先輩、耳かきしますね
インターホンが鳴ったのは日曜日の午後三時だった。注文した荷物が届いたのかと思って玄関を開けると、佐野が立っていた。
「こんにちは、先輩。耳かきしますね」
「……え?」
「耳かきです」
状況が呑み込めなかった。まず、どうして佐野が私の家に来たのか。そして、どうして佐野は私に耳かきをしようとしているのか。
佐野は大学の後輩だった。同じゼミに所属している。学年は一つ下。物静かで、少し愛想がなく、しかし話しかければきちんと答える。ゼミの飲み会にはほとんど参加しないが、発表の準備はいつも丁寧だった。大学以外で会うのは、今日が初めてだった。
「いや、なんで?」
「耳かきですけど」
「それは分かった。なんで耳かき?」
「……?」
佐野は首を傾げた。聞き方を間違えたのかもしれない。
「どうして私の家に来たの?」
「耳かきしに来ました」
「……そう」
「入ってもいいですか?」
私は少し考えた。よく分からないが、何か事情があるのだろう。彼女は普段と同じように、物静かで、礼儀正しく、少しだけ愛想が悪かった。
「うん。まあ、どうぞ」
「お邪魔します」
佐野は靴を脱ぎ、きちんと揃えた。そこには、何もおかしなところがなかった。
*
「先輩、竹の耳かきと溝がある耳かき、どっちが好きですか?」
佐野はリュックから小さなケースを取り出した。
「……竹かな」
「分かりました」
どうして答えてしまったのだろう。
五分後、私は佐野の膝に頭を乗せていた。あまりに迷いのない動作だったので、断るタイミングを失ってしまった。
彼女は手慣れた様子で私の右耳を掃除している。はじめは縁をなぞるように。耳かきの先が、耳の穴の入り口の硬い部分をゆっくりと撫でた。
「痛かったら言ってくださいね」
「うん」
「じゃあ、始めます」
耳の中で小さな音がした。かり、かり。思っていたより上手だった。力加減が安定している。竹の耳かきの先が、耳の穴の内側の壁をゆっくりと滑っていく。少し乾いた感触と、わずかに湿った感触が交互に来る。かり、という音がするたびに、耳の奥がわずかに広がるような気がした。
窓の外では車が走っている。隣の部屋からは洗濯機の音がする。佐野は、次のゼミで提出するレジュメについて話していた。TAのメールが遅いこと、参考文献が図書館になかったこと。大学で話すときと同じ、少し眠そうな口調だった。
耳かきは一度耳の奥から離れ、その周りの硬い部分をこりこりと撫でる。
「ねえ、佐野」
「はい」
そう言うと彼女は撫でる手を止める。私は、単純に気になったことを尋ねた。
「こういうの、よくやるの?」
「耳かきですか?」
「そう」
「いえ、初めてです」
「初めて?」
「はい。人にするのは」
彼女は耳かきを持ち直した。耳かきは耳の中ほどまで進入していく。かり、という音が、少し深くなった。初めてなのに、まるで手順を熟知しているように感じた。
耳かきの先が、耳の穴の奥のほうで小さく回転する。かり、かり。壁に沿って円を描くような動きだ。自分の耳の中でしか聞こえない音が、規則正しく響いている。佐野の指先が、耳の付け根に軽く触れているのがわかった。
「動かさないでくださいね」
「あ、ごめん」
佐野はいつもの調子で話した。窓の外では、子どもが遊んでいる声がする。ごく普通の日曜日だった。ただ、大学の後輩に膝枕されて、耳かきをしてもらっていることを除けば。
「ねえ、佐野」
「はい」
「あのさ、パートナーでもない人に膝枕するのって、抵抗ないの?」
「ありますよ」
即答だった。
「知らない人には絶対しません。気持ち悪いじゃないですか」
「……そうなんだ」
「彼氏にもしたことないですし」
「え、パートナーさんいるの?」
「いますよ」
初耳だった。
「そうなんだ」
「はい」
「じゃあ、なんで私にはしてくれるの?」
「先輩はいいんですよ」
「なんで?」
「耳かきですから」
かり、かり。耳かきが続いた。右耳の奥で、耳かきの先が壁を軽く擦る感触がする。
「いや、だから」
「耳かきするときは膝枕した方が楽ですよね」
「そういう問題?」
「ほかに何かありますか?」
佐野は真剣に尋ねた。私は答えられなかった。
「じゃあ問題ないですよね」
問題しかなかった。
*
二十分ほどして、佐野は耳かきを抜いた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
