ある歪な夫婦のお話
数ある作品の中からお選びいただき、ありがとうございます。拙いですが、どうぞお楽しみください。
あるところに、一組の夫婦がおりました。彼らは、ちまたでちょっとした有名人でした。というのも、妻の方が相当の浮気性なのです。
夫がありながら、数多の男を毎日のように籠絡し、そしてその日のうちにポイっと捨ててしまう彼女の名を、スカーレットといいました。
燃えるような情熱をその瞳に宿す、美しい黒髪黒瞳の女性です。キッと目元が釣り上がったその容姿の通り、彼女はとても気が強いことでも知られていましたし、それゆえにとても魅力的な女性でした。
その魅力をもって、彼女は沢山の男を籠絡しました。籠絡とはいえ、ともに酒を呑んだり、ちょっとしたデートをするだけでしたが、しかしそれが何度も続くものですから、周囲は彼女を「奔放」と呼びました。
しかしそんな彼女を、彼女の夫は叱りません。彼女の夫は彼女とはうってかわって優しい目元を持つ男性で、少し気が弱そうにも思えます。モノクルをかけ、いつも理知的な雰囲気を醸す彼は、とてもスカーレットの夫とは思えませんでした。
そんな彼女の夫の名を、リジルといいます。彼は紳士でした。
それゆえに、彼らの夫婦関係はとても不思議なものとして噂されたのです。浮気性で気の強い妻になにもいうことができぬ、気の弱い夫。世間はもっぱら、リジルに味方していました。
ほら、リジルへ同情するおばさま方の声が聞こえてきましたよ。
「まったく、スカーレットときたら。」
「ねぇ、リジルというものがありながら。」
「毎日のように男遊びをして。」
「とんだ尻軽さ!」
その声音には、すこしばかりの僻みも感じられました。そんな彼女らの会話に、耳をそばだてる者が一人。
「まったく、ばからしい。」
そう、勤め先から出てきたばかりのリジルです。人をバカにしたような台詞でありながら、しかしその声音は穏やかです。側から見れば、猫でもみて癒されているようにしか見えません。
彼のモノクルの奥には、なぜか愉悦が浮かんでおりました。
スカーレットは、今日も夜遅くに家に帰ってきた。時刻は12時近い。
「ただいま。」
「ああ、おかえり。」
帰還を告げると、おだやかな夫の声が響く。彼がこの時間まで起きているのは、いつものことだ。
「今日は誰と呑んでいたんだい?」
夫が立ち上がって、スカーレットの方までやってきた。
「軽業師のティムよ。遊び人同士、気が合うわ。」
そう返すと、夫はうんうんと頷いた。うんうん、ではない。妻がほかの男と、それもこんな遅い時間まで呑んできているのだ。しかし彼にとっては、さほど問題ではないようだった。
バスローブ姿の彼の髪からは水が滴っており、頷いた拍子にそれがスカーレットの方に飛んでくる。
周囲には目が悪いからと触れ回っているが、その実格好いいからという理由だけでつけているモノクルは、今は外されていた。
その様子に、スカーレットは心底好ましそうに目を細める。
「あなたって、モノクルをつけていないときは悪い男の顔をしているわよね。」
スカーレットは、ポロリとこぼした。囁くような声であったが、リジルの耳はそれをしっかりと拾ったようだ。
こてんと首を傾げ、
「なぜだい?」
と問うてみせた。その仕草は、幼いようでいて色気を感じさせる。垂れ気味の目元には愉悦が浮かび、どこか嗜虐的な色すら持っていた。
スカーレットだけが見慣れたその表情は、優越感を感じさせてくれるものだ。己だけがかれを彼をこの表情にできる、彼を愉しませられる、という優越を。
「そうねぇ、その顔よ。その、わたしがだあい好きな顔。」
彼女は、自らも嗜虐的な色をその瞳に浮かべることで、答えとする。
「だってその顔、モノクルを外した時しかしないでしょう?」
「そうだねぇ。」
穏やかな台詞を吐きながら、その瞳に浮かぶ愉悦は増してゆく。
周囲からは優男と思われている彼だが、しかしそんなことは全くない。
リジルは、自身のことをこう思っていた。なんとも粘着質で、所有欲が強い面倒な男だと。いつか、珍しく酔った時にそう聞いた。
自己評価と世間の評価が乖離しているのは、ひとえに彼の演技力ゆえだ。波風が立たぬよう、優しく物腰の柔らかい紳士を演じているのである。
しかし、彼の本質は紳士などではない。もっとややこしい人間だ。
彼の粘着質とは、普通の粘着質とは違う。普段はおもてに表に出さないが、スカーレットがいると必ず絡みにくる。そして、さりげなく常に隣に居続けるのである。そして、自らが隣にいることでしか得られない安息を示してゆく。
スカーレットが欲しいと思ったものを、口に出す前にとってくる。
煩わしい相手がいれば、さりげなく遠ざける。
一つ一つはとても小さな安息。しかし積み重なったそれは、いつしかスカーレットを彼なしでは生きていけないほどにした。
