十三夜
今夜が十三夜だというのを知らせてくれたのは、彼女の方からだった。先月、十五夜を見に誘ったのはぼくの方だったってのに、当のぼくはそれをすっかり忘れてしまっていた。と言うのも、数日前の、ほんのささいな原因による、すれ違いが二人を遠ざけてしまっていたからだ。ずっとお互い連絡さえ取っていなかった。
十三夜――豆名月とか栗名月だとか呼ばれる秋の名月。必ず十五夜とセットで見なければならない、というのが古から続く絶対のルールだ。ぼくらはそのルールに則り、こうして鴨川の河原に腰掛け空を見上げている。気まずさを引きずりながら。
「十三夜はねぇ、『拝めば成功がかなう』って言われてるのよ。知ってた?」
彼女が言った。ぼくはさっきコンビニで買った日本酒の小ビンのキャップをひねりながら「ふうん」と、力なくただ答えた。ぼくはくだらない意地を張っている。それが痛々しいほどに自分でも分かる。知ってか知らずか、彼女はそれを気に掛ける素振りをまるでしない。
「ほら」
彼女がお猪口を二つ差し出した。三条商店街のはしっこの陶芸教室に通って作った彼女の処女作。十五夜の晩に初めて見たときは、まるでスマートからは程遠い出来だと思った。無骨で、不恰好。だけど今夜あらためて見てみると、これはこれで味があっていいものだと思える。
酒を注いで、それから小さく乾杯。
「成功に?」
ぼくのその質問は、彼女を困惑させようと発したものだ。ところが彼女は迷いもせずに笑顔で答えた。
「もちろん」
目的語のない、そんな言葉を信じられる彼女のオプティミズム。思えばぼくが惹かれたのは、彼女のそんなところじゃなかったっけ。
彼女の顔を見ているぼくは、口元の笑みをもう隠せなくなっていた。酒に一口つけてから、ぼくは彼女の手を握った。秋の夜の冷えた空気の中、確かに感じる彼女の体温。いくらかの、言葉にならない言葉なら、この体温を伝える鼓動が運んでくれる。ぼくらは会話をぜんぶ、そのつないだ手に任せて、十三夜の月をただ眺めた。
丸太町の駅まで彼女を送る途中も、ぼくはずっと彼女の手を放さなかった。放してしまうのが怖かった。彼女を失くしたら、ぼくは再びあの無味乾燥な生活に戻らなければならない。もともと社交的でもなく、将来に対して希望も持たなかったぼくは、彼女と出会ってからのこの半年で、ようやく変わり始めている。彼女の笑顔がぼくの希望で、彼女の不在がぼくの絶望。
月なんて見てしまったせいだ。手を放せば彼女があの月に帰ってしまうという、ありえない幻想にぼくはとらわれてしまっている。
不意にぼくは足を止めて、手で彼女を引き寄せ、力任せに抱きしめた。彼女を逃がしてしまわないように。ぼくの心をバラバラにしてしまわないために。このまま、ずっといつまでもこのままで。
腕の中、彼女の息が少し荒くなって、彼女はあえぐようにぼくに言った。
「ちょ――、力入れすぎ――」
それでぼくは自分がありったけの力を込めていたことに気付いた。あわてて手を緩めながらぼくは言った。
「ごめん――。でも思うんだ。この気持のうちのどれだけが届いてるんだろうって。壊れるぐらいに抱きしめても、それだけじゃとても足りないって気がする――」
この言葉にしたって、いったいどれだけ届くっていうんだろう。彼女の服、皮膚、肉体を通り抜けていちばん深い所まで。そういう意味でなら、もしかしたらぼくはまだ彼女に触れてもいないのかも知れない。怖くて不安でたまらない。
「私の目を見て」
彼女が言った。その少し上目遣いの目をぼくはのぞき込む。彼女は年下のはずなのに、ときどきぼくの姉みたいな顔をする。ぼくはまるで悪戯を咎められた少年みたいに、目を逸らしそうになる。
「私の目に自分が映ってるのが見える?」
まばたきを二、三度してから目を凝らすと、確かにぼくが映っていた。半分泣顔。情けないほどの。
「うん――」
「じゃあ、その映っている自分の目の中には私が映っている?」
言われるままにぼくは彼女の目をじっと見つめる。この目の解像度でどこまで追えるか分からない。けれども確かなのは、映っているに違いないってことだ。ぼくは答える。
「きっと――」
「分かった? この合わせ鏡はどこまでも続くの。ずっとずっと、ずっと深くまで。それがどんなに深くても、ちゃんとあなたはそこにいる」
「――」
ぼくは無言で再び彼女を抱きしめた。今度はほとんど力を入れていない。でもさっきと違ってはっきりと彼女の心臓の音を感じている。合わせ鏡の無限連鎖。ぼくの中の彼女と、彼女の中のぼく、どこまでも続いて途切れることはない。彼女を抱きしめたままぼくが言おうとした言葉の、先手を取って彼女が言った。
「どういたしまして」
「ありがとう――って、え?」
「何を言おうとしてるか、ちゃんと伝わったから。だから先に言ってみた」
だからぼくらは抱き合ったままで大笑い。ぼくの背中をパタパタと彼女の手が叩いている。ようやくぼくにも彼女の気持ちが伝わってきた。ぼくの奥底に語りかけるそれは、いつもの彼女らしい、明るく前向きな言葉だった。
『来年もまた一緒に月見するからね。絶対』
十三夜の月は、満ち足りないままでも完成している。たぶんそういうことなんだろう。