私は上体を起こした。佐野は道具をケースにしまい、膝に落ちた耳垢を払った。私はまだ釈然としなかった。
「ねえ、ちょっと聞いていい?」
「はい」
「佐野って、私のこと好きなの?」
「え?」
彼女はあからさまに困った顔をした。
「何ですか、急に」
「だって、膝枕までしてくれるから」
「耳かきしただけじゃないですか」
「それが普通じゃないんだって」
「……先輩としては好きですよ」
「恋愛的には?」
「ないです」
即答だった。そこには一切の迷いがなかった。
「彼氏いますし」
「そうだよね」
「はい」
何となく気まずくなった。話題を変えようとして、私は隣に座り直した。
「あの、先輩」
「ん?」
「ちょっと近くないですか?」
「え?」
「もう少し離れてもらっていいですか」
言われるまま、拳二つ分ほど距離を取った。
「……さっきまで膝枕してたのに?」
「はい」
「それはいいの?」
「耳かきですから」
またそれだった。
私は彼女の手に触れてみようとした。佐野はすぐに手を引っ込めた。
「ちょっと、先輩」
「ごめん。でもさ」
「はい?」
「私、ずっと佐野の太ももに触ってたよね」
「そうですね」
「それはよかったの?」
「耳かきですから」
「手を握るのは?」
「嫌ですよ」
「太ももはいいのに?」
佐野は少しだけ眉を寄せた。
「だから、耳かきだったじゃないですか」
「……」
「肩に触るのは?」
「何のためにですか?」
「……いや、別に」
「だったらやめてください」
その反応は至極まっとうだった。私はしばらく考え込んだ。彼女は少し呆れた顔をした。
「先輩、何が分からないんですか?」
彼女は本当に分からないらしかった。
「じゃあさ」
「はい」
「もう一回耳かきしてくれない?」
「いいですよ」
佐野は即答した。片付けたばかりのケースを開けた。
「どっちの耳にします?」
「……右」
「じゃあ、こっちに頭を乗せてください」
彼女はごく自然に膝を差し出した。私は恐る恐る尋ねた。
「佐野、さっき近づくなって言わなかった?」
「言いましたよ」
「今はいいの?」
「はい」
「なんで?」
佐野は少し考えた。初めて、私の質問に答えようとしているように見えた。
「……先輩」
「うん」
「耳かきするのに、離れてたらできないじゃないですか」
当たり前のことを教えるような口調だった。私は再び、彼女の膝に頭を乗せた。
「それじゃ、始めますね」
そのとき、ふと気づいた。今日、彼女が私の部屋に来た理由は、最初から一度も説明されていない。そのことをもう一度尋ねようとした。しかし、
「先輩、動かないでください。危ないですよ」
と言われたので、やめた。実際、耳かき中に動くのは危ない。そこだけは彼女の言う通りだった。
耳を掃除されるがまま、何分くらいたっただろうか。ここちよさと、むずがゆさと、緊張で頭の中が揺れている。この時間が続くと幸せかもしれない。そう思っていた時だった。
「あ、もう四時ですね」
そう言うと佐野は耳から耳かきを抜き去り、そそくさと帰り支度を始めた。
*
翌日の大学で、佐野は普段どおりだった。講義棟の廊下ですれ違ったので、挨拶をした。
「おはよう」
「あ、先輩。おはようございます」
「昨日はありがとう」
「いえいえ」
それだけだった。昨日のことについて、特に何か言いたそうな様子もない。私は少し迷ってから尋ねた。
「……また、するの?」
「しますよ」
「そうなんだ」
「はい」
彼女は軽く会釈して、教室へ入っていった。その日の午後、図書館で佐野を見かけた。男と一緒だった。年齢は私と同じくらい。背が高く、眼鏡をかけている。二人は笑いながら何か話していた。
佐野が男の手を握った。男も、ごく自然に握り返した。私は思わず立ち止まった。なるほど、彼氏というのは本当だったらしい。別に嘘だと思っていたわけではない。ただ、あの佐野が、あんなふうに人と手をつなぐのかと思った。
すると佐野がこちらに気づいた。
「あ、先輩」
「こんにちは」
男も会釈した。
「ゼミの先輩です」
佐野が紹介した。私は適当に挨拶した。彼女は、ごく普通の恋人同士の距離感で、男の隣に立っていた。
「じゃあ、私たち、そろそろ行きますね」
「ああ、うん」
「あ、先輩」
別れる間際、佐野が言った。
「次の日曜、空いてますか?」
「……まあ、空いてるけど」
