第二十六話
翌朝。
王立グランセル魔導学園の空は、少しだけ暗かった。
雲が厚いわけではない。
雨の匂いがするほどでもない。
ただ、太陽の光が薄い膜に遮られているように弱く、校舎の石壁も中庭の芝も、昨日より一段だけ色を落として見えた。
噴水の水音だけは変わらない。
静かに跳ねて、静かに落ちる。
けれど、その音すら今日は少し遠く聞こえる。
レオン・ヴォルツは寮を出る前、机の上の手帳をもう一度見た。
昨夜、最後に書いた言葉。
誰かと勝つ喜びは、誰かに奪われる恐怖も連れてくる。
それでも、一人で勝つだけの日々には、もう完全には戻れない。
読み返して、胸の奥が少し重くなる。
一人で勝つだけの日々。
それは、以前のレオンにとって当然のものだった。
自分が前に出る。
自分が判断する。
自分が結果を出す。
そして周囲はそれを評価する。
それでよかった。
それで足りていた。
だが今は違う。
フィーネの声を待つ。
ユーリスの判断を受ける。
アルトの支援を使う。
ハルトの変化を見る。
自分以外の動きが、自分の勝利の中に入ってくる。
それを知ってしまった。
だからもう、完全には戻れない。
戻りたいとも、思えない。
だが。
戻れない場所へ進むほど、背中には別の視線が増えていく。
エリシアの不安。
貴族生徒たちの違和感。
上位クラスとしての立場。
伯爵家の次男としての誇り。
本来守るべきもの。
それらは消えていない。
むしろ、第五班が強くなるほど、強く主張してくる。
レオンは手帳を閉じた。
制服の襟元を整える。
鏡の中の自分は、いつもの自分だった。
灰色の制服。
銀糸の徽章。
乱れのない髪。
上位クラスにふさわしい姿。
けれど、内側では何かが少しずつ変わり続けている。
その変化が、今日も誰かの目に触れるのだろう。
そう思うと、少しだけ息苦しかった。
◆
中庭へ向かうと、アルト・レイヴンが先にいた。
珍しい。
いつもは少し慌てて走ってくることが多い。
今日は噴水の近くに立ち、手帳を開いていた。
朝の光の中で、真剣に文字を見返している。
レオンが近づくと、アルトはすぐに顔を上げた。
「おはようございます」
声量は、もうほとんど安定している。
大きすぎない。
小さすぎない。
ちゃんと届く声。
「おはよう」
レオンが返すと、アルトは少しだけ笑った。
その笑顔も、前より落ち着いている。
「早いな」
「昨日のこと、もう一度読み返したくて」
「個別評価か」
「はい」
アルトは手帳を見下ろす。
「風、評価。土、評価。水、広い。俺は戦力」
少し恥ずかしそうに読み上げる。
最後の一文で、耳が少し赤くなった。
「書いたのか」
「はい」
「良い」
短く言うと、アルトは嬉しそうに頷いた。
だが、その表情はすぐに少しだけ曇る。
「でも」
「何だ」
「昨日、部屋に戻る途中で言われました」
レオンの視線が少し鋭くなる。
「何を」
「教師がわざわざ個別評価を出したのは、第五班を庇うためだって」
静かな声だった。
怒りよりも、困惑が混じっている。
「本当はレオンさんの力が大きいのに、平民特待生にも成果を分けたかったんだろうって」
レオンは黙った。
予想していなかったわけではない。
だが、実際に聞くと胸の奥が冷える。
正しく評価された。
教師が記録した。
アルトの支援は有効だった。
フィーネの判断も、ユーリスの報告も、記録された。
それでも。
受け取る側が歪めれば、評価すら別の意味に変えられる。
「それを聞いて、どう思った」
レオンは聞いた。
アルトは少し考える。
「最初は、やっぱりそう見えるのかなって思いました」
「今は」
「今は……手帳を見てます」
アルトは手帳を軽く握る。
