夜桜 編3.「やってくれるじゃないか、首領さん」
聡子は、十杯目の緑茶を急須で注いだ。
「お冬さん、遅いなあ………大丈夫だよね?もう見つかってるよね?」
午後四時を過ぎてからは、店の椅子に腰掛けて、十分ごとに掛け時計を見遣っていた。
その二時間後、荒々しいノック音に、聡子は青ざめた。
ドンドンドン!!!
お冬が店を出てから、三時間以上が経つ。
「だ、誰?」
胸の前で両手を握り合わせて、ガラス戸を凝視した。
ドンドンドン!!!
ドンドンドン!!!
戸を叩く音は、次第に続けざまになっていった。
ドンドンドン!!!
ドンドンドン!!!
ドンッドンッドン!!!
ドンッドンッドン!!!
「ひゃあっ!」
たまらなくなって、聡子は腰を上げた。
そして、厨房に駆け込もうとした。その時だ。
「聡子」
消え入りそうな、その声に、聡子が振り向いた。
「どうして、あなたが………」
聡子は躊躇した。
お冬と約束したのだ。
『いいかい、聡子。私が戻るまでは、誰が訪ねて来ても、ここを開けてはいけないよ。あんたは、奉公屋の力が弱いんだ』
「お義母さん………」
聡子は、以前お冬に教わって知っていた。
『《保持変形》を得意とする保持妖怪は多いからね。そいつが手を貸せば、怨霊の一族だって、誰に化けるか分からない』
そして、お冬は、出掛けに告げたのだ。
『九十九番地に裏切り者がいるよ』
この一言を言い残して出て行った。
「ほ、ほんもの?」
ドンッドンッドン!!!
ドンッドンッドン!!!
「頼む、聡子!開けてくれ!」
聡子は、ガラス戸に駆け寄った。そして、結界が張られた戸をスライドしたのだ。
「っ!!早く、中へ!」
言いつけに背いた娘は、血だらけの男を引っ張り込んだ。
ひょろりと背の高い美男子が、もつれるように店内に滑り込んだ。
「許してくれ、聡子」
聡子は、しばし呆然と、男の身なりを見つめた。
「なに、が………何があったんですか、男雛さん!」
たとえ、どんなに変形巧者な保持妖怪であっても、声までは似せられない。
声真似上手な者はいる。しかし、愛する男の声は判るものだ。
「誰が、こんな酷いことを」
梅桃男雛が、夜桜に飛び込んで来たのは、午後六時すぎであった。
その時の恰好は、無残なものだった。服はボロボロ。
切り裂かれた青いワイシャツの間からは、とめどなく血が流れていた。
カーキのジーンズの切り口からも血が滴っている。
「し、止血を」
包帯を取りに行こうとする聡子を、男雛が立ち上がって引き止めた。
「時間がない」
「!?傷が深いです。早く止めないと」
顔は切り傷だらけ。長く美しかった黒髪も刈られていた。
「一刻を争う、下界へ逃げろ!」
「えっ!?」
「連絡はいらない。君の、奉公屋の血が、お冬さんと引き合わせる」
「 ! いつ、御知りになられたんですか?」
聡子は、当惑した。
お冬の正体と、自分の出生を、一妖怪教諭が知っていようとは思わなかったのだ。
「元妻が、浮雲小学校を裏切った」
「女雛先生が!?」
「あいつは………」
崩れ落ちる百七十センチの体を、ひしと抱き留めた。
「男雛さん、しっかり!」
仲の良い姉弟として知られる浮雲小学校の妖怪教諭、梅桃男雛と、梅桃女雛は、以前は夫婦だった。
「お、お医者さまを!」
そう言って、聡子は、ぎょっとした。
ガラス戸の向こうに、大きな影が映ったのだ。
その影は、戸を叩くこともしなかった。
ドーン!っという、地響きのような爆発音と一緒に店が揺れて、聡子がよろけた。
倒れる聡子を、瀕死の男雛が受け止めた。
「男雛さん、傷口が!」
「自分の心配をしろ!結界を破られたら終わりだ!」
爆発音は続いたが、絶対奉公屋お冬が張った結界は堅固な守りだった。
ドーン!ドーン!ドーン!ドーン!ドーン!
