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先輩、耳かきしますね

掲載日:2026/10/21

挿絵(By みてみん)


インターホンが鳴ったのは日曜日の午後三時だった。注文した荷物が届いたのかと思って玄関を開けると、佐野が立っていた。


「こんにちは、先輩。耳かきしますね」

「……え?」

「耳かきです」


状況が呑み込めなかった。まず、どうして佐野が私の家に来たのか。そして、どうして佐野は私に耳かきをしようとしているのか。


佐野は大学の後輩だった。同じゼミに所属している。学年は一つ下。物静かで、少し愛想がなく、しかし話しかければきちんと答える。ゼミの飲み会にはほとんど参加しないが、発表の準備はいつも丁寧だった。大学以外で会うのは、今日が初めてだった。


「いや、なんで?」

「耳かきですけど」

「それは分かった。なんで耳かき?」

「……?」


佐野は首を傾げた。聞き方を間違えたのかもしれない。


「どうして私の家に来たの?」

「耳かきしに来ました」

「……そう」

「入ってもいいですか?」


私は少し考えた。よく分からないが、何か事情があるのだろう。彼女は普段と同じように、物静かで、礼儀正しく、少しだけ愛想が悪かった。


「うん。まあ、どうぞ」

「お邪魔します」


佐野は靴を脱ぎ、きちんと揃えた。そこには、何もおかしなところがなかった。


*


「先輩、竹の耳かきと溝がある耳かき、どっちが好きですか?」


佐野はリュックから小さなケースを取り出した。


「……竹かな」

「分かりました」


どうして答えてしまったのだろう。


五分後、私は佐野の膝に頭を乗せていた。あまりに迷いのない動作だったので、断るタイミングを失ってしまった。


彼女は手慣れた様子で私の右耳を掃除している。はじめは縁をなぞるように。耳かきの先が、耳の穴の入り口の硬い部分をゆっくりと撫でた。


「痛かったら言ってくださいね」

「うん」

「じゃあ、始めます」


耳の中で小さな音がした。かり、かり。思っていたより上手だった。力加減が安定している。竹の耳かきの先が、耳の穴の内側の壁をゆっくりと滑っていく。少し乾いた感触と、わずかに湿った感触が交互に来る。かり、という音がするたびに、耳の奥がわずかに広がるような気がした。


窓の外では車が走っている。隣の部屋からは洗濯機の音がする。佐野は、次のゼミで提出するレジュメについて話していた。TAのメールが遅いこと、参考文献が図書館になかったこと。大学で話すときと同じ、少し眠そうな口調だった。


耳かきは一度耳の奥から離れ、その周りの硬い部分をこりこりと撫でる。


「ねえ、佐野」

「はい」


そう言うと彼女は撫でる手を止める。私は、単純に気になったことを尋ねた。


「こういうの、よくやるの?」

「耳かきですか?」

「そう」

「いえ、初めてです」

「初めて?」

「はい。人にするのは」


彼女は耳かきを持ち直した。耳かきは耳の中ほどまで進入していく。かり、という音が、少し深くなった。初めてなのに、まるで手順を熟知しているように感じた。


耳かきの先が、耳の穴の奥のほうで小さく回転する。かり、かり。壁に沿って円を描くような動きだ。自分の耳の中でしか聞こえない音が、規則正しく響いている。佐野の指先が、耳の付け根に軽く触れているのがわかった。


