聖女が神に見放されたとき
——「ロアーテル王国の妖精」と謳われた公爵令嬢を打ち負かしたのだと自負した聖女は、およそ聖女に似つかわしくない醜悪な笑みを浮かべていた——
◇◇◇
ここは王立学園の大図書館の前、噴水に囲まれて国王の像がそびえる、通称「学びの庭園」。
噴水をさらに取り囲むように据えられたベンチのひとつに座っていたサンドラは、ふと自分に影が差したことに気づいて顔をあげる。すると、婚約者であるカーティス王子と聖女ミラが、目の前に立っていた。
「どうされたのですか、殿下。そして聖女様」
読んでいた本を閉じてサンドラが問いかけると、カーティスは沈痛な面持ちで重たい口を開いた。
「……サンドラ。君との婚約が解消された。これは、国王からの命令だ」
「……そうですか」
サンドラの視線は、カーティスの隣に移る。
小柄で可憐な少女が、華奢な腕をカーティスの腕に絡ませながら、にたりと嘲笑を浮かべてサンドラを見下ろしていた。聖女と称されるこの少女は、半年前までは平民の娘として暮らしていた。
「サンドラさんは、将来は側妃として私の代わりに働くんですって。召使いみたいなものね、可哀想」
カーティスの顔が不快げに歪む。サンドラも同じ気持ちだが、思慮深いカーティスが珍しく感情を表に出しているのを見て、少し気持ちが落ち着いた。
ミラの代わりに側妃として働くということは、ミラには到底任せることのできない領域——外交や政治といった、本来王妃が担うべき主務はサンドラが肩代わりするということを示していた。
その重みを、ミラは理解していない。あまつさえ「召使い」と称して蔑むところに、ミラの知性と常識のなさが露呈していた。
なぜ、こんなにも愚かな娘を愛したのか、と神に対して幻滅する気持ちが抑えられない。
ミラは風貌こそは天使そのものだったが、その内面は品がなく、醜悪だった。
◇◇◇
王宮都市から遠く離れた小さな町に、およそ人間離れした風貌の可憐な少女がいる。
そしてその少女は、神に愛され、神の言葉を聞き、神の力を借りて奇蹟を起こすことができるらしい——そんな噂が流れてきたのは、今から半年ほど前のことだ。
王宮騎士団と神官で編成された調査団が向かった先で出会ったのは、輝く銀髪と花びらのような淡い桃色の瞳を持つ、小柄な美少女だった。その少女が祈りを捧げると、病は治り、植物はみずみずしく力を取り戻す。
「噂は本当でした」
「我が国は、彼女を丁重に保護して王宮に迎え入れるべきです」
王宮に戻った調査団は、興奮冷めやらぬ様子で報告をした。国王はすぐさま、聖女のために馬車を走らせた。
聖女は、小作農として働く一家の一人娘で、父親は若い女と蒸発し、母親は女手一つで彼女を育てていた。再びの王宮からの使者に聖女の母親は戸惑い、謝礼金として渡された大量の金貨を前に絶句した。聖女は自らに迎えがくることを予想していたかのように、母親へ別れの言葉も告げず颯爽と馬車に乗り込んで行った。
使者は苦笑いを浮かべながら目の前の母親と背後の馬車とで視線を往復させて、聖女が馬車から出てくる様子がないことを悟ると、気遣うように母親に頭を下げて、馬車へと戻って行った。——それが、聖女の出立だった。
王宮に到着すると、聖女は入浴と着替えをした後、謁見の間へと通された。
部屋の奥に並べられた玉座に、国王と王妃が座っている。入り口から奥へと続く道には毛足の長い絨毯が敷かれ、両脇を近衛兵が固めている。
聖女は目を輝かせてキョロキョロと周囲を眺めまわしながら歩を進め、興奮が抑えきれないという様子で声をあげた。
「今日からここでお姫様になれるなんて、夢みたい!」
