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無銘の剣と灰色の制服  作者: 伊佐波瑞樹


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第二十六話 


 翌朝。


 王立グランセル魔導学園の空は、少しだけ暗かった。


 雲が厚いわけではない。


 雨の匂いがするほどでもない。


 ただ、太陽の光が薄い膜に遮られているように弱く、校舎の石壁も中庭の芝も、昨日より一段だけ色を落として見えた。


 噴水の水音だけは変わらない。


 静かに跳ねて、静かに落ちる。


 けれど、その音すら今日は少し遠く聞こえる。


 レオン・ヴォルツは寮を出る前、机の上の手帳をもう一度見た。


 昨夜、最後に書いた言葉。


 誰かと勝つ喜びは、誰かに奪われる恐怖も連れてくる。


 それでも、一人で勝つだけの日々には、もう完全には戻れない。


 読み返して、胸の奥が少し重くなる。


 一人で勝つだけの日々。


 それは、以前のレオンにとって当然のものだった。


 自分が前に出る。


 自分が判断する。


 自分が結果を出す。


 そして周囲はそれを評価する。


 それでよかった。


 それで足りていた。


 だが今は違う。


 フィーネの声を待つ。


 ユーリスの判断を受ける。


 アルトの支援を使う。


 ハルトの変化を見る。


 自分以外の動きが、自分の勝利の中に入ってくる。


 それを知ってしまった。


 だからもう、完全には戻れない。


 戻りたいとも、思えない。


 だが。


 戻れない場所へ進むほど、背中には別の視線が増えていく。


 エリシアの不安。


 貴族生徒たちの違和感。


 上位クラスとしての立場。


 伯爵家の次男としての誇り。


 本来守るべきもの。


 それらは消えていない。


 むしろ、第五班が強くなるほど、強く主張してくる。


 レオンは手帳を閉じた。


 制服の襟元を整える。


 鏡の中の自分は、いつもの自分だった。


 灰色の制服。


 銀糸の徽章。


 乱れのない髪。


 上位クラスにふさわしい姿。


 けれど、内側では何かが少しずつ変わり続けている。


 その変化が、今日も誰かの目に触れるのだろう。


 そう思うと、少しだけ息苦しかった。


    ◆


 中庭へ向かうと、アルト・レイヴンが先にいた。


 珍しい。


 いつもは少し慌てて走ってくることが多い。


 今日は噴水の近くに立ち、手帳を開いていた。


 朝の光の中で、真剣に文字を見返している。


 レオンが近づくと、アルトはすぐに顔を上げた。


「おはようございます」


 声量は、もうほとんど安定している。


 大きすぎない。


 小さすぎない。


 ちゃんと届く声。


「おはよう」


 レオンが返すと、アルトは少しだけ笑った。


 その笑顔も、前より落ち着いている。


「早いな」


「昨日のこと、もう一度読み返したくて」


「個別評価か」


「はい」


 アルトは手帳を見下ろす。


「風、評価。土、評価。水、広い。俺は戦力」


 少し恥ずかしそうに読み上げる。


 最後の一文で、耳が少し赤くなった。


「書いたのか」


「はい」


「良い」


 短く言うと、アルトは嬉しそうに頷いた。


 だが、その表情はすぐに少しだけ曇る。


「でも」


「何だ」


「昨日、部屋に戻る途中で言われました」


 レオンの視線が少し鋭くなる。


「何を」


「教師がわざわざ個別評価を出したのは、第五班を庇うためだって」


 静かな声だった。


 怒りよりも、困惑が混じっている。


「本当はレオンさんの力が大きいのに、平民特待生にも成果を分けたかったんだろうって」


 レオンは黙った。


 予想していなかったわけではない。


 だが、実際に聞くと胸の奥が冷える。


 正しく評価された。


 教師が記録した。


 アルトの支援は有効だった。


 フィーネの判断も、ユーリスの報告も、記録された。


 それでも。


 受け取る側が歪めれば、評価すら別の意味に変えられる。


「それを聞いて、どう思った」


 レオンは聞いた。


