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9 血の雨に踊れ①


    9 血の雨に踊れ


「―――どうして記憶が見えない!」


 闇の中で悲鳴のような声を聞いた。

 途切れ途切れの意識のなかではあったが、相手がひどく困惑しているのはわかる。


「なぜお前が、どうして…………っ!?」


 獣の断末魔のような高く甲高い叫声が糸を引くように消えるとニアの意識はパチリと灯った。瞼の裏に光を感じる。どうやら照明はついているようだ。


「なに……これ……?」


 目が覚めると世界が一変していた。

 キャンバスのように白一色だった施術室の壁には穴が開き、壁紙は無惨に破け、机や椅子の足はひしゃげ片隅に転がっている。そして、何よりもペンキをぶちまけたように飛び散り、生臭い鉄の悪臭を放つ血だまり。


「おのれぇぇ、一つ目の悪魔(キュクロプス)めっ!」

「ムジナ?」


 ムジナが血糊のべったりついた壁に靠れるように立っていた。

 白衣は血で汚れ、砕け散った仮面の奥にあったはずの眉目秀麗の顔は血の中に陥没し、見るに堪えないものになっている。


「ふふ、ニア様。やってくれましたね…………」


 ニアに気づいたムジナが痛々しく笑うと唇の中から砕けた歯の欠片が唾液ととも零れた。鈍器で滅多打ちされたようなその姿にニアは既視感を覚える。


「ムジナ、あんた。どうして…………」


 ニアが本当に何も知らないことを察したムジナは警戒心を解くと、同時に張り詰めていた最後の糸がぷつりと切れたのか壁にずるずると倒れていった。


「…………悪辣なブービートラップですよ」

「ブービートラップ?」

「……ええ。あなたが持ってきたSDカード、キュクロプスに一度渡しましたね?」

「う、うん……」


 カーナビのカードスロットに刺さったままのSDカードを見つけたとき、イーはとても物珍しそうに見ていた。


『ふおあー! お姉さま、それが昔の物理メディアなんですね!?』


 ジェネレーションギャップに哀しさを覚えつつ、興味津々で虫を見つめる幼児のような瞳をしたイーにSDカードを確かに渡した。でも、それが何か?


「あの悪魔はその一瞬の間にデータを書き換えたのですよ」

「まさか!?」

「あのバケモノには『まさか』とか『無理』とかそういう言葉は一切通用しないのです。そして、何より悪意の塊みたいなヤツ―――クソ、この身体はもう! とにかくあの女はカードの中に超高圧に圧縮したウィルスを仕込んだ。触れたら最後、ネットワークはおろか施設全体が吹っ飛ぶようなヤツをね」


 苦々しく歪められた顔の奥に人工繊維と炭素フレームが覗いていた。息を呑んだニアに気づいたムジナはカラカラと笑う。


「ええ、あなたと同じですよ。だから、ご心配なく。替えはありますので」

「…………」

「巧妙に偽装されていたが、私は全て見破った。アレは陽動でも脅し(ブラフ)でもなく、本気で私を殺しにきていた。だから、本命に気がつけなかった…………」


 焦点が合わなくなった瞳がゆらりゆらりとニアに向いた。仮面の奥の瞳から急速に光が喪われていく。


「…………ニア様。早く逃げたほうがいい、でないとあのバケモノが」

「ちょっと!? 勝手に死んでいるんじゃないわよ!?」

「……あなたの……MR眼鏡(グラス)に権限を……委譲した。壱号棟の管理サーバーに来てほしい。そこで全てを説明…………」


 女の身体から魂のような何かが抜けるとそれはモノに変わった。そして、生命だった残照が刻一刻と消えていき、やがてそれはモノですらなくなる。

 35億年前から何も変わらない、当たり前ですらない真理。


「…………まったく、勝手に死んでるんじゃないわよ」


 立ち上がると腕の痛みは感じなかった。傷は完全に塞がっている。ニアはもう一度だけ仮面の女を見下ろすと汚れたナイフをスカートに仕舞った。

 山本似愛の記憶は鮮明に思い出すことができた。



 石階段から参道を見下ろすと地獄絵図が広がっていた。

 仮面たちが亡霊のように現れては足音もなく去っていく。彼らが向かうべきところはただ一つ、参号棟と四号棟の境目、広場のような場所に屋台が多く並んだエリアだ。

 狐も鬼も翁も女も我先に殺到し、そして、蓋のないミキサーに入れた果物のように中身をぶちまけて出来立ての生ゴミと化していく。そして、その光景を酒や肉を手に持って興味深そうに眺める観客(仮面)たち。

 あまりにもひっきりなしにそれが続くので血の雨が降っているかのよう。


「お姉さまー! どこにいらっしゃるのですかーっ!」


 広場の中心にイーがいた。

 その声は不安に満ちていて、花火の雑踏の中ではぐれてしまった歳の離れた妹を想起させる。

 ドン グシャリ グワーッ

 肉と骨が砕ける音と悲鳴が混沌(カオス)そのものの音色を奏でる。


「どうせならもっと綺麗な悲鳴をあげたらよろしいのに。それがあなたにとって最期の声なのですよ。恥ずかしくないんですの?」


 イーはいかにも嫌そうな顔をして鬼面を横払いした。鮮血が飛び散り、ワンピースがまた汚れた。既に白い部分の大半は消え、柄ですらない。


「お姉さまーっ! ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!」


 脊髄の中に氷柱を捩じ込まれたような感覚をニアは覚えた。

 一つ目の悪魔(キユクロプス)が手に持っているのは黒い角棒のような何か。エンマ棒ではなかったが、ともあれあんなもので殴られれば痛いだけではすまない。

 第一信号系(条件反射)に刻み込まれた恐怖をどうにか吐き気とともに抑え込むとニアは壱号棟に走る。表示ARは壱号棟の裏口を示し、重い鉄格子を横に動かすと難なく動いた。

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