「動かさないでくださいね」

「あ、ごめん」


佐野はいつもの調子で話した。窓の外では、子どもが遊んでいる声がする。ごく普通の日曜日だった。ただ、大学の後輩に膝枕されて、耳かきをしてもらっていることを除けば。


「ねえ、佐野」

「はい」

「あのさ、パートナーでもない人に膝枕するのって、抵抗ないの?」

「ありますよ」


即答だった。


「知らない人には絶対しません。気持ち悪いじゃないですか」

「……そうなんだ」

「彼氏にもしたことないですし」

「え、パートナーさんいるの?」

「いますよ」


初耳だった。


「そうなんだ」

「はい」

「じゃあ、なんで私にはしてくれるの?」

「先輩はいいんですよ」

「なんで?」

「耳かきですから」


かり、かり。耳かきが続いた。右耳の奥で、耳かきの先が壁を軽く擦る感触がする。


「いや、だから」

「耳かきするときは膝枕した方が楽ですよね」

「そういう問題?」

「ほかに何かありますか?」


佐野は真剣に尋ねた。私は答えられなかった。


「じゃあ問題ないですよね」


問題しかなかった。


*


二十分ほどして、佐野は耳かきを抜いた。


「ありがとう」

「どういたしまして」


私は上体を起こした。佐野は道具をケースにしまい、膝に落ちた耳垢を払った。私はまだ釈然としなかった。


「ねえ、ちょっと聞いていい?」

「はい」

「佐野って、私のこと好きなの?」

「え?」


彼女はあからさまに困った顔をした。


「何ですか、急に」

「だって、膝枕までしてくれるから」

「耳かきしただけじゃないですか」

「それが普通じゃないんだって」

「……先輩としては好きですよ」

「恋愛的には?」

「ないです」


即答だった。そこには一切の迷いがなかった。


「彼氏いますし」

「そうだよね」

「はい」


何となく気まずくなった。話題を変えようとして、私は隣に座り直した。


「あの、先輩」

「ん?」

「ちょっと近くないですか?」

「え?」

「もう少し離れてもらっていいですか」


言われるまま、拳二つ分ほど距離を取った。


「……さっきまで膝枕してたのに?」

「はい」

「それはいいの?」

「耳かきですから」


またそれだった。


私は彼女の手に触れてみようとした。佐野はすぐに手を引っ込めた。


「ちょっと、先輩」

「ごめん。でもさ」

「はい?」

「私、ずっと佐野の太ももに触ってたよね」

「そうですね」

「それはよかったの?」

「耳かきですから」

「手を握るのは?」

「嫌ですよ」

「太ももはいいのに?」


佐野は少しだけ眉を寄せた。


「だから、耳かきだったじゃないですか」

「……」


「肩に触るのは?」

「何のためにですか?」

「……いや、別に」

「だったらやめてください」


その反応は至極まっとうだった。私はしばらく考え込んだ。彼女は少し呆れた顔をした。


「先輩、何が分からないんですか?」


彼女は本当に分からないらしかった。


「じゃあさ」

「はい」

「もう一回耳かきしてくれない?」

「いいですよ」


佐野は即答した。片付けたばかりのケースを開けた。


「どっちの耳にします?」

「……右」

「じゃあ、こっちに頭を乗せてください」


彼女はごく自然に膝を差し出した。私は恐る恐る尋ねた。


「佐野、さっき近づくなって言わなかった?」

「言いましたよ」

「今はいいの?」

「はい」

「なんで?」


佐野は少し考えた。初めて、私の質問に答えようとしているように見えた。


「……先輩」

「うん」

「耳かきするのに、離れてたらできないじゃないですか」


当たり前のことを教えるような口調だった。私は再び、彼女の膝に頭を乗せた。


「それじゃ、始めますね」


そのとき、ふと気づいた。今日、彼女が私の部屋に来た理由は、最初から一度も説明されていない。そのことをもう一度尋ねようとした。しかし、


「先輩、動かないでください。危ないですよ」


と言われたので、やめた。実際、耳かき中に動くのは危ない。そこだけは彼女の言う通りだった。


耳を掃除されるがまま、何分くらいたっただろうか。ここちよさと、むずがゆさと、緊張で頭の中が揺れている。この時間が続くと幸せかもしれない。そう思っていた時だった。


「あ、もう四時ですね」


そう言うと佐野は耳から耳かきを抜き去り、そそくさと帰り支度を始めた。


*


翌日の大学で、佐野は普段どおりだった。講義棟の廊下ですれ違ったので、挨拶をした。


「おはよう」

「あ、先輩。おはようございます」

「昨日はありがとう」

「いえいえ」


それだけだった。昨日のことについて、特に何か言いたそうな様子もない。私は少し迷ってから尋ねた。


「……また、するの?」

「しますよ」

「そうなんだ」

「はい」


彼女は軽く会釈して、教室へ入っていった。その日の午後、図書館で佐野を見かけた。男と一緒だった。年齢は私と同じくらい。背が高く、眼鏡をかけている。二人は笑いながら何か話していた。


佐野が男の手を握った。男も、ごく自然に握り返した。私は思わず立ち止まった。なるほど、彼氏というのは本当だったらしい。別に嘘だと思っていたわけではない。ただ、あの佐野が、あんなふうに人と手をつなぐのかと思った。