目の前に座る国王夫妻のことは目に入っていないらしい。どこか勘違いをしているらしい図々しい態度に、国王の斜め後ろに控えていた宰相は苦い顔をし、一部の近衛兵は無表情を取り繕えきれず眉根を寄せ、国王夫妻は呆れたような視線を酌み交わした。
◇◇◇
聖女ミラは、貴族の娘と同等に——いや、それよりも丁重に遇されることを求めた。王立学園への入学、社交パーティーへの招待、高価なアクセサリーや新品のドレス。神殿の一部屋が聖女のために用意されたが、豪奢な調度品で彩ることを彼女は要求し、神殿の財政は一気に悪化した。
聖女の奇跡や愛らしい見た目だけでは許されない程度に、ミラは図に乗っていた。はしゃいだ平民が自分たちの横に並び立つことを——いや、それ以上に横柄にふるまうことを、よく思わない貴族も少なくない。しかし、神は彼女を選んだ。神の意向に背くことを嫌い、表立って聖女への不平不満を漏らす者はほとんどいなかった。
愚かな民の、愚かな部分も含めて許し愛するのが、王侯貴族が持つべき慈愛であり矜持なのだ。
◇◇◇
王立学園には、貴族家の令嬢子息だけでなく、他国からの有能な留学生や大商人の後継ぎも通っている。
彼らは数年間の学園生活のなかで、政治や語学を学び、人脈を育む。
誰が自分にとって有益な人物であるかを見定めるなかで、自然とヒエラルキーが構築される。カーティス王子とその婚約者であるサンドラは、その頂点に存在していた。しかし、聖女ミラはそれが面白くない。彼女は、自分自身が最も尊重されるべき令嬢であると自負し、サンドラに張り合った。
サンドラは、この国の筆頭公爵家の一人娘だ。王族に次ぐ高貴な家柄の出身で、気品あふれる風貌と優秀な頭脳を持つ彼女は、まさしくこの国で一番の令嬢だった。太陽の光のような薄い金髪と透けるような肌には人を惹きつける美しさがあり、澄んだ紫色の瞳は宝石のように上品な光を放つ。ついた異名は「ロアーテル王国の妖精」。
聖女がサンドラに張り合えるところは、容姿と、神の言葉と奇蹟しかない。
学園ですれ違うたび、ミラはサンドラの頭の先からつま先を眺め、着飾った自分よりも地味だと鼻で笑い、アメジスト色の瞳を「神に愛されていない」と嘲る。
しかし、サンドラは聖女の挑発に乗るほど幼稚ではなかった。
「妖精だかなんだか知らないけど、所詮あんたは人間よ。澄ました顔してるけど、本当は妬んでるんでしょう。あーあ、惨めで可哀想。だってあなたは、神サマに選ばれなかったんだもん」
「妬んでなどおりません。私は、聖女様が民のための奇蹟を起こしてくださることに感謝しております。どうか私のことなど気にせず、聖女としてのお勤めを果たしてください」
些細なきっかけで、ミラはサンドラに突っかかる。
その度にサンドラは、淡々と会釈を返してミラから離れていった。
相手にされず、プライドが満たされない聖女は——最終的に、王太子妃の地位を欲した。
国王も王子も、首を縦に振らなかった。ミラには、学がない。自国語しか話せず、政治情勢には疎く、学ぶ意欲もない。そして何より彼女は品位に欠けていた。貴族社会には馴染みのない粗雑な言葉使いが抜けず、地位や容姿が魅力的な男性に会えば色目を使い、女性がいれば不躾に眺め回して自分の方が愛らしいと嘲り、豪奢な装飾品を見るたびにはしゃぎ回るような人間を、政治や外交の表舞台に出すことはできない。
しかし、彼女は聖女だった。
願いを叶えてくれなければもう奇蹟を起こさない——そう脅された国王は、ついに折れた。
「……聖女はお飾りの王妃とし、サンドラを側妃として迎えて実務を任せる。小さいころから可愛がってきたサンドラ嬢に辛い思いをさせることは誠に心苦しいが……私は王だ。どんなに非情であっても、もっとも民のためになる道を選ばなければならない」
