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無銘の剣と灰色の制服  作者: 伊佐波瑞樹


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2/81

第二話

 王立グランセル魔導学園の朝は、静かに始まる。


 だが、その静けさは田舎の村や、町外れの修道院にあるような穏やかなものではない。


 磨かれた石廊下。

 高い天井。

 窓から差し込む白い朝日。

 遠くの練兵場から聞こえる掛け声。

 中庭を横切る制服姿の生徒たち。


 すべてが整えられている。


 すべてが管理されている。


 そして、その整然とした空気の奥には、常に見えない競争があった。


 誰が上か。

 誰が落ちるか。

 誰が教師に目をかけられているか。

 誰の家が強いか。

 誰の魔力が高いか。


 王立グランセル魔導学園は、王国の未来を担う若者たちを育てる場所だ。


 だが同時に、若者たちに自分の位置を思い知らせる場所でもある。


 上位クラスは、朝から静かだった。


 静か、というよりは、余裕がある。


 生徒たちは各々の席で本を開き、魔法理論の復習をし、あるいは午後の実技訓練について低い声で話している。


 無駄に騒ぐ者は少ない。


 それが下位クラスとの差だと、誰かが言っていた。


 騒がなくても自分の価値を示せる者たち。


 そういう者だけが、上位クラスに残る。


 その窓際の席で、レオン・ヴォルツは魔法理論の教本を開いていた。


 灰色の制服の胸元には、上位クラスを示す銀糸の徽章。


 その徽章は派手ではない。

 だが、この学園の中では十分な意味を持つ。


 上にいる者。


 選ばれている者。


 期待されている者。


 レオンは、その立場に違和感を持っていなかった。


 当然だと思っていた。


 努力はしている。

 訓練も欠かしていない。

 家名に頼っているつもりもない。

 剣も魔法も理論も、それなり以上に積み上げてきた。


 だから、この教室にいる。


 そこに疑いはなかった。


「朝から真面目だねぇ」


 隣の席から、やや間の抜けた声がした。


 ユーリス・ベルク。


 子爵家の三男で、上位クラスの中でも社交性の高さで目立つ男だ。


 彼は椅子を斜めに引き、背もたれに腕を乗せながらレオンの教本を覗き込んでいる。


「午後は実技だろ? 今さら魔法理論?」


「今さらだから確認する」


「言い方が優等生なんだよな」


「お前は確認しないのか」


「俺は人付き合いで点を取る」


「実技では点にならない」


「世の中では点になる」


「ここは学園だ」


「厳しいねぇ」


 ユーリスは笑った。


 レオンは視線を教本から外さない。


 だが、それは無視ではなかった。


 会話はしている。

 聞いている。

 返してもいる。


 ただ、必要以上に感情を乗せないだけだ。


 ユーリスはそれを知っているので、気にしない。


「で、聞いた?」


「何を」


「今日の合同訓練」


「上位、中位、下位の一部が混ざるやつだろ」


「そうそう。その下位の一部に、例の特待生がいるらしい」


 レオンの指が、一瞬だけ紙の上で止まった。


 ほんのわずかな動きだった。


 だが、ユーリスはそれを見逃さない。


「お、興味ある?」


「名前くらいは聞いた」


「アルト・レイヴン。平民出身。全属性適性あり。魔力測定で教師陣が騒いだとか何とか」


「噂は大きくなる」


「でも火のないところに煙は立たないだろ?」


「湿った藁でも煙は出る」


「例えが渋いな」


 ユーリスが笑う。


 近くで聞いていた男子生徒が会話に入ってきた。


「全属性って本当なのか?」


「測定では、だろ」


「でも平民だぞ」


「平民だから何だ」


 レオンが静かに返す。


 男子生徒が一瞬詰まる。


 少し離れた席の女子生徒がこちらを見る。


 空気が小さく揺れた。


 レオンは教本を閉じる。


「適性に身分は関係ない」


