夜桜 編1. 義母《お冬》と 娘《聡子》
五月一日は晴天だった。
「はい、夜桜でございます」
店の電話に出たのは、看板娘、聡子である。
「………少々お待ち下さいませ」
受話器を握り締める手が、少しだけ震えた。
「………おふゆさーん、浮雲小学校からお電話でーす」
息を一つ吐き出して声を張り上げると、のんびりした柔らかい声が返ってきた。
「内線に繋いどくれ~」
「畏まりました~」
聡子は、一のボタンを押して仕事に戻ったが、内心気が気でなかった。
夜桜に客がいないのは、今日が、浮雲小学校の一大行事・下界実習の初日だから。
五月一日から五月五日までは、店を開けない。
一代目おかみ、おやえの頃から続く決まりだ。
「午後二時、こんな時間に、どうして電話が………」
聡子は、掛け時計を見て、ますます心配になった。
「………もう五分経った。今時分、小学校は忙しい筈なのに。どうして、店に電話が………」
台布巾を握ったまま、聡子は、店内を右往左往した。
そして、ふと、十年前の春を思い出した。
「浮雲九十九番地、保持妖怪さまの下町で飲食店を開くなら、余程の目利きでなければ商売は続かない。え、なぜかって?理由は一つさ。保持妖怪の食べ物が、人間の記憶だからだよ」
「人間の記憶ですか?」
訳あって、桜花聡子は、九十九番地の甘味処に身を寄せた。
今から十年前で、その頃は、まだ十六だった。
聡子は、妖怪の子ではないが、完全な人間とも言えない。大雑把にいえば、人間のくくり。合の子だ。
昨今は、『ハーフ』の呼称も増えたが、蔑視的意味合いの古称、『合の子』は、浮雲でも根強く残る。
「うちは、甘味の記憶が売りだけどね。頼まれれば、ラーメンの記憶だって出すよ。客が命だ、覚えときな」
お冬は、『夜桜』の二代目おかみだった。
歳は、五十前後。短い銀髪に、紫の着物がよく映えた。
お冬も又、合の子だ。
甘味処を開いたのは、お冬の実姉、おやえである。
しかし、下界での仕入れ中に、飛行機事故で亡くなった。
それで、お冬が店を引き継いだ。
「あのぅ、人間の記憶って、食べられるんですか?」
聡子は、おやえの友人の娘だった。
下界生まれで、下界育ち。人の世に身を置いてきた。
記憶を食する妖怪など、想像もつかなかったのだ。
「そこの試験管を取ってごらん」
「は、はい」
聡子は、数十本の試験管立てから、一本だけ抜き出した。
「逆さにして、コルクを外すんだよ」
言われるままにそうして、聡子は「あっ!」と声を上げた。
「シュ、シュークリームが!」
聡子の驚きように、お冬は笑った。
「人間の記憶さ」
「えっ!?これが?本物のシュークリームですよ?」
試験管を左手に握ったまま、聡子は、両目をゴシゴシ擦った。
「防霊試験管と言ってね。生霊や悪霊そういった類の、いわば魔除けに作られた御手製さ」
「はあ………」
夢うつつで話を聞く聡子の右手には、ふわふわした生地がある。
まるで本物のシュークリームと同じで、ちゃんと重さもある。
「割るんじゃないよ。防霊試験管は、下界でいう所の、百万だからね」
「っ!!ひゃっ、百万!?」
聡子は飛び上がって驚いた。
「一本一本が手作りだからね。値段が格段に高いのさ」
「ひっ!こ、これ、どうしたら」
狼狽する聡子を見て、お冬は、呆れた顔をして右手を出した。
「お寄こし。一度開封したら、洗浄屋に持って行く。修福コルクを抜いたら、ここに入れるんだ」
そう言うと、慣れた手つきで、薄緑色の竹籠に入れた。
籠には、真っ白い清潔な布巾が敷かれて、空の試験管が並べてあった。
「あの、しゅふくコルクって何ですか?」
「人の記憶も、脳から離れれば、死んだも同じ。冥福を祈って修めなきゃならない。それで、修福。分かったね?」
「な、なんとなく………」
分かりませんとは言えない圧が感じられたので、素直に頷いておいた。
「九十九番地じゃ、どの店も、人間の記憶は、防霊試験管に入れて、修福コルクで封印して売ってる」
「ふ、封印!?」
「大仰に聞こえるかい?でもね、記憶ってのは、何かと面倒なものさ。忘れた筈なのに残っていてね。しっかり封じ込めておかないと、苦しいもんだよ」
お冬の青い目が、ほんの一瞬、寂し気に揺れた。
忘れたくないから苦しい、そんな風に聞こえて、聡子は胸が締め付けられる思いがした。
