セミ〜夏の終わりに〜
夏休みも終わりに近付いたある日の夕刻、深い緑の葉が生い茂った大きな木の下を僕はコンビニに向かって歩いていた。僕の頭上に覆い被さるようなセミの声が、まるで快と不快の狭間に揺れている。多くのセミがこの木の幹に枝に同化するように存在している。
その時、僕の頭の上に声ではなく、ボトッと何か物体が落下した。
「ひゃ!」
僕は掠れた声を出していた。背筋がぞくっとした。セミだ、そうに決まってる。僕は仕方なく手で払い除けようとした。
「ぎゃ!」
僕はまた声を上げてしまった。手に触れたそれは、柔らかかった。まるで動物の毛のような感触。な、なんなんだ。咄嗟に僕は頭を左右に激しく振った。もう、触りたくなかった。しかし、それはまるで僕の髪の毛にしがみつくように、一向に離れてはくれない。
僕は意を決して、もう一度頭の上に手をやった。そして、それを掴んだ。
「わあああああー!!」
僕は叫びながら掴んだ手を離した、が、しかし、それは今度は僕の手の平にしがみ付いてきて離さなかった。僕は手を振り払った。振り払い続けた。しかし、それは絶対に離すものかと言うように、僕の手の平に密着していた。やけになった僕は、腕を大きく振りながらそのまま歩き出した。 コンビニまであと四、五分。そのうち落ちるか飛ぶかするだろう。そう思いながらも、いや、これは多分セミではないのだから、飛ばないだろうとか、これは毛虫の一種で僕は毒が回って死ぬのだろうか、まあ、それも仕方ないか、などと意外に冷静になっていた。そうだ、元来僕は人間的活力に乏しい、何事にも無関心で無感動な、つまらない人間だ。
「ねぇねぇー」
どこからか声が聞こえた。その甲高い細い声は僕の手の平から聞こえてきたようだ。
「あんまり、乱暴にしないでよ」
僕はもう、どうでも良くなり、手の平をジッと見つめた。そこには一匹のゴリラ…… そう、どう見ても、それはゴリラだった。手のひらサイズの茶色いゴリラ…… まさしくゴリラの姿形をしていた。
そしてそれは「わたしベビーゴリラ、よろしくね」と言った。
僕は何故だかあまり驚きはしなかった。
「ベビーゴリラって?」と聞きかえした。
「あー ベビーカステラってあるじゃん! あんな感じ」
「あっ、お祭りの屋台とかで売ってるヤツか」
「そう、でもわたしは食べられないからね!」
そう言うとベビーゴリラは舌を出した。よく意味が分からないが、まっ、世の中そんなものだ。
「ねぇ、コンビニ行くんでしょう」
「そうだけど」
僕が答えるとベビーゴリラは嬉しそうに顔を赤らめた。
「わたし、いつもあなたを見ていた。いいなって。わたしをコンビニに連れてってくれる?」
えっ、僕が良いって? 一体何がいいんだよ。そう思いながら、僕は乱暴にベビーゴリラをズボンの後ろポケットに突っ込んだ。
それからコンビニに着いて、いつものように僕は弁当と飲み物を手に取った。
「ねぇ、あれ!」
僕はポケットからベビーゴリラを引っ張り出した。
「あの、りんごが描いてあるの欲しい」
ベビーゴリラの指さしたのは、紙パックのジュースの置いてある場所だった。
「リンゴジュースか」
「うん、それ」
僕はベビーゴリラに200ml入りの紙パックのリンゴジュースを買わされた。
外へ出ると辺りはすっかり暗くなっていた。どんよりした灰色の空、生ぬるい湿った風が皮膚を撫でる。
「ねぇ、さっきの……」
ベビーゴリラが言いかけたので、僕はリンゴジュースを袋から取り出し、ストローを差してベビーゴリラの口に近付けた。ごくん、ごくん。ベビーゴリラの喉が鳴った。
「おいしい!!」
ベビーゴリラが高らかに叫んだ。そしてぽつりと言った。
「セミはね、一生のほとんどを土の中で過ごすから、地上の夏しか知らないの。地上の秋とか冬とか春ってどんな感じなんだろう。きっとすごいんでしょう?」
僕は返答に困った。セミが地上に出てからが短いのは当然知ってはいるけど、そんな季節がどうとかなんて考えたことなかった。別にすごいことはないし。
「うーん。そうだね。秋は涼しくなって、いや、紅葉が綺麗で、冬は寒くて、あー 雪が降る所もあるし、クリスマスもあるなー、春は…… あ、桜が咲くんだ」
僕がそう言うと「わぁ、何だか素敵!」
ベビーゴリラは体をゆさゆさして目を輝かせた。
「あなたに聞けて良かった」
ベビーゴリラはそう言ってリンゴジュースをまたごくんと飲んだ。
「ねぇ、あなたは夏が終わっても生きるんでしょう?」
ベビーゴリラが僕の顔をジッと見つめた。
「え⁈ あ、ああ。生きるよ」
僕が呟いたとたん、ミーンと甲高い声がして、僕は一瞬ふらっと目眩に襲われた。はっと気が付くと、僕は静かになった大きな木の下でリンゴジュースを持って立っていた。中身は三分の一程減っていた。僕は帰り道を歩き出した。早く宿題をやろう。