19. 覚子《かくこ》の下界実習 初日5
「さとる君!お母さんがいるよ!水槽の外だよ!」
覚子が声を掛けると、男の子が振り向いた。
そして、水槽の外を見た。
「お、ね、ちゃ」
声を出した瞬間、男の子の体に異変が起きた。
「ガボッ」
水中で息を吐いて、両手で喉を押さえた。
「さとる君!」
覚子が、螺旋階段を思い切り蹴って、水中を飛翔した。
「!カッコ!段に戻れ!」
世眠が叫んだが、覚子には、やるべき事が分かっていた。
水圧を押し分け無我夢中で男の子の左手を掴むと、最後の息で呪文を唱えた。
それは、母親が教えてくれた最期の文句、そして、祖母が得意とした術。
「最高冥感・浄土仲介」
唱えた瞬間、一筋の光明が、パアーッと、男の子と覚子を照らした。
浄土仲介者にだけ与えられる術がある。神仏から授かる利益のようなもの。けれど、誰しも使える業ではない。
「カッコ!」
光が消えた水槽に、二人はいなかった。
クラゲが悠々と泳いでいるだけ。
「帰ったね」
何か言いたげな顔つきで、覚子が、世眠の横顔を見つめた。
「そうだな。惚れた女に逃げられた気分だ」
世眠が苦笑すると、覚子が呆れたように肩をすくめた。
「手、貸しちゃって。かっこつけなんだから」
「嫌いか?」
「ううん、ありがとう」
覚子が差し出す右手に、世眠が戸惑った。
「えーと、怒ってないのか?俺、遊園地で」
「明日のデート、どこに行く?楽しみにしてるんだけど」
「おう!任せとけ!」
二人の指が絡まると、どちらの顔も赤く染まった。
「あ、新しい焼鳥屋、発掘したんだ」
「発掘?また焼鳥?」
「うどんも付けるぜ」
「………月見うどんね」
「おう!スイーツも奢りだ」
「じゃあ、クレープとバームクーヘンね!」
未来の二人が笑いあっていた頃、覚子は、もとの道に戻っていた。
「夢じゃないみたい」
頭から靴の先まで、びしょ濡れだ。
「さとる君、病院に戻れたかな………」
未熟者の覚子の術は、半分成功、半分失敗。
過去から未来へ、空間の移動は成功したが、男の子を病室まで送り届ける事は出来なかった。
「ま、後は、あの辻占い師さんが、どうにかするでしょ。人間じゃないみたいだから」
覚子は、実習用の服装;黄緑色の帯を解き、撫子柄の紫の着物を脱いだ。
その時、下界自習用の手帳が、一緒に落ちた。
「あ、忘れてた。これに、地図が載ってた」
慌てて拾うと、着物を、ぎゅうぎゅう絞った。
覚子が中に着ていたのは、三宝とお揃いの黄色い短パン、ブルーのTシャツだ。
数回ブルブルっと頭を振って、ぐしょぐしょになった白いスニーカーを、実習用の履物;黒い下駄に替えた。
「………お礼、言えなかったなあ………未来の世眠くんは、あんまり………嫌いじゃない、かな」
濡れた頬に笑みが広がって、ほんのちょっぴり赤みがさした。
「少しだけ、かっこよかった………惚れないけどね!」
方向音痴の覚子が、地図を見ながら、なんとか獲物宅を探しあてたのは、午後十時。
玄関は、当然、閉まっている。
「実習中は、通り抜け厳禁………未来では、散々やぶったけど、あれはノーカウントで!」
呟きながら、見つけた窓は、お風呂場の窓。
「このご時世に、格子なしの隙間開け窓って………この家のセキュリティ、大丈夫かな?」
覚子は、幽霊のように、十センチの隙間から家に入った。
それを見届けた監視員の青年と水子は、ほっと安堵の溜息をついた。
「何とか、着きましたね」
「ええ。無事に侵入できて、本当によかった………」