「じゃあ、耳かきしますね」
男が佐野を見た。
「……え?」
「何?」
「今、何て?」
「耳かきするって」
「誰に?」
「先輩に」
佐野は何でもないことのように答えた。男は私と佐野を交互に見た。
「……えっと、佐野さん?」
「うん?」
「耳かきって、あの耳かき?」
「ほかに何があるの?」
「いや、だって……どうやって?」
「膝枕で」
「膝枕!?」
男の声が少し大きくなった。周囲の学生がこちらを見た。
「声、大きいよ。図書館なんだから」
「いや、ちょっと待ってよ。俺、そんなことしてもらったことないんだけど」
「そうだね」
「なのに、その先輩にはするの?」
「うん」
「なんで!?」
佐野は困ったように首を傾げた。
「耳かきするからだけど」
「いや、そうじゃなくて!」
私はその場から消えたくなった。
「あの、私もよく分かってなくて……」
男は私を見た。
「先輩、もう耳かきしてもらったんですか?」
「……一回だけ」
「膝枕で?」
「うん」
男は絶句した。佐野が小さくため息をついた。
「二人とも、何をそんなに驚いてるんですか」
「驚くよ!」
「耳かきですよ?」
「だから、その耳かきが!」
佐野は少し考え込んだ。それから、男の手を握り直した。
「……もしかして、浮気だと思ってる?」
「そりゃ、思うだろ!」
「違うよ。だって……」
男の目を見て言った。
「耳かきだよ?」
男の顔は青ざめた。男はいくぶんか細くなった声で彼女に問う。
「じゃあ、何で膝枕するんだよ」
「耳かきに必要だから」
男は何か言いかけた。しかし、言葉が出てこなかった。佐野は、今度は私を見た。
「先輩、日曜日の三時でいいですか?」
「え、あ、うん……」
「じゃあ、よろしくお願いします」
彼女は男に向き直った。
「行こっか」
「いや、まだ話終わってないんだけど」
「分かった。歩きながら聞く」
二人は並んで歩いていった。男は何度もこちらを振り返っていた。佐野は一度も振り返らなかった。ただ、男の手は最後まで握っていた。
*
次の日曜、佐野は午後三時ちょうどにやってきた。
「こんにちは、先輩。耳かきしますね」
先週と同じ挨拶だった。
「こんにちは」
「お邪魔します」
彼女は靴を揃え、手を洗い、鞄から耳かきのケースを出した。私はその間、ずっと考えていたことを聞くことにした。
「パートナーさん、怒ってなかった?」
「怒ってましたよ」
「……それでも来たんだ」
「はい」
「なんで?」
「先輩、今日も耳かきしますから」
「ねえ、佐野」
「はい」
「何で私なの?」
「何がですか?」
「耳かき」
「……?」
「パートナーさんにはしないんでしょ?」
「はい」
「ほかの先輩には?」
「しませんよ」
「友達には?」
「しません」
「じゃあ、どうして私にはするの?」
佐野はケースを開ける手を止めた。そして、少し考えた。ようやく答えが返ってくるかもしれない。
「……先輩」
「うん」
「耳かき、嫌ですか?」
「いや、嫌じゃないけど」
「なら、いいじゃないですか」
「よくないよ」
「どうしてですか?」
「理由が分からないから」
「理由……」
佐野はしばらく考えていた。
「先輩に耳かきするためです」
「それ、理由になってないよ」
「……すみません。質問の意味が、ちょっと分からないです」
彼女は申し訳なさそうに言った。その顔を見て、私は急に気が抜けた。彼女はふざけているわけではない。からかっているわけでもない。説明したくない秘密があるようにも見えない。
本当に分からないのだ。
「……まあ、いいや」
「いいんですか?」
「うん。耳かき、お願いします」
「はい」
佐野は安心したように頷いた。
「じゃあ、こっちに頭を乗せてください」
*
二回目の耳かきは、一回目より落ち着かなかった。理由は簡単だった。先週まで私にとって未知の出来事だったものが、今週は予定になっていたからだ。佐野が来ることを知っていた。耳かきされることも知っていた。それなのに、私は断らなかった。
「先輩、力抜いてください」
「うん」
「緊張してます?」
「ちょっと」
「痛くしませんから」
違う。痛いかどうかではない。私は彼女の膝に触れている自分の手を見た。太ももに置いた掌の温度が、じわりと伝わってくる。
「佐野」
「はい」
「これって、いいんだよね」
「何がですか?」
「手。太ももに触ってるけど」