一人息子を呼び出して懊悩の表情で伝える父の言葉に、カーティスは唇を噛み締めて静かに頷いた。
◇◇◇
そして、「学びの庭園」での宣言に至る。
苦しそうなカーティスをそっと見上げて、サンドラは薄く微笑む。
これまでの関係性なら、気持ちを落ち着かせるためにカーティスの両手をそっと包むくらいのことはしていたかもしれない。しかし、もはやそれが許される関係ではなくなってしまった。
「民のことを一番に思う、陛下のご判断に賛同いたします。ロアーテル王家のため、この国の民のため……この身を殿下に尽くさせていただきます」
「……ありがとう、サンドラ……」
カーティスの唇が、すまない、と動いた。
音にならない謝罪はしっかりとサンドラに届く。サンドラは何も言わないまま、首をゆっくりと横に振った。
そんなふたりの様子を、カーティスの腕にぴったりと巻きつきながら、聖女は面白くなさそうに眺めていた。
◇◇◇
後日、サンドラは王宮へ呼び出された。
改めて正式な場で、婚約の結び直しを執り行うためだ。宰相である父からの情報によると、同時に聖女の婚約締結もするらしい。聖女がそれを望み、国王がそれを認めたと聞いたとき、宰相は激昂した。
娘を側妃に据えることは、まだ納得のできる範囲だった。娘や家門のプライドよりも、国の繁栄を優先することはまだ飲み込める。しかし——
「我が娘の婚約格下げと聖女殿の婚約締結を同時にやる必要がどこにある。聖女殿は優越感に浸りたいだけだろう。そんなくだらないもののために、この国に尽くすといった我が娘の思いを、聖女殿はどこまで踏み躙るつもりだ。そして、陛下は、どこまであの娘の我儘を許すのですか」
普段は冷静沈着な宰相の怒りを、国王は沈痛な面持ちで受け止めた。
「……君の怒りはもっともだ。しかし、聖女が望んだ。私は民のために決断しなければならない」
国王は顔を伏せて、静かに目を閉じる。
「私だって悔しい、無念だ。智徳に優れた君の愛娘を我が王家に迎え入れることができれば、きっとこの国はこれからも平和で、安泰だと……もっと私欲を言うならば、学生時代からの盟友である君と一緒に、可愛い孫を抱きながら穏やかな余生を過ごせるだろうと……そんな未来を待ち望んでいた」
もともと平民だったミラは、欲望の際限を知らない。
王侯貴族は望めばすべて手に入れられる存在だと思い込み、自分も同等の存在になれたと信じている。そこに、国を守り豊かにしていくのだという責任感は伴わない。
「……聖女がいなくても、この国は十分豊かに繁栄していました」
聖女の奇蹟があれば、よりこの国を豊かにすることができる。それは、宰相も重々承知していた。しかし、吐き捨てずにはいられなかった。その豊かさは、愛娘を日陰に追いやることと引き換えなのだ。
本当に聖女は必要なのかと言外に問いかける宰相に、国王は重たい口を開いた。
「……聖女の祈りは……民を苦しめることもできる」
目を見開く宰相に、国王は言葉を続ける。
「日照りを起こすまで晴天を望み、川が氾濫するまで雨が降るよう祈ることもできる。神はあの娘の願いを叶える。そしてあの娘は……自らの欲を満たすために、邪悪な願いを捧げることを厭わない」
宰相は絶句した。
神の考えることはわからない。
なぜ、そんな醜悪な娘を選んだのだ。
「聖女の存在をなかったことにすることもできる。しかし、それでは神からの怒りを買うかもしれない。だから……私は、聖女のくだらない願いを叶えなければならない。……君と、君の娘には誠に申し訳ない」
臣下であるはずの宰相に、国王は頭を下げる。
宰相は、友人が懊悩の末に下した決断を受け入れるほかなかった。
◇◇◇
サンドラが通された広間には、すでに聖女ミラが待機していた。
