帰って来た男
夕暮れ時、うっそうと葉を茂らせた竹林は外よりも一足早く薄暗くなっていた。少し冷え始めた風が竹葉をざわざわと揺らしている。
そんな無音ではない静寂の中、二人の男が相対していた。
一人は壮年の男。左の腰に大小の刀を差し、この近くにある剣術道場の紋を染め抜いた着物を着ている。男は幾分青ざめた顔で、対峙する男の顔を凝視していた。
凝視されている男はまだ若く、二十代の半ばあたりだ。肉を削いだような顔は無表情、左目が潰れており、残った右目だけで射抜くように相手を見ている。
ざわざわと竹葉が鳴っている。
無音ではない静寂と沈黙と、そして相手の視線に耐えかねたのか、壮年の男の方が口を開いた。
「お前は……蒼次郎なのか!?」
出てきた言葉は問いかけながら、男はその答えを知っていた。なにしろ相手が子供の頃から知っている。にも関わらず、質問の形をとった確認をしてしまうのは、彼が蒼次郎と呼んだ男が記憶の中の姿から大きくかけ離れており、しかも二年前に死んだとされていたからだ。
蒼次郎と呼ばれた男は無言。右手は刀の柄に置かれたままで、左手は……無い。左の袖は微かな夕風にはたはたと揺れ、中身が無いのは一目瞭然だ。
隻眼、隻腕の蒼次郎はただ男を見ている。その視線はあくまで静かながら、疑うことのできない殺意を秘めていた。
かさり……と微かな音が蒼次郎の足もとで鳴った。一切動いていないように見えながら、僅かに踏み込んだ蒼次郎が足もとの葉を鳴らしたのだ。
「くっ……!」
男は刀を抜いた。刀を抜けたのは、彼もまた手練の剣客である証だ。並みの剣客なら蒼次郎の殺意に竦んで身動きすらままならなくなっていただろう。
男が刀を抜いても、蒼次郎はただ立っているだけだ。
「一つ、答えろ。貴様は誰に付いている?」
凍りつくような声だった。平坦で感情がこもっておらず、それが人間の口から出たとは信じられない。地の底の亡者が発する怨嗟の声のほうが、まだ人間的だとさえ思えた。もちろんそんな声は聞いたこともないが、少なくとも彼の記憶にある蒼次郎の声はとは違っていた。彼の知っている蒼次郎はもっと快活な声だったはずだ。
「さあ、答えろ。仁志か? 有馬か? それとも瀬田か源川か」
重ねて問われ、男はごくりと喉を鳴らした。
「俺は……源川様に仕えている」
「源川玄蔵……土か」
蒼次郎は噛み締めるようにその名を口にした。蒼次郎にとっては剣術の兄弟子にあたる男の名だ。
それを言えば自分も蒼次郎の兄弟子なのだと男は思い出した。
今さらそれを自覚して、男に少しばかりの余裕が生まれた。
「蒼次郎、俺も問うぞ。二年前、何故貴様は翁を斬った。貴様の師を……いや、貴様の祖父を! それほどまでして奥義書を手に入れたかったか? 答えによっては、俺は貴様を斬る」
途端、蒼次郎が僅かに息を引くのが判った。
「貴様のせいで道場は閉鎖、その上お嬢様まで……」
男は最後まで喋れず、言葉を飲み込むことになった。蒼次郎から吹き付ける殺意がいきなり強くなったからだ。冷たい圧力が全身を締め上げる。もちろんそれは錯覚だ。殺意とは「殺す」という意思を乗せた気配に過ぎず、物理的な力など持ち合わせない。にも関わらずそう感じてしまうほど、蒼次郎の殺意は強烈で濃密だった。
「う……おおっ!」
もう答えによってはなどと悠長な話はしていられなかった。まるで猛獣を前にしたような気分。問答無用で斬らなければ自分が殺される。
男は反射的に蒼次郎に斬りかかっていた。
いや、斬りかかろうとした。
しかし男が刀を動かすよりも先に、キンッと澄んだ音がした。
いつの間にか蒼次郎が刀を抜いていた。しかも既に振りきった姿勢だ。
柄に手をかけた姿勢から今の姿勢へ。その間の部分がすっぽりと抜けているため、男は蒼次郎が何をしたのか理解できていなかった。
蒼次郎が刀を返すのを見て、男は理解を後回しにした。とにかく今は防がなくてはならない。
受けに回ろうとした男の手の中で、刀がいきなり軽くなった。見れば刀身の半ばから先が無い。無くなった部分は逆しまに地面に突き刺さっていた。
蒼次郎は抜刀の一撃で男の刀を斬っていたのだ。
小刀に持ち変える暇もなく、男は斬られていた。左の肩口から腹へと、斜めに深々と。
噴き出した鮮血を避けて一歩を退いた蒼次郎は、しばらくして大きく息を吐いた。腹の中に溜まった何かを一緒に吐き出したかのような重い溜め息だ。
目の前に転がる死体の着物で刀を拭って鞘に納める。視線は自然と着物の紋に留まった。漢字一文字を意匠化した紋だ。それは「訃」という文字。「死を報せる」という意味の文字だ。
赤く汚れたその紋を見る蒼次郎の隻眼に悲しみの色が浮かんだ。しかしそれは一瞬のこと。悲しみは憎悪へと変わった。
「俺は……森蒼次郎は帰って来たぞ!」
憎悪を乗せて蒼次郎は言葉を吐き出した。
その時、さくさくと竹葉を踏む足音が近づいてきた。
「蒼次郎様……」
「鮎、来るな」
蒼次郎は言ったが、制止は逆効果だった。足音が小走りになり、すぐに少女が姿を現した。
まだ十二、三才くらいのふっくらと愛らしい顔立ちをした少女だが、今は不安に強張った表情だ。そして転がる死体を見て「ひっ」と息を飲む。
「鮎、お前は見ない方がいい」
少女に対しては蒼次郎の声にも温かみが宿った。自然な動きで鮎の前に立ち、少女の視線から死体を隠す。
「待っているように言っただろう。どうして来たんだ」
軽い咎めに鮎は目を伏せた。
「蒼次郎様が心配で……気が付いたら足が」
「そうか、いいんだ。でもお前にこんなものは見せたくない。さあ、行こう」
鮎を安心させるために彼女の柔らかい髪を数度撫で、軽く背を押して歩きだした。
二人は並んで竹林を歩いていた。蒼次郎は小さな鮎の歩く速度に自然に合わせている。
「蒼次郎様、あの方は……」
「源川の手の者だった」
おずおずとした鮎の問いに蒼次郎は短く答える。
「すると、奥義書は土ですね」
「そうだ。決めていた通り、最初は源川にする」
暗い決意を込めて蒼次郎は言った。あの壮年の男が誰の配下なのかによって、標的としている四人の誰を最初に斬るのか決めることにしていたのだ。