 アルトは少し考える。


「最初は、やっぱりそう見えるのかなって思いました」


「今は」


「今は……手帳を見てます」


 アルトは手帳を軽く握る。


「教師の評価も、レオンさんたちの言葉も、俺が実際に動いたことも、ここに書いてあるので」


 一拍。


「外の声だけで、消したくないです」


 その言葉に、レオンは少しだけ目を細めた。


 アルトは、確かに強くなっている。


 ただ魔法支援が上手くなったわけではない。


 声量が整っただけでもない。


 自分の中に、戻る場所を作り始めている。


 外の声に揺れても、手帳を見れば戻れる。


 自分の記録に戻れる。


 それは大きい。


「良い判断だ」


 レオンが言う。


 アルトは少し照れたように笑う。


「ありがとうございます」


「だが、完全に一人で抱えるな」


「はい」


「揺れたら言え」


「はい」


 アルトは頷いた。


 その返事は素直だった。


 以前なら、申し訳なさそうに俯いていたかもしれない。


 今は、ちゃんと受け取っている。


    ◆


 そこへ、フィーネ・ルークとユーリス・ベルクがほぼ同時にやってきた。


 フィーネは少し息を切らしている。


 ユーリスはいつも通り軽い足取りだが、目は周囲を確認していた。


「おはようございます」


「ああ」


「おはよう」


「おはようございます」


 四人が揃う。


 その瞬間、近くを歩いていた何人かの生徒の視線がこちらへ向く。


 もう珍しい光景ではないはずだ。


 それでも、見られる。


 第五班が朝から一緒にいる。


 それだけで、誰かの口が動く。


「今日も集まってる」

「完全に固定だな」

「アルト、調子戻った?」

「昨日、個別評価出たらしいぞ」

「教師もあからさまだよな」


 最後の声が、少しだけ大きかった。


 アルトの肩が動く。


 フィーネの表情も硬くなる。


 ユーリスの目が細くなる。


 レオンは振り返らない。


 だが、足を止めた。


 止めるつもりはなかった。


 しかし、止まっていた。


 フィーネが小さく言う。


「レオンさん」


 その声で、レオンは息を整える。


 ここで反応すれば、相手の思う形になる。


 噂を相手に剣は振れない。


 教師の言葉が戻る。


 レオンは前を向いたまま言った。


「課題を見る」


 三人が頷く。


 歩き出す。


 だが、胸の奥の怒りは消えない。


 個別評価まで、歪められる。


 正しい記録さえ、受け取る側次第で疑われる。


 それは、想像以上に厄介だった。


 ユーリスが歩きながら小声で言う。


「今日は昨日より濃いな」


「ああ」


「評価が出たからだ」


 フィーネが静かに言った。


「誰が何をしたか、はっきりしたから……逆に認めたくない人もいるんだと思います」


 その分析は正しい。


 フィーネらしい見方だった。


 アルトが手帳を鞄にしまいながら言う。


「俺、今日はちゃんと動きます」


「いつも動いている」


 レオンが言う。


「でも、今日は特に」


「意識しすぎるな」


 ユーリスが軽く言う。


「見返そうとして力むと、風がまた強くなるぞ」


「あ……」


 アルトが真剣に頷く。


「気をつけます」


 フィーネが柔らかく言う。


「いつも通り、課題を見ましょう」


「はい」


 四人は歩く。


 周囲の声は消えない。


 けれど、歩みは止まらない。


    ◆


 上位クラスの教室へ入ると、空気は昨日よりさらに重かった。


 表面上は静かだ。


 だが、その静けさの下に、いくつもの感情が沈んでいる。


 好奇心。


 嫉妬。


 警戒。


 不満。


 そして、少しの恐れ。


 第五班が成長している。


 それはもう、ただの噂ではない。


 教師の評価として形になり始めている。


 だからこそ、反発も形を持ち始めていた。


 レオンが席へ向かう途中、第三班の前衛役――昨日の対抗連携戦で戦った上位生が、こちらを見ていた。


 名はカイル・ローダン。


 男爵家の長男。


 剣術成績は上位中位。


 プライドが高く、上位クラス内でも“正統派”を自認している生徒だ。


