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陽だまりの匂いがした夜

作者:


……なんてことを、柄にもなく思い出す。

きっかけなんて、ない。まるで心の引き出しの

一番手前に、その夜の記憶がずっと

しまわれているみたいに、ふとした瞬間に甦る。


あの夜、僕らはささやかな共犯者たちだった。

彼女の部屋を抜け出し、息を殺して自転車を引く。

普段は二人乗りなんてしないから、おぼつかない

足取りでサドルにまたがる僕の後ろに、

彼女がそっと腰を下ろした。


『せーの』

僕がペダルに力を込めた瞬間、自転車は

生き物みたいにぐらりと揺れた。

『きゃっ』

背後で小さく上がった甘い悲鳴に、思わず笑みが

こぼれる。『ごめん、大丈夫?』と振り返ると、

彼女は僕の服の裾を強く掴んだまま、

楽しそうに頷いていた。


漕ぎ出した先は、夜の闇に沈んだ住宅街だった。

慣れない二人の重みは、道のわずかな凹凸も敏感に

拾い上げる。時折、マンホールの蓋を越えるたびに

『ガタン』と鳴る小さな衝撃に、彼女が『わっ』とか『んっ』とか、小さく声を上げる。そのたびに二人で笑って、やがて僕らは、一つの生き物みたいに

呼吸を合わせていった。


頭上には蜘蛛の巣みたいに電線が

張り巡らされていて、僕らはまるで、

二人だけの迷路に迷い込んだかのようだった。


そして、その迷路の出口は、突然やってくる。

視界が、パッと開けた。


目の前に現れたのは、見慣れたはずの国道。しかし、その景色は昼間とはまるで違っていた。いつもは同じ大学の仲間たちでごった返す居酒屋も、行列のできるラーメン屋も、今は固くシャッターを下ろし、

