夜桜 編2. 「あんたが、自慢の娘だよ」
かつて、お冬の留守中に、『夜桜』の若い店員が呪殺された。
五月四日の事である。浮雲には、通夜という風習は無い。
葬儀は、翌日行われた。
その惨劇は、この近辺で有名だった。
九十九番地に越してすぐの聡子の耳にも、三日で入った。
「………これから下界へ降りるよ」
そう言われて、聡子は何も聞かずに頭を下げた。
「承知しました。お気をつけて」
十年勤めれば熟知する。
仕入れ以外で、お冬が下界へ降りる日は、【依頼】を意味する。
【依頼】で動く時、お冬は《奉公屋》だ。それが、本来の姿なのだ。
おやえが亡くなるまで、お冬は、下界の奉公屋、妖怪と人間の仲を取り持つ仕事をこなしていた。腕が立つ奉公屋だった。
「行って来るよ」
「………いってらっしゃいませ」
毎回、その背中を見送るのが、聡子は辛い。
おやえは、飛行機事故で亡くなったのではない。任務中に殺されたのだ。
危険を伴う【依頼】を受けたら、内容によっては、生きるか死ぬかの瀬戸際になる。
そして、本来ならば、聡子も、お冬が請け負う仕事を、こなさなければならない身の上である。
しかし、お冬に匿われ、篠崎蓮子は、下界の戸籍から消えたのだ。
本当は、死んでなどいない。だが、下界に戻る事は二度と許されない。
だから、桜花聡子とは、お冬が、新たに付けた名である。
桜の花の舞う季節、出会いし聡い子供に、と。
「聡子、顔をお上げ」
はっとして上げると、背を向けたお冬が、すぐ前に立っていた。
「お冬さん………」
「いつまでたっても泣き虫だねえ。そんなに泣かれちゃ困るじゃないか」
「ずっ、ずびばぜん………」
困ると言いつつ、お冬は微笑んでいた。先ほどと比べて表情も、ずっと穏やかだ。
「本当は、言っちゃいけないんだけどねえ」
困ったように眉尻を下げて、お冬が続ける。
「今回は、ナナツちゃんの依頼さ。断るわけにはいかないよ」
「えっ、七さまですか?」
予想外の依頼者に、聡子の涙も引っ込んだ。
浮雲小学校の七代目校長、四条流 七の名は、下界にいる頃から知っている。
「六年三組の児童が四名、行方不明らしい」
「よ、四名もですか!?」
聡子は、愕然とした。空前絶後の大事件である。
「そのうちの三名は、おそらく生きてるよ。あのお騒がせコンビが主犯だからね」
意味深な物言いに、聡子も納得した。
「高瀬川の御子息と、下鴨本家の御嬢様ですね?」
「毎度やってくれるよ。また、例の手を使ったらしい」
「ご無事でしょうか?」
「あの子たちは、強運さ。心配なのは、石蕗の長男だ」
「!?西助さんが、どうして」
「十中八九、誘拐だろうね」
「そんな!誰が」
「私の読みでは、三番地の連中が、一枚嚙んでるよ」
聡子の喉がヒュッとなった。
「いいかい、聡子。私が戻るまでは、誰が訪ねて来ても、ここを開けてはいけないよ。あんたは、奉公屋の力が弱いんだ。自立できるレベルには、おそらくこの先も達せない。店の電話にも出なくていい。いいね?」
お冬の両目から、懇願の意が見て取れて、聡子は胸が痛んだ。
罪なき若い命を、まだ十六にもなっていなかった娘を殺したのが、三番地を縄張りとする怨霊の一族、その呪詛者だ。
今もって捕まっていない。
身長百八十を超える馬面の大男が、夜桜から走り去る姿を、近隣に住む保持妖怪が目撃していた。
その目撃者は、妙に胸騒ぎがして夜桜を覗いた。
すると、看板娘が、テーブルの上に、突っ伏すようにして死んでいたのだ。
「大丈夫です。私は………」
聡子は、力強く頷いた。
「あなたの帰りを待っています。それが、私の仕事です」
「今度こそ行って来るよ」
「はい!夜桜は、桜花聡子にお任せ下さい!」
「あははっ、今泣いた烏がもう笑ったね」」
声を立てて、お冬が笑った。
「そうだよ、あんたが、自慢の娘だよ」
「いってらっしゃい、お義母さん」
お冬が店を出ると、聡子の右目から涙が一粒転がり落ちた。