「……まあ、それはそうだけど」


「ただし、適性があることと、使えることは別だ」


 そこで何人かが頷いた。


 上位クラスの生徒たちは、その言葉に納得しやすい。


 彼らは才能だけでここにいるつもりはない。


 家の教育。

 幼い頃からの鍛錬。

 剣術師範。

 魔法家庭教師。

 礼法。

 教養。


 そうした積み上げを背負っている。


 だからこそ、ぽっと出の平民特待生を素直に受け入れられない者もいる。


 レオンは、その感情を理解していた。


 理解していたが、同調しすぎる気はなかった。


 弱ければ落ちる。

 強ければ残る。


 それだけだ。


 この学園は、少なくとも建前ではそういう場所だった。


「レオンは当たりたい?」


 ユーリスが聞く。


「相手として意味があるなら」


「おお、強気」


「意味のない相手とやっても時間の無駄だ」


「ほんと、そういう言い方だよ」


 ユーリスが苦笑する。


「いつかその言い方で痛い目見るぞ」


「朝から二度目だな」


「一度目は昨日だ」


「なら今日一度目だ」


「そういう返しは早いな」


 周囲で小さく笑いが起きる。


 レオンも少しだけ口元を緩めた。


 彼は寡黙ではない。


 無口でもない。


 ただ、自分の位置に疑いがないだけだ。


 その余裕が、時に人を惹きつけ、時に鼻につく。


 本人はそのことに、まだ深く向き合ってはいなかった。


    ◆


 一限目の魔法理論は、予定通り小テストから始まった。


 上位クラスの生徒たちは、ほとんどが高い集中力で問題へ向き合っている。


 紙をめくる音。

 ペン先が走る音。

 窓の外からかすかに聞こえる鳥の鳴き声。


 レオンは問題文を読み、淡々と答えを書いた。


 魔力伝導率。

 基礎属性の干渉。

 剣へ魔力を通す際の制御。

 呼吸と握力の分離。


 難しくはない。


 少なくとも、昨日復習していれば詰まる内容ではなかった。


 テスト後、老教師が数問を口頭で確認する。


「ヴォルツ」


「はい」


「魔力を剣へ流す際、最も初歩で起きやすい失敗は」


「過剰流入です」


「理由は」


「剣を魔法の出口と勘違いするからです。剣に魔力を押し込めば一時的に出力は上がりますが、刃筋が硬くなり、軌道が鈍ります」


「では防ぐには」


「呼吸で魔力を整え、握りで剣を支配しすぎないことです。握力と魔力制御を分けなければ、剣も魔法も荒くなります」


 教師は満足そうに頷いた。


「よろしい」


 教室の空気が、少しだけレオンへ向く。


 感心。

 納得。

 少しの対抗心。


 レオンは座る。


 いつものことだ。


 だが今日は、ユーリスが横から小声で言った。


「お手本みたいだな」


「お手本通りに答えただけだ」


「それが普通にできないやつもいる」


「ならできるようにすればいい」


「……お前、たまに真っ直ぐすぎて刺さるな」


「刺さる方が悪い」


「そういうとこ」


 会話はそこで切れる。


 レオンは窓の外を見る。


 遠くの練兵場では、別クラスの生徒たちが走り込みをしていた。


 中には、上位クラスの生徒ほど綺麗に走れていない者もいる。


 足並みが乱れ、息が上がり、教師に叱られている。


 レオンはそれを見て、少しだけ目を細めた。


 努力はしているのだろう。


 だが、努力の仕方が雑だ。


 そんなふうに思った。


 自分が少し上から見ていることに、本人は気づいていた。


 気づいていても、改めようとは思わなかった。


 間違っているとは思っていなかったからだ。


    ◆


 昼休み。


 学園食堂は、上位クラス用の席と一般席が緩やかに分けられている。


 完全な隔離ではない。


 だが、誰もが自然に自分の位置へ座る。


 貴族子弟は奥側の明るい席。

 中位クラスの生徒は中央。

 下位クラスや平民出身者は入口側。


 誰かが決めたわけではない。


 だが、いつの間にかそうなっていた。


 それが、この学園の空気だった。


 レオンは上位クラスの席に座り、昼食の肉を切っていた。