「教師の評価も、レオンさんたちの言葉も、俺が実際に動いたことも、ここに書いてあるので」
一拍。
「外の声だけで、消したくないです」
その言葉に、レオンは少しだけ目を細めた。
アルトは、確かに強くなっている。
ただ魔法支援が上手くなったわけではない。
声量が整っただけでもない。
自分の中に、戻る場所を作り始めている。
外の声に揺れても、手帳を見れば戻れる。
自分の記録に戻れる。
それは大きい。
「良い判断だ」
レオンが言う。
アルトは少し照れたように笑う。
「ありがとうございます」
「だが、完全に一人で抱えるな」
「はい」
「揺れたら言え」
「はい」
アルトは頷いた。
その返事は素直だった。
以前なら、申し訳なさそうに俯いていたかもしれない。
今は、ちゃんと受け取っている。
◆
そこへ、フィーネ・ルークとユーリス・ベルクがほぼ同時にやってきた。
フィーネは少し息を切らしている。
ユーリスはいつも通り軽い足取りだが、目は周囲を確認していた。
「おはようございます」
「ああ」
「おはよう」
「おはようございます」
四人が揃う。
その瞬間、近くを歩いていた何人かの生徒の視線がこちらへ向く。
もう珍しい光景ではないはずだ。
それでも、見られる。
第五班が朝から一緒にいる。
それだけで、誰かの口が動く。
「今日も集まってる」
「完全に固定だな」
「アルト、調子戻った?」
「昨日、個別評価出たらしいぞ」
「教師もあからさまだよな」
最後の声が、少しだけ大きかった。
アルトの肩が動く。
フィーネの表情も硬くなる。
ユーリスの目が細くなる。
レオンは振り返らない。
だが、足を止めた。
止めるつもりはなかった。
しかし、止まっていた。
フィーネが小さく言う。
「レオンさん」
その声で、レオンは息を整える。
ここで反応すれば、相手の思う形になる。
噂を相手に剣は振れない。
教師の言葉が戻る。
レオンは前を向いたまま言った。
「課題を見る」
三人が頷く。
歩き出す。
だが、胸の奥の怒りは消えない。
個別評価まで、歪められる。
正しい記録さえ、受け取る側次第で疑われる。
それは、想像以上に厄介だった。
ユーリスが歩きながら小声で言う。
「今日は昨日より濃いな」
「ああ」
「評価が出たからだ」
フィーネが静かに言った。
「誰が何をしたか、はっきりしたから……逆に認めたくない人もいるんだと思います」
その分析は正しい。
フィーネらしい見方だった。
アルトが手帳を鞄にしまいながら言う。
「俺、今日はちゃんと動きます」
「いつも動いている」
レオンが言う。
「でも、今日は特に」
「意識しすぎるな」
ユーリスが軽く言う。
「見返そうとして力むと、風がまた強くなるぞ」
「あ……」
アルトが真剣に頷く。
「気をつけます」
フィーネが柔らかく言う。
「いつも通り、課題を見ましょう」
「はい」
四人は歩く。
周囲の声は消えない。
けれど、歩みは止まらない。
◆
上位クラスの教室へ入ると、空気は昨日よりさらに重かった。
表面上は静かだ。
だが、その静けさの下に、いくつもの感情が沈んでいる。
好奇心。
嫉妬。
警戒。
不満。
そして、少しの恐れ。
第五班が成長している。
それはもう、ただの噂ではない。
教師の評価として形になり始めている。
だからこそ、反発も形を持ち始めていた。
レオンが席へ向かう途中、第三班の前衛役――昨日の対抗連携戦で戦った上位生が、こちらを見ていた。
名はカイル・ローダン。
男爵家の長男。
剣術成績は上位中位。
プライドが高く、上位クラス内でも“正統派”を自認している生徒だ。
カイルは、レオンと目が合うと薄く笑った。
「おはよう、ヴォルツ」
「ああ」
「昨日は、ずいぶん丁寧な評価をもらっていたな」