最高級の絹がふんだんに使われたボリュームのあるドレスには宝石が縫い込まれ、ネックレス、イヤリング、指輪にも大きな宝石がぎらぎらと輝いている。清廉な聖女というよりは、めかし込んだ成金商家の娘と言った方が納得のいく装いだった。ミラの後ろに待機している神官は、ヴェールで顔を覆っているためどんな表情をしているのかはわからない。
聖女ミラは、サンドラの全身を舐め回す。
上品なドレスは、華美な装飾は抑えられているが、王族に謁見するに相応しい上質なものだ。しかしミラには物足りなかったようで、勝ち誇ったように口角を釣り上げた。過ぎたる華美は下品だという感覚がミラにはない。
「うわ、地味〜。やっぱ側妃は出しゃばっちゃだめだもんね。身の程わきまえてて偉いじゃん」
サンドラも、その隣を歩く宰相も、表情を変えずに用意された立ち位置についた。
ミラのことは視界に入れず、相手にしない。しかし内心は腹立たしく——それは父である宰相も同じようで、ぐっと拳を固く握っていた。
少し遅れてカーティス王子が登場し、そのあと、国王夫妻が玉座についた。
国王はゆっくりと広間を見渡した後、重々しく口を開いた。
「これより、我が息子カーティスの婚約の儀を執り行う。まずは——」
「はーい、王様、ちょっと言いたいことがあるんですけど」
国王の言葉を遮る聖女の言葉に、その場の空気が凍った。
あまりにも不敬な態度だが、神を味方につけた娘を叱れる者はこの場にはいなかった。
「……聖女ミラ。言いたいこととは何か」
国王が、努めて感情を抑えた声で、ミラに発言を許可する。
ミラは何も気にしていない様子で答えた。
「えっとですね、別にサンドラさんが側妃にならなくてもいいんじゃないかなーって思って。ほら、王妃と側妃って、微妙に側妃の方が下だけど、そんなに変わらない感じがするじゃないですか。王子様とサンドラさんが仲良くするのもやだし。どうせ私のことを支える役目なら、侍女でもいいんじゃないかなって」
「聖女殿!!」
サンドラは、隣にいる父が怒りで一歩前に踏み出したことに気づいたが、それよりも早く怒りをあらわにしたのは、カーティスだった。
怒鳴るように呼ばれて、ミラはびくりとカーティスを見る。
カーティスは深く息を吸って、吐くと、落ち着いた声でゆっくりと、ミラに話しかけた。
「……聖女ミラ殿。サンドラの生家であるエディントン公爵家は、古くは王家とも繋がりを持つ由緒ある家柄です。サンドラはその家にふさわしく、才覚に溢れ、民のことを何よりも思う心優しいご令嬢だ。たとえあなたが聖女であっても、そのように貶していい相手ではない」
ミラの顔がみるみる赤くなる。
それは人前で諭された恥ずかしさか、王子がサンドラを庇ったことに対する悔しさか。
「何よ、それ!! 私は聖女なのに、その女の方が偉いっていうの!?」
「そういうことを言いたいわけではない」
カーティスは苛立ちを抑えるためか、天井を見上げて目を瞑る。
そして、慎重に言葉を選びながら続けた。
「私が言いたいのは、聖女だからといって、何を言っても許されるわけではないということだ」
「その女のことを悪く言うのは許されないってこと!? 私は聖女なのに? どうしてただの貴族の女に気を遣わないといけないの!?」
「…………」
カーティスの眉間に皺が寄る。
ここは自分が聖女にへりくだり落ち着かせるべきかと、そっと隣にいる父親に目配せする。宰相は、ゆっくりと首を横に振り、小声でサンドラに言う。
『いまここで泥を被ったとして、執りなせるのは"今"だけだ』
聖女に響く言葉を探すカーティスに、ミラは自信満々に伝家の宝刀を繰り出した。
「あーあ、良いのかなぁ。私は聖女なのに。あんまり無碍に扱うなら、川が干からびるまで晴れますようにって祈っちゃおうかなぁ! みんな喉乾いちゃって大変かも!」
