言っただけだった。光によって見え方の変わる彼女の瞳は、アレイズに対する何の不満も無いと同時に、一つの期待も抱いていない。
その理由を知りたかった。
「ローデリア。君に何か、贈り物をしたいんだ」
ローデリアについて知っていた部分は全て誤解だった。彼女は何を望み、どういう人間なのだろう。それを知ろうと部屋に来た口実を、口から出す。
「……贈り物、ですか」
「ああ。何が良い。俺が手に入れられるものなら何でも、君に与えよう」
「ですが、私になど贈り物をしなくても」
本に素早く栞を挟み込みアレイズの言葉に耳を傾けたローデリアは、一度話を吟味するように下を向いたあとに不思議そうにそう言った。予想していた言葉だった。用意していた言葉を出す。
「夫として、妻に贈り物をするのは当然のことだから。さ、何か欲しい物を教えてくれないか」
そうなのですか、とローデリアはアレイズの言葉に納得した。当然。当たり前。しきたり。作法。規則。これらの言葉に彼女は弱い。この短い期間で理解できた、数少ない彼女の性格だった。感情よりも、規則に重きを置く。
珍しく、ローデリアは長く考えていた。少し俯きぎみに視線を下にやり、黒く長い睫がよく見えた。毒で伏せったせいでこけてしまっていた頬は、漸く少しだけ肉が戻ってきていたもののまだ細い。
暫く考え込んだ後、ローデリアはこれまた珍しく、眉を下げてみせた。
「ごめんなさい。何も、思いつかないんです」
「何も?」
「……今まで欲しい物なんて考えたことが無くて」
すみません、ともう一度謝られて、アレイズは慌ててそれを否定した。
そして一瞬、考えたことがないという彼女の言葉に耳を疑って、けれどもそれによってアレイズは、あることに気が付いた。
彼女の過去。今まで、誰かに何かを望める立場に一度たりともなったことが無いという事実が、今の彼女を形作っているのではないだろうか。きっと幼少のころは、人と同じくらい欲があったのかもしれない。けれども何を望んでも与えられないことに気が付いて、望みを持つことを辞めただろう。“物”に対する望みだけでなく、全てに関する望みを、失ったのではないだろうか。誰かに微笑みかけるのは、笑い返してくれる人がほしいから。怒るのは、過ちに気が付いてほしい人がいるから。嘆くのは、慰めてくれる人がほしいから。そんな人、彼女の周りにはいなかっただろう。だからきっと、彼女は遠い昔に、全てをやめてしまったに違いない。
アレイズは自分の推測が、間違っているにせよ正解に遠からずであることを確信し、未だに眉を下げるローデリアの横に腰を下ろした。
「一緒に考えてみよう」
「……何をですか?」
「欲しい物だよ」
「でも、思いつかなかったのですから」
「いいから、ほら。新しいドレスや装飾品はどうだい。瑠璃色のドレスを着てみたいとか、ルビイの指輪が欲しいとか」
「……いいえ」
いきなり横に腰掛けたアレイズに驚いて腰を浮かせたローデリアの手首を掴んで座らせ尋ねると、真面目な彼女は考えてから首を振った。
「なら……新しい本は? その天文学の本も、もう読み終わりそうだ」
「いえ、本は、学問を習っている先生に貸していただけます」
「他には、食べ物とか。異国の食べ物を食べてみたいとか、あ、そうだ、朝食の時間はもっと遅い方が良いとか、そういう希望でもいい」
「食事の内容も、時間も、私には勿体ないくらい配慮していただいております」
「どこかに旅行に行きたいところは?」
「……旅行、ですか。あまり考えたことがありません」
なるほどローデリアの欲しい物を見つけるのは、難しそうだった。ローデリアは、申し訳なさそうに身を小さくした。
「私の欲しい物など、そんなに真剣に考えて頂かなくても……」
「いいや、ちゃんと考えるべきだ。ローデリア、君はもっと、欲を見つけるべきだよ」
消極的な意見に反対を言うため、伏せがちなその瞳を覗き込んだ。美しいセーラムの瞳と、目が合う。こうして目を合わせたのは、初めてかもしれなかった。アレイズに見つめられてうろたえたのか、ローデリアはその綺麗な石がついた瞳を二度三度彷徨わせ、けれどもそれからアレイズの蒼い瞳を見て「あ、」と声を洩らした。
「どうかしたかい」
「私……その」
ローデリアは言うべきかどうか迷っているようだった。いいから、言ってごらん。そう促すと、彼女は顔を近づけなくてはならないくらいか細い声で、不安げな顔をして、言った。
「お庭の、ラルトーナの花を。その、部屋に飾りたいなって……」
なんて小さな欲望だろう。けれどもその欲望を口にするだけで、ローデリアは酷く不安そうな顔をしているのだ。安心させるように、アレイズは微笑んで見せた。
「すぐに、庭師に手配させよう」
そう言うとローデリアの頬が少し、赤く染まるのが分かった。下がっていた眉が元の位置におさまり、その変わりに、目が少しだけ大きくなる。そして口の端が、小さく小さく上がっていた。
――――笑った。
ローデリアが笑ったのだ。それはとても控えめで、よく顔を見ていなくては分からないくらいの変化だった。それでも、ローデリアは微笑んだ。ありがとうございます、と喜ぶその声は少しだけ上ずっていて。
思わずその身体を引き寄せたくなって、アレイズははっとした。急いでソファから立ち上がり、今から言いつけてくるよ、と部屋を出た。
そして扉を閉めて、自分がしようとしたことに愕然とした。
――――ローデリアを、抱きしめようとするなんて。
ティーゼがいるのに。そう思って、自分の軽率な行動を叱責する。ティーゼを愛している。ローデリアを妻とした今でも、それは変わらない。変わらないはずなのに。
小さな微笑みが、まだ脳裏に焼き付いていた。