続 11月11日(火)
ハローワークに行き、知能検査の実技を受けてきた。
下側が赤色に塗られたチョークのような棒をひっくり返していったり、ネジとワッシャーを嵌めて同じように穴に入れていくという作業。
棒をひっくり返していくのも時間がかかったが、ネジとワッシャーを組み合わせて穴に入れていくのがなかなかできなくて、左手の指先でつかんだワッシャーを何度も落としてしまったり、間違って2つ取ってしまったりした。自分はやはり手先を使う作業が苦手らしい。
検査官の人は、「頭で考える早さ」と「実際に体を動かす早さ」は違うもの、ということを言っていた。
たしかに自分は手先が不器用なのだが、それに加えてものを考えるのも遅い。このサイトでコメントを頂いたときなども、返信の文面を考えるのに1時間以上かかってしまうことなどはよくある。
なんだかいやになってしまう。
自分で受けたいと言った試験なのだが、何故どこの学者がつくったか知れない検査で自分の中身が図られなければならないのだろうと、怒りの感情さえ湧いてくる。
ある程度の能力の数値化は受け入れなければならないが、“できないこと”の検査をしてもしょうがないような気がしてきた。
人を測るのは人であると思う。
紙で測れないものを人間のセンサーは感じ取る。
だから、諦めたくないのだ。自分の可能性。トイレ掃除で満足してへらへら笑ってるような人間でいたくない。
好きは感性のアンテナ。
嫌いは、より良いものを限定していく能力。
より良いものを限定していくために、嫌いという感情がある。つまり必要だからある。目や耳や鼻だってそう。神様はいらないものはつくらない。
表現能力と、心の中にあるものは別のものだ。
自分は表現は下手だが、自身の感性や、未だ言語化できていない心の中の感情などは、人と別のものである、という変な自信がある。
手先が器用か不器用かで、自分を測られたくない。
話は変わるが、“天才”という言葉に、自分は抵抗を感じる。
正直な話、“天才”だと思う人はいるけれども、その言葉で自分とのあいだに壁をつくってしまっては、すべてがそこで終わってしまう。
天才は、プラスとマイナスのドライバーでバラバラに分解してやって、どこがどういう仕組みになっているのかを完全に分析してやればいい。
という思いで、人の作品をみる。
もやもやした感情があったときは、一度全部オエッと吐きだしてしまった方がいいのかもしれない。「アイツは馬鹿」とか「キライ」と、そういう幼稚なことでもいいからとりあえず心の中のものを全部外に出して、そこから散らかった言葉を整理していけば、色々分かることがある、はず。
むしろ幼稚な、子どもだなと自覚、自嘲する気持ちが、本心なのでは? より原始的な言葉。
受け入れられないことは、拒否のバネになって心の外に押し出される。それがこの言葉。




