戒名
むかしむかし、夜、とある飲み屋で男たちが酒を飲み、わいわい騒いでいた。ぐつぐつと湯気の立つ鍋、焼き魚や甘辛い煮物の匂い、こん、と徳利を卓に置く甲高い音が響く。そんな雑多な熱気を帯びた空気の中で、話題は女や仕事の愚痴から始まり、酔いが回るにつれて、明日には忘れそうな何でもない話へと移っていき、そして『これまでで一番高い買い物』へと進んだ。
「俺は酒だな! こんな安酒じゃねえぞ? 船来もんの、目玉が飛び出るような酒だ!」
「俺は仕事道具かなあ。やっぱ道具に金をかけねえと、腕も鈍るってもんよ」
「わしは有名な茶器だな。偽物? いやいや、そんなことあるまいよ。鑑定書だってちゃんと付いとるんだ」
「俺は富くじだ! いつかでっかくなって戻ってくるぞお!」
「あたしゃ、かかあだよ。相手の家に着物やら反物やら、それに金まで送ったんだ。そうしなきゃ認めてもらえねえってんでよ。くそっ。確かにそんときゃ別嬪だったが、今じゃあもう……ありゃ詐欺だよ、詐欺!」
卓を叩き、皆が大笑いする中、ただ一人、藤吉という男だけがにやりと不敵な笑みを浮かべながら黙って杯を傾けていた。その様子に気づいた仲間の一人が、藤吉に尋ねる。
「おい、藤吉。お前さんの高い買い物はなんだい?」
「ははは、こいつにはねえねえ」
「そうそう、ケチだしな。どうせ貯め込んでるか、博打で全部すっちまったんだろうよ」
げらげらと笑い声を浴びせらていた藤吉だったが、まったく動じていない。むしろ待ってましたとばかりに胸をどんと張り、わざとらしく咳払いをした。
「えー、おれの一番高い買い物が知りたいって?」
「もったいぶるなよ」
「どうせ大したもんじゃねえんだろう」
「いやいや、実はな……つい最近、大金を使ったんだよ。こつこつ貯めたやつを一気に、ぱーん! とよ!」
「はいはい、わかったわかった」
「で、何買ったんだよ」
皆がけらけら笑う中、藤吉は鼻を膨らませて言い放った。
「それはな……戒名だ!」
その瞬間、藤吉たちの卓の空気だけがすっと冷えたように静まり返った。皆ぽかんと口を開け、杯や箸を持ったまま藤吉を見つめて固まった。
そして次の瞬間、間の抜けた声が重なった。
「……戒名?」
「そう! それはそれは徳のたか~いお坊さんにつけてもらったんだぞ! はははは!」
「いや、お前……戒名ってのは死んでからつけるもんじゃねえのか?」
「あの世で使うための名前だよな」
「お前、もう死ぬのか?」
「おいおい、縁起でもねえこと言うなよ! どうせ人間、いつかはつけるもんだろ。だったら今からだっていいじゃねえか。むしろ早いに越したこたあねえ!」
藤吉は得意げにそう言い切った。皆は顔を見合わせ苦笑し、しぶしぶ耳を傾ける。
「で、そのありがた~い戒名ってのは、どんなだ?」
「よくぞ聞いてくれた! いいか、耳の穴かっぽじって、よーく聞けよ。オホン……紫雲院殿信道政誉仁徳蓮華清浄誠信慈光慧照光明浄念真蔵円徳悟真藤吉大居士だ!」
「ん?」
「は……?」
「だから、紫雲院殿信道政誉仁徳蓮華清浄誠信慈光慧照光明浄念真蔵円徳悟真藤吉大居士だよ!」
「いや、ん?」
「だーかーら! 紫雲院殿信道政誉――」
「いや、いい、もう言わんでいい。長すぎるだろ」
「たしか戒名って、長けりゃ長いほど金がかかるんだよな?」
「馬鹿じゃねえのか、お前」
藤吉は大きく息をつき、やれやれといった調子で肩をすくめた。
「あのなあ、戒名は長けりゃ長いほど偉くて尊敬されるんだぞ。だったら長いほうがいいに決まってんじゃねえか。短いやつは“短小野郎”って呼んで馬鹿にしてやるんだ」
「そんなやつ尊敬されるかよ」
「そもそも、その戒名の意味を自分でちゃんとわかってんのか?」
「もちろんだ! 坊さんに一つひとつ、きっちり教えてもらったからな。いいか、まず『紫雲』は極楽往生を意味していて、『院殿』は社会的地位が高く、世の中に貢献した者に与えられる称号で――」