 カイルは、レオンと目が合うと薄く笑った。


「おはよう、ヴォルツ」


「ああ」


「昨日は、ずいぶん丁寧な評価をもらっていたな」


 教室の空気が止まる。


 フィーネが少し緊張する。


 ユーリスは無言。


 アルトは、少し後ろで背筋を伸ばしていた。


「教師の評価だ」


 レオンは短く返す。


「そうだな。教師の評価だ」


 カイルは笑みを崩さない。


「だが、最近は教師も随分と平等だ。平民特待生にも、ずいぶん目を向ける」


 その言葉に、アルトの表情がわずかに揺れる。


 レオンは一歩、前へ出そうになった。


 だが、止まる。


 言葉を選ぶ。


「目を向けられるだけの動きをした」


 カイルの笑みが少し薄くなる。


「君がそう言うなら、そうなんだろう」


「そうだ」


 沈黙。


 かなり重い沈黙だった。


 カイルは少しだけ目を細める。


「変わったな、ヴォルツ」


「最近よく言われる」


「良い意味ばかりではないと思うが」


「それも理解している」


 カイルは少し驚いたようだった。


 以前のレオンなら、ここで鋭く返していただろう。


 だが今は、受け取った上で立っている。


 それが、カイルには余計に気に入らなかったらしい。


「次の演習で、また当たるといいな」


「課題次第だ」


「いや」


 カイルは声を低くする。


「君の班が、本当に君以外でも強いのか、もう一度見たい」


 挑発。


 明確な挑発だった。


 レオンは静かに返す。


「見ればいい」


 カイルの眉が少し動く。


「逃げないんだな」


「逃げる理由がない」


 教室の空気がさらに張る。


 そこで、横から声が入った。


「朝から面倒なことをしているな」


 ハルト・グレイナーだった。


 彼は不機嫌そうにカイルを見る。


「ローダン。負けた悔しさを口で晴らすな」


 カイルの顔が少し歪む。


「グレイナー。君には関係ない」


「ある」


 ハルトは即答した。


「お前がくだらない空気を作ると、演習がつまらなくなる」


「つまらない?」


「そうだ。勝つなら訓練棟で勝て」


 昨日と似た言葉。


 だが、今日のハルトはさらに強かった。


「俺も第五班に負けた。だから次は課題で超える。それだけだ」


 教室が静まる。


 ハルトが自分の敗北を普通に口にした。


 それは、上位クラスの生徒たちにとって小さくない衝撃だった。


 カイルは黙る。


 そして、少しだけ笑った。


「君も変わったな、グレイナー」


「うるさい」


 ハルトは吐き捨てる。


「変わって何が悪い」


 その一言は、教室に強く響いた。


 レオンはハルトを見る。


 ハルトは視線を逸らす。


「見るな」


「助かった」


「だから素直に言うな!」


 少しだけ、空気が緩んだ。


 だが、カイルの視線の棘は消えなかった。


    ◆


 一限目。


 教師は黒板へ書いた。


 評価と受容。


 その文字を見た瞬間、レオンは小さく息を吐いた。


 今日も、まるで教室の空気を見ているような題目だった。


「評価は、出す側と受け取る側の二つがある」


 教師が言う。


「正しく評価しても、正しく受け取られるとは限らない」


 教室は静まり返る。


 今朝のやり取りを見ていた生徒たちには、その言葉が重く響いたはずだ。


「誰かの成果を認めたくない者は、評価そのものを疑う」

「自分の敗北を認めたくない者は、相手の成果を別の理由にする」

「逆に、評価された側も、周囲の声で自分の成果を疑う」


 アルトが、わずかに手元を握った。


 レオンはそれに気づく。


「今日の課題は、評価をどう受け取るかだ」


 教師はチョークを置いた。


「ヴォルツ」


「はい」


 レオンは立ち上がる。


「班員が正当に評価されたにもかかわらず、周囲からそれを否定された場合、どうする」


 まさに今朝の話だった。


 レオンは一度、アルトを見る。


 アルトは真剣にこちらを見ていた。


「記録と実際の動きを確認します」


「昨日と似た答えだな」


「はい」


 レオンは続ける。


「ただ、今日はもう一つあります」


「何だ」