生涯独身を貫くつもりであったスカーレットの、その決意を揺るがせるほどに、常にそばにいたのである。粘着質というのも、まあ頷けよう。
そして、所有欲。これについては、スカーレットも未だ理解できない。なんでも、スカーレットは絶対に自分の元へ戻ってくる、戻ってくるように自らがしたのだから、それが所有欲だと、そう説明された。
「本当に、めんどくさい男だこと。」
少し間をおいて、穏やかに告げた。なんとめんどくさくて、そして、愛おしい。
「そうだねぇ。」
夫もまた、穏やかに応えた。
「そういえば、今日少し厭なことがあったんだよ。」
そして、穏やかなまま続ける。
「ふぅん、何?」
スカーレットは無関心を装いながらも、自ら以外が彼を不快させたことに少しばかりの妬心を抱いた。
「きみの悪口を聞いてしまってねえ。まったく、なぜ君の素晴らしさがわからないのか。」
それを聞いて、スカーレットはほっとした。自分が原因であることに。そして、少しの喜びと、そして自己嫌悪を交えながら、応えた。
「そんな輩、放っておけばいいじゃない。それに、私は素晴らしくなんてないわよ。」
ガチャリ。
ドアの開く音がして、リジルは本を閉じた。
「ただいま。」
無音だった室内に、美しい声が響く。その音を噛み締めながら、リジルはゆっくりと応えた。
「ああ、おかえり。」
妻が帰ってきたのである。扉からリジルのいるソファーのあたりまで、彼女はゆっくりと歩いてくる。外套をかける彼女をみながら、もはや恒例となっている問いを放つ。
「今日は誰と呑んでいたんだい?」
そうして、ゆっくりと立ち上がって妻の方へ歩みよった。
「軽業師のティムよ。遊び人同士、気が合うわ。」
そう告げる妻の顔は、無機質でありながら、少しの不安が感じられる。毎日同じであるというのに、こちらの返事を探るような視線が向けられた。心なしか上目遣いになっている。気の強い彼女が、すこしであっても縋るような色をその瞳に宿し見上げるのは、リジルだけであろう。
その様子を愛おしく思いながら、リジルはいつも通り頷いてやった。
その様子にホッとしたのか、彼女の瞳には安心が宿る。あまりに些細な変化だから、きっとリジル以外には察せないだろう。
気が強いと思われている彼女だが、そんなことはない。
遊ぶのは、本当に自分が愛されているか不安だからだ。
しかし本当の浮気をすることがないのは、リジルのことを本当に愛しているからであり、そしてそこまで大それたことができるほどの度胸は持ち合わせていないからだ。
毎日のようにリジルを試すその姿は、いじらしく愛らしく、そして美しい。
不安に揺れるその姿は、皮肉で愛おしい。
愛に飢えた彼女は、試すことでしか己への愛を確信できないのだ。試されても、ほかの男と仲良くしようと、それを全て認めてなお愛してくれるような人間を欲しているから。彼女は、怖がりのくせに欲張りだから。
そう考えて、少しばかりの優越感に浸っていると、妻の小さな声が響いた。
「あなたって、モノクルをつけていないときは悪い男の顔をしているわよね。」
そういって微笑む顔があまりに可愛かったので、リジルは心の中で悶えた。
しかし、彼女の前では、基本的に余裕を崩さぬと決めている。
「なぜだい?」
平静を装って、こちらもこてんと首を傾げて見せた。色気を出せるような角度は、計算済みである。
その問いに、彼女は少し思案した。顎に手を当てて考える癖は、昔からだ。少し顔が反るからか、首元があらわになる。細く滑らかなそれは、妖艶な色気を帯びていた。
リジルと違い、わざとではないのだから、彼女は天性の籠絡人である。
その間に、どうやら答えは出たらしい。顎からその美しい指が外され、こちらをまっすぐに見てきた。
「そうねぇ、その顔よ。その、わたしがだあい好きな顔。」
そして彼女は、美しい笑みを浮かべる。優越と嗜虐が混ざったようなそれはぞくぞくとした高揚を誘うが、しかし続く言葉は彼をもっと悦ばせた。
「だってその顔、モノクルを外した時しかしないでしょう?」
それはつまり、リジルが妻にしかこの顔を見せないことを知っているということ。モノクルを外すのは、彼女の前だけなのだから。
そしてモノクルとは、リジルにとって仮面に等しい存在であるから。
「そうだねぇ。」
だからあえて、穏やかな返事を返す。ゆっくりと肯定しなければ、彼女を安心させることはできないだろうから。
それから少し間をおいて、愛しき妻はリジルが元々座っていたソファーの方へ移動し、すとんと座った。リジルはその隣に腰を下ろし、妻の様子を伺う。
すると、妻はこてんと頭を倒し、こちらの肩に預けてきた。リジルはその艶やかな黒髪を弄び、楽しむ。
すこし間をおいてから、妻がつぶやいた。
「本当に、めんどくさい男だこと。」
台詞に対して、声音には愛しさが溢れている。きっと、面倒くさいからこそ愛おしいと、そう思っているのだろう。