眠りについている。あれほど騒がしかった喧騒が

嘘のように静まり返ったその道を、

僕らの自転車は滑るように進んでいく。

昼間は僕らの居場所だったこの通りが、

今この瞬間は、僕と彼女だけのために用意された

舞台のようだった。


不思議な感覚だった。

スーパーまでの道のりは、永遠に続くかのように

長く感じられた。ペダルを漕ぐ一回一回、

街灯の光をくぐり抜ける一瞬一瞬が、

脳裏に焼き付いて離れない。

それと同時に、あまりにもあっという間の一瞬の

出来事のようにも思えた。まるで、瞬きをしたら、

もう着いてしまっていたかのように。


やがて、前方に煌々と光る箱が見えてくる。

僕らの目的地、24時間営業のスーパーだった。

その無機質で、生活感に満ちた光が、この夜の

闇の中では、なぜか宝島のように見えていた。


自動ドアが開くと、ひんやりとした空気が肌を

撫でる。外の湿った夜気とは違う、管理された空調の匂い。客は僕らの他に誰もいなくて、広い店内には、レジカウンターの奥で気怠そうに雑誌を読む、

店員一人の姿が見えるだけだった。BGMだけが

やけに大きく響いていて、まるで世界の終わりに

残された二人みたいだと、少しだけ思った。


僕らは、カートも使わずに、一つの買い物カゴを

二人で持って歩いた。

『えーっと、チーズ、チーズ…』

彼女がお目当ての棚の前で、首を傾げる。僕らが

作ろうとしていたのは、少しだけ凝った

チーズケーキだった。しかし、棚にあるのは、

スライスチーズやピザ用チーズばかり。

『ないね、クリームチーズ』

『うーん、どうしよっか』

彼女がカゴの中の小麦粉や卵を見つめて、少しだけ

困った顔をする。

『あ、でもさ、これとかでもいいんじゃない?』

僕が指差したのは、デザートコーナーにあった

小さなカップのレアチーズだった。

『これを潰して混ぜちゃえば、それっぽくなるって』

『なにそれ、天才じゃん!』

彼女はそう言って、太陽みたいに笑った。


そんな他愛もないやり取りが、心から楽しかった。

でも、不思議なことに、僕の心の半分は、

もう別の場所にあった。

このスーパーでの時間も、もちろん宝物だ。だけど、それ以上に僕は、この後にもう一度やってくる

『帰り道』を、待ち遠しく思っていた。

もう一度、彼女の体温を背中に感じながら、

二人だけの貸し切りになった夜の道を、

自転車で走ること。世界の誰にも邪魔されず、

僕らだけの音と光と空気を共有する、あの時間を。


僕は、これから手に入れる幸福の『おかわり』を

期待して、少しだけ浮ついた足取りで、

彼女の後を追った。


会計を済ませ、スーパーの自動ドアが再び僕らを夜の闇へと押し出す。ずしりと重い買い物袋を前カゴに

入れ、僕はサドルにまたがった。彼女が、

慣れた様子で僕の後ろに座る。

漕ぎ出した自転車は、行きよりもずっとスムーズに、夜の道を滑り始めた。

背中に感じる、彼女の確かな体温。前カゴで揺れる、卵と、小麦粉と、天才的なアイデアで手に入れた

チーズ。これから始まる、二人だけのケーキ作り。

楽しみで、胸がいっぱいだった。


なのに。それなのに、どうしてだろう。

心のどこかで、この道が永遠に終わらなければ

いいのに、と願っている自分もいた。

このまま、スーパーの光も、彼女の部屋の明かりも、どちらにもたどり着かないまま、二人で夜の中を

ずっと走り続けていたい。ペダルを漕ぐ一瞬一瞬が、引き伸ばされて永遠になればいい。楽しみにしているはずの未来がやってきてしまったら、この完璧な

『今』が終わってしまうから。


そんな矛盾した願いを胸に秘めていることなど、

彼女は知る由もないだろう。

僕は、照れくささと、こみ上げてくる愛おしさを

隠すように、少しだけおどけて言った。

『なんかさ、今の俺ら、エモくね?』


自分の口から出た、あまりに陳腐で、けれど的確な

その言葉に、後ろから『なにそれ』と笑う声が

聞こえた。

そして、彼女は僕の腰に腕を回して、ぎゅっと

抱きついてくる。

『うん。すっごい、エモいかも』


背中に伝わる、彼女の確かな体温と鼓動。

その子供みたいなしぐさが、どうしようもなく

愛おしかった。


ああ、どうか。

神様がいるのなら、この瞬間を、写真みたいに

切り取って、僕の心に永遠に焼き付けてください。


――なんてことを、柄にもなく、本気で願っていた。


カラリと乾いた洗濯物を取り込む手が、ふと止まる。

ベランダから見える空は、あの夜の闇とは違う、

燃えるようなオレンジ色に染まっている。

心地よい夕方の風が、僕の頬と、取り込んだばかりのシャツを優しく撫でていった。


ああ、そうだ。

きっかけなんてなかったんじゃない。

この風の感触が、あの夜、彼女を後ろに乗せて走った時の風に、あまりにもよく似ていたんだ。


場所も、時間も、隣にいる人も、何もかもが違う。

未練なんて、とっくにないはずだ。

それなのに、どうしてだろう。胸の奥が、きゅうっと締め付けられる。目の奥が、少しだけ、熱くなった。


どうしようもなく輝いていたあの夜の記憶だけが、

乾いた洗濯物に残る陽だまりの匂いみたいに、

僕の日常に、ふわりと染み付いている。

それは、悲しいとか、寂しいとか、そういう言葉では片付けられない、あまりに温かくて、

少しだけ切ない、僕だけの宝物だ。


僕は、腕いっぱいの洗濯物を抱え、部屋の中へと

戻った。

少しだけ滲んだ視界の向こうで、部屋の明かりが、

優しく揺れていた。





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