12月27日(土)
12月に入ってからずっと書いていた小説があるのですが、それがなかなか上手くいきません。
ところどころ良い文章もあると思うけど、基礎的な部分ができていないような気がする。自分の思いは書けたけど、小説で表現することはできてないな……と。
とりあえず、人の書いたものを読んでみようと思い、本棚にあるものをパラパラとめくったり、小説サイトの文章を読んだりしていたのですが、そのなかで汐見夏衛さんの「うそつきラブレター」を読んでいて、いろいろ気付かされることがありました。
汐見夏衛さんの小説は、実はいくつか読んだことがあるのですが、何気ない表現だけれど情景が浮かぶ表現が多く、いつも不思議に思っていました。
例えば、主人公の女の子が下駄箱でラブレターを見つける場面の描写で、
“上履きの上にそっと置かれた、白い封筒。”
というものがあり、これは自分だったら『そっと』を入れずに書いてしまうなと思いました。たった三つのひらがなで、印象が大きく変わってしまう。それが言葉の妙であり、恐ろしさのような気がします。
また、まだ朝早い生徒昇降口の場面で、
“窓から射し込む柔らかい光に照らされた、まだひと気のない静かな生徒玄関。”
という表現があり、これもそんなに珍しい表現ではないけれど、すぐ情景が浮かぶ文章だなと思いました。
そもそも、光に硬い柔らかいってあるの? その時間帯によって、日差しの“強い弱い”はあるけれど、“硬さ”はない。実体があるものではないから。触れないし。それをあえて『柔らかい』と表現するのは……。などと、考えてしまいました。
柔らかい、というと肌感覚を想起するように思います。光は直接肌に当たります。そこから来てるのかな……? 光の当たり方でも心地よく感じるときと、不快に感じるときと、色々あるし……。
と、頭でっかちに考えてみたり。
最近よく思うのですが、言語表現は、絵のように直接的に表現するものでなく、元々あるイメージを利用するもののように思います。
赤もいろいろな赤がありますが、“リンゴのような”と書けば、何となく漠然と伝わるものがある。わたしは、赤ちゃんや女の子の頬っぺたなどをイメージします。いろいろなイメージの糸が、人間の頭の中でつながっているような気がするのです。
また、『食べる』という言葉も、とても幅が広い表現で、場面によってはそれを“口に運ぶ”とか“噛み含めるように”など、『食べる』のイメージを絞っていく必要があるように思います。
漠然としたイメージに、さらにフィルターをかけてイメージの網を狭めていくことが、言語表現なんじゃないか……。
と考えると、少し小説が書けそうな気がしてきました(^^
分析し、理論に落とし込んでしまえば、あとはその型を見本として書けるはず。
わたしは感覚では書けないので、まず理屈で土台をつくろうとする傾向があるようです。