確認しても無駄だ。そう分かっていても、身体を意識せずにはいられなかった。耳かきが右耳の奥をゆっくりと撫でている。かり、かり。その音と、太ももに置いた自分の掌の温度が、同時に意識される。
「大丈夫ですよ」
「でも、手を握るのは嫌なんだよね」
「はい」
「じゃあ、もし耳かきが終わったら、この手は?」
「離してください」
「耳かき中なら?」
「大丈夫です」
「……」
「先輩、耳かき中なんですから」
当たり前のことを確認するような口調だった。そして、耳かきを続行した。かり、かり。そのあまりにも自然な動作に、私は何も言えなくなった。
*
自分で最後に耳かきをしたのはいつだろうか。耳に水が入って綿棒をつっこむことがたまにあるくらいで、ちゃんと耳掃除をしたのは遠い過去の記憶だ。しかしその古い記憶を辿っていると、今の状況に違和感があった。
長いのだ。
佐野に右耳を預けてからもうだいぶ時間が経っている気がする。この姿勢では時計もスマホも見えない。耳の中で耳かきが動くたびに、かり、という音がする。周囲の音はほとんど聞こえない。
耳かきの先が、耳の穴の同じ場所を何度も往復している。かり、かり。壁のわずかな凹凸をなぞるたびに、耳の奥がくすぐったくなって、少しだけ肩が浮いた。佐野の膝の温度が、こめかみのあたりにじわりと伝わってくる。
「佐野、まだ終わらないの?」
「はい。まだ右耳の途中です」
「……もう二十分くらいやってない?」
「そうですね」
「そんなに汚れてる?」
「いえ、綺麗ですよ」
「じゃあ、なんで続けてるの?」
「耳かき中ですから」
「いや、だから、もう綺麗なんでしょ?」
「はい」
「……終わらないの?」
「まだ二十分しか経ってませんよ」
佐野はそれからもしばらく右耳を掃除し続け、やがて私の頭の向きを変えて左耳に移った。そして四時になると、何事もなかったかのように耳かきを終え、帰っていった。
*
三回目の日曜日までに、私はいろいろ考えた。
佐野は私を好きなのではない。それはもう分かった。誰にでも親切なわけでもない。むしろ普段は、かなり慎重な女性だ。パートナー以外に手を握られることを嫌がる。意味もなく密着されることも嫌がる。
なのに、私の家には来る。膝を貸す。太ももに触れるのを許す。耳かきをする。そして、終わった瞬間にいつもの距離に戻る。
何度考えても、理解できなかった。
そこで三回目の日曜日、私は少し実験をしてみることにした。
午後三時。インターホンが鳴った。
「こんにちは、先輩。耳かきしますね」
「こんにちは。今日はさ、耳かきなしにしない?」
佐野は少し驚いた。
「なし、ですか?」
「うん。普通にお茶でも飲もうよ」
「お茶ですか」
「そう」
「……」
彼女は考え込んだ。
「すみません。今日は耳かきしに来たので」
「いや、せっかく来たんだから」
「でも、耳かきしないなら……」
佐野は玄関の外で立ち止まった。
「帰りますね」
「えっ」
「また今度、耳かきします」
彼女は丁寧に頭を下げた。
「お邪魔しました」
「いや、ちょっと待って」
「はい?」
私は慌てて呼び止めた。
「分かった。耳かきして」
「いいんですか?」
「うん」
「よかったです」
佐野は靴を脱いだ。そして、いつものようにきちんと揃えた。
*
佐野の行動には理由があったのかもしれなかった。だが、それは私の理解できる種類の理由ではなさそうだった。「耳かきをするから」。耳かきをするから耳かきをする。奇妙な論理。だけど、彼女にとってはそれが正当な理由なのだ。
しかし、私の家にどうやって来たのかは謎のままだった。最初に佐野が来た日まで、私は佐野と二人っきりになったことすらほとんどなかったから。
「そういえばさ、佐野って私の住所、どうやって知ったの?」
「ああ、それですか」
彼女は淡々と答えた。
「先輩のあとをついて行きました」
「……え?」
「大学からです。どこに住んでるか知らなかったので」
「それって、尾行?」
「そうですね」
「何でそんなことしたの?」
「耳かきするためですけど」
「耳かきをするため」。それは彼女にとって正当な理由だった。
「……それ、普通はやっちゃ駄目なことだよね」
「そうですね」
「そうですね、じゃなくて」
「はい?」
「佐野も、尾行が駄目なことだって分かってるんでしょ?」
「はい」
「じゃあ、どうして?」
