表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

『戦地と今の往復書簡〜手紙のフリしたタイムマシン〜』

作者: くろめがね
掲載日:2026/02/09


 これは、再会の物語ではありません。

 手紙が届く話ではありますが、奇跡の話でもありません。


 戦争で夫を失った女と、

 父を知らずに育つ子どもと、

 そして、生き延びた人々の話です。


 愛は、いつも立派な形をしていません。

 約束も、守られるとは限りません。

 それでも、人は生活を続けます。


 続けることそのものが、

 誰かを守る行為になることがある――

 そんなことを、

 この物語は信じています。


第一章 約束


 子どもは、朝が早い。


 戦争が終わってから、余計にそうなった。

 銃声は消えたのに、眠りは戻らない。世界が静かになるほど、子どもは早く目を覚ます。


 「おかあさん」


 呼ばれて、私は布団を抜けた。

 足の裏が冷たい。畳が、まだ夜を引きずっている。


 「どうしたの」


 声を低くすると、子どもは安心する。

 安心すると、甘える。


 「ゆめ」


 それだけ言って、私の裾をつかむ。

 夢の内容は、言わない。言えないのかもしれない。私も聞かない。聞いてしまうと、朝が長くなる。


 私は子どもを抱き上げた。

 軽い。

 軽すぎる。


 あなたがいた頃より、確実に軽い。


 台所に連れていき、火を起こす。

 鍋に水を張る。

 味噌は、まだ貴重品だ。少しだけ削る。

 あなたが生きていた頃と同じ量。守るみたいに。


 「おとうさん、かえる?」


 子どもは、湯気を見ながら聞いた。

 湯気は、答えない。


 「今日は、来ない」


 私は言った。

 「今日は」と付けると、嘘が少し柔らかくなる。


 子どもはうなずいた。

 分かったふりを覚えるのが、早すぎる。


 朝食を終え、子どもを外に出す準備をしてから、私は郵便受けを開けた。

 開ける前から、胸の奥が少しだけ固くなる。

 期待ではない。恐怖でもない。

 生活の癖だ。


 白い封筒が、一通。


 私は一度、目を閉じた。

 閉じてから開ける。

 その間に、世界が変わることはないと分かっているのに、やってしまう。


 あなたの字だった。


 私の名前。

 少し右に傾く癖。

 最後の一画が、わずかに長い。


 死んだ人の字だ、と頭は言う。

 でも、手は知っている。

 これは、あなたの手だ。


 私は、子どもに背中を向けて、封を切った。



君へ。

今日は、子どもは泣かなかったか。


 私は、そこで息を止めた。

 泣いたかどうか、あなたは知らないはずだ。

 それなのに、あなたはいつも、そこから聞く。


俺はな、

子どもが泣いた日だけ、妙に覚えている。

君より先に抱き上げた日も、

君より後で、気まずくなった日も。


 私は笑った。

 声は出さない。子どもに聞かせたくなかった。


 あなたは、そういう人だった。

 肝心な場面では遅れて、

 後になってから、正確になる。


君が守れ。

子どもを。

俺の分まで。


 紙が、少し震えた。

 震えているのは、私の手だ。


守るってのは、

抱えることじゃない。

生かすことだ。

泣かせないことでもない。

怒らせないことでもない。

生きさせることだ。


 あなたは、こういうときだけ、立派だ。

 生きているときに、言えばよかった。


君が一人で抱え込むと、

子どもは、君の顔色を覚える。

それは、よくない。

子どもは、空を見るべきだ。

大人の顔じゃなくて。


 私は、子どものほうを見た。

 外で、近所の子と石を並べている。

 空を見ていない。

 でも、私の顔も見ていない。


 それでいい。

 それがいい。


君が、もし、

もう一度、誰かを選ぶ日が来たら、

俺のことは、使うな。

言い訳にするな。

盾にするな。

子どもは、君の選択を見て育つ。

俺の影で、生きさせるな。


 胸の奥が、きしんだ。

 あなたは、未来を知っている。

 私が、再婚の話を断り続けていることを。

 あなたを理由にしていることを。


君が笑うなら、

それは裏切りじゃない。

俺が守れなかった分を、

君が続けているだけだ。


 私は、便箋を膝に置いた。

 涙は出なかった。

 代わりに、背中がまっすぐになった。


 あなたは、約束を守っている。

 死んだあとも。


 私も、守らなければならない。

 生きている側として。


 子どもが振り返って、手を振った。

 私は振り返した。


 それだけで、今日を生きる理由としては、十分だった。


第二章 再婚という言葉は、鍋の底で焦げる


 再婚の話は、いつも唐突だ。


 唐突に見えるだけで、実際にはずっと煮込まれている。

