12月26日(金)
この前の知能検査の結果を見て、最近いろいろ考えている。
やはり数年前に行った検査と大体結果は同じで、能力に偏りがあるらしい。
説明するのが苦手なので、結果表の写真を撮って、ここに貼ってしまったほうがいい気もする。upするかどうか、検討中。
言語性は高く、知覚推理が境界域なのは変化がなかった。その他ワーキングメモリーが落ちたり(検査をした事務所で話し声が聞こえ、それが気になった)、逆になぜか処理速度が20も上がったりということで、大体プラマイゼロとなっている。平均IQは104だったか?
その他、バウムテストや聞き取り調査、GATB作業検査などもした結果、やはり自閉スペクトラム症の可能性が強いらしい。自分の場合は、ASD傾向が強く、ADHDはぎりぎり引っかからなかった。
ただ、個人的に、「自分は発達障害だ」とは思いたくない。
自分は最初、強迫的な症状(と自分で言うのは自己診断的だけれど)が多かった。
瞬きするとウィンクしているように感じ恥ずかしく感じたり、ただ椅子を引く動作がとても気取っているような気がして、自然体で席に腰かけられなくなったり。まるで自分で自分を監視しているような感じが、中学以来からずっと続いていた。会社にいた頃は特にひどく、いつも硬い顔をしていなければ罰が当たるとか、あとはよくある側溝の継ぎ目を踏むとイヤなことが起こるとか、そういうことばかり考えていた。
いまは、それが収まったというより“当たり前”になってしまって、『症状と同化してしまった』という感じがする。癖や習慣と同じく、病気がもはや自分の一部になって、それが切り離せなくなってしまったというのが、個人的な解釈。
専門家からすると、強迫は二次的なもので、やはり自閉スペクトラムが根底にあるからそれが起きやすいとのこと。
でも、自分の主観はむしろ逆で、強迫や不安症が自分の原点にある。
つまり不安症さえなくなってしまえば、中学以前の“普通だった自分”に戻れるのではないかという期待がある。
それはもう、半分諦めているけれど……。
ただ、自分がずっと伝えたいのは、脳が誤ってインプットしてしまった習慣・癖・病気。それを切り離せるかどうか、というもののような気がする。
例えば拒食症なら“食べることへの拒絶”。緘黙症なら“人前で自然体で振る舞うことへの恐れ”など、いつのまにか当たり前になってしまった偽りの自分を壊したい。そうすれば救われるんじゃないかという思いが、根底にある気がする。
「発達障害」という病名は怖い。それが付くと、自分は元からそうだったのだと決められてしまうような気がする。
また、最近youtubeなどを見ていても、「ASD」や「ADHD」という言葉が、昔でいう「キチガイ」と根底のニュアンスでは変わらない使い方をされているような気がする。また当事者が、わたしはASDです、ADHDです、とカミングアウトするのも、何となく違和感を覚える。
そういう言葉で括っていいんだろうか。診断名をつける必要上、しょうがなくもあるし、ある程度研究で保障された概念なんだろうけど。
そもそも、人が人に診断をつけるということ自体、とても傲慢なように感じる。
まるで自分たちは一段上の存在だと、言っているように感じてしまう。
福祉の方にお世話になりながらも、“同じ人間なんだぞ”“あんまり馬鹿にすんなよ”と無意識の怒りを感じることもある。
もう、何が何だかわからない。
普通に戻りたい。けれど怖い。ある拒食症患者がドキュメンタリーで言っていた「病気を手放せるかもしれない」という言葉に、すごく共感を覚えたのを思い出す。
とりあえずいま、この言葉を書かないと、本当にASDに染まってしまうかもしれないと不安になり、感じていることを残しておくつもりで書いてみた。
もしかしたら、残っているかもしれない可能性まで、ASDという病名で塗りつぶされてしまいそうで怖いのだ。
たまに昔の自分に戻れるのではないかと思うことがある。
いまみたいに表情が硬くて(人から言わせれば乏しい)、体が硬い動きしかできないのではなく、リラックスして普通に屈託なく笑えていたときに。
人からは昔のことは振り返らず、前を向こうとも言われる。
でも、テストで証明された客観的事実を受け入れるというのは、なにか怖さがある。
内面世界の自分。自分は本当はこうだったのにとか、昔はもっと普通だったのにとか、そういう感覚を捨て去ってしまうと、本当に後戻りできなくなるんじゃないかと思う。
きっかけがあれば取り払えるものなんじゃないだろうか。どうなのか……。
年末だということもあり、また勢い任せで書き殴ってしまった。
画像入力試してみましたが、みてみんにupすると字がボケてしまったので、今回は断念します。