 柔らかく煮込まれた鶏肉。

 焼きたてのパン。

 野菜のスープ。


 学園の食事は、実家ほどではないが悪くない。


「午後、合同訓練だな」


 ユーリスが向かいに座る。


「ああ」


「緊張してる?」


「少し」


「見えない」


「さっきも言われた」


「誰に」


「朝、フィーネに」


「ああ、フィーネ嬢ね」


 ユーリスが少し笑う。


「最近よく話してるな」


「入学試験で近かっただけだ」


「ふうん」


「何だ」


「別に?」


「その顔は腹が立つな」


「嫉妬されるぞ」


「誰に」


「色々」


「面倒だ」


 ユーリスが声を抑えて笑う。


 レオンは気にせずスープを飲む。


 恋愛や噂話に無関心というわけではない。


 だが今は、順位と訓練の方が重要だった。


 自分は上にいる。


 そこから落ちるつもりはない。


 その意識は、日常の中に当たり前のように染み込んでいた。


 その時、食堂入口付近が少しざわついた。


 女子生徒の声。

 男子生徒の低い笑い。

 小さな好奇心。


 レオンも視線だけ向ける。


 一人の少年が立っていた。


 灰色の制服を少し窮屈そうに着ている。

 姿勢は悪くない。

 だが、明らかにこの場に慣れていない。


 アルト・レイヴン。


 噂の平民特待生。


 彼は食堂の入口で一瞬立ち止まり、どこに座ればいいのか迷っていた。


 その隣に、下位クラスらしい男子生徒がいて、奥を指差している。


 アルトは苦笑しながら首を振り、入口近くの席へ向かう。


 その様子を見て、上位クラスの席から小さな声が漏れた。


「やっぱり平民だな」

「食堂の席で迷うか?」

「全属性様は席も選べないらしい」


 笑いが起こる。


 大きくはない。


 だが聞こえる程度の声。


 アルトにも、おそらく届いている。


 彼は少しだけ肩を強張らせた。


 だが、顔を上げた。


 怒るでもなく、怯えるでもなく、席へ座る。


 レオンはそれを見ていた。


 ユーリスが小声で言う。


「笑わないんだな」


「席で迷っただけだろ」


「お前、そういうところは妙に公平だよな」


「実力と関係ないことで笑っても意味がない」


「でも実力で負けたら笑う?」


「負け方による」


「怖いな」


 ユーリスが苦笑した。


 その時、アルトがふと顔を上げる。


 レオンと視線が合った。


 ほんの一瞬。


 アルトは軽く頭を下げる。


 礼儀はある。


 媚びではない。


 敵意でもない。


 レオンも軽く顎を引いて返した。


 ただそれだけ。


 だが、食堂の空気は小さく揺れた。


 上位クラスのレオン・ヴォルツ。

 平民特待生のアルト・レイヴン。


 まだ言葉すら交わしていない二人に、周囲は勝手に物語を見始めていた。


 誰かが小さく言う。


「いつか当たるかな」


「見たいな、それ」


「さすがにレオンだろ」


「でも全属性だぞ」


 声は広がらない。


 だが消えもしない。


 レオンは食事を続けながら、そのざわめきを聞いていた。


 不快ではない。


 ただ、少し耳に残った。


    ◆


 午後。


 屋外訓練場には、複数のクラスが集められていた。


 空はよく晴れている。


 訓練場の土は乾いていて、歩くたびに細かい砂が靴に付く。


 周囲には見学用の石段があり、上位クラスの生徒たちは自然と上段側へ、下位クラスの生徒たちは低い位置へ集まっていた。


 ここでもまた、見えない線がある。


 教師たちはそれを知っている。


 知っていて、あえて崩さない。


 学園とはそういう場所でもある。


「整列」


 実技担当の教師が声を張る。


 生徒たちが並ぶ。


「本日は合同訓練を行う。目的は、異なるクラス間での実力確認だ」


 一拍。


「勝敗だけではない。内容、判断、崩れ方、戻し方を見る」


 上位クラスの生徒たちは余裕ある顔で聞いている。


 下位クラスの生徒たちは緊張している。


 アルトも、その中にいた。