 煮込まれて、味が出た頃に、誰かが蓋を開ける。


 「そろそろ、どうだい」


 言ったのは、近所の世話焼きだった。

 配給所の帰り、米袋を抱えているとき。

 重たいものを持っていると、逃げにくい。


 「子どももいるしさ」


 その言い方が、私は嫌いだ。

 子どもは、理由じゃない。

 子どもは、生活だ。


 「ありがたいけど」


 私は言葉を選んだ。

 選ぶと、相手は待ってくれる。

 待ってくれる顔をされると、こちらが悪者になる。


 「今は、考えていません」


 嘘ではない。

 ただ、期限を言っていないだけだ。


 その夜、私は鍋を火にかけながら、昼間の言葉を思い出していた。

 鍋の底が焦げないように、木べらで混ぜる。

 混ぜる動作は、考え事に向いている。


 「おかあさん」


 子どもが、鍋を覗き込んだ。


 「なあに」


 「おとうさんのはなし?」


 私は、手を止めた。

 止めてから、また混ぜた。

 止め続けると、焦げる。


 「……どうして、そう思ったの」


 「さっきから、やさしくない」


 胸の奥で、小さく何かが鳴った。

 やさしくない。

 あなたが生きていた頃、子どもはそんな言葉を知らなかった。


 「ごめんね」


 私は言った。

 理由は言わない。

 理由を言うと、子どもは覚えてしまう。


 その夜、子どもが眠ってから、私は郵便受けを見に行った。

 もう一度見る必要はない。

 分かっている。

 それでも、足が向く。


 封筒は、あった。


 私は、溜息をついた。

 安堵と苛立ちが、同時に来る。


 部屋に戻り、机に座る。

 灯りを少し落とす。

 明るすぎると、字が痛い。


 封を切る。



君へ。

今日は、誰かに、何かを言われただろう。


 私は、苦笑した。

 あなたは、こういうところだけ鋭い。


君の顔は、

何も言われていないときと、

言われたあとで、少し違う。

眉のあたりが、わずかに固くなる。

俺は、それを見て、

何度も、言うべきことを飲み込んだ。


 飲み込んだくせに、覚えている。

 覚えているくせに、言わない。

 あなたは、そういう人だった。


再婚の話だろう。

当たっているなら、返事はいらない。

当たっていなくても、返事はいらない。

俺は、君の沈黙のほうが、信用できる。


 私は、便箋を指でなぞった。

 紙の端が、少し毛羽立っている。

 戦地の湿気だろうか。

 それとも、あなたの手の震えだろうか。


君。

約束を、覚えているか。


 覚えている。

 覚えていないふりをしても、体が覚えている。


子どもを、守りきる。

俺たちは、そう言った。

「一緒に」と言えなかったのは、

俺が、臆病だったからだ。


 私の喉が、きゅっと鳴った。

 一緒に。

 その言葉を、あなたは最後まで言わなかった。


守るってのは、

俺を残すことじゃない。

俺の形を、家に置くことでもない。

君が、毎日、選び直すことだ。


 選び直す。

 それは、私が一番避けてきた言葉だ。


君が、

もう一度、誰かと並ぶなら、

それは、裏切りじゃない。

俺がいなくても、

子どもが笑う場所を作ることだ。


 私は、便箋を伏せた。

 伏せると、あなたの声が少し遠くなる。

 遠くなっても、消えない。


 台所のほうから、寝返りの音がした。

 子どもは、よく動く。

 夢の中でも、生きている。


 私は立ち上がり、そっと様子を見に行った。

 布団から、腕がはみ出している。

 私はその腕を、中に入れた。

 それだけで、胸が少し楽になる。


 あなたは、この腕を抱いたことがある。

 ある。

 それだけで、十分だ。


 私は、机に戻った。

 便箋をもう一度、広げる。


君へ。

俺は、君に、

幸せになってほしい。

ただし、

俺を使って、幸せになるな。

俺を理由に、幸せを遠ざけるな。


 私は、静かに息を吐いた。

 あなたは、私を縛らないふりをしながら、

 私に、重たい自由を渡す。


 便箋の最後。


子どもが、

「お父さんは?」と聞いたら、

正直に言え。

いなくなった、と。

守れなかった、と。

それでも、

約束は、まだ生きている、と。


 私は、便箋を畳んだ。

 畳むと、決意みたいな形になる。


 再婚の話は、逃げられない。

 逃げると、子どもが先に大人になる。


 私は、鍋の火を思い出した。

 混ぜ続けなければ、焦げる。

 でも、混ぜすぎると、形がなくなる。


 守りきる、という約束は、

 動かさないことじゃない。

 火を見ながら、手を離さないことだ。


 私は、明日、返事をするつもりだ。

 世話焼きに。

 子どもに。

 そして――

 あなたには、しない。


 返事を書かないことも、

 選択だと、