店の外で凄まじい音が鳴る度に、店内の物が、次々と割れていった。
お冬の気に入りだった金縁入りの絵画も全て床に落ち、聡子が衝動買いした数々の花瓶も、床の上で粉々に散った。
レジは台から滑り落ち、金銭をばらまいた。
「………さすがに絶対奉公屋の張った結界だ。が、いつまでもつか………」
止血し終わった男雛が呟いた。
男雛は、ズタズタになったシャツを破いて血を止めた。
聡子が、包帯を取りに行くと言っても聞かなかった。
「せめて、これで、お顔の血は拭いて下さい」
聡子は、桜色のハンカチを差し出した。
「ありがとう、聡子」
二人が付き合っていることは、お冬も知らない。
梅桃男雛と、梅桃女雛は、何十年も前に離婚している。
しかし、離婚の折に、女雛が、男雛に泣きを入れたのだ。
その頼みとは、
一、夫婦であった過去は他言無用。
二、弟のふりをする。
三、想う相手が現れても結婚しない。
男雛は、聡子に一目ぼれするまでは、この秘密を忠実に守り続けた。
しかし、夜桜で出会ってしまったのだ。
男雛は、聡子にだけ真実を打ち明け、いきなりプロポーズした。
聡子の答えは、NO。お断りします、であった。
それでも、男雛は、めげなかった。
アタックし続けて、去年の春から交際をスタートさせたのだ。
「男雛さん」
聡子は、決意を固めた目で、男雛を見つめた。
「何があったのか、話して貰えませんか?私は、戸を開けると決めた時、あなたを信じぬくと決めたんです」
男雛は、少しの間黙っていたが、腹を括った。
「あいつは、僕と結婚する前からずっと、怨霊の一族の、首領の正妻だった。今でもそうだ」
「女雛先生は、怨霊の一族の出なんですか?」
「違う。僕らは、節句妖怪。下界の妖怪だ。けれど、女雛の強い要望で、九十九番地にやって来た。そして、浮雲小学校に勤務する事になった。今思えば、その頃から、計画は始まっていたんだろう」
その計画が何か、聡子は聞くことが出来なかった。
なぜなら、ドッドーン!と、一際大きな爆発音が聞こえて、ガラス戸が吹き飛んだからだ。
「お冬さんの結界が!」
男雛が、聡子を背に隠した。
「僕から離れないでくれ。こうなっては、もう………僕らに生き残る術はない」
踏み込んで来た男は、身長が四メートルを超すかと思われた。
そして、巨体な背後に、いずれも背丈が三メートル近くある男たちが数十名、鉈を片手に付き添い並んでいたのだ。
彼らの右腕には、山形の垜紋様があった。
それは、怨霊の一族の証で、右腕にある者は、妖怪専門の呪詛者
だ。
「酷い話じゃないですかァ、先生。仲間を裏切るなんてねェ」
声から察するに、四メートル超えの男は、随分と若い。
人の年齢でいうと、四十代前半だろうか。
「仲間になった覚えは、一度としてない!」
男雛が声を張り上げると、馬面の大男が、幅一メートルある鉈を腰から引き抜いた。
「ひっ!」
聡子は、男雛の背中にしがみついた。
お冬に連絡は入れたが、どうやら下界で、ひと悶着あったらしい。
返信が来ないのだ。
「まァ、ちっとは役に立ちましたやァ。ねェ、先生?女雛を、俺の女房を怒らせたのが、運の尽きですやァ、先生」
毛むくじゃらの馬面男が、右腕を振り下ろす寸前、男雛が振り向いて聡子を見た。
「愛してるよ、聡子」
「わ、私も」
聡子が思いを伝える前に、至大なる鉈が、大蛇の鎌首のように伸びて、男雛の首を掻っ攫った。
「いっやあああ!!!」
面前で上がった血しぶきに、聡子が腰をついた。
「男雛さん!!!」
起き上がろうとする聡子に、大男が鉈を振るった。その一瞬!
「え?」
桜吹雪に包まれて、聡子は宙に浮いていた。
「お、お義母さん!!」
シルバーグリーンの瞳から大粒の涙が溢れて、止まらなかった。
「親のいない間に、男を連れ込む娘に育てた覚えはないけどねえ。結界が破られたのは、あんたが一度、戸を開けたからだよ」
ここに、夜桜おかみはいなかった。
いるのは、絶対奉公屋お冬と、首の繋がった男雛である。
「やってくれるじゃないか、首領さん。店が台無しだよ」