この言葉が出てきたということは、この間にこれまでのリジルを振り返っていたはずだ。
ああ、いつか酔った時にみせた、格好悪い自分も思い出したのだろうなぁ、などと思いながら、やはりおだやかに返すことにする。
「そうだねえ。」
と。
酔った時に本心を吐露したのも、普段から彼女を責めぬのも、こてんと首を傾げて色気を演出するのも、すべてわざとだ。
彼女を己に堕とすために、己なしでは生きられぬようにするために。
彼女はきっと、あの時に話したことこそが、己の本心だと思っているのだろう。
ともにいて、居心地の良い空間を作り出すこと。それを積み重ねること。
ああ確かに、それもした。しかしそれはあくまで一部に過ぎないのだ。
安息だけでは人はすぐ飽きるから、刺激を与えてみたり。
不安を煽って、そして少し放置して、あとで安心させてみたり。
それでも、いやだからこそなのかもしれないが、彼女はリジルからの愛を不安に思う。試すような真似をするのは、それゆえだ。
しかしながら、彼女が『遊んで』いるのは、みなリジルが手配した者たちである。
決して彼女に手を出さず、邪な感情を向けないと確信できる者を、毎日毎日選んでいるのだ。
そしてその行為から、彼女は自己を嫌悪する。平気な顔をしながら、しかしリジルに少しの後ろめたさを感じるのだ。
愛ゆえだ、確かめるためだと己に言い訳を重ねながら、それでも不安に思うその姿は、いじらしい。
たぶん、どこかで気づいてはいるのだろう。リジルが一枚噛んでいると。なぜなら彼女は、リジルに出会う前は真実遊んでいたのだから。無粋な輩に出会わなかったなどということはないだろう。
しかし、みてみぬふりをしている。リジルの用意した鳥籠の中で、踊り続けることを受け入れている。誰よりも自由を愛する彼女が、リジルにだけはそれを許すのである。
彼女の自信満々な態度にそれが隠れていると思うと、もうどうしようもなく愛おしい。
彼女の不安を掻き立てるのは、リジル。そしてそれを治めるのもまた、リジルである。
同じように、リジルの不安を掻き立てるのはスカーレットであり、満たすのもまた彼女なのである。
だからリジルは知っている。彼女は絶対に自らの元へ戻ってくると。彼女は自らなしでは生きられないと。
リジルは彼女を遊ばせ続けると。そして自らもまた、彼女なしでは生きられないと。
なぜならリジルがそう躾け、そして彼女がそれを受け入れたのだから。彼女がそう願い、リジルが受け入れたのだから。
だから。
「そういえば、今日少し厭なことがあったんだよ。」
彼女の不安を掻き立てるのは常に己であるべきなのである。
「ふぅん、何?」
先ほどまでのどこか緩んだ表情が、無機質に戻った。しかしその瞳には、わずかな不安と妬心が透けてみえる。だから、こう言った。
「きみの悪口を聞いてしまってねえ。まったく、なぜ君の素晴らしさがわからないのか。」
鼻で嗤いながら言葉を紡げば、彼女の瞳に光が戻る。この内容で喜んでしまうのだから、彼女も相当に狂っている。リジルと同じように。
そう思って再び、リジルは彼女の黒髪を弄る。手で梳いたり、毛先をくるりとして遊んでいると、ふいに彼女の表情が曇る。
「そんな輩、放っておけばいいじゃない。それに、私は素晴らしくなんてないわよ。」
その顔に宿るのは揶揄するかのような、人を見下す笑み。しかしその中には、自らへの嫌悪も少なからず含まれているように見える。
彼女は気が強いから、自己肯定感も高そうに思えるけれど、そうではない。自らに自信がないからこそ、自らが愛されるたる人間ではないと思うからこそ、リジルを試さずにはいられないのだ。だから、
「なんと可愛いのだろうね、君は。」
こういってやればいい。
スカーレットの今夜のお相手であるティムは、彼女が去った酒場で一人酒をしながら、彼女を巡る出来事を思い出していた。
きっかけは、ある男に声をかけられたことだ。物腰の柔らかそうなその男は、スカーレットの夫を名乗った。
その男は、不思議な依頼をしてきた。いわく、
「一夜、妻と共に酒を飲んでやってほしい。ただし、決して懸想せず、手も出すな。12時までには帰らせろ。」
と。
ティムはよくわらなかった。コイツ狂ってんのかと一瞬思った。なので、聞いた。
「なぜ?」
と。男は少し悩んで、静かにモノクルを外してから応えた。
「、、、、」
変態だ、と。そう思った。だって、奥さんを飽きさせないためにほかの男と遊ばせて、しかもそれに罪悪感を感じる奥さんを愛しいと思って愛でるのだ。
そのことを語る時の男は、愉悦に包まれていた。
流れの軽業師であるティムは、それゆえに情報通だ。だから、スカーレットとその夫リジルのことは、よく知っていた。おばさま方、おじさま方の話の種になりやすいからでもある。
しかしまあ、噂などとんだ嘘であった。気の弱い紳士の夫?奔放な遊び人の妻?