 あなたが教えたから。


第三章 子どもは「いない」を覚えるのが早い


 子どもが「おとうさんは?」と聞くのは、決まって忙しいときだった。


 鍋が沸いている。米が足りない。洗濯物が乾かない。

 そういう、こちらの手が塞がっている瞬間を選ぶみたいに、子どもは聞く。

 答えが重たいことを、本能で知っているのだと思う。重たいものは、落としやすい。


 その朝もそうだった。


 味噌を溶いたところで、子どもが湯呑みを二つ並べた。

 二つ。

 あなたがいた頃の数。


 「おとうさんの」


 子どもは平然と言って、空の湯呑みを湯気の前に置いた。

 湯気がそこに座るみたいに、白く立ちのぼる。

 私は木べらを持ったまま、動けなかった。


 「……それは」


 声が、うまく出なかった。

 出なかった声を、子どもは見上げて待つ。

 待てる顔になっていた。いつの間に。


 「おとうさん、あついの、きらいだったでしょ」


 子どもは言った。

 そうだった。あなたは熱いものを猫舌みたいに避けた。

 それを、子どもは覚えている。覚えているほど、あなたは確かにここにいた。


 私は鍋の火を弱めた。

 弱めながら、胸の奥の火が強くなった。


 「ねえ、おかあさん」


 子どもがもう一度言う。

 その呼び方が、今日は少しだけ大人びていた。


 「おとうさん、どこ?」


 私は、答えを選べなかった。

 選べないから、これまで「今日は来ない」と言い続けた。

 「今日は」で世界を薄めてきた。薄めたものが、いま、底に沈んで戻ってきた。


 私はしゃがんで、子どもの目の高さに顔を合わせた。

 目を合わせると、逃げられない。

 逃げないために、私は目を合わせた。


 「……おとうさんはね」


 言葉が、喉で引っかかった。

 引っかかったままでも、出さなきゃいけない。


 「いなくなったの」


 子どもは瞬きをした。

 理解したふりをしない。

 ふりをしないぶん、痛い。


 「いなくなったって、どこに?」


 私は、息を吸った。

 息を吸うと、あなたの匂いが少しだけ混じった気がした。

 気のせいでいい。今日だけは。


 「……遠いところ」


 それは嘘ではない。

 でも、それは逃げ道だ。


 子どもは、湯呑みを見た。

 湯呑みの中は空だ。空なのに、そこに意味が座っている。


 「かえってこない?」


 私は、うなずいた。

 うなずくのは簡単だ。簡単だから、罪みたいに感じる。


 子どもは、その場で泣かなかった。

 泣くときは、あとから来る。

 泣くのは、夜だ。布団だ。静けさだ。

 私は、それを知っている。怖いくらい知っている。


 「……じゃあ」


 子どもは言った。


 「このおちゃ、だれがのむの」


 私は、笑ってしまった。

 笑った瞬間、泣きそうになった。

 泣きそうな笑いを、子どもは見ていた。見ていたけれど、真似しなかった。


 「私が飲む」


 私は言った。


 「二つ分、飲む」


 子どもは少し考えてから、湯呑みを一つ片づけた。

 片づける動作が、きれいだった。

 きれいすぎて、胸が痛い。


 ***


 その夜、子どもは布団に入ってから、急に黙った。

 黙り方が、昼間と違う。

 昼間の黙りは考える黙り。夜の黙りは、落ちる黙りだ。


 「おかあさん」


 小さな声。


 「なあに」


 私は、声を柔らかくした。柔らかくしすぎると嘘になる。

 柔らかいけど、逃げない声を探す。


 「おとうさん、いなくなったって、しんだってこと?」


 子どもは、言ってしまったあとで口を閉じた。

 言葉が部屋に落ちて、転がる音がした気がした。

 私は、その音を拾うみたいに、ゆっくり息を吐いた。


 「……うん」


 私は言った。


 「おとうさんは、戦争で、死んだ」


 子どもは、目を開けたまま黙った。

 涙が出ないのが、いちばん怖い。

 出ない涙は、長く残る。


 「じゃあ」


 子どもが言う。


 「おとうさん、こわかった?」


 私は、その質問に負けそうになった。

 怖かったに決まっている。

 でも、怖かったと答えたら、子どもは自分の怖さを許せなくなる気がした。


 「……こわかったと思う」


 私は正直に言った。正直はいつも足りない。

 足りないぶんを、抱きしめる。


 「でもね」


 私は続けた。


 「おとうさん、君のこと、守るって約束してた」


 子どもは、私の顔を見た。


 「まもれなかったじゃん」


 その言い方は、責めていない。

 事実を置いただけ。子どもは、事実が好きだ。大人の言い訳より。


 私は、うなずいた。


 「うん。守れなかった」


 それを言うと、胸が少しだけ軽くなった。

 軽くなることに罪悪感が湧く。

 でも、ここで軽くならなければ、子どもを抱いていられない。


