15. 覚子《かくこ》の実習初日 1
集合時刻の二時から、三時間以上も待たされた児童たちは、午後四時五十五分に、やっと日華門を通過した。
彼らが下界に到着した時、既に午後六時を回っていたが、全員ちゃんとホームステイ先(獲物宅)に辿り着いて、無事に侵入できた。
その事は、各児童についた監視員たちが、きちんと小学校に報告した。
しかし、困った事に、ルール違反した児童が辿り着けていなかった。
その問題児が、五香松覚子である。
「東京駅は、出城ヶ丘??」
新神戸からタダ乗りして、新幹線で東京駅に着いた時、はや五時を過ぎていた。
「駅じゃない。迷宮だよ」
人の多さと入り組んだ駅の構内を見て、覚子は、初日からホームシックになった。
「東京は、恐ろしいよ、ラビリンス」
悲愴な表情で呟いた。それから俯き、しょんぼりして歩き始めた。
もしも、覚子が、超ド級の方向音痴だと先生たちが知っていたら、監視員たちに手を貸すよう指示しただろう。
覚子は、駅を出て、五分も経たずに迷走した。それでも、ひたすら歩き続けた。
意外とうっかり者で、肝心な実習手帳の存在を忘れていた。
手帳には、イメージ場所に一回で辿り着けなかった児童用に、獲物宅までの最短ルートの地図が載っていた。
覚子が、最初に辿り着いたのは、国際フォーラム前だ。
人通りも少なく、閑散として見えた。
「う、浮雲に帰りたい。東京、怖いよぉ………」
覚子は、とうとう座り込んでしまった。
三分かそこら、じっとしていたが、ふいに親友の助言を思い出した。
「えっと、いざという時は、増上寺に行けばいいって。獲物情報班の本部があるからって………三宝ちゃん、増上寺ってどこ?ここから近い?」
覚子が知る由もないが、現在地は、千代田区。
覚子の獲物宅があるのは、世田谷区。
三宝が勧めた増上寺は、港区だ。
接点のないトライアングルも、飛翔できれば大した距離ではない。
覚子は、時速800キロまで飛ばせる。飛行機並みだ。
しかし、実習中は規則がある。
『 その壱、ホームステイ先(無断で居候する獲物宅)の近辺だけ飛翔を許可する。
他は歩く事!
その弐、飛翔高度は、三・九メートルとする。
その参、獲物が移動する場合は、同行を許可する。その際の最高飛翔高度は、九・九メートルとする。
これを破った者には、マイナス五百点を与える!』
覚子は、増上寺を諦めて、てくてく歩き始めた。
目指す場所は、東京で一番高いタワー!
(高い場所から探そう。もう、こうなったら、飛翔高度のルールが、うんたらかんたら言い所じゃない。今日中に着ければOKよ)
生前の記憶を、入学と共に粗方消された覚子に、東京タワーの記憶はなかった。
ましてや、スカイツリーが建つ前に亡くなっているので、今の覚子には、どちらも知らない場所だ。
覚子は、飛翔した。低空飛行ではあるが、三・九メートルは裕に超えていた。
「飛びましたね?」
「飛んだわね」
二人の監視員が、困ったように顔を見合わせた。
「本当に大丈夫でしょうか?」
巫女の恰好をした五歳くらいの幼子が、不安そうな面持ちで、隣の青年に尋ねた。青年は、警備員のような恰好で、難しい顔をして言った。
「七さまからの御通達です。誘導も助力も出来ません。ルール違反を犯して下界へ降りた児童には手を貸すな、自力で着かせよとの厳しいお言葉です」
そう言い切った青年も、本心では危ぶんでいた。
「私は、手を貸した方が良いと思います。通信鏡で、連絡しましょう。これ以上遅くなるのは、いくらなんでも危険すぎます。それに、ずっと胸騒ぎが止まらないのです」
「!?水子さまも、そう思われるのですね。僕も、同感です。早速助けましょう。連絡なんて、後回しでいいですよ」
二人が決意した時、覚子は、皇居御苑の方角に向かっていた。
しかし、ぴたりと空中で停止して、すっと降り立った。
「運命階段?」
覚子が舞い降りた数メートル先に、辻占い師が店を構え、座っていた。
青い立て看板には、【運命階段】と白いペンキで書かれてあった。
「占ってもらおう」
占い好きの覚子は、駆け出した。
占い師の足下まで伸びる、細長い褐色の帯には全く気が付かなかった。
ぎょっとしたのは、二人の監視員だ。
「引き返せ!」
「行ってはなりません!」
青年と水子が、声を張り上げ、慌てて駆け寄ったが遅かった。
「何たる失態!」
青年が悔しそうに唇を噛んだ。
「気配に気付けませんでした」
水子も眉に皺を寄せた。
「七さまに連絡しなければ」
青年が通信鏡を取り出すのを、水子が制した。
「あの占い師は、依頼人だったのかもれません」
「えっ!?」
「あの子の両親は、奉公屋でした。依頼完遂を目前に、二人とも妖怪に殺されました。母親は、奉公屋のトップ、最高奉公屋でした。父親も同じでしたが、父親の方は更に、浄土仲介者でもありました。二人とも妖怪の血を引いています。それ故、あの子も引いているのです。これは、トップシークレットですよ」