 手には木剣。


 握りが少し硬い。


 剣に慣れていない。


 レオンは遠目にそれを見て、すぐにそう判断した。


 だが、魔力の流れは悪くない。


 いや、むしろ異質だった。


 属性の気配が一つに固定されていない。


 揺れている。

 混ざっている。

 未熟だが、幅がある。


 噂だけではない。


 レオンの中で、ほんの少し評価が上がる。


「見てるな」


 ユーリスが隣で言う。


「珍しいか?」


「まあまあ」


「才能があるなら見る」


「素直じゃない褒め方だな」


「まだ褒めていない」


「はいはい」


 教師が説明を続ける。


「まずは希望者による模擬戦から行う。上位クラスは、下位クラス相手だからといって手を抜くな。下位クラスは、上位クラスだからといって飲まれるな」


 空気が張る。


 その直後、上位クラスの男子生徒が声を上げた。


「先生」


 ハルト・グレイナー。


 昨日、教室で地方推薦の生徒へ絡んでいた男だ。


 レオンは少しだけ目を細める。


 またか、と思った。


「せっかくですから、特待生の実力を見せてもらうのはどうでしょう」


 訓練場がざわつく。


 アルトが顔を上げる。


 周囲の下位クラスの生徒たちも動揺する。


 教師は一瞬だけ眉をひそめた。


「相手を指名する形式ではない」


「もちろん、本人が良ければですが」


 ハルトは笑っている。


 丁寧な言葉。

 だが、意図は見える。


 見世物にしたいのだ。


 平民特待生が本当に強いのか。

 それとも測定だけの飾りなのか。


 上位クラスの前で明らかにしたい。


 そういう空気だった。


 レオンは小さく息を吐いた。


 聞こえたのか、ユーリスが横を見る。


「嫌そうだな」


「見世物は趣味が悪い」


「助ける?」


「本人が断ればいい」


「断れなさそうだけどな」


 実際、アルトは困った顔をしていた。


 教師がアルトを見る。


「レイヴン。断っても構わない」


 アルトは少しだけ黙った。


 その沈黙が、訓練場全体へ広がる。


 風が吹く。


 乾いた土の匂いがした。


 下位クラスの生徒たちは不安そうに彼を見る。

 上位クラスの生徒たちは興味深そうに見ている。

 中位クラスの生徒たちは、どちらへ転ぶかを待っている。


 アルトは木剣を握り直した。


「……やります」


 小さな声だった。


 だが、逃げなかった。


 その瞬間、レオンの目が少し変わる。


 弱くはない。


 少なくとも、心は逃げていない。


「よろしい」


 教師が言う。


「形式は三本。安全制限あり。魔法は低出力のみ許可する」


 ハルトが前へ出る。


 アルトも一歩前へ出る。


 訓練場の空気が、じわりと熱を帯びた。


    ◆


 開始線。


 ハルトは木剣を大きく構える。


 貴族剣術らしい、見栄えの良い構え。


 綺麗だ。


 だが、少し大きい。


 相手を見下ろす気持ちが、そのまま剣に出ている。


 一方、アルトは木剣の持ち方が硬い。


 肩に力が入っている。

 足幅も少し不安定。

 呼吸も浅い。


 普通に剣で戦えば、ハルトが勝つだろう。


 そう思った生徒は多かったはずだ。


 レオンも同じ判断をした。


 剣だけなら、だ。


「始め!」


 教師の声が飛ぶ。


 ハルトが踏み込む。


 速い。


 悪くない。


 上位クラスにいるだけのことはある。


 アルトは受ける。


 木剣同士がぶつかる。


 乾いた音。


 アルトの体が揺れる。


 上位クラス側から小さな笑いが漏れる。


「やっぱりな」

「剣は素人か」


 ハルトがさらに押す。


「どうした、特待生!」


 アルトは後退する。


 一歩。

 二歩。


 だが、三歩目で止まった。


 呼吸が変わる。


 レオンはそれを見逃さなかった。


 アルトの手元へ、薄い風が集まる。


 魔力の流れが変わる。


 ハルトが次の一撃を振った瞬間、その剣筋がわずかに流れた。


「なっ――」


 ほんの小さな風。