「このコルクの製造は、天童家が担ってる。試験管を製造できる一族は、下鴨家だけだ。どちらも御得意様だからね。粗相のないよう気を付けておくれ」
「は、はい!あの、これ、食べてもいいですか?」
「ああ、かまわないよ」
「ありがとうございます!」
満面に笑みを浮かべて、聡子がシュークリームを口に入れようとした瞬間、お冬が付け足した。
「あ、言い忘れてたけどね、味はしないよ」
「えっ!」
大きく開いた口が停止した。
「なんだい、その間抜け面は!」
お冬が、目元を和らげて笑った。
「ふふふふっ。困った子だ。もう忘れたかい?保持妖怪の食べ物は、人間の記憶だよ」
「うっ………」
聡子が、しょんぼりして口を閉じた。
「シュークリームの形はしているが、シュークリームを食べた人間の記憶を防霊試験管に閉じ込めて、修福コルクで封印してあるからね。食感も、味もしないのさ」
項垂れる聡子の前で、お冬が新しい試験管を、試験管立てから引き抜いた。
「いいかい、一度で覚えとくれ」
お冬は、戸棚からガラスの深鉢を取り出して、調理場の台に置いた。
「器に盛る時、試験管は予め逆さにしておく。角度に気を付けるんだよ。きっかり十五度さ」
「分度器を使えばいいですか?」
「手で覚えるんだ。いいね?」
「はい………」
お冬に睨まれ、聡子は畏縮した。
「コルクは軽く引っ張る。と、同時に九度傾ける」
「ええっ!そんな器用な真似、私には」
「四の五の言わない!」
「はい………」
聡子のやる気は、すっかりしぼんだ。
「慣れないうちは大目にみるさ。そうだね、三日くらいは」
「短っ!!」
「二日がいいかい?」
「三日がいいです!」
答えたものの、心中では、腹を立てた。
(スパルタだわ!せめて一週間くれてもいいんじゃない?けちんぼ!)
「あんたは、顔に出易いねえ」
「え?」
「まあ、いいさ。実際にやるから見ててごらん。十五度逆さ、九度のコルク抜き」
まさしくそれは早業だった。
「ほいっ、餡蜜のお出ましだ!」
「わあっ!すごいっ!」
ガラスの深鉢に、完成後の餡蜜があった。
餡子の上には、美味しそうなホイップクリームまで乗って、さくらんぼと蜜柑が添えられていた。
「当店自慢の餡蜜さ」
聡子は、シルバーグリーンの目を輝かせて、唾を吞み込んだ。
「けどねえ、あくまで記憶だからね。私らにとっては、偽物だ。この餡蜜を食べた人間の味覚と感情が、脳に伝達されるだけさ。肩透かしだろ?」
苦笑いを浮かべるお冬を、聡子は、尊敬の眼差しで見つめた。
「目利きなんですね、おかみさん」
「世辞は好かないよ」
「お世辞じゃありません!だって、私が保持妖怪だったら、甘味嫌いの人間の記憶なんて、食べたくありません。目利き違いの店には、誰だって通いたくないですから!お冬さんは、凄いです!」
聡子は、にかっと笑って、シュークリームにかぶりついた。
「う~ん、美味しい!!あ、おかみさん、餡蜜も食べていいですか?」
「………口周りのクリームを、まずお拭き。あんたは、世話が焼けるねえ。記憶は、零さず食べるんだよ。口から飛び出ると、記憶が実体化して感触が残っちまうんだ」
お冬は、そう言って、おしぼりを差し出した。
聡子は、全く気付いていなかったが、お冬は、我が子を見るような穏やかな眼差しを向けていた。
「それから、私のことは、お冬でいい。あんたの髪は長いから、明日にでも切っといで。隣が美容院だからね。挨拶も兼ねてさ」
「は~い、いただきまーす!」
「うう~ん、幸せ~。餡子が絶品です~」
「聞いているのかねえ、この子は………」
桜花聡子が、二代目おかみ、お冬の元へ来たのは、ちょうど下界の桜が満開の節であった。
聡子は、再び掛け時計に目を遣って、それから厨房を見た。
「あっ!おふゆさん!」
お冬が出てきたのは、午後二時二十分だった。
そして、既に支度は整っていた。険しい表情で、洋服に着替えている。
この姿のお冬は、歳が三十前後だ。普段は短い銀髪も、今は漆黒の長髪だった。
それで、聡子は全てを理解した。事件が起きたのだ。それも重大な………。
「聡子」
お冬の声音は落ち着いているが、ここまで重苦しい雰囲気を見るのは初めてだ。
「はい」
「………これから下界へ降りるよ」