教室の空気が止まる。
フィーネが少し緊張する。
ユーリスは無言。
アルトは、少し後ろで背筋を伸ばしていた。
「教師の評価だ」
レオンは短く返す。
「そうだな。教師の評価だ」
カイルは笑みを崩さない。
「だが、最近は教師も随分と平等だ。平民特待生にも、ずいぶん目を向ける」
その言葉に、アルトの表情がわずかに揺れる。
レオンは一歩、前へ出そうになった。
だが、止まる。
言葉を選ぶ。
「目を向けられるだけの動きをした」
カイルの笑みが少し薄くなる。
「君がそう言うなら、そうなんだろう」
「そうだ」
沈黙。
かなり重い沈黙だった。
カイルは少しだけ目を細める。
「変わったな、ヴォルツ」
「最近よく言われる」
「良い意味ばかりではないと思うが」
「それも理解している」
カイルは少し驚いたようだった。
以前のレオンなら、ここで鋭く返していただろう。
だが今は、受け取った上で立っている。
それが、カイルには余計に気に入らなかったらしい。
「次の演習で、また当たるといいな」
「課題次第だ」
「いや」
カイルは声を低くする。
「君の班が、本当に君以外でも強いのか、もう一度見たい」
挑発。
明確な挑発だった。
レオンは静かに返す。
「見ればいい」
カイルの眉が少し動く。
「逃げないんだな」
「逃げる理由がない」
教室の空気がさらに張る。
そこで、横から声が入った。
「朝から面倒なことをしているな」
ハルト・グレイナーだった。
彼は不機嫌そうにカイルを見る。
「ローダン。負けた悔しさを口で晴らすな」
カイルの顔が少し歪む。
「グレイナー。君には関係ない」
「ある」
ハルトは即答した。
「お前がくだらない空気を作ると、演習がつまらなくなる」
「つまらない?」
「そうだ。勝つなら訓練棟で勝て」
昨日と似た言葉。
だが、今日のハルトはさらに強かった。
「俺も第五班に負けた。だから次は課題で超える。それだけだ」
教室が静まる。
ハルトが自分の敗北を普通に口にした。
それは、上位クラスの生徒たちにとって小さくない衝撃だった。
カイルは黙る。
そして、少しだけ笑った。
「君も変わったな、グレイナー」
「うるさい」
ハルトは吐き捨てる。
「変わって何が悪い」
その一言は、教室に強く響いた。
レオンはハルトを見る。
ハルトは視線を逸らす。
「見るな」
「助かった」
「だから素直に言うな!」
少しだけ、空気が緩んだ。
だが、カイルの視線の棘は消えなかった。
◆
一限目。
教師は黒板へ書いた。
評価と受容。
その文字を見た瞬間、レオンは小さく息を吐いた。
今日も、まるで教室の空気を見ているような題目だった。
「評価は、出す側と受け取る側の二つがある」
教師が言う。
「正しく評価しても、正しく受け取られるとは限らない」
教室は静まり返る。
今朝のやり取りを見ていた生徒たちには、その言葉が重く響いたはずだ。
「誰かの成果を認めたくない者は、評価そのものを疑う」
「自分の敗北を認めたくない者は、相手の成果を別の理由にする」
「逆に、評価された側も、周囲の声で自分の成果を疑う」
アルトが、わずかに手元を握った。
レオンはそれに気づく。
「今日の課題は、評価をどう受け取るかだ」
教師はチョークを置いた。
「ヴォルツ」
「はい」
レオンは立ち上がる。
「班員が正当に評価されたにもかかわらず、周囲からそれを否定された場合、どうする」
まさに今朝の話だった。
レオンは一度、アルトを見る。
アルトは真剣にこちらを見ていた。
「記録と実際の動きを確認します」
「昨日と似た答えだな」
「はい」
レオンは続ける。
「ただ、今日はもう一つあります」
「何だ」
