10. 私を誰だと思ってるんだい?《空港 編 2》
女子トイレから、飛行機が見える窓際へ。場所を移しながら、お冬は話した。
「立体映画を知ってるかい?」
世眠は、すぐさま返事をした。
「知らないけど、想像つくよ。立体の映画でしょ?だったら、偽の映像って事じゃない?」
「………まあ、ざっくり言うと、そんな感じだ。人間の錯覚は、ある意味では、立体化された偽物と言えるかもしれない。西助を誘拐した男女を見ただろう?」
「誘拐!?さっきの誘拐だったの!?」
「そうだよ。さらったのは、怨霊の一族さ」
「何で、三番地の奴らが、西助を連れてくの!?」
世眠は酷く驚いて尋ねたが、答えは貰えなかった。
「ねえ、お冬さん。さっきの奴ら、本当に怨霊?普通の人間に見えたよ?」
「下界で暮らす保持妖怪が、下界の奉公屋に手を貸してるのさ」
「俺たちの仲間が!?」
「簡単に言うと、人間の記憶に錯覚を与えてるんだよ」
「えっ、ここにいる全員に!?」
スケールのでかい話に、世眠は、再びポカンとなった。
「立体映画の話を出しただろう?立体映画は、特別な眼鏡を用いて観る映画だけどね。左右の目に異なる映像を見せることで、視覚に立体感を与えてるんだよ。つまる所、触れそうで触れないんだ。結局、本物じゃない。あんたのいう偽物って言い方も、あながち間違いじゃない。保持妖怪が、この眼鏡の役割を果たしてるんだ」
「人間の記憶を操作できるから?」
「そうだよ。映像を制作しているのは、奉公屋だ。奉公屋の能力には、種類が多々あるけどね。立体映画の制作にも、種類がある。今回、奉公屋が使っているのは、円偏光フィルター方式だ。飛行機の振動を利用してるんだよ」
「えんへんこうって何?」
「こうは、光のことさ。光は電磁波だ。空間を振動しながら進むんだよ。円偏光は、振動する向きを回転させながら進む光だ。電場(及び磁場)の振動が、円を描くように広がっていく。そうすると、回転方向によっては、右円偏光と左円偏光が出来る」
世眠は、さっきからずっと眉間に皺を寄せて考えていたが、一つの結論に達した。
「この空港内の誰か一人に、記憶の錯覚を起こさせる事が出来れば、後は、飛行機の振動が周囲に広めてくれる。人に見えるものは、自分にも見えると思い込む、人間の心理を利用してるんだね」
世眠が勢い込んで尋ねると、お冬が大げさに笑って頷いた。
「ほっほっほっ、テストの点が悪い割には呑み込みが早いじゃないか。投影術の応用だよ。普通の人間は、怨霊なんて信じない。あの、三十路過ぎの大学教授を見てごらん」
お冬が指差す方を見遣ると、その男性は、背広をピシッと着て如何にも真面目そうに見えた。
「ああいう、賢そうに見える人間は、信用され易い。しっかりした人間が見る物を、人は信じたいんだ。人の心にはね、光がある。光の中には、記憶がある。記憶が電磁波だ。保持妖怪に改竄された記憶は、空間を振動しながら円を描くように広がっていく。回転方向は、右へ左へ。記憶が移動していく。あっという間に、全員の記憶になるのさ」
世眠が、不安そうにお冬を見上げた。
「お冬さんも出来る?」
「ほっほっほっ、私を誰だと思ってるんだい?ベテラン奉公屋だよ」
お冬の両目が、きらりと光った。
「それじゃあ、始めようかね。作戦はいいね?」
「俺を誰だと思ってるんだね?」
世眠が真似をして、五重縛縄を意気揚々と持ち上げたら、思い切り小突かれた。
「いたあっ!」
「あんたにゃ早いよ、その台詞は!」
その男女は、待合室でテーブル越しに仲睦まじく喋っていた。
「ふふっ、この子ったら、乗る前に眠ってしまったわ」
「昨晩、はしゃいだせいだろう」
西助のことは、一回り大きな椅子を持って来て、女性の傍に寄せていた。
一見して、搭乗待ちの、ほのぼの家族に見える。
しかし、子供の方が、両親のどちらにも似ていない。
怪訝に思う人もいたが、親戚の子だろうと結論づけた。
「聞こえるかい?」
女が、小声で男に尋ねた。
「いや、義姉さん、追ってはいやしません」
馬面の大男が、毛むくじゃらの首を横に振る。
怨霊の一族は、耳がいい。
どこにいても、遠くの物音が拾える。
おまけに視力も良かった。
遠方で動く人の口蓋垂まで見えるのだ。
「下界には、あいつらがいる」
小柄な女は、神経を張り詰めていた。
ルージュを引いた唇が、ぴくぴくしている。
「こっちにゃ人質がいる。あいつらも動けませんや。へっへっへっ」
男の不気味な笑い声で、周囲の空気がピリリと冷えた。
「おまえ、おやめよ、その笑い。ここは下界だよ」
女が一睨みすると、男はふにゃふにゃっと笑って謝罪した。
「あい、すいません。義姉さん、俺」
「しっ。黙って耳を立てるんだよ。あたいは、眼界に注意するからね」
その時、待合室の外から悲鳴が上がった。
「きゃあああっ!」
「……今の何?」
壁際の一人椅子に腰掛けていた女子大生が、いの一番に立ち上がった。
時を同じくして、身長百四十にも満たない子供が、血相を変えて待合室に飛び込んだ。
「大変だ!飛行機が!」
緊迫した表情で皆が立ち上がった。
「おばけ桜ーーー!!!」
次いで聞こえた少女の金切り声に、一同は苦笑した。
なんだ、子供の悪戯か、皆が座りなおそうとした時、アナウンスが流れた。
「皆さま、どうぞ落ち着いて下さい。外に出るのは、大変危険です。自衛隊の到着まで、今しばらくお待ちください。空港内からお出になりませんよう、お願い申し上げます」
これを聞いては、待合客も落ち着くわけにはいかない。
「だから言っただろ?飛行機が動かないんだ。桜の花びらで。見に行ってごらんよ。今日は全便欠航さ」
男の子が、にやっとして言った。