すると佐野がこちらに気づいた。


「あ、先輩」

「こんにちは」


男も会釈した。


「ゼミの先輩です」


佐野が紹介した。私は適当に挨拶した。彼女は、ごく普通の恋人同士の距離感で、男の隣に立っていた。


「じゃあ、私たち、そろそろ行きますね」

「ああ、うん」

「あ、先輩」


別れる間際、佐野が言った。


「次の日曜、空いてますか?」

「……まあ、空いてるけど」

「じゃあ、耳かきしますね」


男が佐野を見た。


「……え?」

「何?」

「今、何て?」

「耳かきするって」

「誰に?」

「先輩に」


佐野は何でもないことのように答えた。男は私と佐野を交互に見た。


「……えっと、佐野さん?」

「うん?」

「耳かきって、あの耳かき?」

「ほかに何があるの?」

「いや、だって……どうやって?」

「膝枕で」

「膝枕!?」


男の声が少し大きくなった。周囲の学生がこちらを見た。


「声、大きいよ。図書館なんだから」

「いや、ちょっと待ってよ。俺、そんなことしてもらったことないんだけど」

「そうだね」

「なのに、その先輩にはするの?」

「うん」

「なんで!?」


佐野は困ったように首を傾げた。


「耳かきするからだけど」

「いや、そうじゃなくて!」


私はその場から消えたくなった。


「あの、私もよく分かってなくて……」


男は私を見た。


「先輩、もう耳かきしてもらったんですか?」

「……一回だけ」

「膝枕で?」

「うん」


男は絶句した。佐野が小さくため息をついた。


「二人とも、何をそんなに驚いてるんですか」

「驚くよ!」

「耳かきですよ?」

「だから、その耳かきが!」


佐野は少し考え込んだ。それから、男の手を握り直した。


「……もしかして、浮気だと思ってる?」

「そりゃ、思うだろ!」

「違うよ。だって……」


男の目を見て言った。


「耳かきだよ?」


男の顔は青ざめた。男はいくぶんか細くなった声で彼女に問う。


「じゃあ、何で膝枕するんだよ」

「耳かきに必要だから」


男は何か言いかけた。しかし、言葉が出てこなかった。佐野は、今度は私を見た。


「先輩、日曜日の三時でいいですか?」

「え、あ、うん……」

「じゃあ、よろしくお願いします」


彼女は男に向き直った。


「行こっか」

「いや、まだ話終わってないんだけど」

「分かった。歩きながら聞く」


二人は並んで歩いていった。男は何度もこちらを振り返っていた。佐野は一度も振り返らなかった。ただ、男の手は最後まで握っていた。


*


次の日曜、佐野は午後三時ちょうどにやってきた。


「こんにちは、先輩。耳かきしますね」


先週と同じ挨拶だった。


「こんにちは」

「お邪魔します」


彼女は靴を揃え、手を洗い、鞄から耳かきのケースを出した。私はその間、ずっと考えていたことを聞くことにした。


「パートナーさん、怒ってなかった?」

「怒ってましたよ」

「……それでも来たんだ」

「はい」

「なんで?」

「先輩、今日も耳かきしますから」


「ねえ、佐野」

「はい」

「何で私なの?」

「何がですか?」

「耳かき」

「……?」

「パートナーさんにはしないんでしょ?」

「はい」

「ほかの先輩には?」

「しませんよ」

「友達には?」

「しません」

「じゃあ、どうして私にはするの?」


佐野はケースを開ける手を止めた。そして、少し考えた。ようやく答えが返ってくるかもしれない。


「……先輩」

「うん」

「耳かき、嫌ですか?」

「いや、嫌じゃないけど」

「なら、いいじゃないですか」

「よくないよ」

「どうしてですか?」

「理由が分からないから」

「理由……」


佐野はしばらく考えていた。


「先輩に耳かきするためです」

「それ、理由になってないよ」

「……すみません。質問の意味が、ちょっと分からないです」


彼女は申し訳なさそうに言った。その顔を見て、私は急に気が抜けた。彼女はふざけているわけではない。からかっているわけでもない。説明したくない秘密があるようにも見えない。


本当に分からないのだ。


「……まあ、いいや」

「いいんですか?」

「うん。耳かき、お願いします」

「はい」


佐野は安心したように頷いた。


「じゃあ、こっちに頭を乗せてください」


*


二回目の耳かきは、一回目より落ち着かなかった。理由は簡単だった。先週まで私にとって未知の出来事だったものが、今週は予定になっていたからだ。佐野が来ることを知っていた。耳かきされることも知っていた。それなのに、私は断らなかった。