「評価された本人が、その評価を受け取れるようにすることです」


 教室が静かになる。


「周囲を黙らせることより、本人が自分の成果を手放さないことの方が重要です」


 一拍。


「外から否定されても、自分で受け取れていれば、次に繋がります」


 教師はしばらくレオンを見た。


 そして頷く。


「良い答えだ」


 短い評価。


「評価は、与えられるだけでは足りない。受け取る力も必要だ」


 教師は全体を見る。


「そして、他者の評価を受け入れる力も必要だ。そこを怠る者は、いずれ自分の評価も正しく受け取れなくなる」


 カイルが、わずかに視線を逸らした。


 ハルトは前を向いたまま、黙って聞いている。


 レオンは座りながら、胸の奥に言葉を刻んだ。


 評価を受け取る力。


 それは、今の第五班に必要なものだった。


    ◆


 第一訓練棟。


 今日の課題は、役割入替型の班対抗演習だった。


 各班は対抗形式で標識を奪い合う。


 ただし、演習開始直前に役割札が配られる。


 前衛。

 支援。

 指示。

 標識保持。

 妨害。


 普段得意な役割とは違うものを引く可能性がある。


 班としての柔軟性と、個別能力の受け取り方を測る課題だった。


 第五班の相手は――第三班。


 周囲がざわついた。


 カイルが笑う。


 予想通り、とでも言いたげな顔だった。


 レオンは静かに受け止める。


 教師が役割札を配る。


 第五班。


 レオン――妨害。

 フィーネ――指示。

 ユーリス――標識保持。

 アルト――支援。


 悪くない。


 むしろ、今の第五班には慣れ始めた形に近い。


 ただし、レオンが前衛ではなく妨害。


 相手を倒すのではなく、進路や判断を乱す役。


 第三班の役割も発表される。


 カイル――前衛。

 魔法型二人――支援と妨害。

 残り二人が指示と標識保持。


 正統派構成に近い。


 カイルがこちらを見る。


「今日こそ、君が全部やるわけにはいかないな」


「昨日も全部はやっていない」


 レオンは返す。


「そうだったな」


 カイルは笑う。


「では、確かめよう」


    ◆


 開始前。


 第五班は短く作戦を立てる。


 フィーネが指示役。


 これは大きい。


 彼女が周囲を見て、レオンやアルトへ指示を出す必要がある。


 ユーリスは標識保持。


 得意ではあるが、今回は第三班の妨害が強い。


 アルトは支援。


 支援として評価された直後だからこそ、周囲の目が向く。


 レオンは妨害。


 攻めすぎれば役割から外れる。


「フィーネ」


 レオンが言う。


「はい」


「今日はお前が流れを見る」


「……はい」


「迷っても出せ」


「はい」


「ユーリス」


「標識は落とさない。でも無理はしすぎない、だろ」


「ああ」


「わかってる」


「アルト」


「はい」


「支援は記録された。だからといって見せようとするな」


 アルトが少し息を呑む。


「課題に必要な分だけ出せ」


「はい」


「俺は妨害に回る。倒せる場面でも倒さない」


 ユーリスが笑う。


「それ、最近のレオンならできそうだな」


「できるようにする」


 フィーネが小さく頷く。


「行きましょう」


 彼女の声は少し震えていた。


 けれど、前へ出ていた。


    ◆


 演習開始。


 中央に標識二つ。


 第三班が素早く展開する。


 カイルが前へ出る。


 速い。


 剣筋は素直で、強い。


 昨日の敗北を受けて、さらに集中している。


 レオンは正面からぶつからない。


 妨害役として、カイルの進路をずらす。


 木剣を交える。


 打ち勝てる。


 だが、打ち勝たない。


 カイルの足を止めるだけ。


 カイルが苛立つ。


「正面から来ないのか?」


「役割が違う」


「便利な言葉だ」


「課題だ」


 一方、フィーネが声を出す。


「ユーリスさん、左標識へ。アルトさん、右の魔法型に水を薄く」


「了解」

「はい!」


 アルトの水。


 少し広いが、魔法型の足元を乱すには十分。


 ユーリスが左標識へ向かう。


