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四門の奥義~鬼の哭く郷~  作者: 墨人
第二章 火
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瀬田朱美

 土の奥義書を手にした蒼次郎が次に現れるまでに、二週間ほどの間があるだろうと瀬田朱美は読んでいた。これには朱美なりの根拠がある。

 朱美自身が火の奥義書を得てから、記された奥義を一応でも使えるようになるまでにおおよそ一月を要した。せっかく土の奥義を得たのだから、次はそれを使えるようになってからに違いない。だからまず自分の場合を考え、蒼次郎の剣の才能、何でも器用にこなしていた事を加味して半分に見積もったのだ。


 そして源川玄蔵が斬られてから十六日目。

 瀬田の屋敷では家人を兼ねる門弟達が修練に励んでいる。宗家閉門の後は宗家道場の門弟達も四人の奥義保持者のもとに分散したが、今ここにいるのはそれ以前から瀬田家に出入りしていた者達で、一般的な門弟よりも遥かに腕の立つ連中だ。

 なにしろ彼らは宗家道場に学び、特に白州斉に見込まれて瀬田家に送り込まれたのだ。

 だから庭で行われている修練も上達を目指したものではなく、体が鈍らないように維持するという意味合いが強い。

 そんな門弟達を監督する立場にある朱美は、縁側に座布団を敷いて正座していた。背筋を伸ばし、手は膝の上、緩く目を閉じている。その姿は美しく、門弟達もちらちらと視線を向けずにはいられないほどだ。しかし目を閉じているくせに、門弟達が手を抜くと厳しい叱責が飛ぶのだった。

 朱美はこの二週間以上、修練の時間のほとんどを正座して過ごしている。刀を手に取る事も無い。

 これが朱美の「修行のやり直し」だった。

 訃流の根幹である気を練り上げるための呼吸法を調息と呼ぶ。正座して目を閉じた朱美はずっと調息を続けていた。

 しかし普通の調息ではない。門弟達も行っている調息とは微妙に違う。微妙過ぎて門弟達にもどこがどう違うのかはわからない。だがこの違いこそが火の奥義なのだった。

 つまりこの二週間、朱美は常に奥義を使い続けていたことになる。

 朱美が奥義を得てから二年余り。しかしそれに先立つ十年以上は普通の調息を行っており、体に染みついている。戦いの最中、無意識にも奥義の調息を維持しなければならない。それ故の修行のやり直しだった。


「瀬田様……そろそろ日が暮れますが」


 そんな風に声を掛けられて、朱美は目を開いた。昼過ぎに縁側に座してから閉じたままだった目には眩しかったが、確かに辺りは暮色に染まっている。


「おやおや済まないね。気付かなかったよ」


 朱美はすいっと立ち上がる。長時間正座していたのにも関わらず動きに遅滞は無い。


「みんなこれで上がっておくれ。私は奥にいるからね」


 そう言ってあっさり引っ込もうとした朱美を門弟の一人が引き止める。朱美よりも二つ三つ年上の男で、門弟達の中心的な立場にいる。


「そろそろ蒼次郎が現れてもおかしくない頃合いです。夜間は俺達が見回ってますが、瀬田様も十分用心してください」

「そうさせてもらうよ。お前達にも苦労かけるけどよろしく頼むよ」


 表面上はそのように穏やかに答えた朱美だったが、彼女の片眉がそうとは知れないほどに跳ね上がっていた。



 ぱたん、と静かに襖を閉じ、一人になった朱美は「ほうっ」っと大きな溜め息を吐いていた。


「毎度毎度疲れるねぇ。稽古を付ける手間はかからないけれど……これなら入門者の相手をしている方がまだましだよ、まったく」


 ぼやきながら、またも畳に正座して目を閉じる。一時も無駄にするつもりは無いのだ。


「あいつらじろじろと私を見て。まだ未練があるのかね」


 昼間、縁側で目を閉じている間、朱美は常に門弟達の視線を感じていた。視線を向けるという事は気を向けるということであり、朱美ほどの達人ともなれば目を閉じていてもそれらを感じ取れる。

 まるで小さな虫が素肌の上を這い回るような不快な視線は、朱美にとっておぞましい限りだった。

 自分自身ではそれほど価値を見出していないことだったが、朱美は自分が造形的に美しい事を十分に承知していた。容姿は生まれつきだとしても、訃流を学ぶ間に鍛え上げた肉体は無駄な肉を一切付けずにすらりと伸び、充実した気のおかげでいつも瑞々しい。男なら一度でも抱いてみたいと思うだろう。

 そして先ほどの門弟達は、朱美を抱けるかもしれないという機会を与えられ、そして逃した者達だった。


「その為に白秋斉が送り込んできた奴らだから仕方ないのかも知れないけれど……早いとこ諦めて欲しいもんだね」


 実のところ朱美は門弟達を嫌っている。出来ることなら適当に理由を付けて破門にでもしてしまいたいところだが、他の分家に対抗するためにはある程度腕が立つ剣客を手元に置いておく必要がある。いざとなればどうしても人手は必要になるのだ。


 考えるともなしにそんな事を考え、朱美は調息を続けていた。

 どのくらいの時間が経ったのか、不意に屋敷内の空気が張り詰めるのを感じた。自ら目を閉じる事で逆に鋭くなった耳には今も変わらず夕餉の支度をする音や、家人達が交わす雑談などが微かに聞こえてくる。いつもと変わらない様子だが何かが違う。密やかに異物が入り込み、静かに雰囲気を変えた。そんな感じだ。