 「だからね」


 私は言った。


 「守るのは、今は、私の仕事」


 子どもは小さく息を吸って、吐いた。

 泣き声ではない。泣き声の手前の音。

 その音が、私の腕の中で震えた。


 「おかあさん、まもれる?」


 私は、すぐ答えられなかった。

 守れると断言するのは嘘になる。守るというのは、毎日負けないことじゃない。負けながら戻ることだ。


 私は子どもの額に口をつけた。

 温かい。生きている。


 「守る」


 私は言った。


 「守りきる」


 約束は、簡単に口にしてはいけない。

 でも、言わなければ始まらない。

 あなたがいない分、私は言わなければならない。


 子どもは、ようやく泣いた。

 声を出さない泣き方だった。

 涙だけが、布団に落ちていく。


 私は、その涙を拭かなかった。

 拭くと、涙が悪者になる。

 涙は、正しい。


 ***


 翌朝、郵便受けに封筒が入っていた。

 私は、見る前から分かった。紙の重みが違う。

 世の中の通知は軽い。あなたの手紙は重い。


 部屋に戻って、子どもに背中を向ける。

 子どもは朝の支度をしているふりをして、私の背中を見ている。

 見られている背中で、私は封を切った。



君へ。

子どもに、俺のことを話したか。


 私は、便箋を持つ手に力が入った。

 あなたは、知っている。知っている言い方だ。


君は、

「今日は来ない」と言い続ける。

それは優しさだ。

でも、優しさは、時々遅れる。

遅れた優しさは、後から刺さる。


 刺さっている。

 いま、刺さっている。


子どもは、

俺より強い。

俺が思っているよりずっと強い。

ただ、強いままにしておくな。

強いふりを覚えさせるな。

泣く日は泣かせろ。


 私は、子どもの泣き顔を思い出した。

 声のない泣き方。

 泣き方まで、あなたに似ている。


君。

守るってのは、

「一人で頑張る」じゃない。

君が倒れたら、約束が折れる。

だから、頼れ。

頼るのは、弱さじゃない。

俺ができなかった分を、君がするだけだ。


 私は、笑ってしまった。

 頼れ、とあなたは言う。

 あなた自身が、私に頼れなかったくせに。


俺は、君に、謝りたい。

戦地で勇ましく死んだ、みたいな顔はしたくない。

俺は怖かった。

でも、君と子どもの顔を思い出したら、

もう少しだけ前に出られた。

それだけだ。


 それだけ、でいい。

 英雄じゃなくていい。

 あなたが怖かったと言ってくれるだけで、子どもの怖さが許される。


追伸

子どもが「お父さんは?」と聞いたら、

「いなくなった」と言うな。

「死んだ」と言え。

死は、隠すほど大きくなる。

小さく言ってやれ。

その代わり、

生きているものを大きくしてやれ。

たとえば、朝の味噌汁とか。

たとえば、手を洗う水の冷たさとか。

そういうので十分だ。


 私は便箋を畳んで、胸に当てた。

 紙越しに、あなたがいる気がした。

 気がしただけで、今日の足が出る。


 そのとき、戸を叩く音がした。


 「奥さん、いるかい」


 世話焼きの声だ。

 私は、便箋を急いで引き出しにしまった。

 隠したいわけじゃない。けれど、見られると、生活の順番が崩れる。


 戸を開けると、世話焼きが立っていた。

 その横に、男が一人いた。


 年は、私より少し上に見える。

 顔は派手じゃない。

 目が、まっすぐだ。

 まっすぐな目は、こちらの逃げ道を塞ぐ。


 「この人ね、復員で戻ってきてさ」


 世話焼きが言う。


 男は頭を下げた。

 下げ方が丁寧だった。

 丁寧すぎて、胸が痛い。丁寧さは、決意に似ている。


 「……突然すみません」


 男が言った。

 声が低くて、落ち着いている。

 落ち着いた声は、子どもを安心させる。


 子どもが、私の後ろから顔を出した。

 男は、その子どもに、目線を合わせて頭を下げ直した。


 「こんにちは」


 男が言った。


 子どもは、返事をしなかった。

 返事をしない代わりに、私の手を握った。

 強く。


 私は、その握る力で分かった。

 ここから先は、私の恋だけの話ではない。

 守るという約束の話だ。

 そして、守るには、選ばなければならない。


 私は、男を見た。

 男は私を見た。

 目が逃げない。

 逃げない目は、怖い。

 でも、いつまでも逃げると、子どもが先に大人になる。


 「……お茶、淹れます」


 私は言った。

 二つ湯呑みを並べる癖が、指に残っていた。

 私は、一つ多く湯呑みを出した。


 その湯呑みの数が、私の心臓を少し速くした。


 引き出しの中で、あなたの便箋が静かだった。

 静かだから、余計に重い。


 私は、湯気の向こうにいるあなたに、心の中で言った。


 ——見てる?