 第三班の妨害役が風を飛ばす。


 ユーリスの足が止まりかける。


 フィーネがすぐ叫ぶ。


「アルトさん、風で相殺しないでください! ユーリスさんの足元を支えて!」


「はい!」


 良い指示だった。


 アルトは相手の風を直接潰すのではなく、ユーリスの踏み込みを支える風を出す。


 ユーリスが崩れず進む。


 標識を確保。


 周囲がざわつく。


「今のフィーネの指示良かった」

「アルトも反応した」

「ユーリスも速い」


 レオンはカイルを抑えながら、その声を聞いた。


 悪くない。


 いや、良い。


 フィーネが流れを作っている。


 アルトが支えている。


 ユーリスが進んでいる。


 自分が握っていなくても、動いている。


 カイルが歯を食いしばる。


「……君の班は、本当に面倒だな」


「褒め言葉として受け取る」


「褒めていない!」


 カイルが攻める。


 レオンは流す。


 倒さない。


 止める。


    ◆


 第三班も簡単には崩れない。


 彼らは標識一つを確保し、中央でぶつかる形になった。


 残り一つの標識。


 ここで勝敗が決まる。


 フィーネが状況を見る。


 少し迷う。


 カイルの圧。


 第三班の魔法支援。


 ユーリスの位置。


 アルトの支援残り。


 情報が多い。


 声が遅れかける。


 周囲から声が飛ぶ。


「フィーネ、止まった」

「指示役は重いか」


 フィーネの顔が少し硬くなる。


 レオンは声を出しそうになる。


 だが、待った。


 今はフィーネの主導だ。


 彼女が自分で戻れるか。


 フィーネは一度、息を吸った。


「……見えています」


 小さく呟く。


 そして、声を張る。


「アルトさん、中央標識の手前に土。止めるんじゃなくて、踏み込みを遅らせてください!」


「はい!」


「ユーリスさん、標識を持ったまま右へ。レオンさんはカイルさんを中央から外してください!」


「了解」

「ああ」


 指示が通る。


 アルトの土が中央標識の手前に走る。


 第三班の前衛が踏み込みを遅らせる。


 レオンはカイルの剣を受け、右ではなく左へ流す。


 カイルが中央から外れる。


 ユーリスが右へ抜ける。


 標識へ手を伸ばす。


 だが、第三班の魔法型が光弾を撃つ。


 ユーリスが避ければ標識を取れない。


 フィーネが叫ぶ。


「アルトさん、火を薄く! 視線を切って!」


「はい!」


 火が揺れる。


 薄い。


 良い。


 光弾の感知が乱れる。


 ユーリスが標識を掴む。


 鐘が鳴る。


 演習終了。


 第五班、標識二つ確保。


 勝利。


    ◆


 訓練棟が大きくどよめいた。


 第三班に連勝。


 しかも今回は、レオンが前衛ではない。


 フィーネが指示役を担い、アルトの支援が機能し、ユーリスが標識を確保した。


 レオンは妨害役としてカイルを抑えた。


 誰か一人の成果ではない。


 まさに、それを示す勝利だった。


 教師が近づいてくる。


「第五班。評価、上」


 四人が息を吐く。


「役割遂行が良い。特にルーク」


 フィーネが背筋を伸ばす。


「指示役として迷いはあったが、自分で戻った。中央標識前の土指示、最後の火指示、いずれも有効」


「はい」


 フィーネの声は震えていたが、嬉しさもあった。


「レイヴン。支援は良い。特に最後の火は適切。見せるためではなく、課題に必要な分だけ出せていた」


「はい!」


「声は少し大きい」


「あ、はい」


 小さな笑い。


「ベルク。標識保持、判断良。ヴォルツ。妨害役として前に出すぎず、カイルを中央から外した判断は良い」


「はい」


 教師は次に第三班を見る。


「第三班。評価、中の上。個々の動きは悪くないが、相手の役割変更に対応しきれていない。ローダン、ヴォルツとの個人戦に引っ張られた」


 カイルの顔が歪む。


「はい」


 返事はした。


 だが、納得はしていない顔だった。


 教師は淡々と続ける。


「班で勝つとは、誰かの力を消すことではない。誰かの力を成果へ繋げることだ」


 その言葉は、訓練棟全体へ響いた。


    ◆