「これは……来たのかね」


 朱美は瞑目を解き、刀を手元に引き寄せた。しかしそれきり動かず、周囲の気配に気を配り続ける。

 と、いきなり動きがあった。

 台所から聞こえていた支度の音が絶え、ばたばたと慌ただしい音。そして金属音。


「勝手口から乗りこんできたか……誰か斬られたね」


 反射的に腰を浮かせた朱美は、しかし思い直して再び正座に戻った。また目を閉じて耳を澄ます。その間にも何度かの金属音と重い物が落ちるような音が連続する。剣戟の音と、斬られた者が倒れる音だ。

 それらが徐々に近付いて来る。


「瀬田様! 蒼次郎です! 蒼次郎が来ました!」


 いきなり襖が引き開けられれ、血相を変えた門弟が駆け込んで来た。


「せ、瀬田様?」


 今も続いている騒動が聞こえていないはずは無いのに、じっと座したままの朱美を見て男は戸惑いの声を上げた。蒼次郎と互角に戦えるのは朱美だけであるのに、その朱美は素知らぬ顔で座しており、そしてこうしている間にも仲間達は次々に命を落としているのだ。


「瀬田様、何をしているのです! は、早くっ!」

「狼狽えるんじゃないよ、みっともない。それでも訃流の男かい?」


 男が肩を掴んで揺すり始めるに及んで、朱美はようやく目を開けた。肩にかけられた手を虫でも追い払うようにして外させる。

 全く動こうとしない朱美。その事に対して、男がじれったさよりも不審感を持ち始めた時、その場にもう一人の門弟が飛び込んできた。と言って、それはその男の自発的行為ではない。襖を半ば破るようにして転がり込んできた男はそのまま倒れて動かない。畳に赤い染みが広がっていく。

 そして男を追うようにして蒼次郎が現れた。朱美の姿を認めた蒼次郎は、さすがに警戒して様子を窺っている。


「ひっ……」


 先に朱美を呼びに来ていた門弟が詰まったような悲鳴を上げた。

 蒼次郎がここに現れたということは、迎え撃っていた他の門弟達は全て斬られたことになる。

 朱美は狼狽しきっている門弟に侮蔑交じりの視線を向けた。


「あんた、腰の刀は飾りじゃないだろう? いきな」

「いきなと言って、わ、私では……」


 男の狼狽はいよいよ深くなった。彼も一流と呼べるほどの剣客だ。蒼次郎を見れば自分が勝てる相手ではないと判る。第一、彼と同等くらいの腕前の仲間達が、蒼次郎一人にこの短時間で全員倒されてしまったのだ。今さら自分が一人でかかっても、とそう思ってしまう。躊躇う男に朱美は冷たく言い放った。


「なら出ていきな。そしてもう二度と瀬田の敷居を跨ぐんじゃないよ。腰抜けに用はないんだ」

「くっ……くそぉっ!」


 破門されたくないのか、それとも腰抜け呼ばわりに憤ったのか、とにかく男は一刀を抜き放ち、自らを鼓舞する奇声を発しながら蒼次郎に斬りかかった。

 自暴自棄とも言える打ち込みながら逆にそれ故の勢いがあったが、迎え撃つ蒼次郎は無造作に刀を振っていた。男の手からは簡単に刀が弾き飛ばされていた。


「な、なんだ!?」


 手に残る凄まじい衝撃に男が呆気にとられた瞬間、翻った蒼次郎の刀が一閃し、男を切り捨てていた。

 倒れる男には一瞥もくれず、蒼次郎は再び朱美に正対する。血濡れた刀を手にして立つ姿はまさに鬼神の如き鬼気を発していた。

 しかし朱美はまだ動かない。正座したままで、刀は膝の前に寝かせている。


「良く来たね、坊や……いや、蒼次郎」

「瀬田、貴様何のつもりだ? 何故刀を抜かない」

「少し休みなって事さ。情けない奴らだけどそれなりに腕の立つのが揃ってたろ? さすがに少しばかり息が上がっているじゃないか」


 蒼次郎は今も訃流の調息を行っている。完璧とも見えるその調息に僅かながらの乱れがあるのを朱美は感じ取っていた。彼女自身が火の奥義の使い手として調息に敏感になっていたからだろう。


「昔の甘いだけの坊やならともかく、剣客になった森蒼次郎となら尋常に勝負をしたいからね。それに……斬り合い、殺し合いをする前に少しばかり話もしておきたい。結果がどうなるにせよ、あんたと話をするのはこれが最後の機会だろうからね」

「尋常な勝負と言うなら、なぜ貴様がさっさと出てこない。わざわざ門弟にかからせておいて今さら何を言う」


 勝てるはずも無いのに蒼次郎に挑んだ男の死体がそこに転がっている。

 指摘されて朱美は苦笑した。


「それはそれ、私なりの理由があるのさ。でも話しなんざしたくないと言うなら構わないよ。いいからかかっておいで」


 かかって来いと言われても蒼次郎は迂闊に動けなかった。既に刀を抜いている蒼次郎と、正座して刀に触れてもいない朱美。絶対的に不利な状況にありながら平然としている裏に、蒼次郎の知らない火の奥義があるのではないか。不用意に斬りかかればその奥義によって手痛い反撃を喰らうのではないか。そのように考えてしまう。

 ついに蒼次郎も構えを解いた。朱美に不審な動きがあれば即応できるようにしながら言う。


「よかろう。ならば話とやら聞こうではないか……いや、こちらから問おう」

「問う必要は無いよ。何故白州斉殺しと奥義書奪取に加担したのか。あんたが聞きたいのはそれだろうし、私が話したかったのもそれさ」

「それもあるが、俺が聞きたいのは葉末の死についてだ。葉末は貴様が殺したのか?」


 蒼次郎がそう言うと、朱美は一瞬だけ酷く悲しそうな顔になった。

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