踊る私、踊らされる私
■ はじめに:AIのせいにしてしまいたい ■
前回のエッセイ『物語る私、物語られる私』では、自分の作品をAIに分析させました。でも、投稿してしばらくすると何だかモヤモヤしてきました。
AIに褒められて嬉しかったんです、最初は。「多元的視点」だの「幅広いジャンル」だの。才能あるすごい人みたいじゃないですか。自分でも「矛盾を飼う」なんて言い回しを思いついて、いい気になってました。
でも、よく考えたら「多元的視点」って便利すぎませんか? どんな矛盾も「それも一つの見方です」で済ませられる。まるで占い師の「あなたは優しいけど、時に厳しい面もありますね」みたいな。誰にでも当てはまるやつ。
もしかして、AIの分析に引きずられて、存在しない深みを勝手に作り出してる? 都合の良い説明に合わせて踊ってしまってる?
■ 気づき:きれいな言葉の正体 ■
改めて考えてみました。「多元的視点」って何だろう。
前のエッセイでは、複数の矛盾する考えを同時に持ち、どれか一つを「正しい」と決めつけない考え方だと書きました。知的な柔軟性とでも言えそうです。
でも、自分は違う。
社会には色々な価値観がある。でも、そのどれにも素直に馴染めない。普通なら、どれかの価値観を自分のものとして生きていく。でも自分は、どれも「採用」できない。だから全部を相対化して、「それも一つの見方」として距離を置く。
これ、柔軟性じゃない。ただの逃げ。
「矛盾を飼う」も同じ。決められないだけなのに、深い生き方みたいに表現していた。
■ そして、作品を見返すと ■
確かに色々なジャンルで書いている。でも登場人物たちはみんな、社会のどの価値観にも馴染めず、自分なりの「物語」を作って生きている人ばかり。
「社会に適応できない人間が、自己欺瞞という薬で何とか生きていく話」
そんな話を繰り返し書いていた。他のテーマで書いても、なぜかまたこのパターンに戻ってしまう。
そして気づいた。自分も同じことをしていた。
「多元的視点」「矛盾を飼う」――馴染めないことをきれいな言葉で包んだだけだった。何も決められないくせに、言い訳だけは即決だった。
書いているときは、読者に楽しんでもらおうと工夫していたつもりだった。ちょっと捻れた話も、「あ、そういうことか」という感覚を味わってもらいたくて――でも「分かる人に分かってもらえば」という姿勢は、今思えばずいぶんと偉そうだった。これも結局、理解されなくても自分に価値があると信じるための仕掛け。
■ おわりに ■
書く気がなくなっていた。書くことが自分探しみたいになって、AIの分析で「多元的視点」とか褒められて、自作品が「ボトルメッセージ」だなんて思えてきて、一応の結論が出た感じがして。
でも、きれいな結論なんて嘘。
きれいな言葉に踊らされていただけ。
振り回されました。 AIに、というより、自分自身に。
だけど悪くはなかったかな。