 演習後。


 フィーネはしばらく黙っていた。


 アルトが手帳を出しかけ、またしまう。


 ユーリスが笑う。


「食後な」


「はい」


 アルトは素直に頷く。


 レオンはフィーネを見る。


「フィーネ」


「はい」


「良い指示だった」


 フィーネの目が揺れる。


「……ありがとうございます」


「特に中央標識前の土」


「はい」


「俺ではなく、アルトの支援を軸にした判断だった」


「そう、ですね」


 フィーネは少しだけ目を伏せる。


「私、最初はレオンさんをどう動かすかばかり考えていました。でも途中で、アルトさんの支援を使った方がいいと思って」


「正しい」


 レオンは頷く。


「今日の流れは、お前が作った」


 フィーネの頬が赤くなる。


 ユーリスが横から言う。


「これは手帳に大きく書くやつだな」


 フィーネが慌てる。


「そ、そこまでは」


「書け」


 レオンが言う。


 フィーネが目を丸くする。


「え」


「自分の成果を受け取る力も必要だ」


 教師の言葉をそのまま返した。


 フィーネは少しだけ黙り、それから柔らかく笑った。


「……はい。書きます」


    ◆


 昼休み。


 食堂はまた騒がしかった。


「第五班、また第三班に勝ったぞ」

「しかもレオン、前衛じゃなかったらしい」

「フィーネが指示役?」

「アルトの支援も良かったって」

「これ、もうレオンだけの班じゃないな」

「第五班、普通に強い」


 今度の噂は、少し違っていた。


 疑いだけではなく、認めざるを得ない空気が混ざり始めている。


 だが、完全に好意的ではない。


「第三班、連敗か」

「カイル、かなり悔しそうだったな」

「そりゃそうだろ」

「上位正統派が、平民特待生入りの班に二回負けたんだから」

「荒れるぞ、これ」


 荒れる。


 その言葉が、レオンの耳に残った。


 勝った。


 だが、それで終わりではない。


 勝つほど、相手の感情も動く。


 正しく評価されたはずなのに、正しく受け取られるとは限らない。


 今日の題目が、また胸に戻る。


 第五班の席で、四人は食後に手帳を開いた。


 アルトは、火、適切。見せるためじゃなく必要な分、と書いた。


 フィーネは、中央標識前の土指示。流れを作れた、と書いた。


 ユーリスは、標識保持。フィーネの指示を信じて右へ、と書いた。


 レオンは、妨害役。倒さず外す。主導を渡す、と書いた。


 それぞれが書いている。


 それぞれが受け取っている。


 その光景は、少し不思議だった。


 温かい。


 けれど、やはり少し怖い。


    ◆


 放課後。


 訓練棟の外で、カイル・ローダンがレオンを待っていた。


 夕方の光が、彼の顔に影を作っている。


 第三班の生徒たちは少し離れた場所にいる。


 カイルは一人で立っていた。


「ヴォルツ」


「何だ」


「次は、個人でやろう」


 その言葉に、空気が固まる。


 フィーネが息を呑む。


 アルトが目を見開く。


 ユーリスの表情が消える。


「合同課題とは別だ」


 カイルは言う。


「君と俺で、純粋に剣を比べる」


 レオンは静かに見る。


「理由は」


「班では負けた」


 カイルの声は低い。


「だが、君自身が俺より上だと認めたわけではない」


 おかしな理屈だ。


 だが、感情としてはわからなくもない。


 班で負けた。


 だから個人で取り返したい。


 それは、以前のレオンなら理解しやすい感情だった。


 だが今は、少し違う。


「今は合同課題期間だ」


 レオンは答えた。


「私闘なら受けない」


 カイルの顔が歪む。


「逃げるのか」


「違う」


「なら受けろ」


「教師の許可がある正式な模擬戦なら考える」


 カイルは黙る。


 その沈黙は怒りを含んでいた。


「随分と慎重になったな」


「必要な判断だ」


「班に守られるようになって、剣まで鈍ったか?」


 その言葉に、アルトが一歩出かけた。


 ユーリスが肩を軽く押さえる。


 フィーネも口を開きかける。


 だが、レオンが手で制した。


「挑発なら足りない」


 静かに言う。