 だが、踏み込みと剣筋の中心をずらすには十分だった。


 ハルトの体勢が崩れる。


 アルトは驚いたような顔をしながら、それでも前へ出た。


 肩口へ木剣が当たる。


「一本」


 教師の声。


 訓練場が静まり返った。


 少し遅れて、下位クラス側から歓声が上がる。


「やった!」

「アルト!」

「すごい!」


 上位クラス側は黙った。


 ハルトの顔が真っ赤になる。


「まぐれだ!」


 その声は、訓練場に少し痛々しく響いた。


 レオンは腕を組んだまま見ていた。


「どう思う?」


 ユーリスが聞く。


「剣は未熟」


「そこから?」


「だが魔法の使い方が柔らかい」


「褒めたな」


「評価した」


「出た」


    ◆


 二本目。


 ハルトは明らかに荒くなった。


 最初の余裕が消えている。


 見下ろすための剣ではなく、取り返すための剣になっていた。


 だが、焦りは剣筋を濁らせる。


 アルトはまだ不安定だ。


 だが、一度当てたことで呼吸が変わっている。


 次に手元へ集まったのは、水の気配だった。


 木剣の周囲に薄い膜が張る。


 ハルトの剣が滑る。


 ほんの一瞬。


 だがその一瞬に、アルトの足が前へ出る。


 胴へ浅く当たる。


「二本」


 今度は歓声がさらに大きくなった。


 下位クラスだけではない。


 中位クラスからも声が出た。


「二本取ったぞ」

「まぐれじゃない」

「全属性って本当かよ」


 上位クラスの空気が冷える。


 ハルトの取り巻きたちも黙っていた。


 レオンは、静かにアルトを見る。


 危うい。


 未熟。


 剣士としてはまだ粗すぎる。


 だが、魔法の切り替えが速い。


 それも、教本通りではない。


 感覚でやっている。


 理論を積み上げていない分、型に縛られていない。


 それは弱点でもあり、怖さでもあった。


 レオンの胸の奥に、小さな引っかかりが生まれる。


 まだ警戒と呼ぶほどではない。


 嫉妬でもない。


 ただ、自分の知らない種類の才能が目の前にある。


 その事実が、少しだけ残った。


    ◆


 三本目。


 教師は止めてもよかった。


 だが、ハルトが強く続行を望んだ。


 アルトは迷っていた。


 それでも、構えた。


 風が吹く。


 訓練場の土が少し舞う。


 上位クラスの生徒たちは黙っている。

 下位クラスの生徒たちは祈るように見ている。

 中位クラスは息を詰めている。


 空気が、いつの間にか一人の平民特待生を中心に回り始めていた。


 レオンは、それを感じていた。


 これは強さだけの問題ではない。


 人が見てしまうのだ。


 アルトという少年の不器用さ。

 逃げなかったこと。

 未熟なのに食らいついたこと。

 そして、才能が光る瞬間。


 それは、見ている者の心を引き寄せる。


 レオンとは違う。


 レオンは整っている。

 積み上げている。

 勝つべくして勝つ。


 アルトは危うい。

 未完成。

 だが、予想外に光る。


 どちらが人の目を奪うか。


 その答えは、この瞬間だけなら明らかだった。


「始め!」


 ハルトが突っ込む。


 完全に冷静さを失っていた。


 アルトの手元へ、火の気配が灯る。


 だが火力は低い。


 攻撃ではない。


 剣の軌道を照らすように、赤い魔力が揺れた。


 ハルトが一瞬、目を奪われる。


 その隙に、アルトが踏み込む。


 肩口。


「三本。勝負あり」


 決着。


 歓声が爆発した。


 下位クラスの生徒たちが声を上げる。

 中位クラスも拍手をする。

 上位クラスは沈黙する。


 ハルトは木剣を落としそうになりながら、呆然と立っていた。


 アルトは自分が勝ったことに少し遅れて気づいたように、慌てて頭を下げる。


「ありがとうございました!」


 その声は真っ直ぐだった。


 勝ち誇らない。

 見下さない。

 ただ、礼をする。


 それがまた、周囲の印象を良くした。


