18. 覚子《かくこ》の下界実習 初日4
次話で、覚子の初日は終わりです。
覚子が絶叫を辿ると、あの辻占い師が立っていた。聞きたいことは多々ある。
しかし、それよりも先に、遥かに大きな驚きがあった。
「どうして………どうやって、この中に?」
四、五歳くらいの男の子が、狭いクラゲの水槽で、楽しそうに泳いでいた。
「助けて下さい」
辻占い師が、覚子に縋った。その顔は、涙で濡れている。
「あの子は、ずっと、ああなのです」
覚子は、周囲を見渡した。水槽を見て、騒ぎ立てる人間は皆無だ。
「死んでるんですか?」
覚子が聞くと、辻占い師が首を横に振った。
「いいえ。奇跡的に、あの子だけが助かりました」
「助かった?」
「はい、水族館の帰り道、私たち家族は、交通事故に遭ったのです。でも、あの子だけは」
「じゃあ、生きてるんですか?」
「はい。けれど、ずっと目を覚ましません。病室で寝た切りです」
「どうして、ここへ?」
収縮しては開き、広がっては縮むクラゲの間を、水圧も感じさせない速さで、男の子は泳ぎ回っている。
「クラゲを見たいと、あの日、あの子が言ったのです」
「だから、この水族館に?」
「いいえ。あの子の出没は、季節ごとに違うのです。でも、今回は、未来に来てしまいました」
覚子は、はっとした。ここは、自分にとっても未来なのだと、改めて思い出したのだ。
「事故に遭ったのが夏だから、半袖半ズボンなんですか?」
「ええ、そうです。もうずっと、あの子の中では、夏休みなのです。お願いします、あの子を、現在に戻して下さい」
「それは………どうしたら………」
男の子は、クラゲに合わせて泳いでいる。覚子は、必死に考えた。
(水槽を叩いたら、周囲に怪しまれる。保持妖怪が出す物音は、人にも聞こえるから。さっき見た世眠くんの術は?ううん、無理だよ。授業で習ってない。それに、小学生が真似を出来るレベルじゃない。あれは、水泡術と、曲線法を掛け合わせたもの。それに、記憶の一部奪取も付け足してる。あんな裏技、私には………)
「あ!名前は?呼んでみましたか?もしかしたら、聞こえるかも」
「いいえ。私の声は届きません」
辻占い師が、寂しげに水槽を見上げる。
「だったら、私が呼びます!名前を教えて下さい」
「………さとるです」
「さとる君ですね?分かりました、お母さん」
「いえ、私は」
「さとる君!さとる君のお母さんが迎えに来てるよ!」
男の子の瞳には、クラゲしか映っていない。
それでも、覚子は、必死に声を掛け続けた。
「さとる君!一緒に帰ろう!お願い気付いて!さとる君、こっちを向いて!」
「私の言葉も届かないのかな………」
俯く覚子の視界に、クラゲがチラついた。
「あれ?」
水槽内の全てのクラゲが、覚子の傍へ傍へと、次第に集まって来たのだ。
「私の言葉が分かるの?あ!」
クラゲを追い掛け、男の子が近付いて来た。
その時、覚子は、しっかり見たのだ。
男の子の首元に、中くらいの白い法螺貝が二つある。
そして、そこから離れないのだ。
「貝??まさか………さとる君!」
覚子が試しに名前を呼ぶと、観測は的中した。
呼ぶと同時に、それぞれの法螺貝が、首元から這い上がって、両耳をふさいだ。
「あの貝が邪魔してる!水槽に入れたら、取れるのに」
覚子は、妖怪見習い。水中への擦り抜けを、まだ習得できていなかった。
「私が、本物の保持妖怪だったら」
悔しくて、もどかしかった。覚子が肩を落とした時、背後から声がした。
「三分で頼むぜ」
振り向くと、世眠が笑っていた。
「水翼螺旋!」
覚子が声を出す前に、旋風が渦巻いた。
つむじ風は、大きな両翼に変わって覚子を包み込むと、難なく水槽の中へ入った。
「ええええ!?」
覚子は仰天したが、水中を見て更に驚愕した。
「水の階段?」
透明な螺旋階段が出来上がっていたのだ。外側から見ても水槽は狭かった。
それなのに、水中は、途轍もない広さだ。
覚子は、横にも伸びる階段の一番上に着地したが、どこも濡れていなかった。
「カッコ!段を踏み外すな!息が出来なくなるぞ!」
「世眠くん、この技」
拡張法の水中応用を扱えるのは、浮雲小の先生クラスだ。
「すごい!私も、頑張らなくちゃ!だって、私は」
声に出して、はっとした。
突然、母親の言葉が蘇ったのだ。
『おばあさまはね、空間を操る天才だったのよ。あなたにも、その力があるわ。今年で六歳ね。仲介者の仕事を、少しずつ習得しましょう。まずは、呪文から。最初は、物体を実体化する言葉』
「田沼覚子は、仲介者の娘だった」
決して思い出すことのない記憶、絶対に戻らない生前の名前が、覚子の中に戻ってしまった。
「全部の呪文は、思い出せない。でも、この呪文は」
覚子は、握り締めていたキーホルダー見つめた。そして、三宝の言葉を思い出した。
『これね、いつか、きっと役に立つから。名前は、トラ・ランちゃん!寅は、見たまま。ラン【Laon】は、フランス北部の、中世自由都市だよ』
「三宝ちゃん、これ、使わせて貰うね」
それは、物体を実体化する妖術、浄針謀。
「寅は、東へ!ラン【Laon】は、北に!浄土の護りに悪世なし!」
覚子の呪文で、寅が、キーホルダーから飛び出した。
そのホワイトタイガーは、水中で一声吠え、東に位置する法螺貝を目掛け飛んで行った。
その口が、法螺貝に食いついた瞬間、何とも情けない声が上がった。
「かんにんしてけろ~おゆるしを~」
先ほど、世眠たちに捕縛された老妖怪と瓜二つの妖怪が、寅の口の中でもがいていた。
「マジか………」
それを見た世眠は、呆然としたが、すぐ我に返って寅に命令した。
「おい、寅!こっちへ投げろ!」
叫んだが、従うわけがない。
水中で丸呑みしてしまった。
もう片方の法螺貝は、弟の最期に怖気づき、急いで北方向へ逃げようとしたが、
「ぎぎゃああ~!!!」
突如出現したゴシック式の大聖堂に吸い込まれて消えた。
「おい……」
口元を引きつらせる世眠の横で、覚子が冷静に告げた。
「心配ないよ。砂花に送られただけ」
「………昔のおまえ、こええな」
「………送ろうか?」
ぎろりと睨まれ、世眠は慌てて頭を下げた。
「ごめんなさい。もう言いません」