 ——私、今、選ぶところに立ってる。


 あなたは答えない。

 答えないのに、手紙だけは、また届く。


第四章 生きている男の、重さ


 男の名前は、すぐには覚えなかった。


 覚えなかったというより、覚えないようにしていた。

 名前を覚えると、人になる。

 人になると、物語が始まってしまう。


 世話焼きが帰ったあと、男は玄関に立ったまま、靴を揃えた。

 揃え方が、あなたと違う。

 あなたは、いつも少しだけ雑だった。急いでいないくせに、急いだふりをする。


 「……上がりますか」


 私が言うと、男は一瞬だけ迷ってから、うなずいた。


 その迷い方が、よかった。

 勝手に踏み込まない。

 でも、引かない。


 子どもは、私の後ろから離れなかった。

 離れないけれど、隠れもしない。

 観察している。

 あなたが生きていた頃、あなたも、子どもにそう観察されていた。


 「お邪魔します」


 男は低く言った。

 声に、余計な湿り気がない。

 湿り気のない声は、信用できる。

 信用できるぶん、怖い。


 私は台所で湯を沸かした。

 湯が沸くまでの時間は、会話を考えるのにちょうどいい。

 考えすぎると、湯が溢れる。

 溢れない程度に、私は考えた。


 湯呑みを三つ並べた。

 一つ多い。

 わざとだ。


 男は、それを見て、何も言わなかった。

 視線だけが、一瞬、湯呑みの数に触れて、離れた。

 触れて離れる。その距離感が、また厄介だった。


 「……お名前」


 私が聞くと、男は名乗った。

 短い名前だった。

 短い名前は、呼びやすい。

 呼びやすいということは、呼んでしまうということだ。


 「子どもがいます」


 私は、先に言った。

 説明じゃない。宣言だ。


 男はうなずいた。


 「知っています」


 知っている、と言われると、少し腹が立つ。

 でも、知らないふりをされるよりはいい。


 「……戦争で」


 私が言いかけると、男は遮らなかった。

 遮らない人は、言葉を待てる。

 待てる人は、奪わない。


 「亡くなりました」


 私は言った。

 言い切った。

 言い切ると、胸の奥で何かが鳴る。

 鳴っても、壊れない。


 男は、深く頭を下げた。

 深すぎない。

 哀悼の形を、ちゃんと知っている下げ方だった。


 「……大変でしたね」


 それだけ言った。

 慰めすぎない。

 同情しすぎない。

 その“しなさ”が、重たい。


 子どもが、男を見た。


 「おじさん、どこからきたの」


 いきなりだった。

 子どもは、遠慮を知らない。

 知らないけれど、残酷でもない。


 「……遠いところから」


 男は、私と同じ答えを出した。

 その一致に、胸がざわついた。

 同じ答えを出せるということは、同じ嘘をつけるということだ。


 「とおいって、どれくらい」


 子どもは続ける。

 詰める。

 詰めるのが上手くなっている。


 男は少し考えてから、言った。


 「……歩くと、だいぶ」


 私は、笑ってしまった。

 笑いが出たことに、少し驚いた。

 この人は、子どもに“分かる嘘”をつく。


 子どもは満足したようにうなずいた。


 「じゃあ、つかれたね」


 男は、少しだけ笑った。

 その笑い方が、あなたと違う。

 違うことが、少し救いだった。


 ***


 その夜、子どもが眠ってから、私は引き出しを開けた。

 便箋は、きちんと揃っている。

 揃えたのは、私だ。

 揃えておかないと、崩れる。


 新しい封筒が、一通。


 私は、ため息をついた。

 あなたは、いつも間が悪い。


 封を切る。



君へ。

今日、家に、男が来ただろう。


 私は、便箋を持つ手を止めた。

 知っている。

 知っている言い方だ。


嫉妬するな、と言われても、

俺はする。

それは、悪いことじゃない。

生きている証拠だ。


 死んでいるくせに。

 そう思って、少しだけ笑った。


ただな、

嫉妬で君を縛るほど、

俺は卑怯じゃないつもりだ。

……つもり、だけどな。


 あなたは、正直だ。

 遅いけれど。


その男が、

子どもを、どう見たか。

それだけ、教えてくれ。


 私は、考えた。

 男の目。

 子どもを見る目。

 可哀想なものを見る目ではなかった。

 面倒なものを見る目でもなかった。


 「これから知るもの」を見る目だった。


君。

子どもは、

俺の代わりを探していない。

君も、探すな。

代わりはいらない。

必要なのは、

今日を一緒に生きる人だ。


 今日。

 あなたが、もう生きられない単位。


約束を、忘れるな。

守りきる。

それは、

君が、幸せになることだ。


 私は、便箋を畳んだ。

 畳みながら、少しだけ腹が立った。


 あなたは、ずるい。

 生きていないから、正しいことが言える。

 生きていないから、許すことができる。


 でも、許される側は、生きている。


 私は、窓を開けた。

 夜の空気が、冷たい。

 冷たさは、現実だ。


 私は、心の中で言った。


 ——あなた、私が誰かと笑っても、怒らない?