 女子生徒の一人が呟く。


「……いい子そう」


 別の生徒が頷く。


「平民なのに、ちゃんとしてるね」


 その言葉に、レオンは少しだけ眉を動かした。


 平民なのに。


 褒め言葉のようで、どこか線を引く言葉。


 だが今、その線を越えようとしているのはアルトの方だった。


    ◆


 その後の訓練は、少し空気が変わった。


 教師たちは予定通り組み合わせを進める。


 上位クラスの生徒も、中位クラスの生徒も、下位クラスの生徒も模擬戦を行う。


 だが、誰もがどこかアルトを意識していた。


 彼が木剣を置く時。

 教師から指導を受ける時。

 下位クラスの仲間に囲まれる時。


 視線が集まる。


 そしてその視線の中に、レオンもいた。


「そんなに気になる?」


 ユーリスが聞く。


「観察しているだけだ」


「それを気になるって言う」


「違う」


「頑固だなぁ」


 ユーリスは笑ったが、すぐに声を低くした。


「でも、面倒なことになりそうだな」


「何が」


「上位クラスの面子」


 レオンはハルトを見る。


 ハルトは取り巻きに囲まれ、顔を赤くしたまま何かを言っている。


 負けを認める顔ではない。


 自分が崩れた理由を探す顔でもない。


 相手が悪い。

 運が悪い。

 卑怯だった。


 そういう逃げ方をしそうな顔だった。


「負け方が悪いな」


 レオンが言う。


「ハルト?」


「ああ」


「相手じゃなく、自分を見ればいいのにね」


「それができるなら、ああはならない」


「辛辣」


「事実だ」


 そう言いながら、レオンは自分が少しだけ苛立っていることに気づいた。


 ハルトに対してだ。


 上位クラスの人間が、負け方を間違えたことに。


 それは単純な同族意識だったのかもしれない。


 上にいる者なら、負けても醜くなるな。


 そういう感覚。


 そしてその裏側には、まだ自分は違うという自負がある。


 自分なら、ああはならない。


 自分なら、もっと正しく負けを扱える。


 そもそも、負けるつもりもない。


 そう思っていた。


    ◆


 レオンの模擬戦の番が来た。


 相手は中位クラスの剣術型の生徒。


 実力は悪くない。


 足運びも整っている。


 だが、レオンにとっては読みやすかった。


「始め!」


 相手が慎重に距離を取る。


 レオンは急がない。


 右足。

 肩。

 視線。

 呼吸。


 相手が踏み込む瞬間、半歩だけ外す。


 木剣が空を切る。


 レオンはそのまま肩口へ当てる。


「一本」


 周囲がざわつく。


 派手さはない。


 だが、綺麗だった。


 二本目も同じ。


 今度は相手が変化を入れてきたが、レオンは手元の硬さで読んだ。


 剣を流し、手首へ当てる。


「二本」


 三本目。


 相手は一度下がり、呼吸を整えてから来た。


 悪くない。


 だが、まだ遅い。


 レオンは真正面から受けず、軌道をずらし、胴へ軽く入れる。


「三本。勝負あり」


 勝利。


 上位クラス側から拍手が起きる。


「やっぱりレオンは安定してる」

「剣なら別格だな」

「派手ではないけど、無駄がない」


 聞き慣れた評価。


 それは誇らしいもののはずだった。


 実際、悪い気はしない。


 だが、先ほどのアルトへの歓声とは種類が違った。


 レオンへの拍手は、納得だ。


 予想通り。

 やっぱり強い。

 いつも通り。


 アルトへの歓声は、驚きだった。


 まさか。

 本当に。

 すごい。


 どちらが人の心を強く揺らすか。


 レオンはその差を、感じてしまった。


 そしてすぐに、その感情を胸の奥へ押し込んだ。


 くだらない。


 歓声で強さは決まらない。


 実力は実力だ。


 剣を交えればわかる。


 そう思った。


    ◆


 訓練終了後。


 夕方の風が訓練場を抜けていく。


 赤く染まり始めた空の下、生徒たちは疲れた顔で校舎へ戻っていた。