水子が唇に指を当て、シーっとジェスチャーしたが、絶句して目を白黒させる青年は頷く事もできなかった。
「奉公屋が死んだ或いは殺された場合、依頼は破棄されます。奉公屋に依頼できるのは、一度だけ。けれど、例外があります。依頼した奉公屋の血縁者に、一度だけ依頼できるのです」
その青年は、生粋の保持妖怪で、浮雲小学校の卒業生だった。
しかし、こんな重要な秘密を聞く事になろうとは、想像もつかなかった。
「死した娘に依頼するという話は、未だかつて聞いた事もありませんでしたが、戻るのを待つしか出来ません。失敗しても戻って来られますから、そこは大丈夫です。それに、私は、あの子に賭けてみたくなったのです」
「水子さま?」
急に水子が険しい顔つきになったので、青年は驚いた。
穏やかな表情しか見たことがないからだ。
「何十年も前になりますが、依頼を失敗した奉公屋の夫婦が同時に殺されて、残された赤ん坊が、死後半年経って発見されるという惨たらしい事例が、相次いで起きました。その罪なき赤子の魂は、無事、一番地まで来られました。七草さまのお力が大きかったので。そのようにして亡くなる赤子の一件は、一時的に、落ち着きをみせました。しかし、完全に消えたわけではありません」
そこまで話して、問題児が消えた先に目を向けた。
「哀れな赤子の魂を護り育てるのが、私たち水子の役目。一番地の水子たちは、これ以上、罪なき犠牲が出ぬようにと祈り願い続けてきました。もしかしたら、あの子が変えてくれるかもしれません。最高奉公屋と浄土仲介者の血を引く娘が、依頼を失敗した奉公屋が殺されるのは定めだと、そんな下らない概念をぶち壊してくれるかもしれません。信じてみましょう。両親の血を開花させ、無事戻って来られるように祈りましょう」
保持妖怪の青年と、水子のペアが話し合っていた頃、覚子は、辻占い師に化けた【呪い師】の前に立っていた。
「何かお困りですか?」
辻占い師の声音は、とても穏やかで耳に心地よかった。
「はい。私、道に迷って、それで」
覚子は、普通に返事をした。
自分の姿が、普通の人間には見えないという事実を、すっかり忘れていた。
「心配いりません。すぐに見つかります」
辻占い師の答えに、覚子は胸をなでおろした。
「よかったぁ。あっ、私、お金持ってなかった」
「御代は、必要ありません。これは、私の好意ですから」
辻占い師の優しさに、覚子は、胸がじーんとなった。
しかし、これが全ての始まりだった。
「ありがとうございます!私」
「道は、未来に繋がります」
「え?」
「何年先の未来かは分かりません」
「あ、あの」
「二年先か、或いは………十年先か」
この時、覚子は、ようやく思い出した。
今の自分は、保持妖怪見習いで、人には見えないということを。
「わ、私」
覚子は、後ずさった。
(逃げなくちゃ!)
そう気付いた時、ぱああっと眩い光が差して、目を閉じた。
「うわあっ、まぶしい!」
次に目を開けた時、とんでもない場所にいた。
「ひゃあああ!」
覚子は、悲鳴を上げて尻もちをついた。
そして、下を向いた瞬間、目を剥いて絶叫した。
「ぎゃあああ!ゆ、床が透けてるーーー!!」
覚子は、震える手で、そうっと触れてみた。
凹凸がなく、掌にペタッとくっ付いた。
「ほんとにガラスだ。何で?」
まるで、神隠しにでもあった気分だ。覚子は、強張った表情で辺りを見渡した。
「ここ、どこ?」
眼界に広がる風景、人で溢れるこの場所は、記憶に全くなかった。
「ねえ、あれ、東京タワーじゃない?」
「ん?どこ?あ、ほんとだ!ちっさ!」
十代くらいの女の子たちが、談笑していた。
「私、スカイツリー初めて」
「あたし、これで三回目」
その楽し気な会話を、覚子は、黙って聞いていた。
「もしかして………未来に来た?」
覚子は、よろよろと立ち上がって、おそるおそる展望デッキの方へ距離を縮めた。
さっきは窓枠が見えずに、ビルの天辺にいるような錯覚に襲われたが、なるほど、手摺りがちゃんとある。
覚子は、手摺りに両手を掛け、そうっと覗き込むように下を見下ろした。
そして、全身に鳥肌が立った。
「た、高い………」
覚子は知らない、この建物が六百三十四メートルあることを。
今いる展望デッキが、三百四十メートルの高さに位置することも………。
「み、未来の東京も、恐ろしい」
手摺りに掴まったまま、足が震えた。
「あれが、東京タワー?」
奪われた筈の記憶が一つ、蘇ってしまった。
「お、お兄ちゃんと行った場所………」
覚子の両目から、涙が湧き水のように後から後から溢れ出て、頬を伝った。
「おい」
声を掛けられて、咄嗟に身構えた。
反転した覚子の前に立っていたのは、背丈が二メートルを超える緑眼の青年だった。
「え?」
「何でちっこくなってんだ?覚子」
その低ボイスは、なぜか世眠にそっくりだった。