「先輩、力抜いてください」

「うん」

「緊張してます?」

「ちょっと」

「痛くしませんから」


違う。痛いかどうかではない。私は彼女の膝に触れている自分の手を見た。太ももに置いた掌の温度が、じわりと伝わってくる。


「佐野」

「はい」

「これって、いいんだよね」

「何がですか?」

「手。太ももに触ってるけど」


確認しても無駄だ。そう分かっていても、身体を意識せずにはいられなかった。耳かきが右耳の奥をゆっくりと撫でている。かり、かり。その音と、太ももに置いた自分の掌の温度が、同時に意識される。


「大丈夫ですよ」

「でも、手を握るのは嫌なんだよね」

「はい」

「じゃあ、もし耳かきが終わったら、この手は?」

「離してください」

「耳かき中なら?」

「大丈夫です」

「……」

「先輩、耳かき中なんですから」


当たり前のことを確認するような口調だった。そして、耳かきを続行した。かり、かり。そのあまりにも自然な動作に、私は何も言えなくなった。


*


自分で最後に耳かきをしたのはいつだろうか。耳に水が入って綿棒をつっこむことがたまにあるくらいで、ちゃんと耳掃除をしたのは遠い過去の記憶だ。しかしその古い記憶を辿っていると、今の状況に違和感があった。


長いのだ。


佐野に右耳を預けてからもうだいぶ時間が経っている気がする。この姿勢では時計もスマホも見えない。耳の中で耳かきが動くたびに、かり、という音がする。周囲の音はほとんど聞こえない。


耳かきの先が、耳の穴の同じ場所を何度も往復している。かり、かり。壁のわずかな凹凸をなぞるたびに、耳の奥がくすぐったくなって、少しだけ肩が浮いた。佐野の膝の温度が、こめかみのあたりにじわりと伝わってくる。


「佐野、まだ終わらないの?」

「はい。まだ右耳の途中です」

「……もう二十分くらいやってない?」

「そうですね」

「そんなに汚れてる?」

「いえ、綺麗ですよ」

「じゃあ、なんで続けてるの?」

「耳かき中ですから」

「いや、だから、もう綺麗なんでしょ?」

「はい」

「……終わらないの?」

「まだ二十分しか経ってませんよ」


佐野はそれからもしばらく右耳を掃除し続け、やがて私の頭の向きを変えて左耳に移った。そして四時になると、何事もなかったかのように耳かきを終え、帰っていった。


*


三回目の日曜日までに、私はいろいろ考えた。


佐野は私を好きなのではない。それはもう分かった。誰にでも親切なわけでもない。むしろ普段は、かなり慎重な女性だ。パートナー以外に手を握られることを嫌がる。意味もなく密着されることも嫌がる。


なのに、私の家には来る。膝を貸す。太ももに触れるのを許す。耳かきをする。そして、終わった瞬間にいつもの距離に戻る。


何度考えても、理解できなかった。


そこで三回目の日曜日、私は少し実験をしてみることにした。


午後三時。インターホンが鳴った。


「こんにちは、先輩。耳かきしますね」

「こんにちは。今日はさ、耳かきなしにしない?」


佐野は少し驚いた。


「なし、ですか?」

「うん。普通にお茶でも飲もうよ」

「お茶ですか」

「そう」

「……」


彼女は考え込んだ。


「すみません。今日は耳かきしに来たので」

「いや、せっかく来たんだから」

「でも、耳かきしないなら……」


佐野は玄関の外で立ち止まった。


「帰りますね」

「えっ」

「また今度、耳かきします」


彼女は丁寧に頭を下げた。


「お邪魔しました」

「いや、ちょっと待って」

「はい?」


私は慌てて呼び止めた。


「分かった。耳かきして」

「いいんですか?」

「うん」

「よかったです」


佐野は靴を脱いだ。そして、いつものようにきちんと揃えた。


*


佐野の行動には理由があったのかもしれなかった。だが、それは私の理解できる種類の理由ではなさそうだった。「耳かきをするから」。耳かきをするから耳かきをする。奇妙な論理。だけど、彼女にとってはそれが正当な理由なのだ。