 返事はない。

 でも、手紙はまた来る。


 私は、湯呑みを洗った。

 三つ分。


 水が冷たくて、指が少し赤くなった。

 生きている証拠だ。


 守る、という約束は、

 今日も、私の手の中にある。


第五章 子どもは、選ばれる側ではない


 男は、何度も来るようになった。


 来る、というより、

 生活の隙間に立つようになった。


 配給の帰り道で会う。

 子どもと川辺を歩いているときに、少し先から現れる。

 声をかけるでもなく、立ち止まるでもなく、

 「そこにいる」感じで。


 その距離が、いやらしくなかった。

 いやらしくないから、困った。


 「こんにちは」


 子どもが先に言った。

 声が明るい。

 明るさは、判断より先に来る。


 「こんにちは」


 男は、同じ高さの声で返した。

 子どもに合わせる声。

 合わせすぎない声。


 私は、そのやりとりを、少し離れたところから見ていた。

 見守る、という言葉は、きれいすぎる。

 これは、測っている。


 男が、子どもに何を与えようとしているのか。

 与えすぎないか。

 奪わないか。


 子どもは、男のほうを見て、急に聞いた。


 「おじさん、こわかった?」


 唐突だった。

 戦争の話を、子どもはまだほとんど知らない。

 でも、空気で嗅ぎ取る。

 怖いものは、匂いがある。


 男は、立ち止まった。

 止まり方が、よかった。

 すぐに答えない。

 逃げない。


 「……こわかったよ」


 男は言った。


 「でもね」


 続ける前に、子どもの目を見た。


 「こわかったって言ってもいい場所が、あった」


 子どもは考えた。

 考える時間を、男は奪わなかった。


 「どこ」


 「……家」


 私は、息を止めた。

 言葉が、胸に当たった。


 子どもは、私を見た。

 確認する目。


 私は、うなずいた。

 小さく。

 それで十分だった。


 男は、それ以上、何も言わなかった。

 戦争を説明しない。

 勇気を語らない。

 ただ、怖かったと言った。


 あなたが、できなかったこと。


 ***


 その夜、私は手紙を待ってしまった。


 待つのは、よくない。

 待つと、判断が遅れる。

 それでも、私は郵便受けを開けた。


 封筒があった。


 あなたは、やはり間が悪い。


 私は、笑わなかった。

 封を切る。



君へ。

子どもは、

俺に似ているだろう。


 胸の奥が、少しだけ痛んだ。

 似ている。

 それは、逃げられない事実だ。


俺はな、

子どもが、

俺の背中を探すのが怖い。

探して、見つからない場所に、

立たせるのが怖い。


 あなたは、そこまで分かっていて、

 どうして生きて帰ろうとしなかった、

 と、言いそうになって、やめた。

 言っても、届かない。


君。

子どもは、

選ばれる側じゃない。

君が選ぶ。

それだけだ。


 私は、便箋を膝に置いた。

 その言葉は、刃物みたいに正しい。


その男が、

子どもに、

怖かったと言ったなら、

俺は、少しだけ、安心する。


 嫉妬の影が、薄くなっていた。

 その薄さが、逆に切ない。


俺は、

君と子どもを、

守りきれなかった。

だから、

その続きを、

君が選べ。


 私は、便箋を閉じた。

 閉じると、あなたの役目が終わる気がした。

 終わらせたくなくて、指が止まる。


 子どもが、寝返りを打った。

 布団の中で、何かを探す手。


 私は、布団に近づいて、その手を取った。

 温かい。

 生きている。


 あなたのいない世界で、

 この温度を守る。


 それが、約束の続きだ。


 ***


 数日後、男が言った。


 「急ぐつもりはありません」


 急がない、という言葉は、

 相手に決断を委ねる。

 優しさの形をした圧だ。


 「でも」


 男は続けた。


 「子どもが、

  誰かの背中を探すなら、

  その背中に、なりたい」


 私は、即答しなかった。

 即答すると、約束が軽くなる。


 子どもは、私の手を握っていた。

 いつもより、少し強く。


 私は、子どもを見た。

 子どもは、男を見た。

 そして、私を見た。


 選ばれる側じゃない。

 でも、見ている。


 私は、深く息を吸った。


 「……時間をください」


 男は、うなずいた。