幼稚だ。想像力に欠けている。川が干上がることで生まれる飢えを、民の苦しみを、その深刻さを聖女は理解していないのだ。
その場にいる誰もが怒りで拳を握った、そのときだった。
《……醜い》
広間にいる全員の耳に、心底呆れ果てたような声が聞こえた。
聞き覚えのある声ではない。どこから発された声かもわからない。体の内底から響くような心地がした。
皆が声の主を探してあたりを見渡すなか、一人だけ、聖女だけが怯えたように天を見上げていた。
「……え……神サマ……? 醜いって、私のことじゃないですよね……?」
聖女の台詞に、全員が察する——これは神の声なのだと。
気がつくと、広間の中央に見覚えのない男性が立っていた。月のような光を放つ銀髪に、桜色の瞳。畏怖の念を抱くほどの美貌。一瞬で、彼こそが神なのだとその場にいる誰もが理解した。
《信仰が薄れ、我が力も弱まってきたゆえ……聖なる遣いに加護を授けて我が存在を思い出させようとしたが……誰でもよいかと適当に目についた者を選んだが、甘かった。まさかここまで性根の醜い者がいるとは》
神は、広間を見渡して聖女の姿を見つけると、頭の先からつま先までを眺め、嘆息した。その視線は恐ろしいまでに冷たく突き放しており、聖女は恐怖に慄き、声を発することもできず、ブルブルと震えて膝から崩れ落ちた。
誰もが驚愕と畏敬で言葉を発せないなか、神は玉座に向き直った。
《統治者はお前か》
「いかにも。私が、この国を統べる王。チャールズ・ロアーテルと申します」
国王はゆっくりと玉座から降りて、膝をついて神に向かって頭を下げた。
はっと気づいた様子で、王妃が国王に倣って膝をつき、頭を下げる。他の者もそれに追従した。聖女だけが、その場にへたり込んで神を見上げていた。
《そんな恭しい態度はいらん。我々は、持ちつ持たれつの関係だ》
神は玉座に戻るよう促し、国王と王妃はそれに従う。聖女を除く臣下は立ち上がり、神と王の問答を見守る。
《ときに、王よ。私は信仰が欲しい。そのために聖者の存在は有効か》
国王はしばし目をつむり、そして真っ直ぐに神を見据える。
理智聡明な瞳は、芯のある光を持っていた。
「……もちろんです。我々人間は愚かゆえ、目に見えぬものへの感謝を忘れがちです。聖者が奇蹟を起こせば、我々は神のありがたみを思い出すでしょう。それは国に豊かさをもたらし、より深い信仰を生む」
《ふむ、同意見だ》
神は片手で顎を撫でる。
《だからこそ、私はそこの小娘に加護を授けた。君らが奇蹟をすぐに信じるように、私に似た見た目も与えた。しかし、結果はこれだ。人間の欲深さを侮っていた。まさか、私の力を私欲のために使う者がいるとは》
「神に不快な思いをさせたこと、この国を代表して私からお詫び申し上げます。邪な者が奇蹟を使えば、国は衰えます。それを我々は身をもって学びました。そしてそれは、神への不信感に繋がるでしょう」
《ふむ、それも同意見だ。——私は私のために、君たちには豊かであってほしいと願っている。そのために、適切な人間に聖なる力を授けたい》
神は顎から手を離し、人差し指を王に向ける。
《王よ。お前が聖者を選べ》
国王は息子を、盟友を、そしてその隣に佇む令嬢を見て、そして再び息子を見た。
「未来に委ねたい」
神が、王の視線を追ってカーティスを向く。
二つの視線をまっすぐ受け止めて、カーティスは即答した。
「私は、サンドラ・エディントンを選ぶ。彼女は、聖者にふさわしい」
神が、カーティスの視線の先にいるサンドラを見て首肯した。
《ふむ、よかろう》