狂っているのは、異常なのは、スカーレットの方ではない。明らかにリジルの方だ。
ティムはそれがあまりに面白くて、そして鳥籠で踊っているらしい妻に会ってみたくて、好奇心だけでその依頼を受けた。
何度も何度も、それはもううんざりするほどに、
「懸想するな、手を出すな。」
と念を押されたが、それすらも面白かった。
しかし、妻に会ってからその評価はまたしても変わる。夫だけが狂っているのでも、弄んでいるのでもなく。お互いがお互いを試し合い、そしてそれゆえに愛し合っているのである。
「あなたも、あの人に依頼されたのでしょう?」
だって、第一声がこれなのだ。掌の上で転がされていることを承知の上で、それでもそれを受け入れているのだ。
「あの人には、申し訳ないと思っているわよ。いくらあの人が手配していると言えど、ほかの殿方といるのに変わりはないのだし。それに、私が元々遊び人であったのも、刺激を欲してしまう性格なのも事実なのだもの。」
しかも、それでも真に申し訳ないと思っているときた。そしてそれを語りながら、こう言ってくるのだ。
「ね、あの人って可愛いでしょう?」
ティムは、理解できなかった。なんだこの夫婦は、というのが本音だった。
なるほど、いくら妻が美しかろうと、これまで手を出す男がいなかったのにも頷ける。普通、夫が恐ろしかろうと男は男だから、従わないものだ。ティムだって、依頼をしたのがこの二人でなければ、きっとお持ち帰りしたに違いない。それほど美しいのだ、スカーレットは。
しかし、そういう気持ちはカケラも湧いてこなかった。なぜなら、入り込む余地が皆無だからだ。誰一人として、彼らの間に真実挟まることができる人間はいないだろう。
「コワッ!」
ティムは残りの酒を飲み干し、店を出た。あの二人に憧れないこともないが、自分はあんなに狂えないだろうという確信を胸に。
「まあ、いい話のネタにはなったな。」
次の街でこの話をすることにして、ティムは己の欲に蓋をした。
朝日が昇る少しばかり前の時間。目が覚めてしまったリジルは、隣に寝る美しき妻の顔を眺める。
その顔にかかる艶やかな髪を払い、いつも通りそれを弄んだ。
そして、ひとりごつ。
「どうか、飽きないでおくれよ。」
そう願う彼の顔は、どこまでも切実で、しかし愉しそうだ。
決して彼女が飽きることなどないと思っている、大丈夫だと知っている、なぜなら自分がそう仕組んでいるのだから。しかしそれでも、心配なのだ。
リジルにとって生きる意味とは彼女であり、彼女がいなければリジルは壊れて
しまう。
それに、リジルが仕組んでいるのはあくまで鳥籠の中の話。彼女が飽きてしまえば、いくらでも抜け出すことができる。
リジルだって、彼女と同じで臆病なのだから。鳥籠の内側にだってもちろん、鍵がついている。そこを開ければ、彼女は簡単に飛び立てるのだ。
だからリジルは彼女を飽きさせないために、必死なのである。そしてまた彼女も、鳥籠に縫い止められ続けることを、いまのところは望んでいるのである。
歪な二人の関係は、いつまで続くのやら。ずっと続くのかもしれないし、どこかでいきなり、どちらかが死ぬなりなんなりして終わりを迎えるのかもしれない。
リジルもスカーレットも、死後や来世を望むほどのロマンチストではないけれど、たぶんどちらかだけが死んだなら、きっともう片方も後を追うのだろう。
「ふふっ。」
ふと、彼女が笑った。起きているのだろうか、それとも寝ぼけているのだろうか。
まあ、どちらでも良いだろう。自分は、彼女を満足させ続けるだけだ。
その笑顔が己への肯定であることを願いながら、リジルはもう一度目を閉じた。
下の星などで評価いただけると嬉しいです。また、よければ他の作品も読んでみてください。先日こちらのお話の番外編も公開したので、よろしければそちらも。
ありがとうございました。