 下位クラスの生徒たちは、今日のアルトの勝利で明るくなっている。


 中位クラスは騒ぎながらも、どこか刺激を受けた顔をしている。


 上位クラスは、表面上は平静だ。


 だが少しだけ空気が硬い。


 平民特待生が上位クラスの生徒を倒した。


 それは、小さな事件だった。


 レオンは木剣を返却する。


 その時、少し離れた場所にアルトがいた。


 教師に呼ばれ、指導を受けている。


「属性の切り替えは良い。ただし剣筋が荒い。身体が魔法に振り回されている」


「はい!」


「呼吸を乱すな。力に頼るな」


「はい!」


 素直な返事。


 アルトは真剣に聞いている。


 レオンはしばらくそれを見ていた。


 そこへユーリスが来る。


「話しかけないの?」


「何を」


「今日の感想とか」


「必要ない」


「気になるくせに」


「観察しているだけだ」


「だからそれが気になるって」


 ユーリスは肩をすくめる。


「そのうち当たるだろうな」


「ああ」


「勝てる?」


 レオンはアルトから目を離さずに答える。


「今ならな」


 ユーリスが少しだけ目を開く。


「今なら?」


 レオンは自分で言った言葉に、ほんの少しだけ沈黙した。


 今なら。


 自然に出た。


 それはつまり、いずれはわからない、ということだ。


 レオンはすぐに言い直さなかった。


 言い直す必要もないと思った。


「未熟だが、伸びる」


「かなり評価してるな」


「事実だ」


 風が吹く。


 アルトが教師へ頭を下げる。


 その周りに何人かの生徒が集まる。


 笑顔。

 称賛。

 驚き。

 期待。


 レオンはその光景を見る。


 胸の奥に、また小さな引っかかりが残った。


    ◆


 その夜。


 ヴォルツ伯爵家の学生寮用居室。


 部屋は広すぎず、狭すぎない。


 机。

 本棚。

 剣の手入れ道具。

 制服掛け。

 窓辺には、王都の灯りが遠く見える。


 レオンは机に向かい、今日の訓練内容を記録していた。


 魔法理論小テスト。

 合同訓練。

 ハルト対アルト。

 アルトの属性切り替え。

 自分の模擬戦内容。


 ペン先が止まる。


 アルト・レイヴン。


 その名前を書いたまま、少しだけ動きが止まった。


 未熟。

 剣は粗い。

 魔法制御も感覚頼り。

 呼吸も浅い。


 だが、才能はある。


 そして人の目を引く。


 それは剣術の実力とは別の力だった。


 レオンは椅子にもたれる。


 窓の外では、夜風に木々が揺れていた。


 静かな夜。


 学園の灯り。


 遠くの鐘。


 いつもの日常。


 だが、どこか少しだけ違って見える。


 今日、平民特待生が上位クラスの生徒を倒した。


 たったそれだけ。


 だが、たったそれだけで空気が変わる。


 なら、自分が彼に負けたらどうなる?


 ふと、そんな考えが浮かんだ。


 レオンはすぐに眉をひそめる。


 馬鹿げている。


 自分が負ける前提で考える必要はない。


 勝てばいい。


 勝てるだけの準備をすればいい。


 これまでもそうしてきた。


 これからもそうする。


 それだけだ。


 それだけのはずだった。


 ペンを取り、最後に一行だけ書き足す。


 アルト・レイヴン――要観察。


 書いてから、少しだけ苦笑する。


「……観察、か」


 まるで自分に言い聞かせるような言葉だった。


 灰色の制服が椅子の背に掛けられている。


 朝と同じ制服。


 同じ学園。

 同じ立場。

 同じ部屋。


 何も壊れていない。


 けれど、レオンの日常には、今日確かに小さな亀裂が入った。


 まだ痛みはない。


 まだ誰も気づいていない。


 本人でさえ、その亀裂の深さを知らない。


 ただ、遠くに見えた平民特待生の光が、ほんの少しだけ眩しかった。


 その眩しさを、レオン・ヴォルツはまだ認めようとしていなかった。

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