「お前、地位なんてこれっぽっちもありゃしねえだろ」
「何かに貢献した覚えもねえな」
「『信道』は仏を信じて道を歩む者で、『政誉』は政治的に携わり、功績を残した者で――」
「お前、どっちも違うじゃねえか」
「地蔵に小便ひっかけたことあったよな」
「『仁徳』は人を思いやり、道徳心のある人間って意味で、『蓮華』は仏教の象徴だとかで、『清浄』は清らかで穢れなく、『誠信』は誠実で、『慈光』は他者への思いやりがあって――」
「いや、なんか似たような意味ばっかりじゃねえか?」
「いいから口を挟むな! せっかく覚えたのに忘れちまうだろうが。ええと、それで『慧照』は仏への深い理解、『光明』は光がすごくて、『浄念』は厠に行ったら必ず手を洗って、『晋三』は、ええと……ん? 違うな。『真蔵』は――」
「もういい、もういい。頭が痛くなってきた……」
「大方、こいつがあれこれ注文つけるもんだから、坊さんが面倒になって適当に付けたんだろ」
「はーあ……。まったく、信心が足りねえ連中だよ。とにかくだ! これからはおれのことをそう呼ぶように!」
「そう呼べって……戒名でか?」
「なんでだよ」
「決まってんだろ。あんだけ金がかかったんだ。今から使っとかねえと、もったいねえじゃねえか!」
一同これには呆れ果て、乾いた笑いを漏らすしかなかった。
それから幾年。
藤吉は幸いにも大病を患うこともなく寿命を迎え、気がつけば三途の川のほとりに立っていた。
あたりには薄い白霧が漂い、川面から冷たい気配が立ち上っている。トン、トンと舟が桟橋に当たる鈍い音が響いていた。
「はいはい、そこそこ善人の皆さん、舟が出るでー。名前呼ばれたら元気に返事して、さっさと乗りや。えーっと……五郎、源蔵、右衛門、藤吉――」
「ちょ、ちょっと待った!」
「ん? なんや、あんた藤吉やろ? はよ乗りや」
「いや、なんで戒名で呼んでくれないんです?」
「あん? あんな長ったらしいもん、読めるかいな。だいたい戒名で呼ばれても自分のことやって気づかん死人、多いねん」
「いやいや、おれは生前につけたんで、ちゃんとわかりますから。だから、戒名で呼んでくださいよ」
「なんや、ややこしい死人やなあ……。まあ、ええわ。えーっと……紫雲院殿信道政誉仁徳……って、なんやこれ。長すぎるわ。あんた阿保ちゃうか」
「どうです? 立派でしょう。さ、続きをどうぞ」
「こんなん読んでられるかいな。ほな次いくで。文吉、三郎、弥吉、寅之助――」
「いや、ちゃんと最後まで読んでくださいよ! 大金はたいてつけたんですよ!」
「そんなん知らんわ。権兵衛、輝五郎、忠助。ほな皆さん、銭この箱に入れてなー。舟出すでー」
「ちょ、ちょっと!」
舟が桟橋を離れても、藤吉はしつこく船頭に食らいついた。あまりの執念深さに、ついに根負けした船頭は、うんざりした顔で渋々読み上げる。
「えー……紫雲院殿信道政誉仁徳清浄――」
「『蓮華』が抜けますよ! ちゃんとお願いしますよ」
「……えー、紫雲院殿信道政誉仁徳蓮華清浄阪神――」
「『誠信』ですよ! 阪神ってなんですか。もう一回!」
「……えー、紫雲院殿政誉清浄藤寿大居。ほい」
「短くしすぎでしょ! 馬鹿なんですか、まったく……。いいですか? 一回読んであげますから、ちゃんと聞いててくださいよ。紫雲院殿信道政誉仁徳蓮華清浄誠信――うわっ!」
とうとう癇癪を起こした船頭は、藤吉を思い切り舟から蹴り落とした。藤吉は濁流へと落ち、激しい流れに呑まれながらも、必死に口を動かし続けた。
「紫雲院殿信道あっぷ……政誉仁徳蓮華ええと……清浄誠信ぷはっ……水行末雲来末風来末うっぷ……慈光慧照光明ポンポコピーのポンポコナーの……ぶくぶくぶくぶく……」