神が頷いたその瞬間、サンドラの全身を光の粒子が包み込んだ。神の声が体の内側から響き、サンドラに目を瞑るよう語りかける。
《良いだろう、目を開けて》
サンドラがその声に従うと、その様子を見守っていた全員が小さく息を呑んだ——アメジスト色の瞳が、神と同じ桜色に変わっていた。
光の粒子が溶けるように消え、広間に静寂が訪れる。
神と新たな聖女は、同時に口を開いた。
《「神と人間の、末長く友好的な幸福を祈る」》
広間にいる誰もが、堪えきれないと言った様子で膝をつき、胸に手を当てて聖なる二人に頭を下げる。
——ただ一人、聖女だったミラだけは、呆然とその場にへたり込んだままだった。
いつまでそうしていただろうか。
しばらくしてカーティスは静かに立ち上がり、サンドラの前で片膝をつくと胸ポケットに挿していた一輪のバラを差し出した。その花は本来、このあと執り行うはずだった婚約の儀でミラに渡されるはずのものだった。花弁の匂いが広がるこの光景を、サンドラは知っている。王太子が誓いの言葉と共に令嬢に薔薇の花を渡し、それを受け取ることで婚約の成就とする。
「君の意見を聞かず、勝手に聖女に祭りあげてしまってすまない」
2回目の婚約の儀、カーティスは謝罪から口にした。
「だが私は、君が聖女として祈ってくれればきっとより多くの幸福をもたらしてくれるだろうと本気で信じているし、何より私は、君と一緒にこの国を豊かにしていきたい」
カーティスは真剣な面持ちで、真っ直ぐな視線をサンドラに向ける。
「改めて、この薔薇を受け取ってほしい」
「……殿下のお隣で殿下の支えとなれること、大変嬉しく思います。この国をより幸福に満ちたものにしたいという気持ちは私も同じでございます。殿下のご判断は正しかったといつまでも思っていただけるよう、この身を尽くさせていただきます」
サンドラはゆっくりとカーテシーをして、薔薇の花を受け取った。
自然と、広間が拍手に包まれる。
いつの間にか、神が二人のそばに立っていた。
指を鳴らすと、薔薇の花弁が二人に降り注ぎ、それは床に落ちると雪のように溶けて消えた。
《祝福する》
花びらの雨の中で、神は二人に微笑みかける。
《また、五十年後に会おう。そのとき、次の聖なる遣いに誰が選ばれるか楽しみにしている。それまで、君たちの幸福を祈る》
「ありがとうございます」
「ありがとうございます。聖女として、人々が神への感謝を忘れぬよう務めを果たします」
カーティスとサンドラが頭を下げ、顔を上げた時にはすでに神の姿は消えていた。
しかし、神の声はサンドラに届く。ずっと見守っている、と神は言った。
◇◇◇
幸福に包まれた広間の片隅で、元聖女であるミラは絶望していた。
床をつく自分の手が——白くすべすべとしていたはずの手のひらが、指先が——日焼けに黒ずみ、細かい擦り傷とアカギレにまみれている。視界の端で揺れる髪の毛は、月光のような輝きを失い、母親と同じ赤茶色にうねっている。
それは、半年前に捨てることができたはずの、よく知る自分の容姿だった。
神は言っていた——奇蹟をすぐに信じるように、神に似た見た目も与えたと。その神から加護を奪われて、美しい容姿も失った。
広間にいた近衛兵は、豪奢なドレスに身を包む見覚えのない平民の娘に気づき、絶句して、取り押さえて広間から連れ出した。ミラは自分が聖女だとぎゃあぎゃあと騒いだが、なぜか誰もその声に気づかず、皆、薔薇の花びらに包まれる未来の国王夫妻と、その傍に佇む神の姿をうっとりと見つめていた——。
連行されたミラは、分不相応なドレスを剥ぎ取られ、身につけていたジュエリーも没収され、とりあえずの処置として、使用人と同じ服を着させられた。
このまま王宮で働かされるのか。それはそれで、小作人の娘として一生を過ごすよりもずっとましだと僅かに期待していたが、現実はそこまで甘くなかった。