「評価された本人が、その評価を受け取れるようにすることです」
教室が静かになる。
「周囲を黙らせることより、本人が自分の成果を手放さないことの方が重要です」
一拍。
「外から否定されても、自分で受け取れていれば、次に繋がります」
教師はしばらくレオンを見た。
そして頷く。
「良い答えだ」
短い評価。
「評価は、与えられるだけでは足りない。受け取る力も必要だ」
教師は全体を見る。
「そして、他者の評価を受け入れる力も必要だ。そこを怠る者は、いずれ自分の評価も正しく受け取れなくなる」
カイルが、わずかに視線を逸らした。
ハルトは前を向いたまま、黙って聞いている。
レオンは座りながら、胸の奥に言葉を刻んだ。
評価を受け取る力。
それは、今の第五班に必要なものだった。
◆
第一訓練棟。
今日の課題は、役割入替型の班対抗演習だった。
各班は対抗形式で標識を奪い合う。
ただし、演習開始直前に役割札が配られる。
前衛。
支援。
指示。
標識保持。
妨害。
普段得意な役割とは違うものを引く可能性がある。
班としての柔軟性と、個別能力の受け取り方を測る課題だった。
第五班の相手は――第三班。
周囲がざわついた。
カイルが笑う。
予想通り、とでも言いたげな顔だった。
レオンは静かに受け止める。
教師が役割札を配る。
第五班。
レオン――妨害。
フィーネ――指示。
ユーリス――標識保持。
アルト――支援。
悪くない。
むしろ、今の第五班には慣れ始めた形に近い。
ただし、レオンが前衛ではなく妨害。
相手を倒すのではなく、進路や判断を乱す役。
第三班の役割も発表される。
カイル――前衛。
魔法型二人――支援と妨害。
残り二人が指示と標識保持。
正統派構成に近い。
カイルがこちらを見る。
「今日こそ、君が全部やるわけにはいかないな」
「昨日も全部はやっていない」
レオンは返す。
「そうだったな」
カイルは笑う。
「では、確かめよう」
◆
開始前。
第五班は短く作戦を立てる。
フィーネが指示役。
これは大きい。
彼女が周囲を見て、レオンやアルトへ指示を出す必要がある。
ユーリスは標識保持。
得意ではあるが、今回は第三班の妨害が強い。
アルトは支援。
支援として評価された直後だからこそ、周囲の目が向く。
レオンは妨害。
攻めすぎれば役割から外れる。
「フィーネ」
レオンが言う。
「はい」
「今日はお前が流れを見る」
「……はい」
「迷っても出せ」
「はい」
「ユーリス」
「標識は落とさない。でも無理はしすぎない、だろ」
「ああ」
「わかってる」
「アルト」
「はい」
「支援は記録された。だからといって見せようとするな」
アルトが少し息を呑む。
「課題に必要な分だけ出せ」
「はい」
「俺は妨害に回る。倒せる場面でも倒さない」
ユーリスが笑う。
「それ、最近のレオンならできそうだな」
「できるようにする」
フィーネが小さく頷く。
「行きましょう」
彼女の声は少し震えていた。
けれど、前へ出ていた。
◆
演習開始。
中央に標識二つ。
第三班が素早く展開する。
カイルが前へ出る。
速い。
剣筋は素直で、強い。
昨日の敗北を受けて、さらに集中している。
レオンは正面からぶつからない。
妨害役として、カイルの進路をずらす。
木剣を交える。
打ち勝てる。
だが、打ち勝たない。
カイルの足を止めるだけ。
カイルが苛立つ。
「正面から来ないのか?」
「役割が違う」
「便利な言葉だ」
「課題だ」
一方、フィーネが声を出す。
「ユーリスさん、左標識へ。アルトさん、右の魔法型に水を薄く」
「了解」
「はい!」
アルトの水。
少し広いが、魔法型の足元を乱すには十分。
ユーリスが左標識へ向かう。
第三班の妨害役が風を飛ばす。