 そのうなずきに、押しつけがなかった。


 夜、私は机に向かった。

 便箋を取り出した。

 初めて、返事を書くために。


 あなた宛てに。


 ペンを握った手が、震えた。

 震えは、悪くない。

 震えは、生きている証拠だ。


 私は、書いた。


 ——

 ——あなた。

 ——私、今、選ぶところにいる。

 ——守るって約束が、

 ——やっと、私の言葉になりそう。


 そこで、ペンを止めた。


 返事は、出さなかった。

 出さないことが、返事だと、

 あなたが教えたから。


 私は、便箋を畳んで、引き出しにしまった。

 そこは、過去の声の場所。


 窓を開けると、夜の風が入ってきた。

 風は、あなたの匂いを運ばない。

 それが、少しだけ、楽だった。


 私は、子どもの寝顔を見た。


 この顔が、

 明日も、明後日も、

 怖いと言っていい世界を作る。


 それが、守りきる、ということだ。


挿入章 君、今日僕は死ぬ。


 その手紙は、薄かった。


 いつもの封筒より、少しだけ。

 紙が少ないというより、迷いが少ない重さだった。


 私は、その重さで分かった。

 これは、最後だ。


 郵便受けを閉める音が、やけに大きく響いた。

 終戦が近いせいだ、と自分に言い聞かせた。

 町は、最近、何でも大きく響く。


 子どもは、裏で石を並べている。

 数を数える声が聞こえる。

 数えられるものは、安心だ。


 私は、机に座った。

 座ってから、立ち上がりそうになって、やめた。

 今日は、逃げない。


 封を切る。



君、今日僕は死ぬ。


 文字を見た瞬間、

 胸が痛むより先に、静かになった。


 予感は、いつも当たる。

 当たるから、誰も言わない。


いきなりで、ごめん。

でも、たぶん、これが最後だ。

作戦の説明は書かない。

書いても、君は眠れなくなるだけだから。


 あなたは、最後まで生活の人だ。

 死ぬと分かっているのに、私の睡眠を心配する。


僕は今、

終戦に向けた、最後の作戦の中にいる。

逃げ道は、ある。

けれど、それは、

僕が生き延びるためのものじゃない。


 私は、そこで一度、便箋から目を離した。

 息を吸った。

 吐いた。

 あなたが、これを書くときにした呼吸を、真似するみたいに。


君に、約束しただろう。

子どもを、守りきるって。

僕は、その約束を、

ここで、使う。


 使う、という言い方が、あなたらしい。

 大事なものほど、道具みたいに言う。


正直に言うと、

僕は、怖い。

英雄みたいな顔はできない。

手が、少し震えている。

でも、震えながら書いているから、

字は、たぶん、君が知っている僕の字だ。


 私は、指で文字をなぞった。

 確かに、あなたの字だった。

 震えた線まで、あなた。


君。

子どもは、今日も生きる。

明日も、生きる。

僕がいなくても。

それが、悔しくて、

それが、救いだ。


 涙は、出なかった。

 代わりに、背中が少し伸びた。


君が、

僕の死を、

重たく扱わなくていい。

軽くもしなくていい。

ただ、

生活の中に、置け。


 あなたは、最後まで、

 私を「残される人」にしない。


再婚してもいい。

笑ってもいい。

子どもが、

僕を忘れてもいい。

忘れることは、

裏切りじゃない。

生き延びた証拠だ。


 私は、そこで、初めて、便箋を胸に押し当てた。

 あなたの鼓動を、想像した。

 もう止まる鼓動。


君。

僕は、

君と子どもを、

最後まで守れなかった。

だから、

この先は、

君が守れ。


 命令でも、お願いでもない。

 引き渡しだ。


最後に。

子どもに、

僕のことを話すときは、

立派に言うな。

怖かった、と言え。

それでも、前に出た、と言え。

それだけでいい。


 便箋の最後は、

 少しだけ字が乱れていた。


君。

僕は、

君を、愛している。

これは、

命令じゃない。

最後の、事実だ。



 私は、便箋を畳んだ。


 畳むと、紙は静かになる。

 静かだから、死が確定する。


 外で、子どもの笑い声がした。

 笑い声は、残酷だ。

 でも、あなたが守ろうとした音だ。


 私は立ち上がり、外を見た。

 子どもは、石を積み上げている。

 倒しては、また積む。


 壊れても、やり直す。

 それを、生きると言う。


 私は、心の中で答えた。


 ——分かった。

