七《さい》と、一花果《いちじく》;「酷い御方。別れの場で、初めて名を呼ぶなんて」
この時は、甘味処『夜桜』の女将は、一代目おやえです。店員も男性一人でした。
七が、婚約者の一花果と会うのは、あの日以来だった。
行きつけの甘味処、『夜桜』の前で待ち合わせて早々、一花果は頭を下げた。
「申し訳ない」
「………今日は、貸し切りにして頂きましたから。内でお話しませんか?」
一花果が無言で頷いた。
店に入ると、顔なじみの店員が、愛想よく御辞儀した。
「いらっしゃいませ」
彼に案内され、二人は向い合って座った。
「兄は、見つかりませんか?」
七の目に、一花果はやつれて見えた。
半年が経っても、結果は変わらなかったのだ。
七草が日華門を出たことは、周知の事実となっていた。
下界通過事務局の局員が、下界へ降りる七草を目撃していた。
しかし、どんなに手を尽くしても見つけられなかった。
「あら、サイちゃん、色気が出てきたのね」
記憶餡蜜と抹茶を二つずつ運んできた女将に褒められて、七は苦笑した。
「からかわないで下さい、おやえさん。何も変わっていませんよ。でも、ちゃん付けは………もう止めて下さい」
出された餡蜜は、七が予め注文しておいたものだ。
「………お代はいいわ。今日は奢りよ。いっちゃんも、ゆっくりしてって頂戴ね。抹茶は、下界のを淹れたから」
にこやかに告げて、おやえは厨房へ戻って行った。
二人は、器を手に持ち、餡蜜を口へ運んだ。
いつもより、ゆっくりと………時間をかけて抹茶を飲み干した。
そして、七が先に口を開いた。
「通信鏡でも申し上げましたが、兄の失踪は、あなたのせいではありません。兄を止められなかった私の責任です。それより、今日は多忙な中お呼び立てして申し訳ございません」
「いや、私こそ時間が取れず申し訳ない」
「いいえ………今日は、これを御返しする為に、お越し頂いただけですので」
七は、赤い小袋から、ピンク色のハンカチを出して広げた。
その中央には、かつて一花果が渡したシルバーリングがあった。
「私も覚悟を決めました」
七は、一花果のエメラルド色の瞳を、しかと見据えて話し始めた。
「兄は、浮雲小学校を、児童たちを心から愛していました。九十九番地のことも大切に思っておりました」
七は、一言一言、噛みしめるように喋った。
「私は、何も知りませんでした。兄が胸に秘めた熱い想いを。あれから、兄の書斎を整理してみて、本棚から見つけた書類の中に、下界の小学校の調査書、並びに下界の事細かな情勢の報告書がありました。その中には、虐待された子供たちの成長記録も。山のように出て参りました。自殺者の九十九番地への到達率まで調べてありました。何十年も前までさかのぼって踏査して、文書にまとめておりました」
慈愛の七草、その異名に偽りなし。文書の端々に、七代目校長の真の姿が残っていた。
「私は、兄に守られてばかりの愚か者でした。だけど、いえ、だからこそ、変わろうと思います。私にしか出来ない仕事を、精一杯させて頂くつもりです」
微笑む七は、無垢な娘ではなかった。
難局に立ち向かう勇断を下した四条流家の跡目であった。
「お義兄さんの失踪に関しては、暗々裏の取り決めがあったそうですね。一部の者を除いては真相を知らない。四条流家の長男は、長期に渡る極秘任務で下界へ降りた。そして、その間は、あなたが七代目校長の代理となったと聞きました」
「ええ、そのとおりです。ですから、下鴨分家には、あなたのもとへは、私のいとこが嫁ぐことになりました」
一花果は、黙って指輪を受け取った。
それを見て、七は、一抹の寂しさを覚えた。
(引き留めもしないのね。政略結婚など、所詮このようなものだわ)
「それでは、お元気で」
七が腰を浮かした時、一花果が一本の紅バラを差し出した。
「………別れの記念でしょうか?」
「バラの中を見て欲しい」
「?」
七は、疑問に思いながらもバラを覗いた。
「!これは!」
「君が、生涯誰とも結婚しないつもりだと聞いた。私もだ。あなたのいとこには丁重にお断りした」
「何ですって!?」
七は、蕾の中から転がり落ちたゴールドリングを慌ててキャッチした。
それは、赤い宝石のついた指輪だった。
「いざとなれば、本家から養子を貰う。弟には、既に第四子までいる。この後も増えそうだ。次男か次女を貰っても、バチは当たらない」
ちゃかして言う婚約者に、七は首を横に振った。
「いけません。あなたは、いずれ、情報班の長となる御方。血を分けた跡目が必要です。私は」
「七!」
「!!」
「振ってくれるな、七。私は、ずっとあなたを思ってきた。あなたにとっては政略結婚でも、私には真実の愛だ」
七の涙腺が緩んだ。
会う前から隠忍していた思いが、真珠のように光る涙と共に溢れ出した。
「………酷い御方。別れの場で、初めて名を呼ぶなんて」
「あなたに振られるくらいなら、私は、一生あなたに片思いし続ける」
テーブルを挟んだこの距離が、二人の運命の立ち位置だ。
下界で暮らす保持妖怪と、浮雲に住む保持妖怪の婚姻は、禁じられている。
結婚するなら、どちらか一方が下界へ降りるか、浮雲へ昇るか、それしか道はない。
故に、心が通い合っても辛いだけの恋である。
しかし、それでも良いと思えるほどに、七も、一花果を深く愛していた。
「………両想いですわ、色男さん」
この日、一花果は、「必ず迎えに来る」とは言わなかった。
七も、「会いに行きます」と言えなかった。
一花果が贈った言葉は、「唇は奪わず行く」だった。
「触れれば、きっと、さらってしまう」
そんなキザな台詞を残したが、その真意は、別にあったのかもしれない。
「あの日、私を呼んだのは、本当はお義兄さんだよ」
「えっ!?」
「傍に置けない女は奪えない。私も同じだ」
敵に塩を送る気はないが、正直に打ち明けた。
「最初から殴られるつもりだった。私は、本当は、あなたとの結婚を認めて欲しかった。私にとっても、あの人は、敬愛する義兄で、越えたい相手だった。私を一人の男として認めて欲しかった」
兄を思って、七は泣いた。
一花果の両手が、戸惑うように七の両手を掴んだ。
「愛しています、一花果さん」
「私もだよ。そのルビーに誓う。永久に七を愛すると」
永遠の誓いをたてても、共に生きる約束は交わせない。
それが、二人が選んだ道だった。
歴代一の切れ者と評される七代目校長、四条流 七は、こうして誕生したのである。