佐野は一息置いて答えた。
「先輩に耳かきするためです」
私は大学から家までの道を思い出した。駅の改札、信号待ち、アパートの階段。そのどこかで、佐野は私の後ろを歩いていたのだ。私は何も知らなかった。
佐野は耳かきのケースを開いた。
「先輩、そろそろ始めてもいいですか?」
「……うん」
返事をしてしまった。
少し遅れて、そのことがおかしいような気がした。
*
毎週日曜日に佐野が来るようになった。大学での関係は変わらなかった。ゼミでは必要なことしか話さないし、私に対して特別な好意を示すこともない。しかし日曜日の午後三時になると、彼女は必ずやってきた。
そういえば最近、大学であの男と一緒にいるところを見かけなくなった。もともと毎日会っていたわけではないので、特に気にも留めなかった。
「こんにちは、先輩。耳かきしますね」
私もいつしか、普通に答えるようになっていた。
「こんにちは。どうぞ」
ある日、耳かきの途中で、私は尋ねた。
「佐野ってさ、私のこと何だと思ってるの?」
「先輩です」
「それだけ?」
「はい」
「耳かきする相手としては?」
「先輩です」
「……そう」
彼女は耳かきを続けた。私は目を閉じた。いつもの音がする。かり、かり。毎週聞いている音だった。最近は、この時間が少し楽しみになっていた。
もしかすると、私は佐野を好きになりかけているのかもしれない。しかし、そう考えた途端、妙な気持ちになった。彼女は私を特別扱いしている。少なくとも、ほかの人にはしないことをしてくれる。
でも、それは恋愛感情とは関係がない。耳かきが終われば、手を握ることも許してくれない。私がどれほど親密な気持ちになっても、彼女はならない。そのことを、私はもう知っていた。
佐野は今、どんな顔をしているのだろう。大学でレジュメを確認するときのような、少し眠そうな顔だろうか。それとも、私の知らない顔をしているのだろうか。確かめようと顔を上げかけると、
「先輩、動かないでください。危ないですよ」
と注意された。仕方なく、私はまた目を閉じた。
「はい、終わりました」
「ありがとう」
「どういたしまして」
身体を起こす。佐野は道具を片づけ、立ち上がった。私はふと、図書館での一件を思い出した。
「そういえば、パートナーさんとは、その後どうなったの?」
「別れました」
「……えっ」
私は絶句した。
「先輩の耳かきのこと、どうしても嫌だったみたいで」
「佐野は、それでよかったの?」
「よくないですよ」
「……つらくないの?」
「つらいですよ」
佐野は少し目を伏せた。
「好きだったので。今も好きです。ずっと一緒にいたかったので」
「だったら、耳かきをやめればよかったんじゃない?」
「……?」
佐野は少し困ったような顔をした。
「でも、先輩には耳かきしますよ」
私はそれ以上、何も言えなかった。もう来なくていい、と言えばよかったのかもしれない。佐野は耳かきのケースをリュックにしまっていた。私はそれを黙って見ていた。
玄関まで見送った。佐野は靴を履き、振り返った。
「先輩」
「何?」
「来週も耳かきしますね」
「うん。待ってる」
彼女は微笑んだ。その笑顔は、大学で挨拶するときと何も変わらなかった。
ドアが閉まる。部屋が静かになった。私はしばらく玄関に立っていた。そして、ふと考えた。
佐野は、どうして私に耳かきをするのだろう。
何度も考えた疑問だった。答えはまだ分からない。ただ最近は、別のことも考えるようになっていた。
私は、どうして佐野に耳かきをしてもらうのだろう。
最初は、断るタイミングを失ったからだった。二回目は、理由を知りたかったから。三回目は、彼女の異常な常識を確かめたかったから。
では、来週は?
私はカレンダーを見た。次の日曜日には、何の予定も入っていない。予定がない、と思った。
いや。一つあった。
午後三時。
佐野が耳かきをしに来る。
私はスマホを開き、予定を登録した。
『佐野さん 耳かき』
登録してから、しばらく画面を見つめていた。いつの間にか、私もそれを、普通の予定として扱っていた。理由は分からない。
ただ、来週も彼女は来るだろう。そして私は、ドアを開けるだろう。彼女は言う。
「こんにちは、先輩。耳かきしますね」
私はきっと、こう答える。
「うん。ありがとう」
そのときには、もう「なんで?」とは聞かない気がした。