しかし、私の家にどうやって来たのかは謎のままだった。最初に佐野が来た日まで、私は佐野と二人っきりになったことすらほとんどなかったから。


「そういえばさ、佐野って私の住所、どうやって知ったの?」

「ああ、それですか」


彼女は淡々と答えた。


「先輩のあとをついて行きました」

「……え?」

「大学からです。どこに住んでるか知らなかったので」

「それって、尾行?」

「そうですね」

「何でそんなことしたの?」

「耳かきするためですけど」


「耳かきをするため」。それは彼女にとって正当な理由だった。


「……それ、普通はやっちゃ駄目なことだよね」

「そうですね」

「そうですね、じゃなくて」

「はい?」

「佐野も、尾行が駄目なことだって分かってるんでしょ?」

「はい」

「じゃあ、どうして?」


佐野は一息置いて答えた。


「先輩に耳かきするためです」


私は大学から家までの道を思い出した。駅の改札、信号待ち、アパートの階段。そのどこかで、佐野は私の後ろを歩いていたのだ。私は何も知らなかった。


佐野は耳かきのケースを開いた。


「先輩、そろそろ始めてもいいですか?」

「……うん」


返事をしてしまった。


少し遅れて、そのことがおかしいような気がした。


*


毎週日曜日に佐野が来るようになった。大学での関係は変わらなかった。ゼミでは必要なことしか話さないし、私に対して特別な好意を示すこともない。しかし日曜日の午後三時になると、彼女は必ずやってきた。

そういえば最近、大学であの男と一緒にいるところを見かけなくなった。もともと毎日会っていたわけではないので、特に気にも留めなかった。


「こんにちは、先輩。耳かきしますね」


私もいつしか、普通に答えるようになっていた。


「こんにちは。どうぞ」


ある日、耳かきの途中で、私は尋ねた。


「佐野ってさ、私のこと何だと思ってるの?」

「先輩です」

「それだけ?」

「はい」

「耳かきする相手としては?」

「先輩です」

「……そう」


彼女は耳かきを続けた。私は目を閉じた。いつもの音がする。かり、かり。毎週聞いている音だった。最近は、この時間が少し楽しみになっていた。


もしかすると、私は佐野を好きになりかけているのかもしれない。しかし、そう考えた途端、妙な気持ちになった。彼女は私を特別扱いしている。少なくとも、ほかの人にはしないことをしてくれる。


でも、それは恋愛感情とは関係がない。耳かきが終われば、手を握ることも許してくれない。私がどれほど親密な気持ちになっても、彼女はならない。そのことを、私はもう知っていた。


佐野は今、どんな顔をしているのだろう。大学でレジュメを確認するときのような、少し眠そうな顔だろうか。それとも、私の知らない顔をしているのだろうか。確かめようと顔を上げかけると、


「先輩、動かないでください。危ないですよ」


と注意された。仕方なく、私はまた目を閉じた。


「はい、終わりました」

「ありがとう」

「どういたしまして」


身体を起こす。佐野は道具を片づけ、立ち上がった。私はふと、図書館での一件を思い出した。


「そういえば、パートナーさんとは、その後どうなったの?」

「別れました」

「……えっ」


私は絶句した。


「先輩の耳かきのこと、どうしても嫌だったみたいで」

「佐野は、それでよかったの?」

「よくないですよ」

「……つらくないの?」

「つらいですよ」


佐野は少し目を伏せた。


「好きだったので。今も好きです。ずっと一緒にいたかったので」

「だったら、耳かきをやめればよかったんじゃない?」

「……?」


佐野は少し困ったような顔をした。


「でも、先輩には耳かきしますよ」


私はそれ以上、何も言えなかった。もう来なくていい、と言えばよかったのかもしれない。佐野は耳かきのケースをリュックにしまっていた。私はそれを黙って見ていた。


玄関まで見送った。佐野は靴を履き、振り返った。


「先輩」

「何?」

「来週も耳かきしますね」

「うん。待ってる」


彼女は微笑んだ。その笑顔は、大学で挨拶するときと何も変わらなかった。


ドアが閉まる。部屋が静かになった。私はしばらく玄関に立っていた。そして、ふと考えた。


佐野は、どうして私に耳かきをするのだろう。


何度も考えた疑問だった。答えはまだ分からない。ただ最近は、別のことも考えるようになっていた。


私は、どうして佐野に耳かきをしてもらうのだろう。


最初は、断るタイミングを失ったからだった。二回目は、理由を知りたかったから。三回目は、彼女の異常な常識を確かめたかったから。


では、来週は?


私はカレンダーを見た。次の日曜日には、何の予定も入っていない。予定がない、と思った。


いや。一つあった。


午後三時。

佐野が耳かきをしに来る。


私はスマホを開き、予定を登録した。


『佐野さん 耳かき』


登録してから、しばらく画面を見つめていた。いつの間にか、私もそれを、普通の予定として扱っていた。理由は分からない。


ただ、来週も彼女は来るだろう。そして私は、ドアを開けるだろう。彼女は言う。


「こんにちは、先輩。耳かきしますね」


私はきっと、こう答える。


「うん。ありがとう」


そのときには、もう「なんで?」とは聞かない気がした。

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