 カイルの目が鋭くなる。


「……いいだろう。教師に申請する」


「そうしろ」


「君が本当に変わったのか、ただ鈍っただけなのか、確かめてやる」


 カイルはそう言って去っていった。


 残された第五班の空気は重い。


 ユーリスが小さく息を吐く。


「火種、来たな」


「ああ」


 レオンは答える。


 フィーネが不安そうに見る。


「受けるんですか」


「正式な模擬戦ならな」


「……怖いです」


 正直な言葉だった。


 レオンはフィーネを見る。


「俺が負けると思うか」


「そうじゃありません」


 フィーネは首を振る。


「レオンさんがまた、一人で勝つ場所に引き戻される気がして」


 その言葉は、胸に深く刺さった。


 一人で勝つ場所。


 戻れないと思っていた場所。


 だが、相手はそこへ引き戻そうとしている。


 レオンの価値を、個人の勝敗だけで測ろうとしている。


 そして、もしレオンが乗れば。


 第五班で積んできたものが、少し揺れるかもしれない。


 レオンは静かに言った。


「戻らない」


 フィーネが顔を上げる。


「個人戦をしても、第五班で得たものは消えない」


 一拍。


「消さない」


 その言葉に、三人は黙った。


 ユーリスが少し笑う。


「なら、ちゃんと見てるよ」


「見る?」


「レオンが戻らないか」


 アルトも頷く。


「俺も見ます」


 フィーネも、ゆっくり頷いた。


「私も」


 レオンは三人を見る。


 不思議だった。


 以前なら、誰かに見られることは評価の圧だった。


 今は違う。


 三人に見られることが、少しだけ支えになる。


「……そうか」


 短く答える。


    ◆


 夜。


 学生寮の部屋。


 レオンは手帳を開いた。


 今日の記録を書く。


 評価と受容。


 正しく評価されたはずなのに、正しく受け取られるとは限らない。


 アルト。

 外の声だけで、自分の成果を消したくない。

 俺は戦力。


 フィーネ。

 指示役。

 中央標識前の土指示。

 流れを作れた。


 ユーリス。

 標識保持。

 フィーネの指示を信じた。


 レオン。

 妨害役。

 倒さず外す。

 主導を渡す。


 第三班に勝利。


 カイル。

 個人戦要求。

 教師へ正式申請予定。


 フィーネの言葉。


 一人で勝つ場所に引き戻される気がして怖い。


 レオンはペンを止めた。


 その言葉が、今日一番深く残っている。


 一人で勝つ場所。


 そこは、以前の自分の場所だ。


 誇りもあった。


 強さもあった。


 間違いではなかった。


 だが、今はもうそこだけでは足りない。


 もし個人戦をするなら。


 勝つ必要がある。


 当然だ。


 だが、それだけではない。


 第五班で得たものを消さずに勝つ必要がある。


 誰かと勝つことを知った自分のまま、一人で剣を振る必要がある。


 それは、思ったより難しい。


 レオンは最後に一行を書く。


 正しく評価されたはずなのに、正しく受け取られるとは限らない。


 その下に、もう一行。


 だからこそ、自分で受け取ったものを、誰かの声で手放してはいけない。


 ペンを置く。


 窓の外は夜。


 学園の灯りが揺れている。


 明日、カイルが正式に模擬戦を申請するかもしれない。


 そうなれば、また空気が変わる。


 第五班の話題から、レオン個人の強さへ。


 周囲は見たがるだろう。


 レオンが本当に鈍ったのか。


 変わったのか。


 それとも、以前より強くなったのか。


 レオンは手帳を閉じた。


 一人で勝つだけの日々には戻れない。


 だが、一人で剣を振らなければならない時もある。


 その時。


 自分は何を背負って立つのか。


 答えはまだ完全には出ていない。


 けれど、ひとつだけ決めている。


 第五班で得たものを、消さない。


 そのまま剣を握る。


 たとえ誰かが、それを弱さと呼んでも。


 自分はもう、それを弱さだとは思えないから。

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