ユーリスの足が止まりかける。
フィーネがすぐ叫ぶ。
「アルトさん、風で相殺しないでください! ユーリスさんの足元を支えて!」
「はい!」
良い指示だった。
アルトは相手の風を直接潰すのではなく、ユーリスの踏み込みを支える風を出す。
ユーリスが崩れず進む。
標識を確保。
周囲がざわつく。
「今のフィーネの指示良かった」
「アルトも反応した」
「ユーリスも速い」
レオンはカイルを抑えながら、その声を聞いた。
悪くない。
いや、良い。
フィーネが流れを作っている。
アルトが支えている。
ユーリスが進んでいる。
自分が握っていなくても、動いている。
カイルが歯を食いしばる。
「……君の班は、本当に面倒だな」
「褒め言葉として受け取る」
「褒めていない!」
カイルが攻める。
レオンは流す。
倒さない。
止める。
◆
第三班も簡単には崩れない。
彼らは標識一つを確保し、中央でぶつかる形になった。
残り一つの標識。
ここで勝敗が決まる。
フィーネが状況を見る。
少し迷う。
カイルの圧。
第三班の魔法支援。
ユーリスの位置。
アルトの支援残り。
情報が多い。
声が遅れかける。
周囲から声が飛ぶ。
「フィーネ、止まった」
「指示役は重いか」
フィーネの顔が少し硬くなる。
レオンは声を出しそうになる。
だが、待った。
今はフィーネの主導だ。
彼女が自分で戻れるか。
フィーネは一度、息を吸った。
「……見えています」
小さく呟く。
そして、声を張る。
「アルトさん、中央標識の手前に土。止めるんじゃなくて、踏み込みを遅らせてください!」
「はい!」
「ユーリスさん、標識を持ったまま右へ。レオンさんはカイルさんを中央から外してください!」
「了解」
「ああ」
指示が通る。
アルトの土が中央標識の手前に走る。
第三班の前衛が踏み込みを遅らせる。
レオンはカイルの剣を受け、右ではなく左へ流す。
カイルが中央から外れる。
ユーリスが右へ抜ける。
標識へ手を伸ばす。
だが、第三班の魔法型が光弾を撃つ。
ユーリスが避ければ標識を取れない。
フィーネが叫ぶ。
「アルトさん、火を薄く! 視線を切って!」
「はい!」
火が揺れる。
薄い。
良い。
光弾の感知が乱れる。
ユーリスが標識を掴む。
鐘が鳴る。
演習終了。
第五班、標識二つ確保。
勝利。
◆
訓練棟が大きくどよめいた。
第三班に連勝。
しかも今回は、レオンが前衛ではない。
フィーネが指示役を担い、アルトの支援が機能し、ユーリスが標識を確保した。
レオンは妨害役としてカイルを抑えた。
誰か一人の成果ではない。
まさに、それを示す勝利だった。
教師が近づいてくる。
「第五班。評価、上」
四人が息を吐く。
「役割遂行が良い。特にルーク」
フィーネが背筋を伸ばす。
「指示役として迷いはあったが、自分で戻った。中央標識前の土指示、最後の火指示、いずれも有効」
「はい」
フィーネの声は震えていたが、嬉しさもあった。
「レイヴン。支援は良い。特に最後の火は適切。見せるためではなく、課題に必要な分だけ出せていた」
「はい!」
「声は少し大きい」
「あ、はい」
小さな笑い。
「ベルク。標識保持、判断良。ヴォルツ。妨害役として前に出すぎず、カイルを中央から外した判断は良い」
「はい」
教師は次に第三班を見る。
「第三班。評価、中の上。個々の動きは悪くないが、相手の役割変更に対応しきれていない。ローダン、ヴォルツとの個人戦に引っ張られた」
カイルの顔が歪む。
「はい」
返事はした。
だが、納得はしていない顔だった。
教師は淡々と続ける。
「班で勝つとは、誰かの力を消すことではない。誰かの力を成果へ繋げることだ」
その言葉は、訓練棟全体へ響いた。