 ——あなたの約束、受け取った。

 ——だから、行って。


 その日から、

 あなたの手紙は、

 少しずつ、

 送り出す言葉に変わっていった。


最終章 手紙が来ない朝


 朝、郵便受けは空だった。


 それだけのことなのに、私は少し立ち尽くした。

 期待していたわけじゃない。

 恐れていたわけでもない。

 ただ、習慣が終わった音がした。


 子どもは、もう起きていた。

 台所で、水を飲んでいる音がする。

 ごく、ごく、という音。

 生きている音。


 「おかあさん」


 呼ばれて、私は返事をした。

 いつも通りの声で。


 「なあに」


 その「なあに」が、

 あなたの手紙よりも、

 ずっと現在だった。


 味噌汁を作る。

 量は、三人分ではない。

 二人分だ。


 それでも、少しだけ多めに作る癖は残っている。

 癖は、悪いものじゃない。

 生活の跡だ。


 子どもが、湯呑みを並べた。

 二つ。


 私は何も言わなかった。

 言わなくていいことが、増えてきた。


 「ねえ」


 子どもが言う。


 「きょう、おじさん、くる?」


 私は、鍋を混ぜながら答えた。


 「来るよ」


 それが、私の選択だった。

 誰にも押されていない。

 手紙にも。


 子どもは、うなずいた。

 そのうなずきに、探る色はなかった。


 ***


 昼過ぎ、男が来た。


 子どもは、少し考えてから、

 男のことを名前で呼んだ。


 それだけで、胸の奥が静かになった。

 代わりじゃない。

 新しい呼び方だ。


 男は、子どもを見て、私を見た。

 何も言わない。

 言わないでいられる人だ。


 私は、机の引き出しを開けた。

 便箋は、きれいに揃っている。

 増えない。

 減らない。


 私は、その中から一通だけ取り出した。

 「君、今日僕は死ぬ。」

 あの日の手紙。


 男に見せるためじゃない。

 捨てるためでもない。


 ただ、戻すためだ。


 私は、便箋を元の場所に戻した。

 引き出しを閉めた。

 それで、終わり。


 あなたは、もう、生活に口出ししない。

 それでいい。

 それが、約束の果たされ方だ。


 男が言った。


 「無理は、しないでください」


 私は、少しだけ笑った。


 「無理は、します」


 男は驚いた顔をして、

 それから、納得した顔になった。


 「……一人で?」


 「一人じゃない」


 私は、子どものほうを見た。

 子どもは、石を積んでいる。

 崩して、また積んでいる。


 男は、うなずいた。


 ***


 夜、子どもが寝たあと、

 私は机に向かった。


 便箋を出す。

 白い紙。


 あなた宛てではない。

 未来宛てでもない。


 私は、書かなかった。


 書かない、という選択をした。

 それは、あなたが最後にくれた自由だ。


 窓を開けると、風が入ってきた。

 風は、何も運ばない。

 それが、少し寂しくて、

 とても楽だった。


 私は、心の中で言った。


 ——あなた。

 ——手紙は、もう、いらない。

 ——約束は、守ってる。

 ——毎日。


 返事はない。

 それでいい。


 子どもが、寝言を言った。


 「……だいじょうぶ」


 誰に向けた言葉かは、分からない。

 分からないまま、布団を直す。


 私たちは、生きている。

 それだけで、

 あなたの死は、無駄じゃなかった。


 郵便受けは、明日も空だろう。

 でも、台所は鳴る。

 足音がする。

 名前が呼ばれる。


 手紙が来なくなった日から、

 私は、ちゃんと現在にいる。


 それが、

 あなたと交わした、

 最後の約束だった。



 戦争は、人を殺します。

 それだけでなく、

 生き残った人の時間も、

 少しずつ奪っていきます。


 この物語では、

 死者は語りますが、導きません。

 未来を決めるのは、

 常に、生きている側です。


 「守る」という言葉は、

 ときに、誰かを縛ります。

 けれど本来それは、

 生き続けるための言葉でした。


 もし、この物語を読み終えたあと、

 誰かの日常が、

 少しだけ重く、

 それでも少しだけ大切に感じられたなら、

 それが、この作品の望む結末です。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