サンドラの父・エディントン宰相の取り計らいにより、ミラへの処置はその日のうちに決定した。
生家への送還。聖女としての風貌も能力も影響力も失った少女を、半年前の生活に戻す。ただそれだけのことだったが、ミラは喚き散らして拒絶した。
ミラに処断を告げたのは、あの日、ミラを迎えた使者だった。
「嫌だ!! 私は聖女だったのに!! ずるい、あの女ばっかり!! せめてずっと王宮にいさせてよ、私にはその権利があるでしょ? 聖女だって言って、勝手に連れてきたのはそっちなんだから!!」
あの日、呆然とする母親を顧みずに馬車に乗り込んだミラを知っている使者は、淡々と突き放す。
「是非にとあなたを招いたのは王宮側ですが、あなたも乗り気だったでしょう。それに、相応の謝礼金をあなたの母親に渡しています。聖女だったときと同じような生活とはいかないまでも、きっと一生働かなくても暮らしていけるはずです。よかったですね、幸運で」
それでもミラは駄々をこねたが、最終的には喚いたまま王宮騎士に担ぎ上げられ、馬車に放り込まれた。無理矢理にでも馬車から降りようとするミラに、使者は事務的に告げる。
「あまりに話が通じないようでしたら、縛り上げて床に転がしますよ」
どう足掻いても送還されるのだと悟り、ついにミラは観念して大人しく馬車におさまった。
町の人たちは見たこともないくらいの大金を、母親が持っている。それを拠り所にして、無理矢理自分を納得させた。
迎えられたときとは違い、帰りの馬車に乗るのは一人だけだった。
馬が走る。
遠く離れていく王宮を、王都を、ミラは睨みつける。城下町は賑わい、人々は活気よく笑っている。今日は晴天だが、それが殊更憎らしかった——数時間前までの自分であれば、天に祈るだけで豪雨にさせることができたのに。
青空すら見たくなくて、ミラは馬車のなかで膝を抱えて顔をうずめた。
地面の揺れが身体中に伝わり、大きな音が耳に響く。王宮に向かうときに乗った馬車はもう少し座り心地がよかったことを思い出して、さらに不機嫌になった。
しばらくして、馬車の揺れがおさまった。御者が声を張り上げる。
「着いたぞ、降りろ!」
粗雑な言葉遣いは、相手が自分と同じ平民だからだろうか。
ミラは御者席を睨みつけながら馬車から降りる。それを確認すると、御者はすぐに馬を走らせる。馬車は颯爽と去っていった。今から出発しても、王都に戻るころには夜を迎えているだろう。
目の前には、古い木造の小屋がある。
人気はない。母親はこの時間も、この先にある農場で働いているのだろうか。
「お金があるのに……働いてるとかバカのすることじゃん。盗まれたら母さんのせいだからね」
ぶつくさ言いながら扉を開けて、ミラは愕然とした。
小屋は空っぽだった。
食料庫にも、押し入れにも、何も残されていない。
家中をくまなく探して、母親の痕跡がなにも残っていない小屋の中で棒立ちになり、ミラは母親がこの家から去ったことを悟った。
きっと、この町も離れているのだろう。
まとまったお金を手に入れた者が、農場しかないこの町の中で新たな居住地を探すとは到底思えない。
もし、あの日、使者が訪れたとき、馬車に乗り込む前に、母親を振り返っていれば。
いつか再会しようと別れを惜しんでいれば、もしかすると、違った未来があったのかもしれない。
しかし、ミラがそれに気づくことはない。
自らを見放した神を、地位を奪ったサンドラを、家を捨てた母を……そして、自分以外の幸福そうな人々を憎みながら、これから一人で生きていく。
少女の憎悪は誰にも受け取られることなく、ロアーテル王国は神に見守られながら、末長く繁栄した。