◆
演習後。
フィーネはしばらく黙っていた。
アルトが手帳を出しかけ、またしまう。
ユーリスが笑う。
「食後な」
「はい」
アルトは素直に頷く。
レオンはフィーネを見る。
「フィーネ」
「はい」
「良い指示だった」
フィーネの目が揺れる。
「……ありがとうございます」
「特に中央標識前の土」
「はい」
「俺ではなく、アルトの支援を軸にした判断だった」
「そう、ですね」
フィーネは少しだけ目を伏せる。
「私、最初はレオンさんをどう動かすかばかり考えていました。でも途中で、アルトさんの支援を使った方がいいと思って」
「正しい」
レオンは頷く。
「今日の流れは、お前が作った」
フィーネの頬が赤くなる。
ユーリスが横から言う。
「これは手帳に大きく書くやつだな」
フィーネが慌てる。
「そ、そこまでは」
「書け」
レオンが言う。
フィーネが目を丸くする。
「え」
「自分の成果を受け取る力も必要だ」
教師の言葉をそのまま返した。
フィーネは少しだけ黙り、それから柔らかく笑った。
「……はい。書きます」
◆
昼休み。
食堂はまた騒がしかった。
「第五班、また第三班に勝ったぞ」
「しかもレオン、前衛じゃなかったらしい」
「フィーネが指示役?」
「アルトの支援も良かったって」
「これ、もうレオンだけの班じゃないな」
「第五班、普通に強い」
今度の噂は、少し違っていた。
疑いだけではなく、認めざるを得ない空気が混ざり始めている。
だが、完全に好意的ではない。
「第三班、連敗か」
「カイル、かなり悔しそうだったな」
「そりゃそうだろ」
「上位正統派が、平民特待生入りの班に二回負けたんだから」
「荒れるぞ、これ」
荒れる。
その言葉が、レオンの耳に残った。
勝った。
だが、それで終わりではない。
勝つほど、相手の感情も動く。
正しく評価されたはずなのに、正しく受け取られるとは限らない。
今日の題目が、また胸に戻る。
第五班の席で、四人は食後に手帳を開いた。
アルトは、火、適切。見せるためじゃなく必要な分、と書いた。
フィーネは、中央標識前の土指示。流れを作れた、と書いた。
ユーリスは、標識保持。フィーネの指示を信じて右へ、と書いた。
レオンは、妨害役。倒さず外す。主導を渡す、と書いた。
それぞれが書いている。
それぞれが受け取っている。
その光景は、少し不思議だった。
温かい。
けれど、やはり少し怖い。
◆
放課後。
訓練棟の外で、カイル・ローダンがレオンを待っていた。
夕方の光が、彼の顔に影を作っている。
第三班の生徒たちは少し離れた場所にいる。
カイルは一人で立っていた。
「ヴォルツ」
「何だ」
「次は、個人でやろう」
その言葉に、空気が固まる。
フィーネが息を呑む。
アルトが目を見開く。
ユーリスの表情が消える。
「合同課題とは別だ」
カイルは言う。
「君と俺で、純粋に剣を比べる」
レオンは静かに見る。
「理由は」
「班では負けた」
カイルの声は低い。
「だが、君自身が俺より上だと認めたわけではない」
おかしな理屈だ。
だが、感情としてはわからなくもない。
班で負けた。
だから個人で取り返したい。
それは、以前のレオンなら理解しやすい感情だった。
だが今は、少し違う。
「今は合同課題期間だ」
レオンは答えた。
「私闘なら受けない」
カイルの顔が歪む。
「逃げるのか」
「違う」
「なら受けろ」
「教師の許可がある正式な模擬戦なら考える」
カイルは黙る。
その沈黙は怒りを含んでいた。
「随分と慎重になったな」
「必要な判断だ」
「班に守られるようになって、剣まで鈍ったか?」
その言葉に、アルトが一歩出かけた。
ユーリスが肩を軽く押さえる。
フィーネも口を開きかける。
だが、レオンが手で制した。
「挑発なら足りない」
静かに言う。
カイルの目が鋭くなる。
「……いいだろう。教師に申請する」
「そうしろ」
「君が本当に変わったのか、ただ鈍っただけなのか、確かめてやる」
カイルはそう言って去っていった。
残された第五班の空気は重い。
ユーリスが小さく息を吐く。
「火種、来たな」
「ああ」
レオンは答える。
フィーネが不安そうに見る。
「受けるんですか」
「正式な模擬戦ならな」
「……怖いです」
正直な言葉だった。
レオンはフィーネを見る。
「俺が負けると思うか」
「そうじゃありません」
フィーネは首を振る。
「レオンさんがまた、一人で勝つ場所に引き戻される気がして」
その言葉は、胸に深く刺さった。
一人で勝つ場所。
戻れないと思っていた場所。
だが、相手はそこへ引き戻そうとしている。
レオンの価値を、個人の勝敗だけで測ろうとしている。
そして、もしレオンが乗れば。
第五班で積んできたものが、少し揺れるかもしれない。
レオンは静かに言った。
「戻らない」
フィーネが顔を上げる。
「個人戦をしても、第五班で得たものは消えない」
一拍。
「消さない」
その言葉に、三人は黙った。
ユーリスが少し笑う。
「なら、ちゃんと見てるよ」
「見る?」
「レオンが戻らないか」
アルトも頷く。
「俺も見ます」
フィーネも、ゆっくり頷いた。
「私も」
レオンは三人を見る。
不思議だった。
以前なら、誰かに見られることは評価の圧だった。
今は違う。
三人に見られることが、少しだけ支えになる。
「……そうか」
短く答える。
◆
夜。
学生寮の部屋。
レオンは手帳を開いた。
今日の記録を書く。
評価と受容。
正しく評価されたはずなのに、正しく受け取られるとは限らない。
アルト。
外の声だけで、自分の成果を消したくない。
俺は戦力。
フィーネ。
指示役。
中央標識前の土指示。
流れを作れた。
ユーリス。
標識保持。
フィーネの指示を信じた。
レオン。
妨害役。
倒さず外す。
主導を渡す。
第三班に勝利。
カイル。
個人戦要求。
教師へ正式申請予定。
フィーネの言葉。
一人で勝つ場所に引き戻される気がして怖い。
レオンはペンを止めた。
その言葉が、今日一番深く残っている。
一人で勝つ場所。
そこは、以前の自分の場所だ。
誇りもあった。
強さもあった。
間違いではなかった。
だが、今はもうそこだけでは足りない。
もし個人戦をするなら。
勝つ必要がある。
当然だ。
だが、それだけではない。
第五班で得たものを消さずに勝つ必要がある。
誰かと勝つことを知った自分のまま、一人で剣を振る必要がある。
それは、思ったより難しい。
レオンは最後に一行を書く。
正しく評価されたはずなのに、正しく受け取られるとは限らない。
その下に、もう一行。
だからこそ、自分で受け取ったものを、誰かの声で手放してはいけない。
ペンを置く。
窓の外は夜。
学園の灯りが揺れている。
明日、カイルが正式に模擬戦を申請するかもしれない。
そうなれば、また空気が変わる。
第五班の話題から、レオン個人の強さへ。
周囲は見たがるだろう。
レオンが本当に鈍ったのか。
変わったのか。
それとも、以前より強くなったのか。
レオンは手帳を閉じた。
一人で勝つだけの日々には戻れない。
だが、一人で剣を振らなければならない時もある。
その時。
自分は何を背負って立つのか。
答えはまだ完全には出ていない。
けれど、ひとつだけ決めている。
第五班で得たものを、消さない。
そのまま剣を握る。
たとえ誰かが、それを弱さと呼んでも。
自分はもう、それを弱さだとは思えないから。




